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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第四章
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最後のおつかい -2-

 フィレンツェの東側には伝統的なニホン庭園を思わせる小さな庭がある。洋館から伸びる石畳の小道は青々と茂る芝生の上を這い、錦鯉が揺らす池の水面を囲む。夜になると、その小道の両側に点在する灯篭が道しるべとなるかのように辺りをぼんやりと照らし、その様はあの世へといざなう火の玉のよう。

 フィレンツェの二階には、その庭を見下ろす石造りのバルコニーがある。眼下に広がる景色とは大きく異なり、まるでそこだけが古代ギリシャの神殿のような趣がある。柱列には繊細なレリーフが施され、一定の間隔を置いて鉢に植えられた薔薇が置いてあった。

 和幸はしゃがんで柱列の間から下を覗き込む。ぱちりと一つ瞬きをして、大きく目を見開くと、その漆黒の瞳はカメラのレンズのように瞳孔をぐんと開く。

 頼りない灯篭の光だけが照らす庭を、それでも和幸の瞳はしっかりと細部まで脳に映像として送り込む。これもまた、商業用に『創られた』クローンである利点。商品、あるいは実験台として、体の隅々まで改良され、さらにナノマシンというテクノロジーの力を借りて得た、特異な能力。それは、人体の完全なる覚醒。秘められた人間の可能性を最大限に引き出した結果。


「一人……二人、三人」と、和幸は庭をうろつく人影を数える。さっき蹴り飛ばした男と同じような格好の男たちだ。唯一違うのは、彼らが装着している眼鏡――いや、小さな双眼鏡のようなもの。それをぶらさげる特殊なバンド――上から見るとT字型になっている――を頭につけ、辺りを注意深く見回している。


暗視装置(ナイトビジョン)?」和幸は馬鹿にしたように鼻で笑った。「そこまでするなら、庭を明るくすりゃいいのに」


 暗視装置は、暗がりでも視界を確実に得るためのもの。こんなにぼんやりとした照明では、たとえ夜目が利いたとしても、裸眼で庭の隅々まで行き渡るほどのはっきりとした視界を確保するのは不可能だ。和幸のように特別(・・)な体を持っていない限り。身体に眠る潜在能力を最大限にまで引き出せる脳と、そのリスクをカバーするために身体に巣食う数多ものナノマシン。それこそ、彼が十二年前、闇オークションで『成功作』として売られようとした所以である。


「カナエ」低い声で和幸は言って振り返る。「下準備(・・・)するから、ちょっと待っててくれ」

 

 和幸の背後で正座をして控えていた鼎は、不安げな表情で頷いた。「お気をつけて」と祈るように手を組み合わせてつぶやく。

 和幸は安心させるように微笑んで、すっくと立ち上がる。顔を庭のほうに戻し、バルコニーの手すりに片足を乗せた。冷たい風が彼の前髪を撫で、三日月の淡い光が冷酷にも思える彼の鋭い眼差しに映りこむ。

 彼はすっと息を吸い込み肺を膨らませ、首元に輝く十字架に手をやった。撫でるようにそれをさすると、短く息を吐き出してから囁くように告げる。


「ヤハウェのご加護を」


 伝言を伝えるだけのような、感情が感じられない事務的な口調だった。

 手すりに乗せていた足に力を入れ、軽い身のこなしでそのまま手すりを飛び越える。ここは二階だということを忘れているかのような、なんの躊躇もない動きに、鼎は「あ」と声を漏らした。慌てて身体を前に倒し、四つんばいの姿勢で手すりの柱の間から下を覗き込む。すると――丁度、彼が両足でしっかりと着地をしたところだった。無事に降り立ったのを確認したのも束の間、鼎はぎょっと目をむいた。彼のすぐ目の前に、さっきの大男とよく似た格好の警備員が立っていたのだ。


***


「なん……だ」と、ガードマンの一人は間抜けな声を漏らす。暗視装置の向こうで、驚愕に目を見開いているに違いない。いきなり頭上から人間が落ちてきたんだ。そりゃ、驚くよな。


「なんでしょう?」


 言って、俺は姿勢を正し、両手を前に構えた。すると、やっと仕事を思い出したのか、銃を取ろうとガードマンは手を腰に回した。それを合図に、俺は男の暗視装置目掛けて、右足を高々と蹴り上げる。鈍い音とともに、双眼鏡のような形をしたゴーグルが宙を飛び――その音に、離れたところで見張りをしていたガードマンも、こちらの異変に気付いて振り返った。

