最後のおつかい -4-
「うう……」とうめき声を上げ、男は身体をむくりと起こした。口の中で血の味がして、石ころのようなものが舌の上にごろごろと横たわっているのを感じる。ぼうっとする頭を左右に振り、男はそれを血が混じった唾とともに吐き出す。
男の口から勢いよく飛び出してきた物体は石畳の上に散らばった。男はかすむ視界でそれを確認する――粉々になった自分の歯だ。
「くそ」
いくつの歯を台無しにされたのか。もはや調べる気にもならない。あのガキ、と心の中で悪態をつく。決してガタイがいいわけではなかった。背もそこまで高くはなく、高校生の平均といったくらいだ。だが、あの蹴りは普通ではない。目にも留まらぬ素早さ。重力を感じさせない軽い身のこなし。その上、あの体からは想像できないほどの脚力。一瞬にして気を失ってしまった。どこからあんな力が出てくるのか。気に食わないのと同時に不思議でならなかった。男は悔しげに眉間に皺を寄せ、痛む顎に手をやった。
カイン。『無垢な殺し屋』。裏世界で育てられた少年少女。噂に聞いていたその存在が脳裏によぎる。どうやら自分は都市伝説の証人となってしまったようだ。男はそんなことを考えながら、いきなり頭上から舞い降りてきた少年を思い出す。見た目は至って普通の子供。それも、『殺し屋』と呼ぶには程遠い真面目そうな外見だった。人は見かけによらず、とはよく言うが……おぞましい世の中になったものだ。欠けてとがった奥の歯を舌で撫でながら、男はそう心の中でつぶやいた。――と、そのときだった。まるで男の心の声に答えるかのように、無邪気な声があたりに響く。
「気づく前に、と思ったんだけど」
人の気配など感じなかった。が、その涼しげな声はすぐ近くから聞こえてきた。男はハッとして顔をあげ、そして目を見開いた。
そこにいたのは、またも子供だった。といっても十代後半。先刻、自分に蹴りを食らわせた少年と同じくらいの年頃だろう。だが、さっきの少年とは違い、どこか恐ろしくも思える美しさがある。ただの子供というには完璧すぎる容姿だ。月の光と灯篭の、ぼんやりとした照明のせいだろうか。それとも、感情が伺えない冷たい眼差しのせいだろうか。その立ち姿は蝋人形にさえ見える。「美貌」という形容を少年に使おうと思ったのは初めてだ、と男は思った。まるで絵に描いたような美少年。気味が悪いほどの、妖しげな魅力。目を奪われるほどの麗しいその姿が、こちらに向けている拳銃とミスマッチして、男に奇妙な快感さえ与えた。
そう、彼の見目形に気を取られ、男はすぐには気付けなかった。自分が死の危険にさらされていることを。
男は何度か目を瞬かせてから銃口を見つめ、そしてようやく自分の置かれている状況を理解した。
「な……」と、男はすっとんきょうな声をあげ、硬直した。立ち上がって逃げるべきなのかもしれないが、どうやらあまりのことに腰がぬけたようだった。いや、少年の殺気という目に見えぬプレッシャーに気圧されていたのかもしれない。いずれにせよ、体が動かない。
「カイン」
自然と、男の口からはその単語が零れていた。なぜ、別のカインが現れたのか。さっきのカインはどこに行ったのか。そんなことは分からない。だが、考えている場合ではなかった。
「待ってくれ!」気づけば、男は少年を見上げ、泣き叫ぶように懇願していた。「殺さないでくれ」
少年は大きな目を強調するかのように、瞼をぐいっと引き上げた。驚いているようだが、その口元はぴくりともせず、言葉が出てくる様子はない。
男はごくりと生唾を飲み込み、震える唇をこじ開けるようにして続きを叫ぶ。
「娘が生まれるんだ!」
それはだめもとの『命乞い』だった。『殺し屋』がこんなことで気持ちを動かされるわけはない。そんなことは重々承知だ。ただ、それでも頼まずにはいられなかった。藁にもすがる思いだった。
だが、銃口はぴくりと動いた。咄嗟の『命乞い』に『殺し屋』が反応したようだ。どうやら、無駄な抵抗といわけではないらしい。
「なあ、頼む」と男は肩で息をしながら、少年に必死に投げかける。緊張で麻痺しているようで、顎の痛みはすっかり感じられなくなっていた。「助けてくれ」
