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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第四章
204/365

前夜祭 -3-

 ネクタイはだらしなくゆるみ、シャツはところどころズボンからはみ出している。黒いスーツの上着は前のボタンが全部開かれていて、その着こなしだけで彼の人となりが伝わってくるようだ。縛られるのを嫌い、わが道を行く気ままな性格――それが彼。腕に抱いているシャム猫はまるで彼のトレードマークのようにも思える。


「ユリィ」と、カヤはどこか不安げな声で彼の名を呼んだ。

「ユリィ?」


 和幸はあからさまに嫌悪感を顔に出し、不機嫌な声を出した。

 栗色のパーマがかった(おそらく天然だろう)短い髪は、西洋画に描かれるキューピッドを彷彿とさせる。ぼうっと半開きの瞳は、しっかりと開ければくりっと大きなものになるに違いない。高い鼻と日差しを知らないような白い肌が、彼がこの国の人間ではないことを象徴している。

 和幸とカヤに見つめられる中、薄い唇が微々たる隙間を開けて、そこからのんびりとした声が漏れる。


「トイレ、見つからなかった」


 和幸は「は?」と隠すこともせずに馬鹿にしたようなひきつり笑顔を浮かべた。第一声がそれかよ。てか、ずっとトイレ探してたのか? 確かに、目を見張る美しさを持った男だが、どうも頼りない。たった今起きたような(とぼ)けた顔をしているし。想像と大きく違う。和幸はそのギャップに対応しきれずにいた。

 カヤは慌てた様子で彼に駆け寄り、「ごめんなさい」と謝って、鋭い三角の顔をしたスリムな猫を彼の腕から抱き上げた。大切そうに胸元に抱くと、「やっぱり、私がついて行けばよかったね」と申し訳なさそうに声をかける。

 ユリィという少年はゆっくりと首を横に振ると、カヤの背後で呆然と立ち尽くしている少年に目を向けた。


「誰?」


 尋ねられ、カヤは「あ」と怯えた表情を浮かべて振り返る。「彼は……」と口ごもっていると、和幸はわざとらしく咳払い。自分の仕事を思い出したかのように、銀の盆を高々と揚げてユリィに歩み寄った。


「ただの配膳人の、田中はじめです」


 いぶかしげな表情を浮かべるカヤと、透き通るような青い目を光らせるシャム猫の横を通り過ぎ、和幸はユリィの前に立ちはだかる。


「シャンパンいかがですか?」


 ユリィはしばらくぼうっと和幸を見上げていたが、「シャンパン」とぽつりと呟いて、穏やかな笑みを浮かべた。


「もらう。ありがとう」


 温かみのこもった声だった。新人の配膳人が到底かけてもらえるはずのない丁寧な言葉。もし、本当に彼が『田中はじめ』だったら、あまりの嬉しさに感激して涙をこぼしていたかもしれない。

 だが、彼はただの配膳人ではなかった。

 和幸は愛想笑いを顔に貼り付けながら、トレイを支えていた左手首の力を抜いた。トレイは光を四方へ反射させながら、ゆっくりと斜めにずれ落ちていく。乗っていた三つのシャンパングラスは徐々に重力に押されて滑っていき、彼の手から離れたトレイとともに床に落ちていった。

 会場にグラスが割れる音が響き、まるでそれが決闘の合図かのように、和幸は右手を振りかぶってユリィの頬にそれを思いっきりたたきつけた。それはたった一瞬のことで、カヤは瞬き一つできなかった。シャム猫は黒い耳をぴくりと動かし、咄嗟にカヤの腕から飛び降りて主人のもとへと跳ねるように駆けていく。

 ユリィは吹き飛ばされ、グラスの破片が散らばる床にたたきつけられた。手を突いて上半身を起こすと、「あや」と痛む頬を撫でる。だが、困惑している暇もなく、和幸が馬乗りになって胸倉をつかんできた。ぐいっと体を引き寄せられ、真っ直ぐな黒い瞳が目の前に迫っていた。


