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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第四章
203/365

前夜祭 -2-

「連れって……あなたには関係ないでしょう」


 カヤは咄嗟に目を背け、踵を返してその場から逃げようとした。その腕を、配膳人――のふりをした和幸がつかむ。


「本当に関係ないのか!?」


 盆にのったシャンパンがこぼれるのも構わず、和幸はカヤの腕をひっぱり引き寄せた。「離して!」とカヤは身をよじって逃げようとするが、男の――それも、商業用のクローンである彼の力に対抗できるはずはない。和幸はぴくりともせず、カヤを真剣な眼差しで見下ろしていた。


「俺はまだ納得してない」


 和幸の言葉に、カヤは抵抗をやめてぴたりと動きを止める。


「何かあったんだろ」

 

 心配しているようにも聞こえる優しい声だった。カヤは胸が熱くなり、涙がこみあげてくるのを感じた。それを隠すためにすばやく顔を背け、「離して」とだけつぶやく。もちろん、そう言って大人しく引き下がるような男ではないことはよく知っている。カヤは針を飲み込むような痛みに襲われつつも、ぐっと堪えて毅然とした態度で口を開く。


「私たちはつり合わない」唇をかみ締め、カヤは覚悟を決めて和幸に振り返る。――それでも、目を見ることはできなかった。自然と視線は口元で止まる。「あなたは私にふさわしくない」


 きっぱりとそう言うと、和幸は鼻で笑った。まるで相手にしていないかのように。


「聞き飽きたんだよ、お前の嘘は」

「嘘じゃない!」


 カヤはとうとう声を荒らげた。いくら柱の影になっているといっても、これだけ騒げばさすがに周りのゲストたちも気づく。ちらちらと覗かれている視線を背中に感じた。ここで騒ぎなんて起こせば、養父である本間に迷惑がかかる。カヤはばつが悪そうに目を泳がせ、「お願い、離して」と小声で懇願した。

 和幸はしばらく難しい表情を浮かべて考えていたが、しぶしぶカヤの腕から手を離す。――どういう事情であれ、カヤのつらそうな顔を見るのは耐えられなかったのだ。


「カヤ」と、和幸はせつなげな声を漏らした。「何があったんだ? 頼む、教えてくれ」

「……」

「力になりたいんだ」


 カヤの呼吸は荒くなっていた。今すぐにもその胸に飛び込んで抱きしめてもらいたい。泣き喚いて心のうちをすべてぶちまけてしまいたい。慰めて欲しい。「大丈夫だ」と包み込むような温かい声で言ってほしい。そしたら、たとえ気休めだとしても、ずっと楽になることだろう。でも、それは自分勝手な望みだ。彼のためにはならない。彼を苦しめることになる。だからこそ――

 カヤはごくりと生唾を飲み込み、張り詰めた表情で和幸を見上げた。愛おしい澄んだ瞳が自分に向けられている。胸がきしんだ。自分がその気になれば、すぐにでも彼の愛を、その身で、その心で、味わうことが出来る。彼はすぐそこにいる。手に届くところにいる。手を伸ばすだけで、自分のものになる。その誘惑が恐ろしくて、一秒も経たずにカヤは目を反らす。そして、かすかに震える唇から言葉を漏らした。


「他に好きな人ができたの。何度も言わせないで」

「は」と、和幸は馬鹿にしたような笑みを浮かべる。「嘘だ」

「嘘じゃない!」

「お前はそんな女じゃないだろ」

「そんな女になったの」


 和幸の苛立ったため息が聞こえてきた。胸が突き刺されるように痛む。こんな気持ちを味わいたくなかったから、必死に避けていたというのに。


「もう私に関わらないで」


 涙声にならないようにするので精一杯だった。

 カヤは今すぐここから逃げたかった。和幸から遠ざかりたかった。このまま彼の傍に居たら、甘えたくなってしまう。彼への溢れんばかりの気持ちを抑えることができなくなる。せっかくの覚悟が崩れ落ちてしまう。


「カヤ」


 呆れ果てたような、それでいて愛のこもった声色。そんな彼の声を聞くだけで息苦しくなる。カヤは、もうやめて、と心の中で叫んで目を瞑った。もう嫌なの。もう、これ以上、嘘をつかせないで。あなたを傷つけさせないで。いっそのこと……嫌いになって。