心臓が今にも爆発しそうなほどに熱く燃え滾っている。男はこのまま心臓発作で命を落とすんじゃないかとさえ思った。
じっと見つめる先で、少年の唇がやっと動きを見せた。高い鼻が落とす影でやや見にくいが、うっすらと笑んだようだった。男を見下ろす眼差しには、ようやく感情が浮かんでいる。――それは、憐れみだった。すべてを達観し、何かを諦めたような笑み。子供とは思えない、残酷なほど大人びたものだった。
「でも」と、そんな少年の唇から穏やかな声が漏れる。「見ちゃったでしょう」
何の話か、男には見当もつかなかった。「み、見た?」と掠れる声で尋ねると、少年は「顔」と簡潔に答える。誰の? と尋ねようとして、すぐに男は理解した。ぎょっと目をむいて、慌てて首を左右に振る。
「こんな暗がりじゃ、お前の顔なんて見えない! 暗視装置をしていないんだ!」
言って、無残に転がっている暗視装置に視線をやった。最初に現れたカインに蹴り飛ばされたものだ。
「な!?」と男はその瞳にかすかな希望の光を宿らせ、少年を再び見上げる。実際のところ、ぼんやりだが彼の顔は見えている。が、見えていない、と言い張る限り、彼がそれを知る由もないだろう。子供だましで構わない。勝機はあると思った。所詮、相手は子供なのだから。
「頼む」今にも土下座でもしそうな勢いで前のめりになって、あと一押し、とばかりに男は声を張り上げた。「家族がいるんだ!」
「俺もだよ」
「は……」
思わぬ『殺し屋』の返事に間の抜けた声を出し――男はぴたりと動きを止めた。まるで、彼の周りだけ時が止まったかのように。
口はあんぐりと開かれたまま静止し、空気の行きかう音さえも消え去っていた。やがて見開かれた両目の間に、赤い液体がだらりと流れる。それは鼻骨を境に二手に分かれて滴り落ちていく。
男の耳に、果たして処刑を知らせる破裂音は届いたのだろうか。ただ間違いなく、それが何かを理解する前に、彼の思考は止まったことだろう。
司令塔を失った体はだらりと力なくその場に崩れ落ち、そこから溢れる鮮血がみるみるうちに少年の足元を赤く染めた。
少年はゆっくりと腕を降ろし、硝煙を吐き出す銃口を地面に向ける。そしてその後を追うようにおもむろに視線を落とし、血塗られた石畳に突っ伏す男を見下ろした。
「俺も、家族がいるんだ」落ち着きはなった穏やかな表情で、少年はひとりごちる。「だから――」
無論、男が返事をするわけはない。少年は言いかけた言葉を飲み込むと、一歩後ずさり、何事もなかったかのようにあたりを見回し始めた。
しばらくそうして、不意に、背後で物音がした。重い何かが芝を勢いよく押しつぶした音。そして、「曽良」と彼の名を呼ぶ声がした。
* * *
庭に着地するなり、「曽良」と俺は声をかけた。それとほぼ同時に、「きゃ」と背中に乗っかっているカナエの悲鳴が聞こえてきた。
まさか、変なところでも触ったんじゃないだろうか。カナエの太ももを抱える両手に緊張が走り、「悪い」と俺は反射的に謝っていた。そして、何を思ったか――たぶん、自覚していた以上に焦っていたんだろう――俺は手を離していた。首に巻きついていた白い腕はするりと視界から消え去り、背中が一気に軽くなる。ドスンと音がして、「きゃ!」と今度はカナエの悲痛な叫びがあたりに木霊した。
って、何やってんだ、俺は!? 瞬時に、何が起きたのか……てか、何をやらかしたのか悟り、慌てて振り返った。「大丈夫か!?」と(俺のせいで)尻餅ついたアザだらけの少女に声をかける。いや、このアザは俺が落としたからできたわけじゃない。まあ……もしかしたら、今ので尻にひときわでかいのが出来たかもしれないが。
「大丈夫です」
さらりと顔にかかった細い髪をしなやかな手で払い、カナエは俺に微笑みかけた。文句一つ言わず、まぶしいほどの笑顔をみせる彼女に胸が痛んだ。
彼女は今にも売られそうだったところを、必死になって逃げ出してきた。どんな経緯で売られることになったのかは分からないが、ひどい目にあってきたことは間違いない。肢体に広がるアザや手首の手錠がその証拠。決して、笑顔なんて作れる心情じゃないはずなんだ。いくら助けが来たと言っても――たとえカインを名乗ったところで――俺だって得体の知れない男。これからのことを考えて怯えていたって不思議じゃないのに。いや、そのほうが自然だ。なのに、こうして愛くるしく微笑みかけてくれる。その姿が、あいつと重なった。
