最後のおつかい -1-
「いや! 離して」
少女がたどり着いたのは、廊下の終わり――逃げ場のない行き止まり。壁を背にして、彼女は張り裂けんばかりの甲高い声で叫んだ。縄跳びのようにぶんぶんと腕を回すが、その華奢な手首を掴んでいる手は離れる気配はない。手錠のごとくしっかりと締め付けているゴツゴツとした大きな手。それをたどると、広くたくましい肩に行き着く。黒い背広に身を包み、感情を隠すかのようにサングラスで瞳を隠した男。このフィレンツェの警備を担当するガードマンの一人だ。
「大人しくしろ」割れた顎を大きく上下させ、ガードマンはそう怒鳴りつける。「来るんだ!」
自分より背が二倍はあるかという男から怒号をあびせられ、少女は震えながら身をすくめて目をつぶった。
「どうして、来ない?」と、少女は男に聞こえないような小さく低い声でつぶやく。そして、祈るように固く目をつぶると、かすれた声を漏らした。「カイン……」
そのときだった。
「伏せろ!」
どこかで聞いたことのある声が少女の耳に飛び込んできた。ハッとして目を見開き、声のしたほう――ガードマンの背後に目をやる。そして、息を呑んだ。勢いよく走ってくる人影があったのだ。どこかで見覚えのあるその人影は、あっという間にガードマンのすぐ背後まで距離を詰めると、力強く地面を蹴った。そして飛び上がった少年の右足が、ガードマンの後頭部目掛けて繰り出される。少女の目には、すべての動きがコマ送りのように一つ一つゆっくりと映る。新しいのか、まったく磨り減っていないその革靴の底まではっきりと確認できた。
すべては一瞬の出来事。少女は瞬き一つしていなかった。
異様な気配に慌てたように振り返ったガードマンの顔面に、少年の足がめり込んだ。鈍い音があたりに響いたかと思うと、男の手が少女の手首から離れる。
「!」
その瞬間、少女は今更になって、さっき少年が言い放った言葉を理解した。――伏せろ。
咄嗟にその場にしゃがみこみ、頭を抱えた。
すると、頭上で何かが衝突する音がして、少女はびくっと肩を震わせる。見上げずとも何が起こったか分かる。勢いのついた少年の足が、あのまま男の顔を壁にぶち当てたのだ。
「が……」
喉に何かつまったかのようなうめき声が少女の頭上から降ってきた。そしてズリズリと擦れる音。自分を濃い影が覆っていくのを感じて、少女はぎょっとして顔を上げた。壁にほお擦りするようなかたちで、意識を失った男の巨体が自分に崩れ落ちてこようとしている。少女は慌てて横に飛びのいた。と、同時に、全身から力が抜け切った男の体は、巨大なマリオネットのように床に崩れ落ちる。――ついさっきまで、少女がしゃがみこんでいた場所に。
「あ……」と怯えた声を漏らし、少女は硬直する。さっきまで自分を追い詰めていた男は、うつ伏せに倒れ、顔だけ壁に頬を寄せたままこちらに向けている。骨が折れたのか、鼻は『く』の字型に曲がり、おびただしい血が流れている。歯がかけ、血を涎とともに垂れ流している口元は――顎がはずれたまま失神したのだろうか――不自然なほどに大きく開かれている。
まさか、死んでいるのではないか。少女の心にそんな不安さえよぎった。
「大丈夫か?」
不意に、優しげな声が横から流れてきた。この状況には似つかわしくない、落ち着き払った穏やかな声色だ。おずおずと振り返り、少女はそこに佇む少年と視線を交わらせた。さらりとした黒い短髪。目立った特徴はないものの、整った顔立ち。首元には銀色に輝く十字架。何の変哲もない、いたって普通の少年に見えた。いきなり、大男の顔に飛び蹴りを食らわせて失神させた事実を除けば――。
少女は眉をひそめて少年を見つめ、乾いた唇を小さく動かす。
「あなた、誰なの?」
少女の薄緑色の瞳には警戒の色が浮かんでいた。茶色い太い眉の間には、妖しくも美しい顔立ちを台無しにするような深い皺。
少年は困ったような表情を浮かべて頭をかき、おもむろにしゃがみこんだ。少女と目線の高さを合わせるように。
「俺は、和幸」
少年はさらりとそう名乗った。少女はぱちくりと目を瞬かせ、小首を傾げる。
「かずゆき……」
抑揚のない声で少女がその名をつぶやくと、彼はどこか照れたような苦笑を浮かべて頷く。そして――そっと少女に右手を差し伸べた。
「君を迎えに来たんだ」
「迎え……?」
少女は薄紫の血管が浮かぶ真っ白な瞼をめいっぱい開いた。傷だらけの白い腕がそっと首元に伸び、深い海を思わせる青いペンダントに触れる。
「俺は……」
急に和幸は表情を曇らせ、視線を落とした。緊張でもしているかのように、深く息を吸う。少女の翠石のような瞳が食い入るように見つめる中、彼は苦しげな表情で「俺は……」ともう一度つぶやく。独り言に近い弱々しい声だった。
ほんのわずかな沈黙を置き、彼はおもむろに顔を上げた。そしてまっすぐに少女の瞳を見据え、しっかりとした口調で告げる。
「俺は、カインだ」
***
「カイン?」
女は目を見開いて、そう聞き返してきた。俺は何も言わずに微笑んだ。
