幸福な終焉
「ねえ、お婆さん。起きて」
少女は雨に打ち付けられながら、水浸しのコンクリートの上に膝をついて必死に老婆を揺り動かしていた。長い長い一本橋の真ん中で、ぴくりとも動かない老婆を必死に揺らす。
「ねえ、お願い。話がしたいの」
少女の手は小刻みに震えていた。それは決して寒さのせいではなかった。恐怖と困惑。彼女は混沌の中にいた。
「お願い……あなたも知ってたんでしょう? だから、私を悪魔と呼んだんでしょう?」
ねえ、ねえ、とひたすらに、狂っているかのように少女は老婆の肩をゆすっていた。
「教えてほしいの。聞いて欲しいの。お願い」少女の瞳は充血し、潤すために分泌されるはずの体液は枯れてしまったようだった。「私は今すぐに死ぬべき存在なの? 誰かに殺されるべき存在なの? だからあなたは彼に私を殺せと言ったんでしょ?」
白髪の老婆は白目をむいて、紫色の唇をあんぐりと開けている。生気はない。死臭すらするのだ。だが、それでも、少女は尋ね続けた。夢中で、必死に、『答え』を、『選択』を、この呪われた命の正しき『終焉』を求めていた。
「私は」と少女は老婆から手を離して、水溜りの上に力なく腰をおろす。「お姫さまじゃないのね」
空を見上げると厚い雲から容赦なく雨が次から次へと落ちてくる。少女は諦めたように微笑んだ。
「王子さまに退治される化け物」
がくりと頭を垂らして、力なく立ち上がる。下着まで濡れているのが分かったが、どうでもよかった。ふらりと身を翻し、顔を上げて「あ」と呆けた声を出した。
見覚えのある人物が傘をさして呆然とこちらを見ていたのだ。それも二人。
「神崎カヤ?」つり目を大きく開いて少年がぽつりと言う。
「驚きましたね」その隣で眼鏡をくいっとあげてお団子頭の少女がつぶやいた。
その二人をまじまじと見つめ、少女――カヤは「そうなのね」とひとりごちる。悔しそうに微笑んで横たわる老婆に目をやった。
「これが『答え』?」
それならば、とカヤは覚悟を決め、二人を見据えてはっきりとした口調で言う。
「留王くんに茶々さん。おはよう」
「なんで、お前がここにいるんだ?」
留王は眉をひそめてカヤを睨みつけた。そうっと手を腰に伸ばし、今朝、曽良に返してもらったばかりの銃をつかむ。
その動きに敏感に反応し、茶々は「留王」と諌めた。「今は堪えなさい。曽良兄さんにも言われたでしょう」
茶々の押し殺した声がまるで耳に入っていないかのように、留王は銃を握る手に力をこめた。いつでも取り出して目の前の妖しい女を撃てる。それを想像すると胸が高まるくらいだ。すぐにでもこの女を殺すことこそ、家族のため。その考えは変わってはいなかった。
「答えろ、神崎カヤ。こんなところで何してる?」
幽霊のようにぼうっと突っ立つ彼女に、茶々も警戒していた。
留王の質問は最もだった。ここを神崎カヤがうろついているのは不気味だ。この橋は都心とスラム街をつなぐ一本道。ここを渡れば、お台場スラムだ。そして――ヴィーナス教会がある。密かにカインノイエと手を組んでいる教会だ。留王と茶々がやってきたのも、その教会のシスターに会うためだった。今朝、留王の銃を受け取りに『実家』に訪れ、リーダー代理である曽良から『おつかい』を頼まれたのだ。といっても、小切手を渡す程度の簡単なものなのだが。
なんにせよ、スラムともカインとも関係のないはずの彼女が、こんな場所にいるのは確かに怪しい。
「神崎カヤさん。答えていただけますか? なぜ、ここにいるんです?」
茶々も落ち着いた声でそう問い詰める。
カヤは、彼女には珍しく、鼻で笑った。
「なぜだと思う?」びしょびしょに濡れた細い足を動かし、二人に歩み寄る。「なぜ、私はこの世界に現れて、あなたたちと出会ったのか」
一メートルほど離れたところで、カヤは立ち止まった。疲れ果てたような表情を浮かべ、哀しげに微笑んだ。
「あなたたち皆を殺すためよ」
たった一言。雨音にかき消されそうなほどのか細い声。――それだけで、留王の決意を固めるには充分だった。引き金を引かせるには充分だった。
激しい雨音の中に乾いた破裂音が辺りに響き、「留王!」という子供のように高い声が叫ばれた。
***
「フォ……フォックス」
鏡を持つ手が小刻みに震えていた。ふっくらとした艶やかな唇も上下に細かに揺れている。
