運命の夜 -1-
――もう、お話はお済みになりましたか?
そんな女の声が確かに聞こえたはずだが……辺りを見回しても誰もいない。いや、見回すほど広くもない公園なんだが。
廃れた公園に一人突っ立ち、頭をかく。空耳……だったんだろうか。はっきり聞こえた気がするんだが。
まあ、いいか。そんなことより、早くカヤの元へ――と、足を進めて、すぐに立ち止まった。公園の入り口(出口でもあるが)から、ぬっと妙な影が現れたからだ。妙な影……といっても、不審者でも幽霊でもない。四本足で歩くシルエット。鋭角にツンと立った耳。鼻から噴き出される白い息。一歩進むたびに、ジャリッと地面を削る鋭利な爪。
曽良と入れ替わるように、公園に入ってきたのは……
「犬?」
そう、一匹の犬だった。といっても、ただの犬じゃない。大きな口。たくましい体つき。鋭い目。警察犬……いや、シェパードって犬種だったか。
「捨て犬? 迷子か?」
下に垂らした尻尾を左右に揺らし、俺にまっすぐに向かってくる。その瞳は外灯の光を反射し、魔物のように妖しげな光を放っている。きれいな毛並みだ。まるで作り物みたいに美しい。どっかの金持ちの犬か? でも、首輪はしていない。
ぴたりと俺の前で立ち止まると、犬はその場に座り込んだ。きっちりした動きに、俺は感心すらしていた。この行儀のよさ……よほど訓練でもされてるのだろうか。
俺はしゃがんで犬を真っ向から見つめる。
「何か用か?」
って、なんで犬に話しかけてんだよ、俺は? 周りを見渡しても、誰もいない。散歩の最中ってわけでもないか。
犬はじっと俺を見つめて動かない。その瞳は爛々と輝いて、何かを期待しているようにも見える。腹でも減ってるのだろうか。食い物なんて持ってないんだが……まさか、俺を食おうとしてるわけじゃないよな。
それにしても、不思議な魅力のある目をしている。まるで未来まで見抜いているかのような眼差し。
吸い込まれるように見つめていると、犬はゆっくりと大きな口を開いた。鋭い犬歯がキラリと光る。そして、
「初めまして、というべきでしょうか。探しましたよ」
しゃべった。
「……」
いや、待て。
「なんで、しゃべるんだよ!?」
思わず、大声を上げて立ち上がっていた。
「会話をするためですよ」
犬は落ち着いた様子で俺を見上げて微笑んだ。――って、犬が笑うわけがない。そういう風に見えただけだ。
「なんで、犬がしゃべるんだ?」と犬に尋ねている時点でおかしいんだが。
「犬ではないからです」
「は!?」
ダメだ、頭がおかしくなりそうだ。もしかしたら、すでにおかしくなってるのかもしれない。俺は頭を抱え、とりあえず平静を取り戻そうと深く息を吐く。
落ち着け。落ち着いて考えたら分かるはずだ。こういう意味不明の奇想天外な現象が起きたとき、大体絡んでくるのは……
「『災いの人形』、パンドラさまのことでお話しがあります」
俺はがっくりと肩を落とし、半笑いを浮かべていた。
「……だろうな」犬もしゃべれば神の『裁き』、か? ったく、今からカヤに会いに行こうってときに。「話ってなんだ?」
いや、その前に……俺はじろりと犬を睨みつける。
「お前はなんだ? 犬じゃないんだろ?」
『災いの人形』と口にした時点でただの犬じゃないのは明らかだ。って、いや……しゃべった時点で、犬じゃないよな。
言われて、そうでした、と犬はゆっくりと頭を下げる。ニホン舞踊を思わせるしなやかな動きに、俺は頬をひきつらせる。上品な犬――妙だ。違和感に酔いそうだ。
「ユリィ・チェイスに遣える天使、ラピスラズリと申します」
「ユリィ・チェイスの天使?」
はい、と犬は顔を上げて俺を見つめた。
ユリィ・チェイスといえば……カヤの婚約者としていきなり現れた男。曽良の盗聴した会話から察するに、カヤに全てをぶちまけてくれやがった張本人だよな? 神の『裁き』に関わりのある奴だろう、とは思っていたが……天使まで持ってるのか。一体、何者なんだ?
「我が主、ユリィから伝言がございます」
もし、俺に母親がいたら……この犬の声を懐かしい、と思ったのだろうか。優しさにあふれた、包み込むような声色。聞いてるだけで心地がいい。カヤのそれに似ているとさえ思った。
って、聞きほれてる場合じゃない。伝言? あいつから俺に?
