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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第四章
205/365

前夜祭 -4-

 『田中はじめ』は初日でクビになった。大島にこっぴどく叱られた後、ベストを脱ぎ捨て、苛立ちを床にぶつけるかのような乱暴な足取りでパーティー会場の隅を歩いていく。まっすぐに、忙しく飲み物や食べ物が運び込まれるスタッフ用の扉を目指していた。そこからキッチンを通ってもう一つの扉を開けば、配膳人用のロッカーがある。そこで着替えて荷物を取ったらさっさとこんなとことはおさらばだ。

 田中はじめ――いや、和幸の表情には憤りと困惑の色が浮かんでいる。彼には理解できなかった。愛する人の、カヤの気持ちが分からない。初喧嘩を乗り越え、二人の絆は深まったと信じていた。なんとしても彼女を守り抜いて、幸せな未来を築く――そう固く決意していた。それが、三日前、唐突に拒絶(・・)された。突然、別れをもちかけられたのだ。ほかに好きな男がいる、と言われて。それからというもの、避けられ、まともに話もできない。


「なんなんだってんだ、一体?」


 和幸は苦しげにひとりごちる。

 どうしちまったんだよ、カヤ? 心の中でいくら叫ぼうとも、その声は彼女には届かない。そう分かっていても、神に祈りを捧げるようにカヤに問いかけてしまう。まるで別人のように冷たくなってしまった愛する女性に。


「和幸くん!」


 足元ばかり見て歩いていた和幸に、いきなり誰かが声をかけてきた。それも、ひどく動揺した、若々しくも気弱そうな声。足を止め、和幸が顔を上げると、目の前には二十代半ばくらいの青年が立っていた。暖房で暖かいといっても、汗をかくほどの暑さではないはずなのだが、彼の額はまるでマラソンでもしてきたかのようにぐっしょり濡れている。いや、体調が悪いのかもしれない。顔色が悪い。


「はい?」と和幸は戸惑いつつも返事をする。が、ふと、妙なことに気づいて顔をしかめた。自分は今は『田中はじめ』のはず。なのに、なぜ彼は『和幸』と呼んだのだろうか。ここのスタッフではないのか?


「誰ですか?」


 失礼かとも思ったが、和幸は不躾に直球で尋ねた。が、青年は嫌な顔一つせず、足早に歩み寄ると和幸の腕を掴む。そして、電気椅子を前にした死刑囚のように怯えた表情で尋ねてきた。


「なんで、来てしまったんだ」


 和幸はぎょっと目を丸くした。質問を投げかけられたのか、責められたのか、判断がつかなかった。いや、独り言にさえ聞こえた。


「は?」


 青白い顔で頬はこけ、多少不健康には見えるものの、外見はいたって普通の青年だ。が、明らかに挙動不審。さらに不気味なことに、自分の名前を知っていた。一体、誰だ、こいつは? と和幸はあとずさる。


「今すぐ、帰るんだ」と青年は和幸がとった距離を詰め、低い声で訴える。誰かに追われているのか、辺りをおどおどと見回しながら。


「いや、何の話を……てか、誰?」


 気味が悪くなって、和幸は青年の手を振り払った。


「僕は」と青年は必死な表情で和幸を食い入るように見つめる。心臓の鼓動が喉まで震わせているのかと思うほど、声は不安定に揺れている。「僕は、前田勝利(かつとし)。君とは直接会ったことはないけれど、写真で顔は何度か見てて、話もよく聞いてて……」


 汗を流しながらまくしたてるように早口で話され、和幸は戦慄さえ覚えた。話の内容とこの様子……まさか、俺のストーカーか? と和幸は頬をひきつらせた。


「いや、俺、そういう趣味ないんで!」と、思わず、両手を出して首を振る。すると、前田と名乗る青年は「何言ってるの」と呆れと焦りが混じった声を出す。「とにかく、早くここから……」


