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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第四章
206/365

前夜祭 -5-

「病院に行こう、ユリィ」


 カヤはユリィの右手の平を食い入るように見つめ、そう促した。

 エントランスの階段を上がって左に曲がると、とある小部屋がある。二人はその中で、金糸で刺繍がなされた二人がけの赤いソファに座っていた。目の前には一輪のバラが生けられた花瓶がマホガニー材の机に乗っている。それぞれ、かなりの値のはる家具なのだろうが、部屋にあるのはその二つのみ。寂しいほどに物がない。――それもそのはず。ここはゲストが一休みするためだけの個室。二階にはこんな小部屋がいくつも用意されていた。

 幼いころ、慣れないハイヒールで挨拶回りをして足を痛めたカヤを、神崎の母がここに連れてきたことがあった。その幼い記憶をたどり、カヤは怪我をしたユリィをここに連れてきたのだ。

 どこかにスピーカーが隠されているようで、居心地の良いクラシックミュージックがちょうど良い大きさ――かすかに聞こえる程度の音量――で流れている。甘いバニラの香りが漂い、このままソファに横になりたくなる。以前ここに来たとき、カヤはひどく気に入って、結局オークションが終わるまでここに座っていたものだ。

 扉に鍵がかけられるため、最近では、貴婦人と若いスタッフとの逢引にも使われているようなのだが、そんなことをカヤが知る由も無い。


「病院?」ととぼけた声でつぶやいて、ユリィはガラスの破片がラメのように輝く手の平を凝視する。出血は少なく、ぽつりぽつりと赤い液体が小さなマグマのように湧き出しているだけだ。ユリィはしばらく何やら考えてから、首を横に振る。「いいよ」

「よくない!」


 すかさず声を張り上げてカヤが身を乗り出すと、その膝の上にちょこんと座っていたシャム猫が落ちそうになって慌てて立ち上がった。


「ガラスって危ないの、ユリィ。今すぐ病院に行って手当てしないと」

「そう言って、本当はここから逃げ出したいんだよね」


 カヤはハッと目を見開いて身を引いた。


「ユリィ」と諌めるような声を出したのは、カヤの膝の上で青い瞳を輝かせるシャム猫だ。「失礼ですよ」


 猫にやんわりと叱られ、ユリィはふいっと顔を背ける。


「いいの、ラピスラズリ」猫――いや、猫の姿をした天使の背を撫でて、カヤは哀しげな笑みを浮かべた。「ユリィの言ってること、多分、本当だと思う」

「パンドラさま」


 ラピスラズリは黒く鋭角の耳を水平に倒し、カヤを見上げた。姿かたちは猫だというのに、同情しているのが手に取るように分かる。

 カヤはラピスラズリを撫でる手を休めることなく、沈んだ表情でうつむく。そう、ユリィの言う通りだった。無論、ユリィの怪我を心配しているのも事実。早く病院で手当てをさせたい。だが、それと同じくらい、ここから逃げ出したいという気持ちもあった。もっと正確に言えば、和幸から逃げ出したかった。

 一体どうやって配膳人として潜り込んだのかは分からない。いや、彼が元『無垢な殺し屋』だったことを考えれば、それだけで説明がつくことかもしれない。とにかく、そこまでして彼は自分に会いに来たのだ。そこまで、自分を想ってくれている。――それは、今のカヤにとっては傷口に塩を塗るようなものだった。つらくて悔しくて、苦しい。和幸と顔を合わせるのも苦痛でしかない。彼女は分かってしまったから。彼の愛を受け止めてはいけない、と。彼を想えばこそ、その愛を拒絶しなくてはならない、と。


「ごめんね、ユリィ」


 上目遣いでユリィの横顔を見つめ、カヤは元気の無い声で謝った。真っ白な肌に、まるでチークでも塗ったかのようにその左頬は腫れている。和幸に殴られたところだ。

 上下の長い睫が重なりそうなほどユリィは目を薄め、どこか不機嫌そうな表情を浮かべて答える。


「パンドラが謝らなきゃいけないのはオレじゃない」

「え?」

 