「カヤに何をしたんだ?」


 低い声で『田中はじめ』がそう尋ねてきた。ユリィはぴくりと茶色い眉を動かした。

 さすがに人が殴られれば、会場の端だろうと、人々の注目は集まる。どよめきが沸き起こり、自然と二人の周りは闘技場さながらにスペースが空けられていた。興味はあるが巻き込まれたくはない――ゲストたちの気持ちははっきりと行動に表れていた。

 しかし、そのおかげで、二人の会話を聞きとれる人間は誰もいない。ユリィは眉をひそめ、じっと自分を殴った少年を見据えた。怒りに我を忘れそうな実直な少年を。


「どんな弱みを握ってる? 何を企んでる? カヤを脅してるんだろう?」


 彼は胸倉を掴む手を大きく揺らし、早口でまくしたてるように問い詰めてきた。

 必死だ。何か誤解をされているようだが、彼は必死だ。ユリィは顔をしかめ、同情するような視線を向けた。そして、独り言のようにつぶやく。


「君が、彼女の恋人なんだね」

「!」


 納得したような口調だった。その声色は憐れみに満ちている。茶色い瞳には恐れも怒りも浮かんではいない。そこにあるのは、果てしない優しさ。和幸は思いもよらない反応に――途方にくれた。全てを飲み込み洗い流す大海を前にしているような気分に襲われた。自分がちっぽけな存在に思えた。

 ひるんだその瞬間、和幸は首根っこを掴まれ、いつのまにか背後に近づいていた同じ格好の男に引っ張りあげられた。やろうと思えばいくらでも抵抗できた。だが、そこまでの戦意はなくなっていた。根拠はない。ただ、なんとなくだが、ユリィというこの人物を『無実』だと思った。それは不思議な『信頼感』でもあった。


「何してんだよ、田中!」


 怒鳴り声で、益子だ、と和幸は即座に気づいた。「すみません」とつぶやきながら、近寄ってきたシャム猫に「大丈夫だよ」と声をかける少年を見つめる。シャム猫を撫でようと床から離した手の平からは、ところどころ血が湧き出ているのが見えた。割れて散らばったグラスの破片で切ったのだろう。和幸は表情を曇らせた。ユリィも今気づいたようで、目を丸くして手の平を見つめている。


「何の騒ぎですか?」


 床にぺたんと座っているユリィの背後から、四十代後半の面長な顔立ちをした男が現れた。黒いタキシードに身を包み、髪はピシッとオールバックに固められている。

 益子は慌てて「大島さん」と姿勢を正した。ユリィは「誰?」と不思議そうに小首を傾げながらも、シャム猫を抱いてゆっくりと立ち上がった。

 周りのゲストたちは口々に「何事でしょう」「喧嘩ですか?」などと囁きだした。だが、夢中で野次馬になっている姿を晒したくはないのだろう、わらわらと散らばって、すぐに他愛もない世間話を再開し始める。

 落ち着いた雰囲気を取り戻した会場で、大島は「これは……」と青ざめた表情で粉々になったグラスとユリィの血が残る床を見回し、益子に目をやる。


「説明しなさい」


 益子は「いや……」と隣で突っ立っている『田中』をチラ見する。問題を起こした当の本人は、悪びれた様子もなく、まるで第三者かのようなすました顔を浮かべていた。おい、コラ……そう言いたいのを益子はぐっと堪える。シャム猫を抱く少年を見れば、彼も何事もなかったかのような顔で猫を撫でていた。殴られたくせに、文句の一つも言わないのか? 益子は顔をしかめた。


「益子くん!」と大島が脅すような声を出す。「何があったんですか?」


 そう言われても、益子も騒ぎを聞きつけて駆けつけてきただけだ。詳しい事情は分からない。「あ……の」と困りはてて口ごもると、『田中』の横で佇んでいた少女が一歩足を踏み出した。ハイヒールの音に益子が目をやれば、漆黒のドレスを纏った異国の少女がこちらに振り返るところだった。益子は息を呑む。それまで彼女の存在には――そこに誰かいるということには――気づいていたが、騒ぎのせいで、その姿に目もくれていなかった。彼女の美しさに気づいていなかったのだ。思わず、ぽかんと口を開けていた。