 続きを言おうと開けた口から言葉が出てくることはなった。前田の言葉をさえぎるように、間延びした声が前田の背後から聞こえてきたのだ。


「藤本くんじゃないか。ちゃんと来てくれたんだねぇ」


 その瞬間、前田は飛び跳ねるように体をびくつかせて固まった。ひやりと冷たい汗が背中を伝う。

 そんな彼の様子には気づかず、和幸はその聞き覚えのある声にあからさまに嫌そうな表情を浮かべた。ひょっこりと柱の影から現れてこちらにやってくる長髪の男。黒のシャツの胸元を大胆に開け、背広を肩にかけている。薄い唇は怪しげに笑みを浮かべ、切れ長の目は鋭い視線をこちらに向けている。どこからどう見ても遊び人だ。夜中に駅前で女性をナンパしているほうがずっと似合う。――大臣の娘の警護よりも。


「どうも、椎名さん」と和幸は反抗的な口ぶりで挨拶した。


 前田は決して振り返ろうとはしなかった。気づかれないように体の震えを抑えるのに必死だった。

 そんな彼に背後から忍び寄るように近づき、椎名はぽんと肩に手を置く。


「前田さんも、ご一緒でしたか」


 ハッと目を見開いたのは、前田だけではなかった。和幸も驚きに目をむいた。いぶかしげな表情を浮かべ「知り合いなのかよ?」と椎名に尋ねる。

 椎名は「あ」と人差し指を出して、和幸に向かって何度か振る。


「言葉遣い、言葉遣い」


 面倒くせぇ奴――和幸の表情から、そんな心の声が聞こえてくるようだ。軽く舌打ちをしてから、和幸は仕方なしに言い直す。


「知り合いなんデスカ?」


 すると椎名は満足そうに微笑んで、前田の肩に寄りかかった。


「本間先生の秘書だよん。ねぇ、前田さん」


 それを聞いて、和幸は「あ」と声をあげた。とっさに前田を見つめ、「秘書のお兄さんか!」と納得したように晴れやかな表情を浮かべる。


「僕のこと、知ってるの?」


 前田は青白い顔を上げると眉根を寄せた。か細い声で尋ねると、和幸は懐かしむような表情で頷く。


「カヤから、聞いたことあるんで。秘書のお兄さんは毎晩遅くまで仕事をしててすごいんだ……て」

「……カヤさんが!?」


 予想以上に大きなリアクションが返ってきて、和幸はきょとんとしながら「はあ」と気の抜けた返事をした。

 前田は魂でも抜けたかのように呆然とした。手の届かない存在だと思っていたカヤが、自分のことを話していた。それも、褒めてくれていた。これが中学時代の初恋であったならば、手放しで喜んでいたかもしれない。それだけで充分だ、と満足していたかもしれない。だが、現実は違う。そんな単純な話ではない。嬉しさなど微塵もなく、前田の心に津波のように襲いかかってきたもの――それは、身を引き裂かれるような罪悪感だ。

 椎名は愕然としている前田を観察し、満足げにほくそ笑む。そして「よかったですね」と耳元に囁き、前田の肩から腕をどかした。


「!」


 それは残酷なほどの皮肉だった。前田の心臓が大きく揺れた。怒り……いや、憎しみにわななく。咄嗟にうつむくと、眼球が飛び出しそうなほど目を見開き、血が出そうなほど唇をかみ締める。

 椎名は知っているのだ。前田が遅くまでしていることが、胸を晴れるような仕事ではないことを。今なんて、人として、男として、最低のことをしている。目元にくまをつくって夜な夜な部屋でしていること――それはカヤの部屋の盗聴だ。

 それを知っていて椎名はそんな言葉を漏らしたのだ。

 前田は隣で嘲笑を浮かべる男を殴り飛ばしたい衝動にかられたが、拳は震えるだけでそれ以上は動かない。結局、自分は何もできない――無力感に押しつぶされそうになる。悔しいのに、それでも行動に移せない。そもそも、どんな行動をしたらいいのかが分からない。今まで命じられることしか、したことがないからだ。意思がない。意志を貫く度胸もない。そして、おそらく椎名はそれも知っている。

