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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第三章
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真の名前

 朝日の光がたちこめる校長室に、おしろいでも塗ったくったような真っ白い顔をした女がソファに浅く座っていた。四十代半ばにさしかかった彼女は目だってきた皺を何層ものファンデーションで隠していた。少し光沢(テカリ)のある灰色のスーツを着込み、首や耳たぶには金色に輝くアクセサリー。つりあがった目で、向かいに座る女性を睨みつけている。


「息子は今、病院で精密検査を受けておりますのよ? もしも、脳に異常でもあったらどう責任を取ってくださるおつもりですか、白石校長先生?」


 白石はひざの上で手を組んで、眼鏡の奥で輝く澄んだ瞳を怒り狂う女性に向ける。


「教室で暴力事件が起きたこと、心からお詫びを申し上げます、熊谷PTA会長。こちらの監督不行き届き……」

「その通りですわ」


 白石の言葉を遮って、熊谷はぴしゃりと言う。その真っ赤な唇は見た目も零す言葉も、白石の薄紅色のそれとは対照的だ。


「殴った生徒……誰でしたっけ? 羽田先生?」


 細く鋭い目が、白石の隣に座る若い教師に標的を移した。可愛い息子を殴った憎き生徒の名前を、まさか忘れたわけではないだろう——そんな無言のプレッシャーが伝わってくるようだ。

 睨まれた羽田は背筋を伸ばすと強張った表情を浮かべて答える。


「藤本です。藤本和幸です」

「そう、藤本くん」すました声でその名を口にし、PTA会長はまた白石に振り返る。「退学にしていただけますね?」


 まるでそれが決まりきったことのような口ぶりだった。白石は慌てて「退学はいきすぎではありませんか?」と異論を唱え、姿勢を一切崩すこともなく会長を見据えて淡々と語りだす。


「藤本くんによると、熊谷くんはある女子生徒の卑猥な写真を隠し撮りし、他の生徒に売りさばき……」

「証拠はあるんですか!?」


 会長は目を見開いて、大声で怒鳴りつけた。息子のよからぬ疑惑など聞く気はさらさらないようだ。

 これには毅然としていた白石の表情も曇る。眉をぴくりと動かし、気を落ち着かせるようにため息をついた。


「証拠はありませんが、藤本くんの主張も聞くべきです。理由もなく殴るような子ではないと思います」


 すると会長は鼻で笑った。「校長先生」と呆れた声を出して首を左右に振る。


「彼は孤児なんでしょう?」


 そのたった一言で充分だった。会長が何を言いたいのか、白石も羽田も悟った。そして熊谷も、自分が勝負の決め手となる切り札をテーブルの上に出したことを自覚していた。

 落ち着きなくきょろきょろ視線を泳がす羽田とは違い、白石はぐっと堪えるように唇を結び、なんとか解決策をひねり出そうと頭を働かせる。わたしも孤児ですよ? と言ってやりたいくらいだが、そんなことをすれば自分は校長の座から引き摺り下ろされるだろう。


「校長先生?」と熊谷は勝利を確信した表情で白石を見つめる。「私も時間がありませんの。早く決断をしていただかないと」


 白石はなんとか微笑を浮かべた。凛とした一輪の花を思わせる優雅な笑顔だ。だがその内に秘められているものは、強い憤り。

 羽田が隣で「校長」と急かす。どうやらこの教師は、己の生徒をかばう気はないようだ。それよりも会長の機嫌のほうが気がかりか。この場で彼を助けようとしているのは自分だけ――白石は組んでいる手に力をこめる。彼が孤児でなかったら、状況は違ったかもしれない。

 悔しさに視線を落とし、固く目を瞑った――そのときだった。


「失礼します」


 高々とよく通る少女の声がして、白石はハッとして顔を上げた。

 「後にしなさい」と言い掛けたが、返事も待たずにドアは開かれ、一人の女子生徒が入ってきた。大事な話をしているから誰も入れるな、と教頭に言っておいたはずだったのだが。