 きょとんとするカヤにユリィは振り返り、睨みつけるような鋭い視線を向けた。


「君は彼を傷つけてる。せっかく君を愛してくれてるのに、どうしてひどいことをするの?」

「!」

「オレは彼を傷つけるために、君の頼みを聞いてここまで来たわけじゃない」


 ひどいこと――胸にその言葉が突き刺さり、カヤは視線をそらす。唐突に別れを告げてから、会うたびに和幸が見せる苦悶に満ちた表情。それが頭をよぎる。それでも……と、奥歯を噛みしめる。


「彼のためなの」喉から搾り出したような苦しそうな声でつぶやき、カヤはソファをぎゅっと強く握り締めた。「彼に幸せになってほしいから」

「幸せ?」ユリィはいぶかしげな表情を浮かべ、小首を傾げる。「でも彼は今、幸せじゃない。苦しんでる。君が彼を不幸にしてる」

「それは……!」


 カヤはユリィに顔を向けると、今にも泣きそうな表情で声を荒らげた。が、ユリィの真っ直ぐな視線と交錯した瞬間、まるでその茶色い瞳に勢いを吸い取られたかのように消沈して肩を落とした。


「ねえ、パンドラ」ユリィは彼女の顔を覗き込み、優しい声で問いかける。「彼の幸せって何?」


 その問いに、カヤは押し黙った。目立たない程度に流れているはずのBGMがやたらと大きく聞こえる。

 自分を落ち着かせるように深呼吸をして、カヤは目を瞑った。おもむろに右手を動かし、首元に輝くシルバーの十字架を――約束や想いが詰まった贈り物を――握り締める。


「ありきたりでいい。平凡でいい。笑顔が絶えなければそれで十分」


 透き通るような声が、小川のせせらぎを連想させるクラシック音楽と重なった。ユリィが「え?」と目をしばたたかせると、カヤはゆっくりと瞼を開く。

 口から零れた幸せの定義。それはカヤの心から沸いてきたものではない。記憶から引き出されたものだった。一週間ほど前に彼女が聞き届けた、和幸の父親である藤本マサルの『願い』。


「素敵な女性と結婚して、子供をつくって……三人で仲良く暮らす」


 顔を上げたカヤの表情には笑顔が浮かんでいた。鏡で写して彼女にそれを見せたら自覚するだろうか。それがどれほど、切なく痛々しい笑顔か。


「それが彼の幸せ」言って、カヤは十字架から手を離す。もう取り乱す様子もなく、恐ろしいほどに落ち着いていた。「そのために、私はこの世界を残す」


 満足したように口を閉じたカヤに、ユリィは表情を曇らせる。そして、「分からない」とぼんやりと漏らした。

 カヤは目をぱちくりとさせ、小首を傾げる。カヤにはユリィが「分からない」と口にした理由が分からない。いや、そもそも、何が分からないのかが分からない。ラピスラズリも同じ気持ちなのか、不思議そうに主を見つめていた。

 ユリィはしばらく黙り、ゆっくりと慎重に口を開く。そして尋ねた。


「なぜ、君は彼に言わないの?」

「……言う?」ユリィの刺すような視線に、カヤはつい身を引き眉根を寄せる。「何を?」

「君が全てを知ったことだよ」


 カヤはハッと目を見開いた。全て――それは、神の『裁き』のこと。自分が世界を滅ぼすために創られた『災いの人形』であるということ。ほんの三日前にユリィに聞かされた過酷な運命。


「そんなにも彼を想っているなら、それを伝えるべきだ」


 確信に満ちた熱い口調だった。ユリィの目は大きく開かれ、穢れのない茶色い瞳がカヤの不安げな顔を映し出している。


「マルドゥクに口止めまでして、どうして隠すの? 彼は全部知ってるんだろう? 『裁き』のことも、君の正体も。君がそれを知るよりもずっと前から知ってたんだろう?」


 始めからカヤに返事を期待していなかったのか、ユリィは呆然としているカヤに責め立てるように言葉を続ける。より力のこもった口調で。


「だったら、言えばいいじゃないか。彼も君も、もう何も隠す必要はないんだ。なぜ、わざわざ苦しめるようなことをするの? 二人で支えあうことだって……」

「彼はまだ知らない!」


 たった今意識を取り戻したかのように、いきなりカヤは大声を張り上げた。ユリィはまさかの反応にあっけにとられて目をぱちくりとさせる。「知らない?」と困惑した表情を浮かべ、助けを求めるようにシャム猫に目で合図した。シャム猫――彼の守護天使は、カヤの表情をちらりと伺ってから、低い声で主に助け舟を出す。