「カヤ」と和幸は再び名を呼ぶ。さっきとは違い、どこか警戒しているような低い声で。「こいつが、新しい男か?」

「!」


 思わぬ言葉を耳にし、カヤは目を開いた。遠慮がちに顔を上げて和幸を見る。その視線は自分を飛び越えて背後へと向けられていた。カヤは気まずさに顔をしかめながらも、ゆっくりと振り返る。


***


 俺はバイトに行く前に本間の家に寄ることにした。カヤの見舞いのためだ。

 空はすっかり晴れ渡っていたが、道路にはまだ水溜りが残っている。今朝、急に降り出した通り雨の名残だ。ズボンの裾には泥がこびりついている。俺は顔をしかめてそれを睨みつけた。こういうとき、制服ってのは厄介だよな。すぐに洗えるわけでもないし。

 にしても、自宅謹慎が解けたのは嬉しいが……クラスの連中の視線が痛かった。カインだから、というのもあって、今まで目立たないように暮らしてきたわけだが、昨日の熊谷との一件で瞬く間に『噂の人』だ。平岡いわく『三流グループ』である俺が、学年一のイケメンの不良を殴り飛ばしたんだもんな。まさに、何も知らない奴ら(カヤ以外全員か)にとっては革命だよ。てか、平岡まで今日はびくびくして話しかけてきたな。何を今更怯えてるんだよ、あいつは。

 とりあえず、俺を退学間近まで追い詰めた昨日の暴力事件のお陰で、俺がカヤと付き合ってることは証明できたみたいだ。どうやら、昨日、カヤがクラスの女子に俺との関係を明言してくれたようで、ひそひそと「神崎さんが藤本くんと? ありえない」という誉れ高い(・・・・)噂話があちらこちらから聞こえてきた。やっぱ、砺波の言う通り、周りから見れば、俺とカヤはつりあってないんだろうな。

 そりゃそうか。神の最高傑作である彼女と、人が犯した罪の代表作ともいえる(クローン)じゃ、つりあうわけもない。

 でも、だからなんだ。誰がなんと言おうと、たとえ神が反対しようとも、俺はカヤが好きだ。これからも何が起ころうとそれが変わることは無い。カヤを守り抜いて、『収穫の日』を乗り越えて、あいつを幸せにしてみせる。人間として。一人の女として。俺はそのために生きる。それが俺が選んだ使命だ。


「!」


 不意に、目の前にそびえる玄関のドアがおもむろに開きだした。緊張がはしって、咄嗟に背筋を伸ばしていた。もしかしたら、本間の親父さんが出てくるかもしれないからな。平日の夕方なんて、普通は仕事だろうが……カヤが体調を崩したのだ。心配して家に帰ってる可能性もある。念のためだ。

 だが、俺の予想を大きく裏切り、開いたドアから顔を出したのは――


「カヤ!?」


 学校を早退して家で休んでるはずのカヤだった。寝巻きにカーディガン。元気のない沈んだ表情。大げさかもしれないが、生気すら感じられなかった。いつもの笑顔は陰も形もない。まるで笑い方を忘れてしまったかのような冷たい女がそこに立っていた。

 さらに不思議なことに、夕べまであったはずのガーゼがない。左頬は傷一つ無く、肌理細やかな肌が顔を覆っている。にきび一つつくったことのないような肌だ。美月姉さんによると、静流姉さんにナイフで斬りつけられたって話だったんだが……まあ、かすった程度らしいし、たいした事なかったのかもな。傷跡が残らなかったなら、それに越したことは無い。

 そんなことより……と、俺は今にも倒れそうなカヤの代わりに玄関の扉に手をかけ、大きく開いた。


「大丈夫か?」いや、見るからに大丈夫じゃないんだが。「調子悪くて早退したって? 風邪か?」


 言って、俺はカヤの肩にそっと手を置いた。


「わざわざ出迎えてくれなくてよかったんだ。部屋に戻って休め」


 バイトの時間まで、部屋で付き添うから――そう言いかけた俺の腕を、カヤは乱暴に手で払った。一瞬、何が起きたか分からなかった。きょとんとしている俺に、カヤはゾッとするほど冷たい声で言う。


「帰って」

「!」


 『帰って』? 俺はまゆをひそめてカヤを見つめた。視線を落として黙っている彼女は、美しい彫刻かと思えるほどの無表情。感情がないかのようで、不安に襲われた。調子が悪い、て話だったが……本当にそれだけか? 何かひどい目にでもあったんじゃないのか?


