運命の夜 -3-
俺はケータイを持つ手をゆっくりと下ろし、ポケットにそれをつっこんだ。
彼女がこちらに向かってくる。その光景に、高鳴る鼓動を抑えようとも、こぼれる笑顔を隠そうとも思わなかった。心は歓喜に染まり、そして彼女への言葉で満ち溢れていた。
最初になんて言おうか。言いたいことが山ほどある。聞いてやりたいことが五万とある。とにかく、やっと話せる――それが単純に嬉しい。
死の間際でもないのに、この一週間の出来事が頭の中を流れていく。正直、悪夢だった。別れたい、と突然言われ、意味も分からずシカトされ、挙句の果てには新しい婚約者。どうすりゃいいのか、途方にくれた。
もし、椎名のアドバイスがなければ――あいつがオークションにもぐりこむことを提案してなければ……こうしてカヤを取り戻すことはできなかったかもしれない。
認めたくはないが……椎名に借りが出来た。あいつの勝ち誇った顔を思い浮かべるだけで胸糞悪いが、それでも感謝しなきゃいけないだろう。俺はため息混じりに苦笑した。
そして、待ち望んでいた声が辺りに響き渡る――
「和幸くん!」
窓を割って飛び出してくるんじゃないか、という勢いだった。慌しく鍵をはずし、窓を開けるなり、彼女は俺の名を叫んで飛びついてきた。
その頬は涙に濡れ、声は悲鳴に近かった。
おっと、と俺は一歩あとずさりつつ、カヤを胸に抱きとめる。
わきの下にするりともぐり込んできた彼女の腕は、俺の背中を力強く締め付けている。俺の胸に顔をうずめる彼女の表情を確認することはできないが、聞こえてくる嗚咽でなんとなく想像はできた。
話したい、と思っていた。彼女ととにかく話をしよう、と。そう思ってここまで来た。でも……どうでもよくなった。
俺は震える彼女の背中に手を回し、暖めるようにそっと抱きしめる。
やっぱり、カヤはきれいだ。――彼女の体温を、感触を、香りを、五感と全身で感じながら、そんなことを心の中でつぶやいていた。単に見た目のことを言っているんじゃない。たとえどんな姿をしてようと、俺はカヤを美しいと思うだろう。この感覚を生み出しているのは、視覚とか脳とか、そんなんじゃない。彼女を愛しいと思う心――きっとそれが、カヤを美しく映しだしているんだ。
彼女が胸の中にいる――その事実を噛み締めるように、時の流れも忘れ、華奢なその身体を強く抱きすくめていた。全身が、痺れるような懐かしさに高揚している。身体の中に熱気がこもっていく。たまらなくなって、思わず深いため息を漏らすと、彼女の髪が揺れてふんわりと甘い香りとともに俺の鼻をくすぐった。
何かが蠢くようなむずがゆさを、みぞおちのあたりに感じて――こんなときに、やばい、と思っている自分に呆れた。
「いいの?」
不意に、ぽつりと今にも消え去りそうな弱々しい声が聞こえてきた。もう落ち着いたのか、いつのまにか嗚咽はなくなっていた。
「いいって……?」
体内でうずく、よからぬ興奮を抑えつつ、俺は平静を装って聞き返す。明らかに声が上擦っていて、怪しいことこの上ない。だが、カヤは気にもしてないようで、顔を上げて俺を見つめてきた。
「全部、聞いたんだよね?」
潤んだ瞳は、俺をさらに動揺させるのに充分なほど魅力的だった。俺は自己嫌悪に襲われつつも理性を保つのに忙しく、とりあえず、よく考えもせずに「ああ」とぎこちなく微笑んだ。
カヤは上目遣いのままじっと俺を見つめ、
「それでも、いいの? 後悔しない?」