「今、取り込んでいます」


 白石ははっきりとした口調で少女に告げる。

 髪をばっさり切ったようで一瞬分からなかったが、その人並みはずれた美しさには見覚えがある。いや、この学校で彼女を知らない人間はいないだろう。

 彼女は白石の言葉を無視して颯爽と歩み寄り、向き合う二つのソファの間で立ち止まった。

 熊谷会長は少女を初めて見たようで、少女の放つ不思議な魅力に吸い寄せられるように身を乗り出していた。


「熊谷会長」と少女は屈託のない笑みを浮かべて声をかける。「私が藤本くんに息子さんを殴らせました」


 その魅惑的な笑顔に気を取られていたからだろう、熊谷会長は一瞬何を言われたのか分からなかったようだ。だが、「何を言ってるのです?」という白石の厳しい声にハッと我に返って立ち上がった。


「殴らせた!? あなたがですか!?」と鬼気迫る表情で訊ねると、少女はやはり笑顔を浮かべて答える。

「熊谷くんに嫌がらせを受けたので、藤本くんに仕返しさせたんです」


 悪びれた様子は少しもない。まるで当然のことのように、少女ははきはきと語った。挑発しているようにさえ見える。白石は言葉を失い、羽田は「やっぱりか」と怪しく笑んでつぶやいた。


「嫌がらせ!? 息子があなたに嫌がらせをしたというんですか?」

「盗撮写真をまわされました」


 盗撮写真、という言葉に、会長はたじろいだ。乾いてきた唇を舐めて、気合をいれるように息を吸い込む。


「証拠はあるんですか!?」決まり文句のように慣れた口調で言うと、女子生徒は「いえ」ときっぱり答える。


「証拠はないので、退学にされても仕方がないと思っています」


 躊躇なく、さらりと少女は言ってのける。さすがの会長も言葉を失ったようだった。白石も彼女の考えが分からず、いぶかしげな表情で見守るしかできない。その隣で、羽田はせわしなく少女と会長を見比べていた。


「ただ」と少女は全員の疑問に答えるかのように、大きな声で切り出す。「父は黙っていないでしょう」


 その瞬間、白石だけが目を見開いた。


「父?」

「はい」と、少女はわざとらしく悩ましげな表情を浮かべた。「私が退学になれば、父は必死になって事情を探るんじゃないか、て思うんです。そしたら、証拠もでてきますよね。そうなったら、熊谷くんがどうなるか。考えただけでも心配になります」


 証拠……熊谷は柳眉を寄せた。何の証拠かお分かりでしょう? 少女の試すような視線はそう言っているようだ。


「藤本くんを退学にしても、同じです」と彼女は脅すような声色で言う。「私が黙っていないので」


 小娘だというのに、その鋭い眼差しに会長はたじろいでしまった。PTA会長であり、教育委員会とも繋がりをもつ自分に恐れるものなどないはず。それなのに、怖気づいている自分がいる。不可解だ。そして気に入らない。ぐっと熊谷は口を噤んだ。

 そんなPTA会長の代わりに、羽田が立ち上がって「神崎、いい加減にしないか」と裏返った声で叫んだ。


「ああ」と少女は思い出したかのように目を丸くして、羽田を見やる。「先生方はまだご存知ではありませんでしたね。私、もう神崎じゃなくなったんです」

「は?」


 不思議そうな羽田を放って、少女は熊谷へと歩み寄り、にこりと微笑んだ。


「ご挨拶が遅れました」言って、右手を差し出す。「本間カヤと申します」

「……本間?」


 こんがり焼けたような色をした手を見つめながら、会長は怪訝そうな声を出した。

 カヤは笑顔を消し、真剣な表情を浮かべて会長を睨みつける。


「国家公安委員会委員長、本間秀実の娘です。――初めまして」


   *   *   *


「写真のこと、なんとお詫びしたらよいか。息子にはよく言って聞かせますので」


 熊谷の母は、職員室の前で必死になってカヤに頭を下げていた。


「気にしないでください」


 カヤは申し訳なさそうに微笑んだ。この会話をさっきからずっと繰り返している。別人のように腰が低くなったPTA会長は、カヤがなんと言っても謝り続けるのだ。


「いえ、本間さんの心の傷を考えると……」


 また、始まった。カヤはため息をつき、苦笑した。そして不意に、気がついた。会長が欲しい言葉を自分はまだ言っていないのではないか、と。会長の謝罪の言葉そっちのけでしばらく考え、カヤはハッとする。


