異端児の誘い
朝の校舎。その屋上では、いつものように一人の生徒が階段室の屋根で寝転がっていた。金髪は朝日を受けて白に近い色に輝き、白い肌は、ちょっとでも日光を浴びたら溶けてしまうんじゃないか、と思うほど透き通っている。もし彼がこうして毎朝屋上で無防備に大の字で倒れているのを知ったら、学年の女子は放っておかないだろう。整理券でも配ってのぞきにきそうなものだ。
だからこそ、彼は誰よりも早く学校に来て、誰にも見られないようこっそりとここに陣取っていた。
何もかもいつも通り。ただ一つ、いつもと違うのは、彼の瞼が開いているということ。天に神がいるとすれば、今にもその手が伸びてきて奪いにくるんじゃないか。そう思ってしまうほど美しく光り輝く藍玉が二つ平行に並んでいる。
その藍玉に、ある一つの影が映った。太陽をくぐってすいっと青空を横切っていく。少年は瞼をやや閉じて、むくりと起き上がる。
「来た」
そうつぶやくと、少年の隣に、黄金に煌く光の粒子を纏った幼い子供が現れる。ハープの弦のごとく長く細い黄金の髪が風になびき、まるで美しい音色を奏でそうだ。
「うん。間違いない」言って、幼い子供も空を見上げた。髪と同じく金色に輝く瞳が、少年と同じ影を捕らえる。「シャカンのエミサリエスだ」
「やっぱ、オレたちに用があったみたいだな」
やれやれ、と少年は言いながらあぐらをかいた。
そして、待ち構える二人の前に、たくましい筋肉を麗しい白いドレスで隠した一羽の白鳥が舞い降りた。つぶらな瞳で少年をじっと見つめる白鳥は、孤高の強さと気高き美しさをかねそろえている。
羽根が遅れて空から降ってきて、少年の頬をかすめた。くすぐったさと、白鳥の優雅さに、少年は笑みを浮かべる。
「人の姿になったら、さぞや美しい姫君なんだろうね」
冗談交じりに言うと、白鳥は女性の腕のように細長い白い首を少年に向けて傾けた。
「お初にお目にかかります。マルドゥクの王」
白鳥の口は動いていない。だが、その上品な声は確かに聞こえてきた。そしてはっきりと理解した。その声は、この白鳥のものだ、と。
「シャカンのエミサリエスだね」と、少年の隣で金目の子供が真剣な表情で言う。
「はい」白鳥は首をくねらせて子供に顔を向けた。「ラピスラズリと申します。お久しゅうございます、エンキのエミサリエス」
「今の名前はケット。ケットって呼んで」
子供――ケットは自己紹介はそこまでにして、手の平を天に向け、その先で隣であぐらをかく金髪碧眼の少年を指した。
「エンキの末裔。マルドゥクの王、リスト・マルドゥク・ロウヴァーだ」
「よろしく。シャカンのエミサリエス、ラピスラズリ」
リストはにこやかに微笑んだ。
すると、「よろしく」と声が返ってくる。やはり白鳥の口は動いていないが、今度は彼女が言ったのではない。声は背後から聞こえてきた。リストは咄嗟に振り返り、屋上を見下ろす。
そこにはバックパックを提げたTシャツにジーパンというラフな格好をした少年が立っていた。天然パーマの栗色の髪。おっとりとした茶色い瞳。高い鼻。とがった顎。きゃしゃといっていい、すらっとした体格。
「エンリルの末裔……」
高貴な雰囲気を漂わせる女性の声がそうつぶやく。
リストがぎょっとして白鳥に振り返ると……そこには黒い影が佇んでいた。巨体はなめらかなラインで描かれて、屈強というよりも優美。鋼のような黒い毛並みは、光を全て吸い込んで辺りを闇へとひきずりこみそうだ。黒い影は蹄の音を鳴らして、リストの頭上を飛び越えて屋上へと降り立った。
「う、馬……?」
それも、黒い馬――リストは呆然としながら影の正体を導き出した。
黒い馬は突然現れた少年の後ろに回ると、鼻を鳴らす。少年はこちらから目をそらすことなく、馬の鬣を慣れた手つきで撫でた。
「エンリルの末裔って……」言ったよね? そうケットが言う前にリストは左手でそれを制す。ちらりと一瞥されて、ケットは押し黙った。
馬――いや、ラピスラズリは少年と同じように鋭い視線をこちらに向けてくる。
「エンリルの末裔。ニヌルタの王が弟君、ユリィ・チェイスにございます」
誇りに満ち溢れた、堂々たる声がリストの内臓まで響いてきた。
「ニヌルタ……?」
リストは愕然とした表情で馬の前に佇む少年を改めて凝視する。ケットはそんな彼を心配そうな表情でじっと見つめた。
自分の宿敵、闘うべき相手、ニヌルタの王。その弟がいきなり目の前に現れた。それも、自分の祖先に遣える神の天使を引き連れて。
「何の用だ?」
ごくりと生唾を飲み込んで、低い声で尋ねる。
しばらくユリィは品定めでもするかのようにリストを見つめ、あっけらかんとした声で答える。
「オレは人間につく。お前はどうする?」
* * *
何を言い出したんだ、こいつは!? エンリルはルルを嫌う神。こいつがその末裔なら、使命はルルを滅ぼすことのはず。それが、いきなり現れて「人間につく」だ? しかも、お前はどうする? てな……オレはルルを創り出した神・エンキの末裔だ。元からルルの味方だよ。
オレは乱暴に立ち上がって、屋上へと飛び降りた。「リスト!?」というケットの不安げな声を無視し、ユリィ・チェイスとやらを真っ向から睨みつける。
「何を企んでるんだ?」
ユリィはそれが意外かのように目を大きく開けて、ラピスラズリに振り返った。そして、不機嫌そうな顔つきで、
「何か企んでる?」
オレは思わず口をあんぐり開けてしまった。なんで自分のエミサリエスに聞いてるんだ?