「リスト・マルドゥク様がついた嘘のことでは?」

「マルドゥクの嘘?」


 なんだっけ、それ? とユリィはぽかんと口を開けて天井を振り仰いだ。ラピスラズリはおずおずとカヤの膝からソファに降り立ち、ユリィへと小さな足を進める。


「ほら、ユリィがパンドラさまに全てを明かした折に、マルドゥクの王はパンドラさまにおっしゃったでしょう」


 上品で穏やかな声で囁かれる『思い出話』に、カヤは唇をかみ締めて俯いた。


「マルドゥクがパンドラに言ったこと?」


 えーと、とユリィは記憶を掘り出し始める。昨日……一昨日……そして三日前。ユリィはカヤに残酷な真実を突きつけた。全てを聞き、あっけにとられる彼女に、確かに、リスト・マルドゥクはまるで止めを刺すかのように(ユリィも知らなかった)新たな事実を打ち明けた。


「パンドラの恋人が、実は全てを知ってることと――あと、何か言っていたっけ?」

「ほら」ラピスラズリはユリィの膝にぴょんと飛び乗り、憐れむような目でちらりとカヤを見やった。「『テマエの実』のことです」


 すると、「ああ、そういえば」とユリィはすっとんきょうな声をあげる。そして瞳と同じ色をした細い眉を器用に動かし、困った表情を浮かべた。


「神の子が嘘をつくなんて、世も末(・・・)だよね」そこまで言って、ユリィはハッとする。「世も末だから、『裁き』が始まったのか」

「不謹慎な冗談を……!」


 ラピスラズリの背中を覆う雪のような白い毛が逆立った。こんなときに、と呆れたような声を出して頭を垂らす。それとほぼ同時に、カヤはおもむろに口を開いた。


「それだけじゃない」


 寂しさに満ちた消え入りそうな声だった。ユリィとラピスラズリが振り返ると、カヤは俯いたまま「彼は知らない」と震える声でつぶやく。


「私は……」と、膝の上でしっかりと手を組み合わせ、固く目を閉じる。その姿は、世界の行く末を憂んで祈りを捧げる聖女のよう。だが、この見目麗しい彼女こそ、世界に災いをもたらすべく生まれた少女に他ならない。


「私は、もう『人』じゃない」


 少女はか細い声で、だが、はっきりとそう言った。


「パンドラ」ユリィは一瞬にして表情を曇らせる。心配そうな愛猫の視線を感じつつも、カヤをじっと見据えてつぶやく。「ごめん」


 その謝罪は、恐ろしい事実を口にさせてしまったことに対してではなかった。発明の末に化け物を創りだしてしまった狂科学者のそれに近いだろう。ユリィはそんなことを考えてカヤをじっと見つめていた。自分の『実験』のせいで、『人』としての最後の証ともいえる権利を失った彼女を。


    *   *   *


 晴れ晴れとした青空。朝日はその恵みを惜しみなく平等に、地上に生きる全てのものにそそいでいる。息を吸い込むと、冷たい空気が気管を通り肺に入っていく。

 今日は昨日のように、冷たい雨がいきなり襲いかかってくることはない。太陽が皆を光で包み込んでくれる。月が静かに眠りに落ちる街を見守ってくれる。私には分かる。直感的に分かってしまう。昔から、そうだった。

 やがて、辺りに一時間目の始業を知らせるチャイムが鳴り響き――私の足元に黒い影が伸びてきた。ゆっくりとコンクリートの地面から顔を上げ、階段室から出てきた人物を見つめる。


「神崎先輩」私の姿を認めるなり、彼は目を見開いた。そして慌てて訂正する。「いや、本間先輩」


 もう『先輩』だなんて呼ぶ必要ないのに。私はもう神崎ではない。本間でもない。世界を滅ぼす『災いの人形』――パンドラ。そして彼は、私を殺す使命をもった神の子孫。


「おはよう、リストくん」


 予想通り、彼は屋上に来た。一昨日、盗撮写真の騒ぎで私がここに逃げてきたときと同じ。といっても、確信があったわけじゃない。ただ、この高校は隔日で時間割がよく似ている。だから、もしかしたら……と思っただけだ。もしかしたら、水曜日の一時間目も英語で、彼はサボってここに来るかもしれない、と。