薄く口紅が塗られた唇――そこから漏れたのは、風の音にすらかき消されそうなほどか細い声だった。
俺は言葉を失った。あまりにも……痛々しかった。
いつのまに、彼女はこんなにも深い傷を負っていたんだ? いつのまに、彼女はここまで病に蝕まれていたんだ? そう思ってしまうほど、彼女の表情も声も、何もかもが痛々しく――そして、儚く感じた。
不安が一気に邪念を追い払い、凪いだ海のように俺の心は落ち着きと冷静さを取り戻していた。
「当たり前だ」力強く言って、彼女の頬に手をあてる。柔らかくて滑らかな肌……この感触は、何も変わってなどいないのに。「後悔なんてしない」
俺の言葉を信じてないわけじゃないだろう。だが、カヤの表情は晴れることはなかった。やはりまだ不安そうに、救いを求めるような視線で俺を見つめている。
こんな表情じゃない。俺は胸が締め付けられるような痛みに顔をしかめた。こいつのこんな顔が見たいわけじゃないんだ。俺がいつだって見たいのは……
「もう、無理しなくていい。俺を守ろうとしなくていい」
カヤはハッとして目をむいた。下睫に残っていた真珠のような涙の雫がぽろりと落ちた。
「お前はまだ……俺を守れるほど強くない」涙に濡れた頬をそっと拭い、俺は目を細める。「だから、今はまだ、守らせてくれ」
びくん、とカヤは肩を揺らした。
胸の奥でうずまく不安に一瞬だけ蓋をして、俺は頬をゆるめて微笑んだ。彼女を安心させるように。彼女が思い出せるように――あの笑顔を。俺が何度も見とれた、春風を思わせる暖かい笑顔を。思い出して欲しい……そう、心の中で願った。
「そのために、俺はここにいるんだ」
「……」
「守られるのは、性に合わないしな」
冗談交じりにそう付け加えると、ほんの少し、カヤの表情が和らいだ気がした。唇が笑みをこぼそうとしている。そんな気がして、ここぞ、とばかりに彼女の両肩をつかんで、ぐいっと引き寄せる。
「必ず、守ってみせる」
「……」
大きく見開かれた彼女の瞳には、また涙が浮かび上がっていた。カヤの身体が震えている。俺はたまらなくなって、勢いよく彼女を抱き寄せた。
恥ずかしさとか照れとか……そんなものを気にしてる時間さえもったいないと思えた。今はこうして……カヤの存在を全身で感じていたい。まだ、彼女に手が届く――それは奇跡にさえ思えて、しっかりと確かめておかないと、不安でおかしくなりそうなんだ。
「『テマエの実』なんて食べさせない」カヤの耳元で、俺は噛み締めるようにそう言った。「この世界で……ずっと一緒に生きていこう」
カヤの身体の震えが一瞬で止まり、「え」と戸惑う声が耳元に聞こえてきた。
* * *
違う。おかしい。そんな……どうして?
――『テマエの実』なんて食べさせない。この世界で……ずっと一緒に生きていこう。
違う、違う。なんで? だって、さっき……全部、聞いた……て。そう言ってたじゃない。なのに、どうしてそんなこと言うの?
「和幸……くん」
もしかして、彼は知らない? まだ、何も知らないの? 『テマエの実』の真実も……私の身体のことも……全部知らない?
じゃあ、一体ラピスラズリから何を聞いたというの?
「全部……聞いたんじゃ……」
「ああ、全部聞いたよ」さっきも言っただろ、と言いたげな呆れた声が、耳元で囁かれた。「ユリィと特別な関係じゃないんだろ。あいつ、いい奴みたいじゃないか。かわいそうに、茶番に巻き込まれて」
からかうような口調で和幸くんはそう言った。
私は愕然とした。全部って……それだけ?