手を差し伸べるべきだったのだろうが、そのせいで俺は動けずにいた。はだけたスカートを直すこともなく、へたりと座って俺を見上げるカナエを、ただじっと見つめていた。いや――彼女を通して、俺はカヤを見ていた。
「かっちゃん、最低」
不意に、あっけらかんとした声が耳に届いて、俺は我に返った。振り返ると、けたけたと楽しそうに笑う曽良がこちらに歩いてくるところだった。人を殺したばかりの凶器を隠すように腰にしまい、「王子さま失格だよ」といつもと変わらぬたわ言を口にして近寄ってくる。
その減らず口は子供のときと何も変わらない。人並みはずれた顔立ちを台無しにするへらへらとした間抜けな表情も、変わっていない。ガキのころと何も成長してないようにさえ見える。
だから、気づけなかったんだ。もっと奥深く、心の根底で起きたこいつの変化に、微塵も気づかなかった。人を殺すこいつを目の当たりにするそのときまで。
もう、あの頃とは別人なんだ。目の前にいるこいつを、きっと俺は何も知らない。それは恐ろしくもあり、とてつもなく寂しく虚しい気分だった。
分かっていたつもりだった。『殺し屋』と呼ばれる家族のこと、理解しているつもりだった。それはとんだ思い上がりだったのかもしれない。俺は何も分かってなかったんだ。『殺し屋』――それが意味することを、これっぽっちも分かっていなかった。人殺しは嫌だ、と駄々をこねるだけで、何も見ていなかったんだ。
どんな表情をしていたのか分からない。その悔恨と困惑が混ざり合った心情をあからさまに顔に出していたのかもしれない。曽良は俺の目の前で立ち止まるとため息混じりに微笑んで、俺の肩をぽんと叩いた。
「あとで」
ハッとする俺にそうつぶやき、曽良は横を通り過ぎていった。唖然としていると、「初めましてぇ」と調子の良い声が聞こえてきた。
「あ、は、初めまして。鼎と申します」
カナエの弾けんばかりの高い声が後に続いた。振り返れば、曽良がカナエの前で方ひざを立て、彼女を頭から足元まで注意深く見回していた。舐め回すような視線に(怪我の具合を診てるだけだろうが)カナエはほんの少し頬を赤らめ、思い出したかのようにはだけたスカートを直した。そして、
「あなたも、カインなんですよね?」
カナエはどぎまぎとしながら、曽良にそう尋ねた。その様は、まるでアイドルと出くわした女子高生みたいで、俺は失笑してしまった。まあ、曽良はカイン一のイケメンと言われている。こいつの出生を考えれば、それは当然なんだが……とにかく、そこらのアイドルよりもずっと質はいいはず。カナエが曽良を興味津々に見つめているのは、カインだから、て理由だけじゃないかもな。つっても、カナエも充分、容姿端麗。カヤに劣らず……て、だから、いちいちあいつを引き合いに出してどうするんだよ。未練がましい……。
「そうだよ。カインの曽良。松尾芭蕉の弟子。よろしくね」
お決まりのセリフを言い切り、曽良は実に満足げだった。だが、カナエはきょとんとして「芭蕉の弟子?」と不思議そうにつぶやく。
俺はひっそりとため息を漏らした。だから、そのキャッチフレーズはいい加減やめろって。自己紹介をややこしくするだけだ。
そして、もう一つ。お決まりの儀式が行われようとしていた。
「白雪!」
いきなり、曽良の嬉しそうな声が耳に突き刺さった。またもカナエはきょとんとしている。目をぱちくりと瞬かせ、「はい?」と小首を傾げた。
俺は俺で、再度ため息が零れるのを止められなかった。
白雪……ね。相変わらず、センスが無い。ま、曽良にしてはマシなほうか? 由来はよく分からないが。
「君のニックネーム」と、曽良は満面の笑みで告げる。
当然のごとく、カナエは状況がつかめていないようで「はあ」とはっきりとしない返事をした。それが普通の反応だ。会って早々、ニックネームをつけるのはこいつくらいだろう。それも、こんな緊迫した状況で、だ。って、そうだった。こんなにゆっくりしていていいのか?