「フォックス!」分厚い睫毛に覆われた漆黒の瞳を見開いて、妖美な女は台所に振り返った。「あなたの『お人形』が!」
その言葉に、ばたばたとあわただしい足音を響かせて浅黒い肌をした青年が台所から現れる。
「カヤがどうしたんですか、バール!?」
そう叫ぶ端正な顔立ちには不安の色が浮かんでいる。バールが鏡を携えて座っているソファに駆け寄ると、背もたれに手をかけた。
「それが……」
バールは放射線状に広がる上下の睫毛をぱちぱちとあわせながら、フォックスを食い入るように見つめた。こんなに緊張しているバールを見るのは初めてだ。
「ごめんなさい」とバールは甘美な声を弱々しく零す。「あまりにも唐突でしたの。声を出す暇すらなかったのよ。様子はおかしいとは思ったけど、普通に話していたし、夕べ見た顔だったから、てっきり友達かと……」
珍しくうろたえている。フォックスは激しい胸騒ぎを覚えて、勢いよく彼女の手から鏡を奪い取ると、その中を覗いて目をむいた。汗が一気に噴出して、足が――いや、全身が震えだす。
鏡の中の光景をただじっと見つめて、髪をかきむしる。嘘だ、とつぶやいて血が出るほど唇をかみ締めた。
ソファから立ち上がり、バールは「フォックス」と不安げに呼んでおもむろに彼を抱きしめる。フォックスにとってこの事態がどういう意味をもつのか――バールは痛いほど分かっている。それは神の『裁き』がどうのという問題ではない。もっと個人的で虚しくも深い執着。
バールは露出した肌をフォックスによせつけて、彼を想って抱きしめていた。彼がぽつりとつぶやくように彼女の名を呼ぶまでは。
「バール」
意外にも落ち着きはらった声だった。当然取り乱すだろう、と予想していたバールは「え」と戸惑った声を漏らして彼の体から離れる。「はい?」と顔を覗き込めば、さっきまで動揺していた表情は驚愕のそれに変貌していた。
「これを……」
言って、フォックスは鏡をバールに見せてきた。『人形』に何が起きたかは自分も分かっている。今更見なくても……そう思いつつも、フォックスの心中は荒れに荒れているはずだから、とバールは促されるまま鏡を覗いた。
そして――天使は短い悲鳴のようなものを出してあとずさった。
「ど、どういうことですの?」
***
足音。水がはねる音。「逃げないと!」という幼い少女のような声。――全てが遠ざかっていく。
よかった、と思った。気を失う前に逃げてくれないと……私の中から、怪物が現れて二人を食べてしまうらしいから。二人の音が聞こえなくなるまでは、意識を保っておかないと。
ああ、冷たい。体が冷えていくのを感じる。不思議と、痛みがない。
水溜りに赤い液体が混じっていくのが目の端で見えた。私から出てるんだろうか。馬鹿にされているようにさえ感じる。土人形から血が出るなんて。偽物なんだよね。血に見せているだけ。本当は土……ううん、泥なんだ。
ぐっと拳を握り締める。
目頭が熱くなり、瞳から何かがこぼれだした。涙、という体液。ううん、それに似せたもの。これもどうせ泥。全部、全部、全部、偽物。
私は人間のふりした土人形。人間を殺すために創られた存在。
じゃあ、心も? 感情も? 粘土なの? 偽物なの?
ここで……この場所で「結婚しよう」と言ってくれた彼への気持ちは?
彼に出会うんじゃなかった。恋なんて覚えるんじゃなかった。愛なんて知るんじゃなかった。
そしたら……世界のためだ、と胸を張って、冷たくなる仮初の体を愛せたのに。ここまできて、彼に会いたい、死にたくない、て嘆く醜い自分に気づかずに済んだのに。
でも、これで……あなたに殺されることはない。あなたが死ぬことはない。あなたが苦しむことはない。だから、いいんだよね。
ねえ、この気持ちは本物だよね? 神が創ったまがいものなんかじゃないよね? この想いだけは……土になって消えたりしないよね?
そうであってほしい。そう信じたい。この愛は、私がこの世界で生きた証――それがあなたの中で生きていればいい。
世界が良いか悪いなんてどうでもいい。ただ……あなたのためなら、世界を守る価値はあると思ったの。たとえそれが、この身の消失を意味しているとしても。
これで……きっと、幸福な終焉なんだよね?