彼は……何も聞いてない。ラピスラズリは何も言ってないんだ。彼は何も知らない。何も変わってない。前と何も状況は変わってない。
目の前に突然闇が広がった――そんな感覚だった。きっと、これは絶望……そして、現実……。心細ささえ感じて、孤独に凍えそうになって、彼の背中を抱く手に力がこもる。胸に顔をよせれば、彼の鼓動が聞こえるのに……私を包み込む彼の体温は、こんなに暖かいのに……なぜか、彼が傍にいる現実に自信が持てなかった。まるで、目の前にいる彼は幻のような気がしていた。
どうしよう。言わなきゃ。言わなきゃ……。もう、隠しちゃだめだ。ちゃんと言わなきゃ。
――君が彼に真実を話していれば、彼にはもっと他にも選択肢があったはずなんだ。
ユリィの諌めるような声が頭に響いた。ユリィがここにいるわけでもないのに、私は思わず頷いていた。覚悟を決めて、息を吸い込む。そう、真実を……話さなきゃ。
「和幸くん!」ぐっと彼の胸元に手を置いて腕をつっぱり、怒鳴るような大きな声で切り出した。「話さなきゃいけないことがあるの」
いきなり私が声を荒らげたので、和幸くんは驚いたようだった。目をぱちくりとさせ、「ああ」と戸惑った声で返事をした。
目を合わせているのがつらくて、私の視線は自然と彼の胸元に落ちた。真っ白なシャツに添えた私の手は、わずかに震えている。
「あのね……」これは緊張? それとも不安? 恐怖? きっと……全部だ。喉が引き締まり、唇は震えて、足が竦む。身体中が彼に真実を言うことを拒絶しているみたい。でも、言わなきゃ。彼に……覚悟を決めてもらわなきゃ。私がそうしたように……。「『テマエの実』を食べなければ、私は――」
勇気を出して顔を上げ――和幸くんの不安げな表情が目に飛び込んで、私はひるんでしまった。言葉が出なくなった。
「どうした?」嫌な予感でもしてるんだろうか、彼はぎこちなく微笑んで、私の肩に手をおいた。優しくさすられ、余計に胸が苦しくなって私は口を噤んだ。
言えない――ふがいなさと悔しさと悲哀……すべてが混ざり合って心の中がよどんでいく。どうしようもない苦痛に唇を噛み締め、彼にしがみつくようにシャツをぎゅっと握り締める。
――お前はまだ……俺を守れるほど強くない。
そうかもしれない。和幸くんの言うとおりかもしれない。彼を巻き込まないように、と始めた茶番劇だって、結局演じ切れなかった。
少しは強くなれた……そう思ってたのに。とんだ思い上がりだったんだ。
私はまだ……強くない。全然強くない。
情けなさと無力さに打ちひしがれて、今にも膝から崩れ落ちそうになった。――そのときだった。
目の前を、白く輝く何かが遮った。雪のように降ってきたそれは、左右にゆらゆらと揺れて足元へ落ちていく。――羽根だ。それも、あまりに美しい羽根。月の光を反射して煌く白い羽根。
不思議なことに見覚えがあって、私は眉根を寄せる。あれは確か……タクシーに乗っていたとき。窓の外に見えたんだ。鳥の翼から抜け落ちたとは思えないほど、真っ白で綺麗な羽根が落ちてくるのを。私は直感的に思った。あれは――
「まさしく、天使の羽根……か」
親しみをもった声色で、和幸くんがそうつぶやくのが耳に入った。その瞬間、ハッとして私は我に返った。
顔を上げると、彼は夜空を振り仰いでいた。彼の視線を追ってみると、そこには、暗闇の中、月を背にはばたく影……まるでそれは、全身から光を放つ気高い天使のようで、私は息を呑んだ。ひざまずいて祈りを捧げ、助けてください、とすがりたい衝動にさえ襲われた。どうか、私を自由にして。この忌まわしい使命を消し去って。そう……叫びたくなった。
じっと見つめる先で、天使は徐々に高度を落として降りてきた。近づいてくるにつれ、それが白い鳩であることが分かった。そして……何かを口にくわえていることも。長方形のバッグのような……なんだろう?