 目鼻立ちのすっきりしたその顔立ちは、彼女の聡明さを物語っているようだ。高嶺の花――その言葉が自然と益子の頭に浮かんでいた。言葉さえも通じないんじゃないか、という圧倒的な美。誰も寄せ付けない気高さまで感じる。

 すぐに悟った。彼女こそ、噂の本間代議士の娘だ、と。

 少女――本間カヤは、じっと『田中』を見据えて、瑞々しい唇を動かす。


「彼をクビにしてください」


 いきなりの言葉に、益子はぎょっと目を見開き、大島も「はい?」とあっけにとられた。ただ、『田中』だけは予想がついていたかのように鼻で笑った。

 カヤは大島に振り返ると、厳しい顔つきで冷たく続ける。


「いますぐ、クビにしてくだされば、ここで起きたことは父には言いません」言って、ぽかんとしているユリィに申し訳なさそうに一瞥をくれる。「私の婚約者への暴力、なかったことにします」


 大島は戸惑いつつも愛想笑いを浮かべ、「失礼ですが……」とカヤに促す。カヤはすぐに大島の意図することを悟って、背筋を伸ばすとはっきりとした口調で名乗る(・・・)


「本間カヤです」


 その瞬間、大島は電流でも走ったかのようにハッとして、「申し訳ありません!」と深々と頭を下げた。そのまま土下座をしだすんじゃないか、という勢いだ。


「即刻、クビにいたしますので。くれぐれもお父様には……」


 カヤはどこか哀しげな表情でそれを見つめ、「お願いします」とだけ言ってユリィに歩み寄った。「はい!」と大島は腹から声をだし、カヤと入れ替わるように足を踏み出して『田中』の前に立ちはだかる。


「クビだ!」という一言が辺りに響き渡った。


 カヤは一瞬顔をしかめたが、堪えるように唇をかみ締める。猫を撫でるのを止めるようにユリィの右手首を優しく掴み、その手の平を向けさせた。手相を赤いインクでなぞったように血がにじんでいた。カヤは「ごめんね」と小さく呟く。

 ユリィはじっとカヤを見つめ、責めるような口調で告げた。


「彼が来るとは聞いてなかった」


 その言葉にカヤは苦しそうに眉をひそめ、今にも泣きそうな声を漏らす。


「私も……思ってもいなかった」


 背後から大島が何やらガミガミ叱りつけている声が聞こえてくる。カヤはたまらなくなって、ユリィの腕を掴んで歩き出した。早くこの会場から抜け出したかった。


   *   *   *


「今からでも遅くないですよ、カヤちゃん! 藤本くんを追いかけて謝りましょう」


 玄関の扉が閉まるなり、望さんはそう声を荒らげた。なぜか、焦っているようだった。


「撤回はしません。もう別れたんです」望さんを睨みつけるように見つめて、きっぱりと言う。「これでいいんです」


 私は胸元の十字架に手を置いて、大きく深呼吸をする。そう、これでいい。和幸くんのために私ができることは、これしかないもの。本当はこの十字架も捨てるべきなんだろうけど……できない。これは和幸くんのお嫁さんの証。曽良くんと――ううん、カインの皆さんとの誓いがつまっている。和幸くんを守る、という誓い。これを持っていれば、自分の気持ちに惑わされて道を踏み外すことも無い。きっと、戒めになってくれる。そう思える。だから、これだけは持っていたい。大切な思い出とともに。

 私が土となって消えても、これだけは残ってくれる。(からだ)もお墓もなく、和幸くんの心からも消えた私が、この世界に残していける唯一の生きた証。そうなってほしい。

 本当はね、あの結婚指輪も持っていたかったんだ。でも、だめ。あれには、彼への愛が詰まり過ぎてるもの。持っていたら、彼が恋しくてたまらなくなる。おかしくなる。狂ってしまう。