「あの、熊谷会長!」言って、にこりと微笑んだ。「父には言いませんから。安心してください」


 すると、会長の表情にやっと笑顔が戻った。やはりそういうことか、とカヤは半ば呆れた。

 何度も振り返っては頭を下げる会長を見送りながら、カヤは沈んだ表情を浮かべる。とりあえずは和幸を退学の危機から救えたのだ。喜ぶべきなのだろうが……このすっきりしない気持ちは今後も晴れることはないだろう。


「神崎さん」凛とした声が背後から聞こえた。「いえ、本間さん、ですね」


 皮肉まじりな声だ。振り返ると、白石校長が厳しい表情を浮かべて佇んでいる。カヤは眉をひそめて、くるりと体を校長に向けた。


「卒業まで神崎で通したい。そうおっしゃったのはあなたでしたよね?」

「すみません」


 カヤは深々と頭を下げた。校長の言う通り、余計な騒ぎを起こしたくなくて、本間へ養女に入ったことも神崎の両親の死も隠してもらっていた。学校で『本間カヤ』を知っていたのは、校長と教頭、担任の野村、そして和幸だけだった(和幸が誰かに話していなければ)。


「わたしはあのようなやり方は好きではありません」


 校長はぴしゃりと言う。あのようなやり方――大臣である養父の名前を出してPTA会長を脅したことだろう。カヤは哀しげに微笑むと「私もです」と微笑みかける。


「でも、それがこの世界のやり方なんですよね」

「はい?」

「私にそれを変えるほどの力はないから、従うしかないんです」


 謝るどころか妙なことを言い出したカヤに、白石校長は気品あふれる顔立ちに困惑の色を浮かべた。カヤはそれに気づいてもいないようで、視線を落として独り言のようにつぶやく。


「この世界のやり方で、彼を守るしかないんです」

「何を言っているんですか?」

「お手数ですが」言って、カヤは顔を上げた。「私の記録……出席簿や成績表など、全部、本間に変えてくださいますか?」


 お願いします、とまた頭を下げて、カヤは校長の顔も見ずに踵を返して階段へと歩き出した。

 白石校長は遠ざかるその背中を複雑な表情で見つめていた。華奢な後姿は、無理して背伸びをしているようにも見えた。ちっぽけな自分を圧倒する理不尽な世の理になんとか立ち向かおうと必死になっている。どこか、若い頃の自分を見ているような気がして校長の心は締め付けられた。


***


 これでいいのよね。和幸くんは退学にならずにすんだんだから。 

 私は首元のチェーンをたぐりよせて、シャツの中から銀の十字架を取り出した。それを胸の前でぎゅっと握り締める。これを見つめると、思い出せる。――私の責任。表の世界で和幸くんを守るという使命。カインの皆さんから家族を奪い取った私にできる贖罪。

 たとえ泥にまみれようと、どれだけ醜くなろうと、私は彼を守る。私にできることは何でもする。利用できるものはなんだって利用する。神崎カヤだろうが、本間カヤだろうが。名前がどんなに変わろうとも、彼への気持ちは変わらないもの。

 彼のためなら、私はなんだってする。

 砺波ちゃんのように廊下を闊歩し、階段へたどり着いたときだった。一時間目はもう始まっている。誰もいないはずだったのだが、階段には降りてくる二人の少年の姿があった。

 二人とも、思わず息を呑んでしまうほど美しい容姿。一人は神話の中から飛び出してきた天使のような金髪碧眼の美少年。もう一人は御伽噺の王子のような、茶髪の甘いマスクの少年だ。