「お待たせしました」ベランダの手すりに舞い降りるなり、鳩はやんわりとした声でそう鳴いた。聞き覚えのある暖かい声。すぐにそれがラピスラズリであることを悟った。「探すのに少し時間がかかりまして」
お待たせしました? 探す? なんのことだろうか。私は小首を傾げ、天使――ラピスラズリに問いかける。
「どうしたの? ユリィに何かあった? 伝言?」それとも、と私はラピスラズリが嘴に提げている紙バッグに目をやる。暗くてよく見えないが、それでもなんとなく見覚えのある紙バッグだった。「それ、ユリィから?」
タクシーに何か忘れ物でもしただろうか。ううん、まさか。荷物なんて特になかったもの。ユリィからの贈り物? それも……妙だよね。
思い当たる節が全くない。意味が分からず柳眉を寄せていると、ラピスラズリが上品に笑う声が頭の中にしみこんできた。気高き白い鳩は豆粒ほどの目を細めて、私を見つめてきた。
「ユリィからではありませんよ、パンドラさま」
「え?」
じゃあ、誰から? そう言いかけたとき、和幸くんが私の肩から手を離し、ラピスラズリへと歩み寄った。
「悪かったな。俺の天使でもないのに」
「お気になさらず。あなたの力になること――それが我が主から受けた命ですから」
ラピスラズリは首を伸ばして、和幸くんに紙バッグを差し出した。
「そうか」照れくさそうに答え、彼は紙バッグの取っ手をラピスラズリの嘴からはずす。「ユリィによろしく伝えてくれ」
「はい、喜んで」
どう……なってるの? 状況が全くつかめず、二人のやり取りを私はただ呆然として見守っていた。
そんな私に、和幸くんは紙バッグを手に振り返る。
柔らかな月の光でぼやけた輪郭。そのせいか、彼の笑顔がいつにも増して穏やかに見えた。
私に向けられる彼の笑顔――見ているだけで、心が温まる。さっきまでの不安が溶かされていく気がした。そう、これなんだ。この暖かい感じ。包み込まれるような安心感。これだから……彼の傍にいたくなるの。
ぼんやりと見とれていると、彼はおもむろにしゃがみこんだ。
「え?」と戸惑う私をよそに、彼は紙バッグをベランダの床に置き、中に手をつっこんだ。「なに……してるの?」
尋ねても、彼は何も答えない。紙バッグの中をごそごそとなにやらいじっている。暗くて中身はよく見えないけど……って、勝手に中を見てもいいの? ラピスラズリが運んできたんだよ? 私は心配になって顔を上げ、ラピスラズリにおずおずと問いかける。
「これ、一体、誰から? ユリィじゃないなら……」
いつもなら懇切丁寧に答えてくれるのに……このときばかりは「さあ」とわざとらしく惚けて、ラピスラズリはくりっと首を傾げた。
な……なんだろう? さっぱり状況が分からず、呆然としていると、
「足」
いきなり、そんな声が下から聞こえてきた。ぎくりとして視線を落とすと、私の足元で、和幸くんがひざまずき、手を差し出していた。
たくましくて大きな右手……それが目に飛び込んできて、頭の中をぐるぐると回っていた疑問が一瞬で消え去った。懐かしさと愛おしさが身体中を駆け巡る。
同じ。あの日、私を神崎の家から連れ出してくれたときと。あの日、廃校の教室で怯えていた私を救い出してくれたときと。
また、あの暖かい手が私に差し出されている。
つい、手を伸ばしそうになって、「あ」と我に返った。
「あ……足?」
そういえば、彼はそう言ったっけ。確かに、ほんのすこし足を上げる程度の高さに手が差し出されている。
でも……まさか、手に足を乗せろってこと?
「ど、どうして……」
「いいから」
ため息交じりにそう言う彼の左手はまだ紙バッグに差し込んだままだ。なんだろう? 何が入ってるの? 私の足と何か関係あるの?