* * *
「雨だよ、まさよし」窓にへばりついてフランス人形さながらの大きな目をぱちくりと瞬かせる。「雨、雨!」
「さくら、風邪ひいてるんじゃなかったのか?」呆れたような声を出して、正義はさくらの部屋に入ってきた。「そんなに元気なら、学校行けただろ」
そう言った瞬間、さくらは急に咳き込み始めた。だが、明らかにわざとだ。嘘だというのは明らか。なぜ、今朝はこれに騙されてしまったのだろう。いや、分かって騙されたのかもしれない。さくらが学校に馴染めていないのは知っている。心を鬼にすることができなかったのだ。正義は頭を抱えてため息をついた。
「ほら、仮病なら仮病らしく、ベッドの中で寝てなさい」
語調を強めてそう言って、正義はさくらをひょいっと抱き上げてベッドにつれていく。
とりあえず、仮病なら安心して昼の授業に行ける。そう思うと、肩の力が抜けた。
「おはなしして、まさよし」
さくらは布団にもぐりこみ、鼻から上だけ出して甘えた声をだす。「仕方がないな」と言いつつも、正義はどこか嬉しそうにさくらの傍らに横になって、茶色が混じった黒髪を撫でる。細い髪を指にからめると、しばらく会っていない愛しい人を思い出した。
「なんのおはなしがいい?」
尋ねると、すぐにさくらは答えた。
「しゅうえんのうたひめ」
正義は予想はしていたが、またか、と苦笑する。
「カヤお姉ちゃんの教えてくれたおはなし!」
「ああ、分かってるよ」
言いながら、正義は一昨日の夜に別れを告げた少女の顔を思い浮かべた。美しさの中にも、今にも消えてしまいそうな儚さがあった。崩れかけの太古の遺跡に眠る女神の彫刻。正義はそんな印象を受けていた。
「あるところに、土からできたお姫さまがいました」
正義は一昨日の夜、別れたあとに、彼女からメールで教えてもらった御伽噺を語りだす。
「お姫さまは神さまに愛されていました。神さまのかわいいお人形です。
しかしかわいそうなことに、お姫さまが生まれた世界はとても邪悪で、神さまは悲しみました。
そこで神さまは、お姫さまにある詩を教えました。
その詩は、世界に終焉をもたらすものです。
神さまはお姫さまに言いました。
『つらくなったらいつでもこの詩を詠いなさい。汝を苦しめる世界は破壊され、汝は楽園へと導かれるだろう』
お姫さまは十七歳になるまで、世界に耐えました。
しかし、とうとう、お姫さまは憎しみに病みました。
そして世界を壊すことにしました」
そこまで話すと、さくらがひょっこり顔を出して自慢げに続きを引き継ぐ。
「ところが、そんなお姫さまのもとに白馬に乗った王子さまがやって来ました。お姫さまを迎えに来たのです。
王子さまはお姫さまを連れ去って世界を見せました。それまでお姫さまが知らなかった世界――愛にあふれた世界を。
お姫さまは世界を愛するようになりました。王子さまのおかげです。
お姫さまはお礼に王子さまに口付けをしました。
永遠の愛を誓う、長い長い口付け。
それから二人はずっと一緒に暮らしました。ずっと、ずっと、永遠に」
永遠に、とさくらは頬を赤らめてつぶやく。正義は愛おしそうに微笑んで、娘のふっくらとした頬を撫でた。
「カヤお姉ちゃん、また遊びに来る?」
人見知りする彼女がまん丸の目を輝かせてそんなことを尋ねてきた。ほんの数十分ほどしか一緒にいなかったはずなのだが、もう懐いたのだろうか。正義はぱちくりと目をしばたたかせ、言いにくそうに顔を背けて仰向けに寝転がる。驚きと、そして残念な気持ちが交錯する。
「もう来ないと思うな」
いや、二度と来ないだろう。来るな、と言ったのは自分だ。だが、そんなことをさくらには言えない。
「どうして?」と不思議そうなさくらの声が聞こえてきたが、正義は天井を見つめて何も答えなかった。
「なんだぁ」いじけたようにさくらはぼやいて、さくらは布団の中にもぐっていく。「続き、教えて欲しかったのに」
続き……その言葉に正義は眉をひそめた。脳裏によぎるのは、暗い屋敷を背に微笑む少女の姿。最後に目にしたクローンの恋人の姿。どうか、幸せになってほしい。二度と現れないで欲しい。
ハッピーエンドに続きはないはずなのだから――正義は祈るように心の中でつぶやいた。
三章はここで終わりです。ここまでお付き合いくださって本当にありがとうございます! 次話からは四章となります。徐々に暗くなっていくかと……。
第一話はいきなり始まりますが、驚かずに読みすすめていただけると話が読めていくように組み立てる予定ですので。今後ともよろしくお願いいたします。