行かないで
助けて……て、どういうこと? この人、一体誰? 体中のアザはなに? それに……と、私はドアにもたれかかっている女性の左手首に目をやる。そこには銀色に光る輪がかけられていた。てっきり、ブレスレットかと思っていたけど、違う。しっかりと目を凝らせばすぐに分かる。途中で断ち切られたような鎖が垂れるそれは――手錠。
今にも倒れそうなほどフラついてるし、恐怖に怯えた表情は尋常じゃない。事情はさっぱり分からないけど……助けを求めているのは確かだ。放ってはおけない。私はたまらなくなって、彼女に駆け寄ろうと一歩足を踏み出した。
そのときだった。
「まさか」と、隣から震えた声が聞こえて私は動きを止めた。振り返れば、和幸くんが深刻な表情を浮かべている。緊張しているのだろうか、額には汗がにじんでいた。
「和幸くん?」
心配になってそう声をかけるが、彼の耳には届いていないらしい。和幸くんは私に見向きもせずに、じりじりと女性に歩み寄りながら尋ねる。
「お前、地下から逃げてきたのか?」
その瞬間、女性は瞼をこれでもかというくらい開き、薄い緑色の瞳を小刻みに震わせた。「いや」という消え入りそうな声を漏らして、扉に背中をなすりつけながら後退さる。白い肌に青みが帯びて、怯えているのは一目瞭然だった。それも、その恐怖が宿った瞳は和幸くんに向けられている。
地下……て、何のことだろう。
「そうなんだな」
その口調は質問というよりは確認に近かった。女性の反応で和幸くんは何かを確信したようだ。彼女を驚かさないように、との考慮なのか、彼は月面でも歩くかのようにゆっくりと女性に近寄る。
「オークションから逃げてきたんだな」
オークション!? 突然、彼の口から飛び出したその単語に、私はぎょっとして目をむいた。すぐさま彼の背中から彼女へと視線を移す。
しなやかな肢体に広がる真新しいアザ。細い手首をしめつけている銀色の手錠。今にも悲鳴をあげそうなほど恐怖にゆがんだ表情。そして……元カインである和幸くんの、この反応。
もし、私の予想があっているとしたら――嫌な予感が全身をかけめぐった。よからぬことが起こる。恐ろしい未来が近づいてくる。そんな足音が聞こえてくるようだった。
「嫌」と、女性は首を横に振って後ずさりを続ける。和幸くんはその様子に、近寄る足を止めて落ち着かせるように両手の平を見せた。
「大丈夫だ。俺は……」
「あなたも奴らの仲間!」
あまりの恐怖に聞く耳をもっていないようだ。女性はひどくパニックを起こしている。
「違う!」すかさず、和幸くんは否定の声をあげた。「俺は……」
「来ないで!」
甲高い声が辺りに響き、彼女はすばやく身を翻して部屋から出て行った。押さえていた彼女がいなくなり、変形したドアがゆっくりと閉まっていく。
「待て!」和幸くんは条件反射のように叫び、走り出そうとした。
でも、彼は立ち止まった。ううん。立ち止まらざるを得なかった。彼はおもむろに振り返り、
「カヤ?」
私は思わず、彼の腕を掴んでいた。
静まり返った部屋。ドア枠にはまらずに隙間を残して閉じた扉から光が零れている。ゆっくりと顔を上げても、そのせいで――逆光で――彼の表情は伺えなかった。それでも想像は出来る。きっと彼はいぶかしげな表情を浮かべているに違いない。
私はぎゅっと彼の腕を掴む手に力をいれ、ぽつりとこぼす。
「行かないで」
ぴくりと彼の体が動いたのを感じた。
「行かないでって……」戸惑っているのがはっきりと声色から分かる。「さっきと言ってることが違うだろ」
反論の余地もない。その通りだ。ついさっき、「もう会いたくない」と言ったばかり。その舌の根も乾かぬうちに、今度は「行かないで」。和幸くんが困惑するのも最もだ。分かってる。矛盾してるよね。そんなの、分かってる! でも、矛盾して当然なんだよ。さっき言ったことは、全部嘘だもの。真実を――本当の気持ちを伝えても、彼を苦しめるだけだから。私たちに未来は無いって分かってて、「愛してる」なんて伝えられない。世界か私か……彼にそんな選択肢を与えるわけにはいかない。――でも違うの。そういうことじゃない。今はそういう問題じゃないの。