初めてだ。カインだと名乗ることに、ここまで緊張したのは。今までは覚悟なんていらなかった。俺はいつだってカインだった。カイン以外の生き方なんて考えたこと無かったから、当たり前のように『無垢な殺し屋』を名乗っていたんだ。それを躊躇ったことも、嫌だと思ったことも一度もなかった。それは、親父がくれた使命。禁忌から生まれた――いや、『創られた』命に与えてくれた存在理由。
それでよかった。満足していた。俺の人生に、「カインだ」と名乗る以外の選択肢なんてなかったから。疑問を持つことも知らなかったんだ。あいつと……カヤと会うまでは。
「本当に?」
女の震えた声が俺を現実に引き戻した。我に返ったときには、潤んだ女の緑色の瞳が目の前に迫っていた。「え」と戸惑いの声を漏らす俺に、彼女はさらにぐいっと体を前のめりにして、顔を近づけてくる。
「本当に、あなたがカインなの!? 『無垢な殺し屋』!?」
気のせいかもしれないが……歓喜の色が顔いっぱいに広がっているように見えた。青白かった頬に赤みが帯びて、健康的な女性の色艶に近づいていた。
「ああ」と戸惑いながらも頷くと、彼女はいきなり俺に抱きついてきた。
「!?」
こんな展開を微塵も予期していなかった俺は、押し倒されるような形になってバランスを崩してしりもちをつく。「おい!?」と無意識に上擦った声が飛び出した。が、それでも俺の首をしめるようにからみつく彼女の腕はゆるむこともなく、逆に息苦しいほどにきつくなった。
「ちょ……え?」
十三のころからいろんな奴を『迎え』に行ってきたが、こんなことは初めてだ。ど……どうすりゃいいのか、分からない。いや、こんな美女に抱きつかれるって……喜ぶべきなのかもしれないが、状況を考えればそんな暢気なことを考えている場合じゃない。それに、ついさっきカヤと(正式に)別れたばっかりだ。鼻の下を伸ばしているわけにはいかないよな。
「おい……」と、俺の肩に顔をうずめている女に声をかける。「早くここから、逃げないと」
言って、女を引き離そうとその肩に手を置いた、そのときだった。
「ずっと、待ってたんです」
俺の右首筋で囁かれたそれは、今にも消え去りそうなか細い声だった。
「ずっとずっと……カインに会えるのを待っていたんです」
俺の両手は、しっかりと感じ取っていた。彼女のひんやりと冷たい体温。滑るような滑らかな手触り。そして……その骨ばった華奢な肩が小刻みに震えていることを。
「やっと……会えた」それは間違いなく、涙声だった。彼女は俺の首をさらにきつく締めるように強く抱きしめてきた。まるで、必死にしがみつくかのように。「嬉しい」
「……」
ゆっくりしている場合じゃないのは分かってる。すぐにでもこの女を抱きかかえて、ここから逃げ出さなきゃいけない。
俺はちらりと壁に頬ずりしてノビている大男に目をやった。幸運にも、まだ一人にしか見つかってないみたいだが、他にもこの女を捜している奴らはこの洋館中にうじゃうじゃといるはずだ。もしかしたら、あの男は、すでに他の連中にこの女をここで見つけたことを伝えていたかもしれない。
だから、早くこの女を連れて立ち去らなきゃいけない。――そう頭では分かってはいても、心は納得してはくれなかった。
気付けば、俺は彼女の背中に手を回して、落ち着かせるようにしっかりと抱きしめていた。指に触れる茶色い髪は、恐ろしいほどに細くて、さすっただけでもちぎれそうに思えた。
「もう大丈夫だ」
囁くようにそう告げると、女は「はい」とかろうじて聞こえるくらいの声で答えた。
「……」
蒼いドレスの上からその背中をさすり、俺は考えていた。なぜ、彼女は俺たちカインのことを知っていたのだろうか、と。カインだと名乗って、ここまで喜ばれるなんて……初めてのことだ。たとえ売られた子供だとしても、カインの真の姿――売られた子供たちを取り返していること――を知っているなんて珍しい。カインについて聞いたことがあっても、都市伝説として語られるカインしか知らないはずだ。つまり、裏世界で殺し屋として育てられた少年少女、て知識くらいしか持っていないはずなんだ。だから、いつもカインだと名乗った後に、その誤解を解いていた。そして伝えていたんだ。カインは君の味方だ、て。だが……今回はその必要はなかった。それは、奇妙なことだった。
俺はちらりと横目で彼女を見つめた(といっても、この角度からじゃ後頭部しか見えないが)。もう平静を取り戻したのか、震えている様子はない。
初めて会ったときに感じた、どこか懐かしく親しみのあるオーラ。それは相変わらずで、こうして一緒にいると、それだけで心地よくて安心する。初めて会った気がしない。ずっと、長い間、傍にいたような……そんな気すらしていた。
「君、名前はある?」
不意に、俺は彼女の耳元にそう問いかけた。彼女の頭がぴくりと動き、ゆっくりと俺から体を離した。俺の首の周りに巻きついていた、白蛇のような細い腕がほどかれていく。
目の前に現れた、雪のように白い顔。そこには、さきほどまでの恐怖の色はもうなかった。彼女は俺を翠色に輝く瞳で見据え、薄い紅が塗られた口元に微笑を浮かべた。
「鼎といいます」
その笑顔には、やはり見覚えがある気がしてならなかった。