「なんだ?」と訝しげに――若干、警戒しつつ――尋ねると、ユリィの天使は愛おしそうに目を細めた。
「『オレは約束は破らない。何が起ころうと、彼女を幸せにする』、と」
「約束?」
そんなものしたか?
「たとえ何が起ころうと、あいつを幸せにしてやってくれ。そう、我が主におっしゃいませんでしたか?」
俺の問いを予期していたかのような、素早い返しだった。それでいて、やんわりと柔らかい声。脳細胞までほぐされるような気分だ。絡まっていた記憶の糸がほどけて、ある記憶がするりと引っ張り出された。その途端、俺はハッと目をむいた。「あ」ととぼけた声を漏らし、眉を曇らせる。「言った」
それは、カヤと別れ、カナエを迎えに行こう、というときだった。倉庫から飛び出した俺はユリィと出くわし……
――たとえ何が起ころうと、あいつを幸せにしてやってくれ。
ああ、言った。確かに言った。
そうか。あいつはあれを約束だと思ってるのか。思ってた以上に、誠実な奴みたいだな。――と暢気に感心し、そこではたりと思考が止まった。じわりと嫌な汗が背筋を伝う。
ちょっと待て。
「幸せにするって……」
そう頼んだのは、確かに俺だ。何度も、頼む、と繰り返した。この天使の伝言を聞く限り、あいつはそんな俺との『約束』を素直に果たそうとしている。
カヤを頼む、幸せにしてくれ――そんな俺の願いを叶えようと決意してくれたわけだ。
それなのに(事情が変わったとはいえ)今更、やっぱり俺がカヤを幸せにしたい――なんて言い出すのは、さすがに気まずい。こうしてわざわざ天使を遣わせて、決意表明までしてくれたんだ。あいつも本気なんだろうし……
「!」
そういえば……と、今の今まで気付いてもいなかった疑問が浮かび、ざわっと胸騒ぎを覚えた。心臓が暴れだし、息苦しさに胸元をつかむ。
考えようともしていなかった。――カヤとユリィは、お互いをどう思ってるんだ?
曽良の話だと、カヤが俺と別れた理由は、俺を神の『裁き』に巻き込みたくなかったから。だが、だからといって、カヤがユリィをなんとも思っていない、とは限らない。俺を引き離して寂しい思いをしているときに、ユリィに優しくされて……とか、有り得るパターンだよな。事実、カヤはあいつのことを信用しているようだった。
婚約者うんぬんが嘘だという確証はないんだ。そんな嘘をついてまで、カヤがユリィをオークションに連れてくる理由も思いつかない。
もしかしたら、ユリィは本当にカヤと……。
思いもよらなかった不安が一気にこみあげ、俺は黙り込んだ。しゃべる犬……もとい、犬の姿をした天使のことも忘れ、自分の世界に入り込み――いや、迷い込んでいた。
――あなたを愛せません。
あの言葉が嘘だという確証もない……んだよな。
「まだ、話は終わっていませんよ?」
「!」
いきなり叩き起こされたような気分だった。ぎょっとして下を向くと、天使がまっすぐに俺を見上げていた。心の中まで覗かれているんじゃないか、と恐ろしくなるほどの突き刺すような鋭い眼差し。
思わず、ごくりと生唾を飲み込んでいた。
そんな俺の緊張を和らげるように、天使は口元を緩めておっとりとした声を流す。
「『オレは約束は破らない。何が起ころうと、彼女を幸せにする』」
それはさっき聞いた、と言いかけた俺を、「『だから』」と天使は遮った。
「『だから、君に彼女の傍にいて欲しい』――だ、そうです」
言われた意味が、分からなかった。「は?」と呆けていると、天使はフフッと控えめな笑い声を漏らした。
「あなたが傍にいることがパンドラさまの幸せだ、と伝えたかったのだと思います。パンドラさまご本人が、そうおっしゃっていたように」
「カヤ……が?」
ずしりとみぞおちに圧力を感じ、心臓が収縮するような感覚がした。そして――初冬の寒さを忘れてしまいそうなほど、頭まで燃え上がるように熱くなった。
そんな俺をからかうわけでもなく、天使は安心したかのように鼻から息を吹き出した。
「我が主は嘘偽りを好みません。婚約者のふりもお気に召さなかったようです」
「ふり?」
「はい」天使は力強く頷く。「ふり、でございます。ユリィとパンドラさまの間には、特別な感情などないのですから」