「おい、曽良」ひとまず、白雪というニックネームが良いか悪いかはおいといて。「さっさと、ここから離れるんだろ」
すると、曽良は「そうだね」と落ち着いた声で答え、おもむろに立ち上がった。
「どうも、今夜は不気味だ」
そうつぶやいてこちらに向けた顔は、どこか不安げに見えた。
「不気味……?」と聞き返してはみるが、その意味はなんとなく分かっていた。俺も感じていたからだ。妙に簡単すぎる、この不気味な状況に。
曽良は腰に手をあてがうとあたりを見回した。
「銃声が三発だよ。それでも、誰も駆けつけてこないんだ。おかしいでしょう」
「確かに」
そういうリスクを分かっていて、三発もぶっぱなすお前もおかしいが。
「それに」と曽良は訝しそうに俺を見つめてきた。「どの監視カメラも作動してなかった」
その言葉に、俺はぎくりとした。眉をひそめ、「中もだ」と俺は洋館を見上げた。「全部、動いていなかった」
とにかく、カナエを連れ出さなきゃいけない――それに必死で、深く考えないようにしていた。だが、当然気づいてはいたんだ。あちこちで見当たった監視カメラがただの飾りと化していたことに。
『商業用』のクローンとして体のあちこちをいじられ、(有難いことに)『改良』された俺は、聴力も人並みはずれている……ようだ。意識すれば機械のほんの些細な作動音だって拾い取ることができる。おそらく、曽良もそうだろう。つまり、監視カメラが作動しているかどうかは音だけで分かる。そして……今夜のフィレンツェは、静かすぎた。そう、不気味なほどに。
こんなこと、今まで無かった。そもそも、その監視カメラは俺たちカインを警戒してのもの。『おつかい』のときは、それらを『殺す』ことが第一。停電させたり、ハッキングしたり、いろいろと手を尽くす。面倒くさい、と言って潜入してから対策を練る無謀なカインも居なくはないが……。
とにかく、今夜に限って、その監視カメラは全滅していたんだ。
曽良が何かしてくれたのか、とも考えたが……そうじゃないんだな。
「不気味なほどに、おいしい状況だよね」
曽良の珍しく低い声に、俺は何も答えられなかった。嫌な空気が流れ、沈黙が降り立つ。と、意外な人物が口をはさんできた。
「あ、あの」と、遠慮がちに割って入ってきたのは、他でもない、カナエだった。小鹿のように細い足をふんばって立ち上がり、俺たち二人を交互に見やる。「監視カメラは……たぶん、私を助けてくれた人の仕業だと思います」
「は?」
俺と曽良の声が重なった。助けてくれた人?
