幸せの定義
私、一体何をしたんだろう。どうして、こんなことになっちゃったの? 私はただ、彼を巻き込みたくなかっただけ。これ以上、苦しめたくなかっただけ。幸せになってほしかっただけなのに。
喉が痛い。締め付けられる。息が……出来ない。
「和幸くん……」
祈るように目をつぶってその名を呼んだ。戻ってきてくれるんじゃないか……そんな一抹の期待を胸に抱いて。
すると、それに答えるように部屋の中に光が差し込んできた。私の心のように歪んでしまった扉がゆっくりと開いていく。
「和幸くん?」
麻痺したように動かなかった体がぴくりと動き、私はふらりと足を一歩前に出した。
想いが届いた? 考え直してくれた? そのとき私の体を動かしていたのは、夢見る子供のような幼稚な期待だった。
開いた扉の向こうで、光を背にして立っている人影。それを彼だと確認する時間さえもったいなく思えて、私はかまわず駆け寄って抱きついていた。
ぎゅっと彼の背中をつかんで、目をつぶる。
でも、その体に触れて……その胸に頬を寄せて、すぐに違和感に気付いた。安心感がない。心が温まらない。それに――ゆっくりと目を開けば、華奢にも思えるほど白く細い腕が視界に入ってきた。その先――右手の平は赤く染まっていて、キラキラと光る欠片が見える。そして足元に、ふわりと柔らかい羽毛が触れたような感触がした。ハッとして視線を落とすと、まるで人間のような哀しげな瞳をこちらに向けている猫。
まだ夢を見ていたかった。扉を開けてくれたのは和幸くんで、彼が私を迎えに来てくれた。そんな自分勝手で有り得るはずもない空想にもう少しだけでも浸っていたかった。でも、瞼を開けば、必ず現実が待っている。そして……こうして現実と目が合ってしまった以上、もう逃げることは出来ない。
「和幸くん!」と叫ぶはずだった唇からは、落胆の声が漏れる。「ユリィ……」
おもむろに私は彼から体を離し、「ごめんなさい」と弱々しい声で謝った。
ユリィは特に反応する様子もなく、相変わらずぼんやりとした眼差しで私を見つめている。そして、薄い唇がわずかに動き、ねぼけたような声で彼は告げた。
「帰るよ、パンドラ」
「え?」
帰る? いきなり言われて不意に後退さった。足元で慌ててラピスラズリが踏まれないように避けたのを感じた。
「さっき、君の恋人に頼まれたんだ」言って、ユリィは私の右手首をとる。「すぐに君を家に連れ帰ってくれ、て。これ以上彼に嘘つくのは嫌だから、引きずってでも連れ帰る」
私の恋人って……和幸くん!?
「彼に会ったの?」開けたばかりの間合いを詰めて、私はユリィに迫った。「他に、なにか……言ってた?」
私の問いに、珍しくユリィは渋い表情を浮かべ、不機嫌そうに口をすぼめた。
「君のことを頼む、て。幸せにしてやってくれ、て」
「!」
ずきんっと胸が痛んで、私は息を呑んだ。どうして、そんなことをユリィに? その言葉はまるで……
――約束通り、二度とお前の前には現れない。これでお別れだ。
お別れ。そうだ、彼はそう言っていた。これでお別れ。
本気なんだ。彼は、本当の本当に……
馬鹿だ、私。これを望んでいたはずなのに、彼を遠ざけたのは私自身なのに……後悔と不安で胸が押しつぶされそう。飲み込まれて我を失いそうになる。自然と動いた手は、胸元に伸びて――はたりと動きを止める。そこには無かった。彼への想いが暴走しそうになるたびに、私を抑えてくれていた、あのネックレスが。和幸くんを守る――彼の家族と交わした誓いが詰まった十字架。それがいつも私を止めてくれた。彼に泣きつきたくなる衝動を、本当の気持ちを伝えたい衝動を、全部抑えてくれていた。