 構わず、戻した右足を軸にして、今度は左足で男の顎を砕く勢いで蹴りを繰り出した。弓のようにしなった左足は見事に男の顎を弾き飛ばし、男はのけぞるような形で後ろに倒れていく。と、男が勢いよく引き抜いた銃がその手を離れ、弧を描いて地面に落ちた。それは石畳の小道を滑って俺の足元で止まる。

 すぐにでも次の行動にでるつもりが、久々に見たその鉄の塊に気を取られ、俺は一瞬硬直してしまった。ざわっと胸騒ぎがして、嫌な……思い出したくもない光景が脳裏をよぎった。それは、血だらけで横たわる瀕死の女。――その隙に、後頭部に何か固いものがつきつけられる。すぐに分かった。それは足元に転がっている凶器と同じものだ、と。


「動くな!」とどすのきいた声があたりに響く。おそらく、さっき気付いたガードマンだろう。


 ふと、背後で近づいてくる足音がした。三人目の奴か。やけに遅かったな。とろい……さては、新人か? だと、助かるんだけど。

 俺は苦笑してとりあえず両手を挙げた。


「子供……」俺に銃を突きつけているガードマンは唸るようにそう言って、緊張と確信に満ちた声を漏らす。「カインか」


 俺は鼻で笑って「正解」と答えた。それと重なるように「先輩!」と、はきはきとした声がすぐ後ろから聞こえてくる。だいぶ若い声。やっぱ、新人だ。


「お前は無線で連絡を――」


 応援を呼ぶ? それは困る。

 『先輩』が言い終わらぬうちに――俺はすかさず身を翻して男の銃を持つ手首を掴み、その腕を抱え込むように懐に運ぶ。「な……!?」と呆けたおっさんの声が肩のあたりで聞こえた。俺は別の手で拳をつくると、振り返るように上半身を半回転させ、勢いよくその鼻先めがけてそれをぶち当てる。「がっ!」とガードマンは苦しげな声を漏らした。

 力が抜けたその手から銃をかすめとるのは容易だった。

 奪い取った銃を、すばやく、『三人目』に向けて構える。

 対峙した男は――暗視装置のせいで目元は見えないが、それでも分かる――思った通り、随分若いようだった(といっても、もちろん、俺よりも年上だろうが)。緊張しているようで、呼吸とともに肩が上下に揺れている。それでも、俺に銃口を向けるその姿勢は、まるでお手本のように様になっていた。両手で固く握り締められた銃はぴたりと固定されて微塵も動かない。地面を踏みしめる両足は肩幅に開かれ、脇はきゅっと締められている。美しい――そう賞してもいいと思った。

 それに比べて……俺はぎりっと奥歯をこするように強く噛み締める。

 若い警備員に向けた銃口は、小刻みに震えていた。いや、正しくは、銃を構える俺の手が震えているんだ。


「くそ……」と小さく悪態をつく。


 まるで痙攣でもしているみたいだ。痺れまで感じる。銃を持つ右手が……怯えている。言うことを利かない。震えるだけで、俺の指示通りには動かない。人差し指が引き金に近づこうともしない。

 理由は分かってる。俺は眉根を寄せ、頭の中に蘇らんとする光景を必死に消し去ろうとしていた。脳裏にやきついて離れない、悪夢のような光景――カヤを撃ったあの夜の惨劇。

 だめだ。俺は……撃てない。 

 気付いたときには、麻痺したように言うことを利かなくなった右手から、銃がこぼれおちていた。

 銃が足元に落ちる音と、「え」と戸惑うガードマンの声が耳に入る。

 俺は力なくだらんと腕を垂らし、ただ呆然と、向けられている銃口を見つめた。


――銃もなくて人も殺せない。そんな奴が、コッチで何の役に立つのさ?