戸惑って動けずにいると、「ああ、ったく」と和幸くんはイラだったような声を漏らした。怒らせた? と焦る間もなく、彼は差し出していた手を伸ばして私の足首を掴んだ。
「!?」
いきなり片足を持っていかれ、バランスを崩しそうになったのを、なんとか背後の窓に手をついて食い止める。一体、何が起きたのか一瞬分からなかった。ただ、ひんやりと冷たい何かが足を包み込む。それが分かって――
「あ……」
その瞬間、混乱する頭の中で、何かが閃光を放ったような気がした。
胸が熱くなり、頬が赤らむのを感じた。まさか――高まる期待に促されるように、息を呑んでおもむろに視線を落とす。そこには、愛しいほどに懐かしい、かたっぽだけの銀色のパンプス……
「シンデレラの……靴」
嬉しさで破裂しそうな胸を抑え、私はそうつぶやいていた。強張っていた頬が和らいでいく……笑みがどこからともなく溢れ出た。
和幸くんはそうっと私の左足から手を離し、私を見上げて満足げに微笑んだ。
「やっと、笑ったな」
「え……」
「これは、俺から、だ」言って、彼はおもむろに立ち上がる。「この天使に俺の部屋まで行って取ってきてもらったんだ」
ちらりと彼が視線をやると、ラピスラズリは会釈のようなものをしてみせた。
胸が苦しくなって、我慢できなくなった。こんなに涙もろいはずじゃなかったのに、それは勝手に瞳から零れ落ちていく。ぽろりぽろりと次から次へと頬を伝って落ちていく。
そうだった。彼をフッたあの日……指輪と一緒に紙バッグに詰めてこの靴を返したんだ。怒って捨てられていても仕方ないのに。あのまま、取っておいてくれたんだ。そして、こうして……履かせてくれた。
思わず、嗚咽が漏れそうになって口元を抑えた。この胸の痛みが罪悪感から来ているものなのか、喜びなのか……自分でも判断がつかない。
「カヤ」不意に、彼は手を伸ばして私の髪を撫でた。「『収穫の日』だろうがなんだろうが、どうでもいい。クリスマス……お前の誕生日、砺波のくだらないパーティーに行こう」
「!」
冗談めいた彼の言葉。それでも『収穫の日』……その単語はズキリと胸に深く突き刺さった。その痛みは夢見心地だった私を現実へと引き戻すには充分で、心に灯っていた悦びは突然の吹雪に消し去られたようだった。はたりと涙が止まる。最後の一滴が虚しく睫の間をぬって流れていったのを感じた。
そんなこと、彼は知る由もない。ただ純粋に私を想ってくれる彼は、いつもの優しい笑顔を浮かべてつぶやいた。力強く、覚悟に満ちた口調で。
「なにがあっても、『テマエの実』を食べさせたりしない。必ず、守る」
胸が軋んだ。全身が切り裂かれるように痛い。
彼の背後で、ラピスラズリが気まずそうに顔をそむけたのが見えた。
出来ることなら、私もそむけたい。現実から。真実から。使命から……。
「だから、傍にいろ。俺が必ず――」
それ以上、もう聞いていられなかった。――私は彼に抱きついていた。片足だけ背伸びして、彼の首に腕を回す。ぎゅっと強く抱きしめる。
「カヤ……?」
いきなりで、それも話の途中で、こんなことになって、きっと驚いているに違いない。声も明らかに動揺しているようだった。
それでも、彼は何も言わずに私の背中を抱きしめてくれる。そして、言ってくれるの。
「大丈夫だ」
いつもいつもそう言ってくれる。そのたびに、胸が熱くなって苦しくなる。私は彼の肩に顔をうずめて、固く目を瞑った。
このまま……何も言わずに、希望に満ちた時間を彼と過ごしたい。
今夜だけでいい。今夜だけ……許してほしい。真実を隠して、彼を騙すことを。自分を偽り、彼との甘い幻想に浸ることを。十二時の鐘の音が鳴るまででいいから。――そう、願った。
わがままだとは分かってる。自分勝手だとは分かってる。でも……それが、すごく人間らしい願いにも思えた。