私と一緒に居ても、待っているのはつらい未来だけ。だから……別れることが、彼を守る唯一の手段だと思った。彼を本当の意味で幸せにできる方法だと思ったんだ。
でも……
「嫌……」私を止めていた釘が消えた胸元で拳を握り締め、私はそう漏らしていた。「嫌」
「パンドラさま?」
心配そうな声が足元から聞こえた。天使の声だ。
私はユリィを睨みつけるように見上げる。
「お願い、ユリィ! 和幸くんを止めて!」
「は?」
「彼は裏の世界に戻ろうとしてる! せっかく、表に出てきたのに! 全部、元通りになっちゃう。止めなきゃ……今、止めなきゃ、彼は二度と戻ってこない」
表だとか裏だとか、ユリィに分かるはずも無いのに、そんなこと考えている余裕さえなかった。夢中になって、私はつかみかかるように彼の胸にしがみつく。
「彼は武器もなにも持ってないの! こっちに来るために彼は銃を手放したの」
「……」
彼は丸腰であの人を『迎え』に行った――自分で言いながら、それに気付いた。もしかしたら、彼との別れ際に感じた嫌な予感は……
これでお別れ――彼の言葉が、不吉な含みを持って私の頭の中で響いた。
「お願い、ユリィ!」胸騒ぎを消し去るように、必死に大声を出してユリィに懇願する。「彼を止めて!」
情けなく裏返った声はあたりに響き、そして虚しい沈黙があとに続いた。彼のワイシャツをぎゅっと掴み、私は彼の返事を待った。
しばらくユリィは私を見つめ、不意にため息をつく。そして、
「嫌だ」
「!」
思わぬ返事に――彼が快諾するとふんでいたところがあったのだろう――私は言葉が出なかった。愕然としている私を見つめるユリィの眼差しは、責めるような厳しいそれに変わっていた。
「君は勝手に彼の選択肢を狭めて押し付けたんだ。君に彼の選択を邪魔する資格はないよ」
ユリィが一体何を言い出したのか、皆目見当が付かなかった。そんなことより、早く彼を止めなきゃ手遅れになる――焦りが募るばかりで、ユリィの言葉を注意深く考察しようという気にもならなかった。
そんな私を落ち着かせるかのように、ユリィは両手を私の肩にがっしりと置き、射るような鋭い視線を向けてくる。
「君が彼に真実を話していれば、彼にはもっと他にも選択肢があったはずなんだ」
「!」
「君は彼が幸せになる可能性を取り上げた」
相変わらず、ユリィの言っていることは理解しがたい。でも、一つだけ、明らかにおかしいことを言っている。幸せを、取り上げた!? 私は咄嗟にユリィの胸から手を離し、首を横に振る。
「何を言ってるの!? 私は……」
「彼の幸せは、君が幸せになること」
「え……」
「彼、そう言っていたよ」
時が止まったかのように、私は硬直した。
彼の幸せは……私が幸せになること? それがどういう意味なのか、しばらく理解できなかった。
ユリィの表情からは、先ほどまでの責めるような色は消え、同情と憐れみが浮かんでいる。
「違う」と、私はやっとのことで声をしぼりだす。眉をひそめて首を横に振り、自分に言い聞かせるようにつぶやく。「彼の幸せは……素敵な女性と結婚して、子供をつくって……」
「彼がそう言ったの?」
呆れたような口調で投げかけられたユリィの問いが私の言葉を遮った。考える必要もない。答えは、否、だ。彼から聞いたわけではない。私が……勝手にそう思っていただけ。ううん、もっと正しく言えば――
「言ってないでしょう。それは、君が彼に押し付けようとした幸せだ」
「……」
まるで私の心を読んだかのように、ユリィはずばりと指摘した。
「他人の幸せを勝手に決め付けるのは……『裁き』だと言って世界を滅ぼそうとする奴らとなんら変わりは無いよ、パンドラ」