「カヤ、何かあったのか?」語調を強めて尋ねると、カヤはおもむろに顔を上げて俺をまっすぐに見つめてきた。


「別れたいの」

「……は?」


 あまりにも唐突だった。


「わ、別れたい?」


 苦笑して聞き返すと、カヤはためらう様子もなく「別れたいの」と繰り返す。嫌になるほどはっきりとした口調だ。


「いきなり、なに言ってんだよ?」冗談だろ、と言い掛けて俺は口を噤む。それが愚問だということは、カヤの真剣な表情から明らかだった。代わりに、「俺、何かしたか?」と尋ねた。


 カヤは目を背けて押し黙る。眉間に皺を寄せ、何かを考えているようだ。

 正直、フラれる理由に思い当たる節は何も無い。確かに、一昨日の夜からケンカはしていた。バイト仲間の葵を俺のマンションにつれてきたことがきっかけで口論になり、『隠し事』やら『嘘』やらでカヤは珍しく取り乱していた。だが、夕べ、それは解決したはずだ。カヤは俺の『隠し事』を認めてくれたし、卒業パーティーから帰るころにはすっかり元通りになっていた。別れ際にキスもしてくれたし……

 そうだ、キス! まさか、曽良のことか? 曽良とのキスをまだ気にしてる? いや、でも、それでなんで別れ話になる? 自責の念にかられて……って様子でもないし。そもそも、無理やりされたわけだから、カヤに非はない。夕べ、その旨はしっかりと伝えて、カヤも納得していたはずだ。

 とはいえ、やっぱ、俺がカヤの機嫌を損ねるようなことをしたんだろうな。それで別れるなんて変なことを言い出しているに違いない。とりあえず、謝っておこう。カヤはずっと黙ってるし、このままじゃ埒があかない。男として情けないが、もう謝るしかない。背に腹は変えられないというかなんというか……


「悪かった」と俺はぎこちなく謝罪した。「今のとこ、心当たりはないけど……お前を追い詰めるようなことをしたんだよな? せめて、どこかで落ち着いて話し合えないか?」

「あなたと話すことなんて何もない」

「!」


 間髪居れずにカヤはぴしゃりと言った。おいおい……俺、よほどのことをしたのか? 唖然としている俺を尻目に、カヤは家の中に振り返り、「望さん」と声をかける。

 呼ばれて、椎名が姿を現した。「やあ、藤本くん」と、遠慮がちに声をかけてきた。いつもと違い、飄々とした雰囲気は無い。俺とカヤが別れ話を繰り広げているこの状況を、誰よりもおもしろがるのはこいつだと思っていたが。


「どうも」と戸惑いつつも返事をし、不意に、椎名の持っているある物に目がいった。椎名が玄関から降りてくるなりカヤに手渡したある物――紺色の紙袋。俺はいぶかしげな表情でそれを凝視する。見覚えがある、なんてもんじゃない。あれは……


「これ、砺波ちゃんから預かってたの。葵さんが間違って持ち帰ってたんだって」言って、カヤは紙袋を――macaronと隅に書かれた紙袋を渡してくる。「返す」


 マカロンの紙袋に……葵! やっぱり、そうか。葵と一緒に買いに行った『シンデレラ』の靴だ。砺波の高校で開かれるクリスマスパーティーの招待状代わりに使われる靴。俺はカヤを誘おうと思って、一昨日買っておいたんだ。失くしたと思っていたら、葵が持ち帰ってたのか。

 って……『返す』?


「いや、それ、お前に渡すつもりだったんだ。返さなくていい」


 俺は慌てて、そう言葉を返した。

 いろいろと分からないことがありすぎて、頭の中が混乱している。なぜいきなり別れを告げられたのか。それも、もちろん一つだが……てっきりどこかに置き忘れてしまったと思い込んでいたプレゼントがいきなり戻ってきて、しかも、渡そうと思っていた人物から差し出されているこの状況。どう受け止めればいい? しかも、砺波はなんで俺じゃなくカヤに預けた? 意味が分からん。

 とにかく、今はそんな疑問に構ってる場合じゃないよな。ムードも段取りもめちゃくちゃだが、こうなったら仕方がない。


「カヤ」と俺は改まって真面目な表情で声をかける。「クリスマス、一緒に……」

「行かない!」


 は……早っ。まだ最後まで言ってないじゃないか。どんだけ怒ってるんだよ?