 いつかの、曽良の声が頭に響いた。

 考えてもいないことだった。俺に戻る場所はあるのかどうか。カインに戻れるのかどうか。銃を持てない俺に、何が出来る? 裏の世界に戻ったところで、居場所は残されているんだろうか。もし……日陰にさえ戻れないとしたら、この世界に俺の生きる場所は――

 自分でも、何を考えているのか分からなかった。いや、今、なぜ自分がここに立っているかさえも分からなくなっていた。ただ、心は凪のように穏やかで、不気味なほどに落ち着いていた。


「なんで」と引き金に置いた指に力をいれ、若い警備員は苦しげな声を漏らす。「なんで、君みたいな子供が……」


 なんてくだらない質問だ。俺はため息混じりに苦笑した。――俺が聞きたいよ。

 警備員はぎりっと唇を噛み締め、「せめて……」とつぶやいた。男がそのあとなんと言ったのかは聞こえなかった。鼓膜がはりさけんばかりの、破裂音にかき消されたのだ。それが銃声だ、と理解したときには、視界を赤いしぶきが舞っていた。


*   *   *


 何度、せめておじさまに先に家に帰ることを伝えたい、と訴えたことか。ユリィはこれっぽっちも耳を貸してくれなかった。問答無用でぐいぐいと腕を引っ張られ、とうとうフィレンツェを出てきてしまった。

 もう諦めるしかない。あとでおじさまに電話でもいれよう。私は大きくため息をついた。

 フィレンツェの敷地から出るなり、ユリィは道路わきで慣れた様子で手を挙げた。すると、待ってました、と言わんばかりのタイミングで黒いタクシーが滑るように目の前に入ってくる。ぴたりと私の前で停車すると、黒いドアが自動で開いた。


「乗って」


 ユリィは喜怒哀楽のどれともつかない無機質な声で言う。

 私はタクシーの中をじっと見つめ、立ち尽くした。目の端に、訝しげな表情でこちらを見ている運転手さんの姿が映った。乗らないのか? と言いたげだ。

 視線を落とすと、今度は足元でラピスラズリが心配そうな瞳でこちらを見ている。私はつい苦笑していた。


「乗って、パンドラ」きつめにユリィはそう言って、タクシーに押し込むように私の背中に手を当てた。「君の恋人と約束したんだ」


 その言葉が胸をちくりと突き刺す。そう、ユリィがここまで強情に私を家に帰そうとしている理由。それはただ一つ。和幸くんとの約束だ。すぐに私を家に連れて帰ってくれ――和幸くんはユリィにそう頼んだらしい。

 和幸くん……彼の笑顔が頭に浮かぶだけで、寂しさと不安に心が押しつぶされそうになる。私は後ろを振り返り、さっきまで自分がいた洋館を見つめた。和幸くんと別れた洋館。


――これでお別れだ。


 また、彼の不吉な言葉が頭に響いた。胸が苦しい。怖い。

 彼は丸腰であの女の人を『迎え』に行ってしまった。ううん、行かせてしまった。止められなかった。もし……もし、彼に何かあったら――考えたくない。でも、考えずにはいられない。不安で仕方がない。嫌な予感がするの。怖いの。

 私はぎゅっと目をつぶって胸元に手を置いた。


「パンドラ」そんな私に、今度は心配そうな声でユリィが話しかけてくる。さっきまで圧力をかけていた手は優しく私の背中をさすった。「今、君が彼に出来ることは……大人しく家に帰ること」


 ハッとしてユリィに振り返ると、彼は憐れむような笑みを浮かべていた。


「彼はそれを望んでいた」

「……」

「だから、オレは君を今すぐ家に送り届ける。彼のために」


 私は何も言えなくなってしまった。そんな風に言われたら……もう、何も言い返せない。

 力なく頷いて、促されるままタクシーに乗り込む。白いシーツの座席に腰を下ろすと、その膝にラピスラズリがすかさず飛び乗ってきた。ゴロゴロと喉を鳴らして私を見つめてくる。元気付けてくれてる――それが伝わってきた。運転手さんがいる前ではしゃべれないものね。私は「ありがと」と囁くように言ってその背を撫でた。

 その間も、不安が全身に絡み付いて私を逃そうとしない。

 大丈夫……だよね、和幸くん? 大丈夫だよね?

 目を固くつぶり、口癖のように彼が言ってくれたその言葉を思い出そうとする。――『大丈夫だ』。いつもいつもそう言って私を安心させてくれた彼の優しい声。それが……聞こえない。


「和幸くん……」


 迎えに来て。この不安から私を連れ出して。

 あっさりと、私の覚悟は崩れ落ちていた。世界がどうとか、運命とか、使命とか……そんなことは頭から消え去っていた。ううん、どうでもいい、と思っている自分がいた。ただ、私は……彼を失いたくない。不安に全てが飲み込まれる中、その気持ちだけが、はっきりと心の中に残っていた。

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