運命の夜 -2-
明かりをつける気もおきず、真っ暗な部屋の中、私はじっとベッドに座っていた。何もする気がおきない。ドレスを脱ぐ気力もない。
ただ、想うのは彼のことだけ。
私はぐっと目をつぶった。お願い、と何度目かも分からない祈りを捧げる。
お願い。無事でいて。どうか、無事でいて。
ぎゅっとシーツを握り締める手に力がはいった。
「和幸くん」
その名を呼んでも、届くわけはないのに。どれだけ想っても、伝わるわけではないのに。なぜ、彼を想うことをやめられないのだろう。どれだけ諦めようと思っても、どれだけ自分を納得させようと思っても……気付けば、彼を想ってしまう。気付けば、彼の名前を呼んでいる。
波のようにおそいかかる後悔と、吹き荒れる嵐のような彼への想い。
苦しい――私はぐっと胸元をつかんだ。
傍にいたい。彼に触れたい。彼に触れて欲しい。彼を愛したい。彼の愛を感じたい。わがままな欲望ばかり募っていく。彼が欲しくてたまらない。
「和幸くん」と、頭を垂らして唱えるように囁く。
お願い。無事でいて。お願いだから……
――約束通り、二度とお前の前には現れない。これでお別れだ。
最後に聞いた彼の声が、不吉な予言のように私の心にまとわりついて離れない。私はそれを振り払うかのように首を左右に振った。
「どうして……」
体が震えだし、それを抑えるように体を丸めて腕を抱きしめる。
どうして、私は彼を行かせてしまったの? どうして、止めなかったの? 分かっていたのに。カインの世界がどういうものか、どれほど危険な場所なのか、知っていたのに。どうして、あの手を離してしまったの? どうして……
――でも、アナマリアは殺されてしまった。兄さんは彼女を愛せない。
いや。そんなの、いや。私はまだ愛していたい。この身が崩れ落ちるその瞬間まで、あなたを愛していたい。だから……
「生きていて」
お願い。どうか、誰か……誰か、彼を迎えに行って。彼を日向に返して。彼を守って。
「神さま」
無意識に唱えていたその名前に、私はハッと目を見開いた。――そのときだった。
月明かりが差し込む部屋の中、虹色の光が突然辺りを照らした。軽快な音楽とともに。
びくんと体が大きく揺れた。全身が粟立つのを感じた。
その音楽を私は知っている。その音楽が意味することを知っている。だからこそ……だからこそ、信じられなかった。なぜ、この音楽が聞こえてくるのか。なぜ、まだその音楽を鳴らしてくれるのか。もう二度と、鳴いてはくれないと思っていたのに。そう覚悟していたのに。
呼吸が荒くなり、唇が震える。瞬きも忘れ、私はゆっくりと顔を上げた。
まばゆい虹色の光が曲に合わせて踊っている。それに誘われるように、私はふらりと腰を上げ、おぼつかない足取りでその光に向かって歩き出した。
血液まで蒸発しそうなほど、体中が燃えるように熱くなっていた。
部屋の端に置かれた勉強机。そこにぽつんと寂しく放置されたそれは、何かを訴えるように必死に光を放って音楽を奏でている。
それを前に、私は呆然としていた。
この音楽を鳴らせるのは彼しかいない。秘密の番号――それを知っているのは彼だけ。
でも……そんなわけない。有り得ない。たとえ彼が無事だったとしても、この音楽が鳴るはずはないんだ。だって……
――これでお別れだ。
彼はそう言ってたもの。
――もう会いたくない。
そう……言ってしまったもの。彼を巻き込みたくなかったから。彼を引き離すことが最善だと思ったから。
極寒の地にでも居るかのように全身が震える。
高まる期待は暴走してしまいそうで、不安に脚が竦む。この期待が裏切られたら、と思うと恐ろしくて体が動かない。
ただの間違い電話かもしれない。期待が……希望が裏切られるのが怖い。でも、もし……もし、彼だったら――それは儚い希望。分かってる。私がそれを願う権利なんて無い、てこと。私が彼を引き離したんだから。嘘もついた。ひどいことも言った。彼にわざと嫌われようとした。彼の想いを踏みにじった。私は最低だ。彼にふさわしくはないなんて分かってる。でも、声を聞きたいの。会いたいの。やっぱり……彼の傍に居たいの。彼が恋しくてたまらないの。この世界で、彼を愛していたいの。
だから、お願い。私にもう一度だけ、未来を選ぶチャンスをください。彼との未来を選ぶチャンスを。限られた時間だって構わない。あと一ヶ月……それでもいいの。やっぱり、彼の傍にいたい。
そのわがままが許されるなら……どうか……
腕がひとりでに動いていく。震える手が虹色の光に照らされる。そっと指先がそれに触れた。ごくりと生唾をのみこんでボタンを押すと曲が止み、代わりに、私の荒い息遣いがあたりに響く。
お願い。お願い。何度も何度も、心の中でそう唱えた。そして、ゆっくりと希望を耳元に運んだ。
「和幸……くん?」
祈るように固く目をつぶり、その名を呼ぶ。どうかこの声が彼に届きますように――そう祈りながら。
こんなにも、たったの一秒が長いと感じたことはない。こんなにも、沈黙が恐ろしいと思ったことはない。