 だからこそ、こうして和幸と対峙していた自分を見つけても、椎名は動揺する様子も、疑う素振りさえも見せないのだ。悔しい。憎いほど悔しい。それなのに……ホッとしている自分がいる。椎名に小物扱いされているだけだというのに、馬鹿にされているだけだというのに、怪しまれていないことに安堵している自分が、何より情けない。

 狂いそうなほど悔しい。それでも、何もできない自分が憎い。

 前田は椎名に見えないように顔を下に向けたまま唇をかみ締め続けた。――彼にできることはそれだけだった。


「それでぇ?」前田をからかうことに満足したのか、椎名はころっと明るい笑顔を浮かべて和幸に振り返る。「カヤちゃんは取り返せそう?」


 和幸は視線を逸らして苦笑した。首を左右に振ると、疲れ果てたような表情を浮かべる。


「さあ。もう、よく分からないです」

「諦めるわけ?」椎名はにたっと笑って腕を組んだ。「力ずくで奪い返すくらいしてみてよ、藤本くん」


 すると和幸は椎名をジト目で睨んできっぱりと答える。


「しようとして失敗したんですよ」


 あら、と椎名は眉をひそめた。「何したの?」


「お嬢様の婚約者を殴って、クビですよ」

「もうクビになっちゃったの?」


 椎名は目をむいて声を裏返した。嫌味は感じられない。純粋に驚いているようだ。それもそうか、と和幸は肩をすくめて呆れた笑みを浮かべる。まだオークションも始まっていない前座のパーテーだ。クビになるには早すぎるだろう。


――たとえどんな事情があったとしても、暴力はルール違反なんです。


 いつかの校長の言葉が頭に蘇る。そうだった、と今更ながらに思い出す。こうしてクビになってカヤと話すチャンスを失ったのも、そのペナルティか。先週末、曽良との兄弟喧嘩のときには自分を抑えきれたのに。まだまだ、パンピーになりきれてないな――和幸はこっそりとため息を漏らした。


「協力してもらったのに悪いんですけど」と、和幸は頭をかいて椎名を見上げる。反抗的な目つきではなく、素直な眼差しで。「今日は帰ります」


 その言葉に、椎名は眉をぴくりと動かし、慌てた様子で腕組みを解いた。


「もう帰るの? 婚約者の正体はつかめたわけ?」


 和幸は、それが……と言いにくそうに口をゆがめた。

 脳裏によぎるのは、殴られておきながら、文句一つ言わずに慈しむような眼差しで見つめてきた少年。ユリィという名の、突如として現れたカヤの新しい婚約者。大海原を思わせる包み込むようなオーラをもった不思議な少年だ。


「あの婚約者、悪い奴じゃない気がするんですよ」言って、和幸は先刻大立ち回りを繰り広げた会場の端へ顔を向ける。当然だが、そこにはカヤもユリィの姿もなく、益子がそそくさと床に散らばったグラスの破片をちりとりで取っているところだった。和幸は申し訳なさそうに顔をしかめ、椎名に向き直る。「だから、余計に参ってるんですけど」


 冗談ともとれる和幸の言葉に、椎名は「でもね」と返して落ち着かない様子で首元をかく。


「僕はあの新しい婚約者をどうも信用できないんだよ。カヤちゃんのボディガードとして、頼むよ」


 椎名は若干腰をかがめて和幸の機嫌を伺うような仕草をしてみせた。今までのこの男からは考えられないへりくだった態度に和幸は寒気すら感じた。


「もう一回だけでも、話してみてくれないかな?」


 そりゃ、いくらでもカヤと話してみるつもりだ。だが……と、和幸は反論する。


「今のあいつは聞く耳を持ちませんよ。何か他の方法を考えて、日を改めて……」

「それじゃ手遅れかもしれないよ」椎名は片方の眉を上げ、試すような視線で和幸を見やった。「あと一回、試してみてよ」


 和幸はいぶかしげな表情を浮かべて黙る。なんでこいつはここまで必死になっているんだ? そんな疑問に首を傾げつつも、確かに椎名の言うことは一理ある、と心の中で頷いていた。手遅れ……これまで頭に浮かんでもいなかったその言葉がズッシリと胸にのしかかる。このまま引き下がっていいものだろうか、と確認するように自問を始める。ユリィという男と接するカヤは決して脅されている風ではなかった。それよりも、秘密を共有しているような親密ささえ感じた。カヤは何か事情があって仕方なく(・・・・)自分と別れたいフリをしているだけ――もしその予想がはずれていたとしたら? 