カナエは、「ほら、これ」と焦ったように左手首を見せてきた。いや、正しくは、そこにぶらさがる鎖のついた環を。
「私、地下で監禁されてたんです。手錠でつながれてて逃げられなくて……でも、その人が鎖を撃って、私を逃がしてくれたんです」
緊張しているのか、カナエは視線を泳がせて俺たちに必死にそう訴えた。
確かに、こんな華奢な女の子が一人で鉄の鎖を断ち切れるわけもない。監禁されていた彼女の周りに凶器になるようなものがあったわけは無いだろうし。誰かがカナエが逃げ出すのを手助けしたと考えるのが自然だ。まあ、彼女が『商業用』のクローンだったら話は違ってくるが……それはないだろう。おそらく彼女は、普通のクローン、もしくは『盗まれた』子供。単なる俺の勘だが。
「誰?」と隣で単刀直入に曽良は尋ねた。
すると、カナエは「え」と口ごもり、首を横に振った。
「名前を聞いてるわけじゃない。どんな格好だったか、とか、特徴だけでいい」
俺がそう補足しても、カナエは「暗かったから」とあいまいな返事をする。様子が変だな。そいつをかばってるのか? いや、なんで俺たちからかばう必要がある? カナエを逃がしてくれたなら、俺たちの味方だ。そこまで考えが回っていないだけだろうか。
「白雪は、その人が監視カメラを止めた、とそう言いたいの? 君を逃がすために?」
白雪……さっそく使うか、そのあだ名。真剣な口調に不釣合いで、調子が狂う。俺は曽良をジト目で見つめた。
一方、適応能力があるほうなのか、カナエは気にしていないようで「はい」とすかさず答えた。
「そう」と曽良はカナエに微笑んで、俺に視線をよこしてきた。「どう思う?」
どう思うって……丸投げか。俺は肩をすくめて、とりあえず分かることを答える。
「カナエを逃がして監視カメラまで止める。少なくとも、ただのスタッフじゃないだろう」
「そうだね」と、微笑するアヒル口は相変わらずだが、その目はいたって真剣だ。「おそらく、『王子さま』は警備員の誰か。ここに誰も駆けつけてこないのも、その人の采配のお陰……かなぁ」
「かもな」
って、もう予想がついてるんじゃないか。俺はつい苦笑していた。どうやら、曽良は俺に答えを求めたわけでなく、確認したかっただけのようだ。まどろっこしいことを……。
「これから、気をつけなきゃなぁ」
曽良はしばらく何やら考えてから、そう頭を捻ってつぶやいた。
「気をつける?」いきなり、何の話だ? 「なにを?」
すると、曽良は「ほら」と背後にちらりと一瞥をくれた。その視線に促されるように俺も背後を振り返る。そこには倒れている三体の身体。意識的に瞳孔を開けば暗がりでもはっきりと見える。地面に広がる、赤黒く染まった三つの水溜り。
庭に横たわる警備員の死体……そうか。俺はハッと目を見開いた。曽良の「気をつける」という意味を理解して、呆然とした。
カナエを助けたということは、『王子さま』は俺たちの味方。カナエに同情したのか、恋心でも抱いたのか、事情は分からないが、感謝すべき相手だ。
気をつける……それはつまり、そんな恩人を殺さないように気をつける、ということ。警備員を殺す日常を送っているからこそ、出てきた発想だろう。胸が押しつぶされそうになった。一体、こいつは今まで何人の――
「かっちゃん」
「!」
いきなり呼ばれ、俺はぎくりとして振り返った。目の前には、冷たい笑みを浮かべる曽良の顔があった。いや、もしかしたらいつも通りの微笑なのかもしれない。それが冷酷に見えるのは、俺の意識の問題。俺がそんなフィルタをかけているからかもしれない。
「白雪は俺が連れ出す。かっちゃんはごくフツーに帰って」
「は?」
いきなりの提案に俺はあっけにとられた。ごくフツーにって……このままおとなしく中に戻って、ただ帰宅しろ、てことか? 文句を言おうと口を開けたが、言葉を発する前に曽良の鋭い視線がそれを止めた。
「内部に裏切りものが居る。奴らがそれに気付かないわけはない。すぐにでも狩りは始まるよ」
「だからなんだ? 俺とどう関係がある?」
言うと、曽良は呆れたようにため息をつき、「自分の格好見てみなよ」と苦笑した。
俺の格好? 言われるままに身体を見下ろし、「あ」と呆けた声を漏らす。俺の柄じゃない、ピシッとしたワイシャツに黒いズボン、黒い革靴。そうだった。俺は今日、配膳人『田中はじめ』として潜入してるんだった。
「スタッフだって疑われる。当然、配膳人も。このまま、忽然と姿を消したら、怪しまれるよ」