彼を引き止めたのは、別の理由。
「いいか、カヤ」和幸くんはそんな焦りと苛立ちが混じった声を出した。「この建物の地下で闇オークションが行われてる。放っとけばあの女は今夜、競りにかけられる! もし、俺が『迎え』に行かなければ……」
「和幸くんはもうカインじゃない!」
暗がりに目が慣れたらしく、和幸くんがハッとしたのが分かった。
「『迎え』に行くのはカインの役目。和幸くんじゃない」
頭に何度も繰り返されているのは、曽良くんの言葉だった。
――かっちゃんを……俺たちの大事な兄弟を、よろしくね。
誓ったんだ。私はこの人を新しい世界で守る、て。たとえ、もう恋人でないとしても、みすみす彼を日陰に戻したりはしない。
だめなの。彼はここに居なきゃだめ。彼は日向の世界で幸せな家庭を築く。そのために私はこの世界を残すの。
「曽良くんも言ってたじゃない。中途半端が一番良くない、て。一般人らしく生きなきゃだめだ、て。あとは、カインの皆に任せるべきだよ!」
「……」
「だから、行っちゃダメ」すがるような声でそう言って、彼の腕をくいっと引っ張る。「行かないで」
願うようにうつむいて、私は固く目を閉じた。
喉が痛いほどに乾いている。緊張、不安、恐怖。全てが一気に襲い掛かってくる。あの女性への罪悪感と一緒に。
彼を引き止めるということは、助けを求めてきた彼女を見捨てるということ。あの様子だと「奴ら」に追いかけられているに違いない。どこかに繋がれていた手錠をどうにか断ち切って、必死に逃げてきたんだ。以前、和幸くんは話していたもの。闇オークションで売られたクローンはろくな目にあわない、て。もちろん、彼女がクローンかどうかは分からないけど……。たとえクローンで無いとしても同じだろう。もし、また捕まってオークションで売られたら、彼女に待っているのは恐ろしい未来だけ。
でも、もしかしたら、誰か別のカインが『迎え』に来るかもしれない。カインを辞めた和幸くんが今、危険を冒して行動を起こすことも無い。――そんな調子のいいことを考えて、正当化しようとしていた。他人を見捨て、愛する人を選択することを。
「カインノイエは今、休止中だ。誰も『迎え』には来ない」
「!」
和幸くんは落ち着いた口調で私の儚い希望をあっさりと斬り捨てた。胸がキリキリと締め付けられる。休止中? 誰も『迎え』に来ない? ってことは……じゃあ、和幸くんがあの人を『迎え』に行かなければ、誰も彼女を助けてくれない?
「カヤ」と温かみのある声がした。彼の声色にいつもの心地よい優しさが戻っていて、それが余計に私の心を苦しめる。呼びかけられても、顔を上げることは出来なかった。和幸くんはそれでもかまわず続ける。「お前がもう俺を必要としていないなら……」
ざわっと胸騒ぎがした。嫌だ……それ以上、言わないで。咄嗟に顔を上げ、「和幸くん」と止めようとしたときだった。彼はさらりと言い切ってしまった。
「日向にはもう俺の居場所はない。だから、帰るだけだ。ふさわしい場所に」
行く末を悟ったような、大人びた笑顔がそこにあった。私は言葉を失って、呆然と見つめていた。
嫌だ。違う。そんなつもりじゃなかった。だめ。行っちゃだめ。あっちに戻らないで。
心の中では洪水のように言葉が溢れるのに、どれも声にはならなかった。パニックになっていた。どう言ったらいいのか全然分からなかった。
「愛してる」と言えば全て解決するのかもしれない。恋人としての私の言葉なら、彼は聞き入れてくれる気がした。でも、どうしても言えない。言いたいけど、できないよ。今はよくても、いつか……彼を苦しめることになるもの。この場しのぎで恋人に戻るなんて、彼を罠にはめるみたいで嫌だ。
でも、止めなきゃ。なんとかして彼を止めなきゃ。どうやって彼を止めればいいの? なんて言って止めればいいの?