「さっき、階段上がっていくの見たから」椎名は呪文でも唱えるように、和幸に囁きかける。「二階に行けば会えるよ」


    *    *    *


「なんで部屋行っちゃだめなの?」

「だめに決まってるだろ!」


 八時を回ってシフトが終わり、焼き鳥屋『すすむちゃん』を出たところだった。後ろからぴったりとついてきた葵がいきなり腕にしがみついて「部屋に連れて行け」と騒ぎ出したのだ。

 俺は葵の手をなんとか振りほどこうと、腕をあらゆる方向に動かしていた。砺波とは違って、葵は普通の女の子だ。無理やり振り払うことはできない。


「彼女にフラれたばっかで寂しいでしょ? 慰めてあげるからさ」

「……」


 つい、動きが止まった。ひきつり笑顔で葵を見下ろす。


「言うんじゃなかった」


 すると、葵はいたずらっぽく笑みを浮かべた。

 カヤに『別れたい』と言われた一時間後、俺はここで焼き鳥を焼き始めた。が、集中できるはずもなく、呆けてばかり。組長に何度、渇を入れられたことか。

 バイト中、ぽっかり客の足が途切れて暇になる時間帯がある。俺と葵はその間、無駄話をして時間をつぶすのだが……つい、俺はそのときに口走ってしまったのだ。フラれた、と。軽率だった。こうなることは予測できたってのに。


「添い寝してあげるから」と葵は体を引っ付けて、内緒話のように囁く。

「添い寝!?」って、なに動揺してんだ!? 葵の思うつぼだろ。俺は顔をふいっと背けて平静を装う。「冗談に品が無ぇんだよ」

「かったくるしいなぁ」葵は小さな唇をつぼめて、頬を膨らませた。俺が焦っているのには気づいていないようだ。「だから、フラれたのよ」


 き……きっぱりと言いやがって。砺波といい、アンリといい、こいつといい、俺の周りには口の悪い女ばっかだ。カヤは俺にとってオアシスだったのかもしれない。


「そんなに深く考えなくていいのに」苛立った口調でそう言って、葵はやっと俺の腕を離した。「一回間違いを犯しちゃったら、あとは流れに任せるだけだから」

「は!?」


 何理論だ、それは!? 慌てて葵に振り返ると、葵はクスクスと楽しげに笑っていた。


「冗談だって」

「……笑えねぇよ」


 葵は腕を後ろに組んで、小首を傾げた。ウェーブがかったショートヘアがふわりと揺れる。


「じゃ、本気ってことで」

「……」


 返す言葉が見つからずに、黙り込んでしまった。何を言っても諦めそうに無い。葵の真剣な表情からそれは明らかだった。かと言って、流れに任せるわけにはいかないだろ。俺はカヤと別れる気はない。