 って、あれ? 俺はあることがひっかかって、ちらりとカヤから隣に佇む男に視線を移す。カヤのボディガード、椎名望。いつも人を小ばかにした態度をとるこの男が、やけに大人しい。からかう絶好のチャンスだというのに、うんともすんとも言わない。嘲笑でも聞こえてきて当然の状況なのに、神妙な面持ちで黙っている。椎名を気にしてる場合じゃないんだろうが、こいつが静かだと気味悪い。俺は余計に不安になった。


「あなたと行く気はないの」カヤは強い口調でそう言って、紙袋を俺に押し付けてきた。「別れるんだから」

「……」


 俺は今起きてる出来事が信じられなかった。嫌な夢としか思えない。すんなり受け取れるわけもなく、俺は呆然としていた。

 別れるって……本気で言ってるのか? 


「指輪も中に入ってるから」

「!」


 指輪!? ちらりと紙袋の中に目をやれば、確かに白い箱の上にキラリと光るものが見えた。安っぽい、おもちゃみたいな指輪。俺がカヤにあげた婚約指輪だ。

 俺は愕然として言葉を失った。あんなに喜んでたじゃないか。どうしたっていうんだ? 


「受け取らないのなら」冷酷とも思える声でカヤはつぶやき、紙袋を隣で立っている椎名に突きつける。「彼に預けておくから」

「はい?」


 椎名もこの展開は予想していなかったようだ。珍しくぎょっとして驚いて、「僕ですか?」と受け取るのをしぶっている。どうやら……この別れ話にはマジでこいつは関わっていないみたいだな。こいつが仕掛けた悪ふざけかとも思ったんだが――いや、そう願っていたのかもしれない。

 俺は大きくため息をつき、カヤの手から紙袋を奪い取った。椎名に預けられるよりは、自分で持っていたほうがマシだ。

 そして、ちらりとカヤの胸元を見つめる。パジャマの第一ボタンは開かれていて、そこから十字架がのぞいていた。それだけ確認して安堵のため息をつく。なぜかは分からないが、カヤはカインの皆からもらったあの忌まわしいネックレスだけは手元に残すことにしたようだ。指輪と一緒に手放されたらどうしようかと思った。

 万が一、俺と別れたとしても、カヤにはあのネックレスだけはしててもらわなきゃいけない。あれは……カヤを裁く十字架。カヤの命を奪うために捧げられた十字架だ。皮肉なものだよな。人間を裁くために創られたカヤが、クローンに――人間が犯した禁忌の創造物に――裁かれようとしてるんだ。これも神が仕掛けた悪戯なら、ほんっと悪趣味だ。


「別れたいなら理由くらい言え」


 とりあえず、カヤが今すぐ曽良に殺されるようなことにはならなそうだ。ほんの少しだけ余裕がでた俺は、きつい口調で尋ねた。

 ここまで来たら嫌でもカヤが本気だと認めざるを得ない。どうせ椎名に預けるなんて言い出したのも、椎名を嫌ってる俺ならこういう行動をとると読んだからだろう。

 カヤはしばらく黙り込んでから、迷いの無い瞳で俺を見つめてきた。


「他に、好きな人ができたの」


 それは愛なんて知らない機械がだしたような、冷淡な声色だった。

 目の前にたたずむ、カヤに似たこの女は一体、誰だ? 俺は混乱する頭の中で、助けを求めるかのように誰かに問いかけていた。


「そういうことだから」とカヤは作り笑顔を浮かべて言う。目だけは笑ってはいなかった。帰って、という心の声がはっきりと聞こえてくる。


 正直、あきれ返っていた。そういうことって……俺が納得するとでも思ってるのかよ。好きな人ができた? なんでそんな嘘をつくんだ? なんでそんな嘘をついてまで、別れようとする? そこまでして別れたい理由は何だ?

 だが、尋ねたところでこいつは答えないだろうと確信していた。話し続けても、結局こんな調子だろう。これ以上、馬鹿げた会話を続けたら、俺も我慢できなくなる。頭に血がのぼって何を言い出すか分かったもんじゃない。それだけは避けなきゃいけないと思った。思い出されるのは、一昨日の夜のこと。冷静さを失って思うままに言葉の撃ち合いをはじめたらどうなるか……俺は身をもって知った。今日のところは退こう。一晩寝たら、カヤも落ち着くかもしれない。そんな望みを抱いて、俺は何も言わずに踵を返した。

 ほかに好きな男ができたなんて、苦し紛れの嘘だと俺は信じて疑わなかった。

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