途方にくれている私を彼は熱い眼差しで見つめ、体をこちらにくるりと向けてきた。そして、おもむろに両腕を私の首元に伸ばしてくる。抱きしめられる――そう思って、私は力なく彼の腕から手を離した。
でも、彼は私を抱きしめはしなかった。首元に回ってきた両手は私の肌に触れることも無く、うなじのあたりで何かをいじってすぐに引っ込んだ。何だったんだろうか、と訝しげに彼を見つめていると、
「これ、もらってく」
そう言って私の目の前にかざしたのは、銀色の光を放つ十字架。ハッとして胸元に手を置くと、そこには無かった。曽良くんからもらったネックレスが。
「え」と戸惑いの声をあげる私をよそに、彼は器用にそれを自分で首につける。
「カインのお守りなんだろ?」
ついさっきまで私の首にかけてあった十字架が、目の前にあった。いたずらっぽく笑む和幸くんの胸元で鈍い輝きを放っている。
何も言葉が出てこなかった。彼の落ち着いた声、優しげな笑顔、迷いの無い瞳。悟ってしまった。もう彼を止める術はない、て。私は彼に決意させてしまったんだ。カインに戻ることを。再び、日の当たらない暗い世界に身を沈めることを。
和幸くんはしばらく黙って私を見つめていた。まるで瞳に焼き付けるかのように、じっと。
そして、おもむろに口を開く。きりっと表情を引き締めて。
「約束通り、二度とお前の前には現れない。これでお別れだ」
「……」
はっきりと言い放たれた言葉は、私の心をばっさりと切り裂いた。頭が真っ白になった。体中に鳥肌が立つのを感じた。そして、どこからともなく声が聞こえてきた。悲痛な叫び声。こんな別れ方は嫌だ、と子供みたいに泣き叫んでいる。
彼の胸元の十字架が跳ねるように揺れたのが目に飛び込んできた。気付けば、彼は踵を返し、私に背を向けていた。「待って」とやっと出てきた声は、弱々しくて、勢いよく扉を開く彼を止めることは出来なかった。
「待って」
やっと足が動いて踏み出した一歩は小さすぎて、外に飛び出す彼に追いつけるはずはなかった。
「待って、和幸くん!」
そう叫んだ私の声は、重い扉の向こうに姿を消した彼に届くことは無かった。
ぽつんと残され、私は立ち尽くした。漠然とした恐怖に襲われ、足がすくんだ。体中が震えだし、私は自分の身を抱くように小さくなった。
嫌な予感がする。私はとてつもなく大きな間違いを犯した。そんな気がして仕方が無い。震えながら、じっと彼が出て行った扉を見つめる。
「行かないで」
私は……この夜を、永遠に後悔するような気がしていた。
* * *
倉庫から飛び出し、和幸は目に飛び込んできた人物に足を止めた。部屋の斜め前で、壁を背もたれにしてあぐらをかいている少年。その膝の上には綿毛のようなふわふわとした毛並みの美しいシャム猫。
「話は終わった?」と微笑んで彼は立ち上がった。猫はまるで追い出されたかのように慌てて膝から飛び降りる。
和幸は彼に対峙し、「ああ」と切ない声を漏らした。「終わった」
「そう。それはよかった」
それ以上は何も言わずに頬をゆるめて立っている少年に、和幸は居心地悪そうな表情を浮かべてつぶやく。
「ユリィ……とかいったな」
「うん?」
「殴って悪かった」
真っ直ぐに自分を見つめてそう謝る彼に、ユリィは目を丸くする。まさか謝罪を受けるとは夢にも思っていなかった。そもそも、ユリィにとっては殴られたこと自体どうでもいいことだった。こうして話題に出さなければ、おそらく彼は忘れていたことだろう。
「気にしないで」ユリィは朗らかな笑顔でそう答える。こういう人間がいるから味方したくなるんだ、とラピスラズリに心の声で話しかけながら。「大したことないから」
それに、マルドゥクに頼めば怪我なんて一瞬で治るし。ユリィは言葉に出さずに自分の中でそう付け足した。
和幸は安堵したように微笑を浮かべ、「それで……」とあたりを見回した。
「蒼いドレスを着た女、出てきただろ? どっち行った?」
「蒼いドレスの女?」
そういえば……と、ユリィは天井を振り仰ぐ。確かに、アザだらけの妙な女が和幸とカヤが居た部屋に飛び込んで、そしてすぐに出て行った。何やらもめていたようだが、ユリィは気にしていなかった。部屋を間違えただけだろう、と心配するラピスラズリをなだめたものだ。
「あっち行ったけど」とユリィは右を指差した。「どうかしたの?」
ユリィの指差すほうを見つめ、和幸は腰に手をあてがった。しばらく何やら考えてから、顎をひいてぼそっとつぶやく。
「フィレンツェ、東側の庭を抜けて外に逃がす」
「は?」
急に独り言? いや、それにしては声が大きすぎる。が、自分に話しかけたにしては意味不明の台詞だ。ユリィはきょとんとして首を傾げた。