「あのさ、葵。俺はまだ彼女のこと、諦めてないっていうか……」

「どうでもいいよ、そんなこと」

「へ」


 どうでもいい? 唖然として言葉を失っていると、葵は「分かってないな」とため息をついた。


「あたしに諦めてほしいなら、それなりのことを言わなきゃ」

「それなりのこと、だ?」

「そ。その言葉が出てこない限り、あたしは諦めないよ」


 その言葉って……なんだ? 眉をひそめて戸惑っていると、葵は「それじゃ」と一歩あとずさる。「今日のところはこの辺で勘弁してあげる」


「勘弁って……」


 困らせてることは十分自覚してるのか。呆れて俺は頬をひきつらせる。


「お客さんも待ってるし」


 言って、葵は俺の背後を指差した。客? と振り返り、俺はぎょっとする。そこに突っ立っていたのは――


「椎名?」

「や」へらっとゆるい笑みを浮かべて、カヤのボディガードは右手を挙げる。「さっそく、浮気かい?」

「違っ……!」


 『さっそく』はお前だろ! 開口一番、嫌味か。

 咄嗟に否定の声をあげるが、それは葵の「おやすみ」という弾けた声にかき消された。忙しく葵に振り返り、「ああ」と情けない声で返事をする。――テンパりすぎだ。椎名の笑い声があたりに響いているのも当然だな。


「何か用かよ?」と恥ずかしさをごまかすようにきつい口調で尋ねる。


 椎名は「あ」と声をあげ、唇の片端をあげた。


「言葉遣い、忘れちゃった? 年上には……」

「何か用デスカ? 椎名サン!?」


 面倒くせぇ奴だな、ほんとに! 苛立った声が閑静な住宅街に響き、犬の散歩で通りかかったおっさんが迷惑そうな表情でこちらを見てきた。刺すような視線に、居心地悪く目を泳がせていると、「これ、お土産」と椎名がつぶやき、いきなり何か(・・)を放り投げてきた。飛ばされた洗濯物のように、それは闇夜にひらりと舞い落ちてくる。


「は?」とりあえずそれを掴み取り、俺は小首を傾げた。「ワイシャツ?」


 そう、シャツだ。椎名はいきなりシャツを投げつけてきたんだ。どこの国の挨拶だよ?

 それも、新品のシャツじゃない。はっきり言って、汚い。暗がりの中、『すすむちゃん』から漏れる光だけが頼りだが、それでも分かる。皺だらけの白い生地のシャツは、ところどころ黒く染まっている。一見、血のようにも見えるが、光に当てて目を凝らせば、それがただの泥汚れだと分かる。

 俺はシャツから椎名に視線を移し、答えを求めた。椎名は真剣な表情で土産(・・)を見つめ、感情が伺えない無機質な声でぽつりと漏らす。


「カヤちゃんのシャツだよ」

「え!?」


 カヤの!? ぎょっとして俺はもう一度シャツを見つめた。ついさっきまでゴミのように見えていたシャツが、いきなり高価なものに見えてきた。って、何考えてるんだ。そんなことより、なんで椎名がカヤのシャツを持ってるのか……いや、それよりも――


「これ」と、俺は力ない声で椎名に問いかける。「これ、どうしたんだ?」

「これってのは……その汚れのこと?」


 俺は何も答えずに、椎名に振り返る。頷く必要もないように思われた。


「僕も同じ質問をしたいくらいさ」困った顔で椎名は喉元をかいた。「お昼に急に帰ってきたと思ったら、全身びしょぬれで、しかも、見ての通り、泥だらけ」


 泥だらけ……俺は再度、シャツに視線を戻す。まるで雨の中、野球でもしたかのような汚れ方だ。だが、カヤはそんなことしないだろう。てことは、何をしたんだ?