一理ある。俺は口をゆがめて「そうだな」と観念したように答える。運がいいのか悪いのか、俺は正式にクビになってる。このまま真っ直ぐに帰っても不審がられることは無い。そこは、カヤに感謝しなきゃな。俺はそんなことを考え、鼻で笑った。
「じゃあ、カナエのことは頼む」と俺はカナエに一瞥をくれ、曽良にぎこちなく微笑んだ。「あとで『実家』で会おう。話があるんだ」
その瞬間、曽良の口元から笑みが消え去った。妙な雰囲気に「どうした?」と尋ねるが、曽良は何も答える様子もなく――いきなり、俺の頬に手を伸ばしてきた。そして親指でくいっと頬骨をなぞるようにこする。皮手袋のざらりとした感触がした。
「は……?」
今のは、なんだ? あっけにとられる俺をよそに、曽良は手を引っ込めその親指をじっと見つめた。その視線の先――親指の腹――には、赤いシミがついている。俺はハッとしてあわてて頬を自分の手の甲でこすった。
「血……」
思ったとおり、しっかりと乾きかけた血がついてきた。そうか……と、目の前で殺された若い警備員を思い出した。あのとき、頬に感じたあの感触。べっとりと気味の悪い液体がつく、不快な感覚。――あの人の額から飛び出した血だ。ずっとついてたのか。
顔をしかめてそれを見つめていると、
「やっぱり、かっちゃんに赤は似合わないね」
「!?」
確信に満ちた、恐ろしく落ち着いた声だった。俺は疑わしげに眉をひそめて曽良を見つめ、押し黙った。こんなときに、何を言い出してるんだ? 色の話? それも、血を見て? しかも、『やっぱり』? 一度も言われたこと無いぞ。もはや、こいつが考えていることがさっぱり分からない。昔から何考えているのか分からない奴だったが……それとはまた違う。今一番不気味なのは、目の前にいる幼馴染だと思った。
「『実家』の近くの公園。分かるよね? あそこで落ち合おう」
急にきりっと顔を引き締め、曽良は俺を睨みつけるように見てきた。
「公園?」
『実家』じゃないのか? いぶかしげに見つめる俺に、曽良はそれ以上何も言わず、カナエに振り返った。
「用意はいい?」
いきなり話しかけられ、カナエはびくっと身体を震わせ「はい?」と小首をかしげる。曽良は構わずカナエに歩み寄ると、有無を言わさずその身体を抱き上げる。あまりに勢いよく膝を持ち上げられ、カナエの足はばたつき、スカートが大胆にめくれあがる。俺は慌てて顔をそらした。
「あ、ごめん」と曽良のおどけた声が聞こえてくる。反省の色はまったく無さそうだ。「スカート、自分で抑えててくれる?」
「は、はい!」
「大丈夫、俺は落としたりしないから」
な……それを今更掘り返すのか! 俺は恥ずかしさと苛立ちで顔が熱くなったのを感じた。「あのな」と続く文句を考えてもいないのに言い出して、俺は振り返る。
と、振り返って目に飛びこんできた光景に、俺は言葉を失った。勢いも同時に失って、唖然とする。
曽良は抱きかかえているカナエの顔を食い入るようにじっと見つめていた。それもかなりの至近距離で。今にもキスでもしかねない雰囲気。なぜか俺が恥ずかしくなって、たじろいでしまった。耳まで赤くなっている自信がある。こんなときに、我ながら緊張感がないと呆れてしまうが……見詰め合う二人は絵になっていると思った。なるほど、この横抱きが『お姫様抱っこ』と呼ばれる所以が分かった気がした。って、何考えてんだ、俺は?
「あの?」と、カナエは目をぱちくりとさせて曽良に遠慮がちに尋ねる。「なんでしょう?」
「いや」曽良は珍しく難しい表情を浮かべ、小首を傾げた。「どっかで、会ったことある? なんだか、見覚えがある気がして仕方無いんだけど」
その言葉に、カナエよりも俺が反応してしまった。
「お前もか?」
空気を読んでいない、と砺波に非難されかねないタイミングだったかもしれない。だが、口をはさまずにはいられなかった。
曽良はカナエから目を離し、柳眉を寄せて俺を見つめてきた。
「かっちゃんも?」
しばらく俺たちは視線を交わし、そしてどちらが先か、カナエへ目を向けた。
二人の熱い眼差しに、カナエは落ち着かない様子で翠色の瞳をきょろきょろとさせている。
「私は……無いのですが」
妙なのは、その声には懐かしさを感じない、ということ。ただ、彼女の見た目には明らかに見覚えがある。茶色まじりの髪と太めの眉。雪のような白い肌。おっとりと優しげな灰色がかった翠の瞳。柔らかな輪郭の丸い顔。どこかで見たことがある。いや、というより……誰かの面影がある――そう思えてならなかった。