そんなユリィに気付いて、和幸はごまかすように微笑み、胸元に光る銀色の十字架を掴んでユリィのほうへ向ける。
「お祈り」
「……お祈り?」
「悪いんだけど」ユリィに質問する暇を与えないかのように、間髪いれずに和幸はそう切り出した。「すぐにカヤを家に連れ帰ってほしい」
いきなり神に祈りを捧げたかと思えば、今度は自分にお願い事か。忙しい人だな、とユリィは目を瞬かせる。
「家に? どうして?」
「ちょっと……な。まあ、念のためだ」
和幸はそっぽをむいて苦笑を浮かべた。念のため? 何に備えてのことだ? 気にはなるが、これ以上詮索されたくはなさそうだ。無理やり人を問い詰める趣味はない。ユリィはとりあえず頷いた。
ただ、一つだけ聞いておきたいことがあった。ユリィはくりっとした茶色い瞳で和幸を見つめると、「ところで」と低い声で切り出す。
「彼女とはどうなっ――」
「いろいろ、あるとは思うけど……あいつのこと、頼むな」
「!」
和幸はユリィの言葉を遮って、さらりと告げた。睨むような真剣な眼差しがこちらに向けられている。脅されているような気さえした。
そんな彼の言動に、ユリィは、まさか……と眉をひそめる。ここにきて、和幸の「終わった」という言葉の真意を悟った。そうか。結局、そっちの方向で話がついてしまったのか。ユリィはなんとも言えない無力感に襲われた。
「たとえ何が起ころうと、あいつを幸せにしてやってくれ」
「……」
「頼む」
力強い声で言われ、ユリィは顔をしかめた。軽はずみに「分かった」と言うことは憚られた。これからパンドラを幸せにできるかどうか、なんてユリィには分からない。少なくとも、和幸が想像しているようなことにはならないだろう。彼女に恋慕の情など抱いていないのだから。そう、婚約者として彼の前に現れたときから、自分は彼を騙し続けている。これ以上嘘をつきたくはなかった。
ユリィが押し黙っていると、和幸は恥ずかしそうに視線をそらして頭をかいた。
「俺の幸せは……」唐突にそう切り出し、ちらりとさっきまでこもっていた倉庫に目をやる。「あいつが幸せになることだ」
「!」
それは間違いなく、先刻ユリィが彼に投げかけた質問の答えだった。「お前には関係ねぇだろ」と一度は一蹴された問いへの回答。
思わぬことにユリィが唖然としていると、和幸は視線を戻して「だから」と念を押すように語調を強めて言った。
「頼む」
その言葉を聞いたのはこれで何度目だろうか。ここまで言われては、無視するわけにもいかない。とりあえず、ユリィは小さく頷くことにした。
それを見届け、和幸は安堵したような、悔しそうな、複雑な笑顔を浮かべた。そして、不意に何かを思い出したかのようにハッとして、「それと……」と言いづらそうに顔をゆがめた。
「変に聞こえるだろうけど……あいつに、林檎は食べさせないでくれ」
林檎――その単語を耳にした瞬間、ユリィは目を見開いた。その足元で、自分が猫のフリをしているのも忘れ、ラピスラズリもあからさまにショックを受けた表情を浮かべる。青い瞳に憐れみの色を浮かべて、少年をどこか申し訳なさそうに見上げた。
ユリィとその天使には分かっていた。和幸の言う『林檎』が真に意味する物を。
「アレルギー!」そうとは知らず、またも言葉を失っているユリィに、和幸は声を裏返していきなりそう叫んだ。「林檎アレルギーで……」
必死になってそれらしい理由をつけようとしている。それも、みっともないほどに下手な嘘だ。ユリィはそんな彼を直視することができなかった。ぎゅっと拳を握り締め、心の中でくすぶる熱い炎を抑え込む。ユリィはひどく憤慨していた。この真っ直ぐな少年に偽りの希望を与えたマルドゥクに対して。
だが、カヤが彼を遠ざけることを選んだ以上、ここで自分に出来ることは何も無い。真実を彼に伝えるかどうか。それもまた、彼女の選択であるべきだ。ユリィはそう決めていた。
だから、せめて……彼が安心できるように、彼の求める言葉を与えてやろう。ユリィは不安げな和幸を見つめると、しっかりとした口調で答える。
「大丈夫。彼女を林檎には近づかせない」
その言葉に安心したようで、和幸は肩を撫で下ろし「頼む」と最後に残して走り去っていった。蒼いドレスの女を追いかけるように、ユリィが指差した方向へ。
角を曲がり、その姿が見えなくなるまで、ユリィは彼の後姿を見つめていた。なんともいえない憤りに胸を焼かれながら。
「違う」心配そうな天使の視線を感じながら、ユリィはぼやくようにそう漏らす。「こんなことのために、オレは命を懸けようとしたんじゃない」