「ブレザーもスカートもそんな感じだよ。帰ってくるなり、ぜーんぶ、捨てちゃったんだから。お陰で、真麻さんは慌てて制服の買出しだ」

「捨てた!? カヤが制服を?」


 びっくりでしょう、と軽い口調でつぶやいて椎名は肩をすくめる。


「本人は水溜りで転んだ、て言ってるんだけど……ちょっと、気になってね。君にも見てもらおうと思って、ゴミ箱あさってとりあずシャツだけ確保してきたんだよ」

「ゴミ箱あさったのかよ?」

「ボディガードも最近は体当たりだよ。で、どうなの? 何か、心当たりある?」


 心当たり? カヤが泥だらけになる心当たりか? あるわけないだろ。俺は何もいわずに首を横に振った。


「第三ボタンのあたり見てみてよ」思い出したようにそう言いながら、椎名が歩み寄ってきた。「変な穴があるでしょう」

「穴?」第三ボタン……とシャツをたぐりよせて食い入るように観察する。「本当だ」


 確かに、そこには小さな穴が開いていた。タバコを押し付けた跡のような、焦げた輪郭の小さな丸い穴だ。


「背中にも同じ穴が開いてるんだ」

「何が言いたいんです?」


 すぐ隣にまで近づいてきた椎名をちらりと見やり、すかさず質問を返した。

 明らかに、椎名は何かを示唆している。俺にそれを言わせようとしている。だから、俺から言う気にはなれなかった。どんなことであれ、こいつの思い通りになるのは嫌だからだ。

 椎名はじっと俺を見据えて、呆れたような表情を浮かべていた。


何か(・・)が貫通したみたいだろ」

「何か……?」

「銃弾、とか」

「銃弾!?」何言い出すんだ、こいつ? 俺は思わず、大声を上げていた。「カヤが撃たれたって言いたいのか?」

「まさか、まさか」椎名は俺を落ち着かせるように両手の平を見せて、苦笑する。「もしそうなら、カヤちゃんは無事じゃないでしょう」

「……」


 確かに、その通りだ。くそ。俺の反応を見て楽しんでやがる。完全に遊んでるな、こいつ。俺は舌打ちしそうになって、かろうじてそれを止めた。また、「年上には……」と腹立つ説教されそうだからな。


「とりあえず、僕が言いたいのはぁ」と、何事も無かったかのように、椎名はお決まりの間延びした口調で切り出す。「カヤちゃんの様子がおかしいってことさ。泥だらけの制服もそうだし、いきなり君に別れ話をもちかけたのもそう。それに、オークションに新しい恋人を連れてくるって言い出したし……」

「新しい恋人!?」


 ふざけるな、と叫んで椎名に殴りかかりそうになった。またこいつの悪趣味な冗談だと思ったのだ。だが、椎名はいたって落ち着いた表情でこちらを見つめていた。いつもヘラヘラしている口元も固く閉じられている。その視線は真剣そのもの。それに気づいた瞬間、パンクしたタイヤのように握り締めた拳から力が抜けていった。

 事実なんだ――そう確信して、俺は愕然とした。

 確かにカヤは、他に好きな男ができたと言っていた。それが俺と別れたい理由だ、と主張した。が、俺は本気にしていなかった。でたらめに決まってる。俺を諦めさせるためのはったりだ。――そう信じていたんだ。


「君が僕のこと嫌ってるのは知ってるよ」唐突に、椎名は落ち着いた声でそう口火を切った。「でも、今回ばかりは僕を信用してくれないかな?」

「なにを……」

「思ったんだけどね」椎名は目を細めて低い声でつぶやく。「カヤちゃんの様子がおかしいのは、その新しい恋人のせいなんじゃないかな、て」


 どういうことだ? 俺があごを引いて眉をひそめると、椎名は「分からないの?」と鼻で笑った。こいつ……やっぱ、苛つくな。


「カヤちゃん、脅されてるんじゃないかな?」

「脅されてる?」

「そう」自信満々に椎名は頷いて、左手の人差し指で空を切る。「泥だらけにした犯人がその恋人だとしたら、辻褄(つじつま)が合うとは思わない?」

「何の辻褄だよ?」

「穴が何なのかは分からない。ゴミ箱に捨てられてからできた穴かもしれない。けど、泥だらけだったのは確かだ」言いながら、椎名は俺が抱えているカヤのシャツをちらりと見た。「妙な男に弱みを握られるようなことをされて、仕方なく、君と別れて彼の恋人になった。そう考えてもいいんじゃないかな?」