信じることが、希望を抱くことが、これだけ苦しみを伴うことだと私は初めて知ったんだ。
「やっと、出たな」
そして、それが報われたときの喜びを……私は初めて知ったんだ。
* * *
カヤはハッと目を見開いた。言葉に関わる知識を、一瞬、全て失ったような気がした。思わず、携帯電話を落としそうになった。
「これで、いったい何度目だろうな」呆れたような声が聞こえてくる。「俺しか知らない番号でも、通じなきゃ意味ないだろ」
カヤは覚えてる。これが何度目の電話なのか。別れを告げたあの日から、和幸がこの番号にかけてきた回数を、しっかり覚えている。無視してきた電話の回数を、無意識に数えてきた。
また体中が震えだした。聞こえてくるその声が、愛おしくてたまらない。抱きしめるように、携帯電話を握り締める。もっと、もっと聞かせてほしい。そうすがるように、頬をすり寄せる。
生きていた。彼は無事だった。それが分かっただけでも心は歓喜に奮えた。
「よかった」自然と弱々しい声が漏れる。「よかった、無事で」
「カヤ」カヤの言葉に答えるわけでもなく、彼はすかさず口火を切った。「ユリィの天使が、全部話してくれた」
唐突にそんな言葉が送られてきて、カヤは目をむいた。体中にこもっていた熱が一気に冷め、現実に引き戻されたようだった。
ラピスラズリが彼に全部話した? なぜ? いつ? 全部とは一体どこまで? カヤの心の中が、不安と困惑で荒れ狂い始めた。麻痺したように言葉が出てこない。そんな彼女を労るように、「カヤ」と苦しげな声が小さな機械を通して送られてくる。
「もういいんだ」
ざわっと鳥肌が立った。カヤは呆然として立ち尽くす。見開かれた瞳は、どこを見ているわけでもなかった。彼女自身、自分が何を考えているのか、もはや把握していなかった。
「もう下手な芝居は必要ない」
諭すように囁かれたその言葉に、胸がきゅうっとしめつけられる。何かがこみ上げてくるのを感じた。みぞおちが引き締められるように痛む。苦しい、と思った。だが、嫌な気分はしなかった。それは心地よくも感じる痛み。懐かしくも感じる、愛おしくも思える痛み。
「大丈夫だ」
力強く言い放たれたその言葉は、ずっと待ち望んでいたものだった。ずっと彼の口から聞きたかった言葉だった。
じんわりと目の周りが熱くなっていく。視界が歪んでいく。喉からは水分がなくなって、息苦しい。
「だから」と、搾り出したような声が聞こえてくる。「もう一度だけ、聞かせてほしい。お前の気持ちを」
その瞬間、ぽろりと何かが頬を伝うのを感じた。
それは、神の罰が下ったあの日から、失ったと思っていたものだった。もう自分にはないものだと思っていた。あの日、神に取り上げられたもう一つの『人間の証』だと思っていた。
涙だ――カヤは思わず笑みをこぼし、肩をおとした。毛布につつまれるような暖かい安堵感が心の中に満ち溢れる。生きている心地がした。
「人間でいたい」と、カヤはつぶやいていた。「たとえ、心だけでも……ずっと……」
「……」
ぎょっと驚いている彼の顔が浮かんだ。頭をかいて、ぎこちなく微笑む。そんな彼の様子がありありと思い浮かぶ。
カヤは目を細め、「だから」と涙声を漏らす。
「だから、傍にいさせてください」
最期のそのときまで――カヤはそう心の中で言い添えて、冷笑する。なんて自分勝手な……そう思いつつ、満ち足りた気分を否定しようとは思わなかった。
使命から逃れることはできないかもしれない。希望をつかむことはできないかもしれない。それでも……この世界で見つけた大切なもの――この愛を、最期のそのときまで抱いていたいと思った。その欲望こそが、最期までしがみついていられる人間らしさだと思った。
「そうか」しばらくしてから、彼はため息混じりにそうつぶやいた。「じゃ、鍵開けてくれ」
「え……?」
「だめもとで電話して正解だったな。窓割ったら、本間の親父さんもさすがに怒るだろうから、どうしようかと思ってたんだ。印象悪くするのはちょっとな」
先ほどまでの真剣な雰囲気はどこにいったのか。彼は世間話でもするような軽い調子でそう言った。
状況がつかめず突っ立っていると、ふと、背後からコンコンと何かが当たるような物音がした。まるで、ノックのような――その瞬間、カヤはびくっと身体を震わせて、息を呑んだ。全身が強張って、体の芯から熱がこもるのを感じた。
もう込み上げてくるものを抑えようとは思わなかった。流れ出てくる涙を拭うこともせず、ゆっくりと振り返る。そこにあるのは、丹念に拭き掃除がされた透明な窓。その向こうのベランダで誰かが立っている。月光を全身に浴び、くっきりとシルエットが浮かび上がっていた。腰に片手をあてがい、もう一方の手で何かを耳にあてている。
携帯を持つ手から自然と力が抜けた。それはするりとカヤのしなやかな指先から零れ落ち、足元で物音を立てて飛び跳ねる。その音が先か、カヤが走り出すのが先か。カヤは黒衣をなびかせ窓へと――いや、彼の元へと駆け出した。