「おはよう、リストくん」と私は一人に声をかける。ブロンドを揺らしてこちらに向かってくる彼は、深刻な表情を浮かべていた。


「おはようございます、神崎先輩」


 今日から公式に本間になったんだけど……まあ、言うことも無いか。私はちらりと見慣れない『王子さま』に一瞥をくれた。


「お友達?」


 尋ねると、リストくんは「ユリィ・チェイスです」と低い声で答える。

 そのときには二人は階段を降りきっていて、リストくんとは違って(失礼かな)長身のユリィくんを私はまじまじと見上げていた。


「初めまして」


 にこりと微笑んで声をかける。低血圧なのだろうか。眠そうな表情。ユリィくんは私を茶色い瞳でじっと見つめて、


「初めまして、パンドラ」

「……え?」


 背後の昇降口から、生ぬるい風が入ってきた。私は妙な悪寒に襲われて気分が悪くなった。直感的に、雨が降る、と分かった。


   *   *   *


「さっきまで晴れてたんだけどな」


 洗濯物でも干そうかと窓を開けたときだった。起きたときには晴れ晴れと青空がひろがっていたはずなのに、どこからか来た暗雲が太陽を遮っていた。


「参ったな」と俺は頭をかく。


 自宅謹慎なんてズル休みみたいなもんだろ、儲けもんだ。なんてポジティブに考えていたのだが、いざここまで自由時間があると何をしていいのか分からない。ゲームも映画も興味ない人間だからな、俺は。まだカインだったら『実家』に行って掃除でもしてるとこなんだろうが。


「暇だ」


 カヤに電話? って、馬鹿か。カヤは授業中だっての。

 とりあえず部屋の掃除でもしようかと思ったが、そこまで散らかっているわけでもない。本気でやることがない。

 がっくりと頭を垂らし、ベッドに倒れこんだ。

 丁度そのときだった。ケータイが軽快な音楽を鳴らし始め、俺はむくりと起き上がって枕元に転がっているそれを拾う。

 分かってはいたが、サブディスプレイに出ているのはカヤの名前ではない。見知らぬ番号だ。間違い電話だとは思ったが、どうせ暇だしとりあえず出てみる。


「もしもし?」

「藤本、元気か?」


 上擦った声が聞こえてきた。男のくせに猫なで声のように甘えた声色。俺は吐き気すら覚えて、「誰だよ?」と不躾に尋ねる。


「羽田だ。担任の」


 は、羽田!? 頭の中に浮かぶのは前髪をやたらと気にする若いいけ好かない教師。


「な、なんスか?」

「実はな」と調子よく言う声には、いつもの人を蔑むような印象はない。妙だ。気味悪い。「お前の自宅謹慎が解かれたんだ。学校来ていいからな」

「え!?」い、いきなり? 「じゃ、退学は……」


 校長は退学の可能性を示唆していた。今日、熊谷の母親が俺の退学処分について話しに来るとかいう話じゃなかっただろうか。だが、羽田は「まさか」と裏返った声で言って笑い出した。


「そんなわけないだろう。いいから、学校においで。教室で会えるのを楽しみにしているからな」

「は……?」


 背筋がゾッとした。あまりに気持ち悪かったからだ。電話を切って呆然とする。なんだ、あの羽田のごますりぶりは? 単に機嫌が良かっただけか? いや、それにしてもテンションが高すぎだ。てか、好意的過ぎる。いきなり男色に目覚めて俺が記念すべき第一号に選ばれたのか? ――いくらなんでも、それはないよな。校長が何かした?

 ま……まあ、いいか。学校で羽田と顔を合わせるのが嫌だが……カヤに会える。そう思うと自然と笑みがこぼれた。

 初めて意気揚々と制服に着替えようと思った。

 寝巻きを脱いで、ふと、雨音に気づいて窓を見やった。


「マジかよ……」


 一気に気分が沈む。外は夕方なみに暗くなり、激しい雨が降り出していた。遠くを見やれば、別世界のように晴れている。どうやら、通り雨みたいだな。

 少し待ってから行くか。どうせ、今行っても授業中だ。そう決めて、俺はのろのろと着替え始めた。


 カヤと会ったらまず何を話そうか。そればかり考えていた。

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