 弱みを握られるようなこと……俺も椎名同様、汚れたシャツを見下ろす。薄々と、椎名が言いたいことが分かってきた。


「襲われた……て言いたいのか?」


 俺はほぼ無意識にそうつぶやいていた。

 目の端で、椎名が満足げに微笑むのが見えた。


「それも一つの可能性だよね。カヤちゃんは実に清純な子だから。一方的だったとしても、他の男に抱かれといて、平気な顔で君と付き合うなんてできないでしょう」

「誰なんだ、そいつは?」


 心臓が焼けるように熱い。気づけば、シャツを引きちぎりそうなほどに握り締めていた。


「まあ、もちろん、それは極端な例だ。他にもいろんなケースが考えられるわけで……」


 飄々とした調子で椎名はべらべらと話し出した。すべて、耳に入ってこなかった。何があったかはどうでもいい。細かいことはどうでもいい。カヤが変な男に何かされたなら、どんなことであろうと絶対に許さない。それだけだ。


「誰なんだ、そいつは!?」


 椎名を睨みつけ、俺は辺りに響く大声で怒鳴りつけていた。

 「年上には……」という決まり文句を口にすることなく、椎名は、待ってました、と言わんばかりの笑みを浮かべていた。そして、さらりと提案する。思いもよらない策を。


「オークションにおいでよ、藤本くん」

「オークション?」


 椎名は「そう」と力強く相槌を打ち、ポケットから右手を引き抜いて俺の肩に置いた。そして白い歯を見せてヒントを出すように囁きかける。


「カヤちゃんは新しい恋人をオークションに連れてくるって言ってた。つまり……?」

「オークションに行けば、そいつに会える?」

「そういうこと。一番手っ取り早い方法だよ。探す手間も省けるし、カヤちゃんに問い詰める必要もない」

「……そうだな」


 大発明でもしたかのようにテンションが高い椎名とは対照的に、俺は沈んだ声で答えた。

 椎名の言うことは最もだ。間違ってはいない。だが、オークションに会いに行けばいい――そんな簡単な話じゃない。俺はカヤの婚約者として出席するはずだった。あいつが別の男を婚約者として連れて行く以上、ただの孤児である俺はオークション会場に足を踏み入れることもできない。カインのときみたいに潜入することは可能だが……面倒なことになったら厄介だ。

 表情を曇らせて考え込んでいると、椎名がけろっとした声で俺に告げる。


「田中はじめ、て新人くんと話はつけといたから」


 田中はじめ? いきなり、誰の話だよ? 柳眉を寄せて顔を上げると、椎名のしたり顔があった。


「今度の金曜日に配膳人としてオークションデビューする子さ。そのお給料の倍を払って、交渉しといた」

「交渉? なんの交渉だ?」

「それは……」と、椎名は俺の肩から手をはなし、ポケットにまた手を突っ込んだ。そして今度は、ある物を携えて手を抜く。ギラリと鈍い銀色の光を放つそれは……


「名札?」


 『田中』と書かれたネームプレートだった。素材は確かに高価そうだが、それ以外は何の変哲もない名札だ。これを俺に渡してどうしろっていうんだ? 馬鹿にしてんのか、と文句を言いかけ――声を出す寸前、唐突に俺は椎名の考えを悟った。

 まさか……と、ハッとして俺は『田中』の名札から椎名へと視線を戻す。椎名は不敵に笑み、唖然とする俺の手にネームプレートをねじこませた。


「金曜日の夜、待ってるよ。――田中はじめくん」

 

 耳元で怪しげな声で囁かれ、俺は取り付かれたようにじっと名札に見入った。ごくりと生唾を飲み込み、早まる心臓の音に耳を傾ける。別人になりすましてオークションに忍び込む。それはまるでカインだったときにしていたことと、ほとんど変わらない。表の世界に出てきてまで、そんな犯罪じみた行為をするのは抵抗がある。それに、椎名の思い通りになるのは嫌だ。こいつの言うことを聞くのは何がなんでも嫌だ。

 だが……もし、万が一、このままカヤが何も答えてくれなければ……俺は『田中』になるしかないと思った。椎名の好意に甘えるしかないと思った。

長すぎてすみません! どうしても二つに分けるわけにはいかなかったので。

Web拍手、いつもありがとうございます。大変励まされております♪

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