 本当は彼に覚えててもらいたい。私の愛を心の隅にでも残しておいてほしい。でも、それは私の我侭。私は彼に幸せになってほしい。そのためなら、なんだってする。そのためなら、彼に憎まれてもいい。


「前もって言っておいたじゃないですか。だから、紙袋も持ってきてくれたんでしょう」


 言いながら、サンダルを脱いで玄関にあがった。「いや、まあ、そうなんですけど」と困惑した声が背後から聞こえてくる。


「せめて、もう少し二人きりで話し合ったらどうですか?」


 私の後をついてきながら、望さんは珍しく真剣な口調でそう説得を始めた。


「本当は藤本くんが浮気でもしたんでしょう? 今は赦せないかもしれませんが、一時の感情に任せて決断を急ぐとあとで後悔しますよ。浮気は男の甲斐性ともいうでしょう。せめて、もう少しだけでも付き合って……」


 どうして、望さんがこんなに気にしてるんだろう? 和幸くんのこと気に入ってたんだろうか。そうは見えなかったけど。


「和幸くんが悪いわけじゃないんです」私は立ち止まって身を翻すと、望さんを真っ直ぐに見詰めた。「悪いのは……私なんです」


 望さんは、まさか、と頬をひきつらせる。私はそれ以上何も言わずに微笑した。説明できたら分かってもらえるんだろうけど、世界の終焉に望さんまで巻き込むわけにはいかない。


「とりあえず」と、望さんは顔をしかめて私に迫ってきた。「金曜日のオークションまでは付き合っててもらえませんか?」

「え?」


 一体、何を言い出すんだろう? 私はぎょっとして目をむいた。


「嫌です」ときっぱりと答えるが、望さんは困り果てた表情を浮かべて首を横に振る。

「わがままを言わないでください。あなたが婚約者を連れてくると本間先生はご友人にすでに伝えられているんです。これであなたが一人でオークションに現れたら、本間先生の立場がないでしょう」


 思わず、言葉を失った。そういうものなんだろうか。考えてもみなかった。私が一人で行ったら、おじさまに迷惑がかかる? おじさまを嘘つきにしてしまう? 自然とうつむいていた。


「だから、形だけでいいんです。オークションには藤本くんと一緒に行っていただけませんか? 彼を連れてきてくれるだけでいいんですよ」


 じりじりと望さんは歩み寄りながら、懇願するような声色で言った。

 私はしばらく考え、ハッとして顔をあげる。いい解決策を思いついたのだ。


「婚約者、連れて行きます」


 望さんの表情が一気に晴れ渡る。ホッとしたのか、いつもの余裕の微笑が浮かんでいた。

 そう、『婚約者』と一緒ならいいんだよね。私はにこりと微笑んで、付け加える。


「和幸くんじゃないですけど」

「は?」なぜか、望さんは表情を曇らせた。「それ……どういうことですか?」

「だから、新しい恋人です。さっき、和幸くんにも言ったじゃないですか。私、ほかに好きな人ができたんです」


 段々と私の声は小さくなっていった。言ってて自分でも嫌になる。新しい恋人なんていない。和幸くんに諦めさせようと思って口から飛び出した真っ赤な嘘だった。でも、おじさまのためにそれを事実に変えることもできる。

 こういう場合、嘘から出た真って……言えるのかな?


「あれ、本当だったんですか?」望さんはいぶかしげな表情で、そう尋ねてきた。「てっきり、はったりかと……」


 ばれてたんだな。そう思うと、余計に恥ずかしくなる。

 私はごまかすように微笑んで、踵を返して階段へと向かった。

 明日、リストくんとユリィさんに相談しよう。体の異変(・・)についても、話さなきゃいけないし。――そう思うと、憂鬱でため息が漏れた。こんなとき、誰よりも傍にいてほしい人はもういない。差し伸べてくれた手を、私は払いのけてしまった。彼はもう、私を迎えにきてはくれない。

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