まるで俺の不安を読み取ったかのような台詞だった。俺は全身から嫌な緊張感が抜けていくのを感じつつ、まさかこの犬は俺の心を読めるのか、と頬をひきつらせた。もしくは単に、俺の思考が単純すぎて簡単に読めてしまうのか。どちらにしろ、恥ずかしいのは変わらないが。
「それをあなたにお伝えするために、我が主はこうしてわたしを遣いに出しました。ですから……」ユリィの僕は、どうか、と懇願するように言って深々と頭を下げた。「パンドラさまのもとへお戻りください」
犬に頭を下げられて居心地悪さを感じつつも、「言われなくても」と苦笑してしゃがみこむ。見た目は犬でも、天使。不適切かとも思ったが、つい条件反射のようにその頭を撫でていた。
「言われなくても、そのつもりだったよ」
嘘じゃない。こいつが現れる前から、カヤのもとへ戻るつもりだったんだ。夢中だったから、ユリィのことで悩む余裕すらなかっただろう。まっすぐにあいつのところに行っていたに違いない。だから、天使が頭を下げてまで頼み込むことじゃない。
「天使の助けは要りませんでしたか」
そうつぶやくと、天使は頭を上げて俺をじっと見据えた。その声色に落胆は感じられず、嬉しさと誇らしさがつまっているように感じた。
「ああ」ときっぱりと答えると、天使は「それなら」と目を細める。犬の笑顔がどんなものかは分からないが、それでも、微笑みかけられているような気がした。「わたしの出番はもうありませんね」
唐突に犬の体がまばゆい光に包まれた。というより、犬自体が金とも銀ともつかない光の集合体に変化した。あまりのことに驚いて天使の頭から手をどけ、身を引いた勢いで俺はしりもちをついた。
見覚えのある光景だ。ケットが姿を消すときと同じ。つまり――と慌てて、俺は「ちょっと待て!」と呼び止めていた。
蝋燭の火が消えたかのように、ふっと光を失って、不思議そうにこちらを見つめる犬が目の前に立っていた。
「どうかされました?」と目を瞬かせる天使に、俺は姿勢を正して冗談っぽく笑んだ。
「『おつかい』、頼んでもいいか?」
* * *
「そのくらいのことでしたら」和幸の話を聞き終え、ラピスラズリは深く頭を垂れた。「承知いたしました」
和幸が見守る中、ラピスラズリは犬の姿を借りたその身体を光のベールで包み込む。光の粒子が飛び交って、輝く天使の周りにまばゆい衣を紡いでいく。やがて、光の塊となったラピスラズリは徐々に小さくなり、両手ですくえるかどうかの大きさまでに縮小した。
唖然としている和幸の前で、光の繭は消え去って、中から姿を現したのは――
「……はと」
突然目の前に姿を現した白い鳩に、和幸はあっけにとられて口をあんぐりと開けた。当然、この鳩がラピスラズリであることは察しているのだろうが、それでも信じられない出来事に言葉が出ないようだった。
ラピスラズリはくりっと小首を傾げ、どこか申し訳無さそうな声で伝える。
「エリドーに生きるものたちの姿と恵みを借りる――それがわたしの力なのです。さきほどまでの犬の姿も、匂いをたどってあなたを探すために借りていたにすぎません」
「へえ」と、和幸は気のない返事をした。目をぱちくりとさせている様子からも、まだ困惑しているのは明らかだ。
ラピスラズリのしとやかに笑う声が、静まり返った公園に響く。
「では、のちほどお会いしましょう」
さらりとそう言って、ラピスラズリは真っ白な翼を羽ばたかせた。跳びあがり、二回、三回……と羽根を動かし、夜空に浮かんですいっと飛翔していく。
頭上に広がる無限の暗闇を泳ぐ白い影。それを感慨深げに眺めていると、不意に何かが落ちてきた。和幸の目の前に降りて来たもの――それは真っ白い羽根。一見、鳩の羽根のように見えるそれは、紛れもなく天使が落とした羽根だった。
和幸はその手に羽根を受け止めて、すっくと立ち上がる。穢れのない白い羽根は、ふわりと柔らかく優しい感触がして、それでいてすぐにでも消えてしまいそうな儚さがあった。
和幸は懐かしむような眼差しでそれを見つめて、ため息交じりに微笑した。
やがて、木々を揺らして向かってきた風が彼の手から羽根を盗んでいった。飛ばされ、闇の中に消えていく天使の羽根を見届けると、和幸は「さて」とつぶやき踵を返す。
「『お迎え』の時間だ」
おそらく、これで最後の――と、和幸は心の中で付け加えた。