「おはようございます」


 そうぎこちなく返す彼は、罪の意識に押しつぶされそうな咎人のような表情を浮かべていた。

 そういえば、昨日も彼はこんな顔で見守っていた。突然降り出した雨音が響く、生暖かい風が吹き抜ける昇降口。そこで、ユリィさんは全てを私に明かした。私が何者で、どうしてこの世界に現れたのか。それを語るユリィさんの傍らで、彼はずっと心配そうな表情で佇んでいた。


「約束通り、和幸さんには何も言ってませんから」


 聞いてもいないうちに、リストくんはそう報告してきた。確かに、会って最初に確認したいことではあったけど……すっかり、気持ちを読まれてるんだ。そう思うと、なんだか恥ずかしくて苦笑してしまった。


「ありがとう」


 もちろん、リストくんを疑っていたわけじゃない。きっと、約束を守ってくれる。和幸くんに黙っていてくれる。そう信じていた。でも、こうしてきちんと確認がとれると安心するものだ。私はほっと肩を撫で下ろした。


「ユリィさんは?」


 あえて平静を装って、落ち着いた声で尋ねる。

 昨日出会ったもう一人の神の子孫――ユリィ・チェイス。彼の兄、タール・チェイスは、言うなれば私の味方。私と同じ使命を――世界に終焉をもたらす、という呪われた使命を背負っている。ユリィさんは、そんなお兄さんを止めるために、わざわざ海を渡ってトーキョーに来たという。そして、そのユリィさんこそ、私に全てを打ち明けた張本人でもあった。


「オレの部屋で寝てます」そう言ってから、リストくんは小さく首を横に振る。「何も異変はありません。大丈夫です」


 そう、と私は安堵のため息をつく。

 私――『災いの人形』に、『収穫の日』が過ぎる前に『裁き』について明かすと罰が下る。それは古くから神の一族に伝わる言い伝えらしい。どんな罰かは分からない。命を落とすかもしれない。だから、ユリィさんは命がけだった。命がけで、私に全てを話してくれたんだ。でも……


「ユリィは正しかった」リストくんはおもむろに口を開き、神妙な面持ちでつぶやいた。「言い伝えは嘘だったんだ。神の罰は下らなかった。神の罰は存在しない。何事もなくてよかったけど……正直、戸惑ってます」


 彼の言葉に私の胸元がえぐられるように痛んだ。目に見えない傷がうずくように騒ぎ出す。咄嗟にそこを――シャツの第三ボタンの辺りを――握り締めるように押さえ、私はうつむく。

 無いはずの傷が私に何かを訴えかけるように痛む。

 いえ、違う。有るべき傷だ。ここに有るべき傷(・・・・・)が痛んでいるんだ。目には見えないけど、体は覚えてる。痕跡はなくても、もう感じることはないとしても、しっかりと覚えてる。人として得るべき『痛み』という感覚を。


「神の罰は下った」


 言いたくないのかもしれない。認めたくないのかもしれない。だからこんなに喉が締め付けられて、声が出てこないんだ。


「はい?」


 聞き取れなかったのだろう。リストくんはいぶかしげな表情で遠慮がちにそう聞き返してきた。

 私は泣きたいのを必死に堪えていた。もう、涙が出るのか、それすら私には分からないけれど。

 呼吸を整え、私はゆっくりと顔を上げる。リストくんを真っ直ぐに見つめ、覚悟を決めて打ち明ける。


「ユリィさんじゃなくて、私だったの」


 結婚しよう。虹の橋でそう言ってくれた彼の顔が浮かんだ。そして、幻のように消え去っていく。


「神の罰は、私に下った」


 リストくんはいきなりの私の告白に反応できずに呆然としている。「どういうことですか?」と囁くような小さい声で尋ねてきた。

 私は新品の制服を見下ろして、力なく微笑んだ。

 そして、リストくんに語りだす。昨日、あれから何が起きたのか。ユリィさんとリストくんから真実を聞いたあと、取り乱して外に飛び出した私の身に起きた出来事を。――それから……「別れたい」と和幸くんに告げたことを。

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