「いいえ。わたしは何も企んではおりませんよ、ユリィ。おそらく、あなたが何か企んでいるのか。それをマルドゥクの王はお聞きしたいのかと思います」
まるで諭すかのようにラピスラズリは一語一句丁寧に告げる。すると「オレ?」とユリィは驚いて、オレに振り返った。
「何も企んでないよ」
「……」
なんだ、この人? 一気に緊張が解けた。てか、筋肉まで呆れ返ったみたいだ。全身から力がぬけたよ。こいつ、本当にニヌルタか? 表情もぼうっとしてるし、なんか頼りないんだけど。
「ルルにつくってどういうことだ?」とにかく、話を進めよう。調子を狂わせながらも、オレはなんとか質問を繰り出した。
「そのままの意味。神はうさんくさいから、見限った」
「な……」
「なんてことを言うの!?」
オレの代わりに大声をあげたのは、いつのまにやら傍らに現れていたケットだった。目を見開いている。
「君はニヌルタの子。神の一族だ。その君が……」
「神は崇高な存在ではない」
それまでぼうっとしいたユリィが、まるで覚醒したかのように瞼を全開にして腹から声を出した。やはり神の一族。眼力には人を圧倒させる力がある。オレは思わず息を呑んでいた。ケットもいきなり強く言われてたじろいでいる。
ユリィは何の迷いもないまっすぐな瞳でオレを見つめて、淡々と語りだす。
「争いは常に起きてきた。人がたくさん殺されてきた。救いを求める人間は何百年も、何千年も、溢れかえっていた。それでも神の『裁き』はずっと起きなかった。
それじゃ、なぜ今頃『裁き』が始まった? 理由はなんだ?」
「理由……」
重圧のかかった質問に、オレは言葉に詰まった。すると、ユリィは無表情のまま、さらに目を見開く。
「考えたことも無いか、マルドゥク。神の行いなら、受け止めるだけ。そう思っていたからか。そこまで信用するに値する存在か、神というものは? それもまた、考える必要のないことか? 疑問をもたずにただ従う。それは愚か者のすることだ。お前は愚か者か?」
なんだ、こいつ。オレを愚か者呼ばわりするのは構わないけど……神を――創造主であり、祖先である神を否定しようとしている? オレは反論もできずに茫然とした。そんなオレを横目に、ケットは頬を真っ赤にして小さな口をめいっぱい開ける。
「エンリルの子! それ以上侮辱すると――」
「神こそ人を侮辱している」
ケットの言葉をすっぱり斬るように遮って、ユリィは言い放った。あまりに自信満々に言われ、ケットもあっけにとられて後ずさる。
「な、何を言ってるの!? 神はルルを侮辱なんて……」
「こんな勝手な『裁き』、人間への侮辱だ。なぜ、神に世界の価値を決められなきゃいけない? なぜ、土人形に怯えなければいけない? ここは人間の世界だ。世界が滅びるかどうかは、常に彼らの選択の結果であるべきだ。神じゃない」
オレもケットも声を失った。目を瞬かせることしかできなかった。ユリィは気にする様子もなく、続ける。
「これは『裁き』だ、と高みで偉そうにふんぞり返って数多もの命を奪う。そんな連中にひれ伏す価値はない。破壊しかできない存在に、世界の価値を問われたくはない。
これは『裁き』なんかじゃない。ただの侵略だ、マルドゥク。オレたちはそれを防がなきゃいけない。世界を守らなきゃいけない。この世界で生きる名前を持っている以上、それがオレたちの使命だ」
どうやら、それでユリィの主張は終わりのようだった。瞼が段々と下がり、また半開きに戻った。電池切れの玩具の人形のように、ぼうっと突っ立っている。充電でもしてるんだろうか。
何か話しかけるべきなのだろうが、あまりな内容の演説にオレは言葉が出てこなかった。無論、ケットもだろう。
そんなオレたちに、どこか申し訳なさそうな声でラピスラズリが説明しだす。
「ユリィはルルを……ルルの世界を守りたいのです。だから、実兄であるニヌルタの王を探し出し、止めようとこうして故郷から出てきました」
「ニヌルタの王を止める!?」
ほ、本気か、こいつは? オレはまじまじと間抜けにも見える顔で棒立ちする男を見つめる。こいつは本気で使命に逆らおうとしてるのか? オレたちの体に、血に、遺伝子に刻み込まれた使命を?
「手がかりをもとにトーキョーまで来ましたが、エンリルのエミサリエスの気配はない。その代わりに、エンキのエミサリエスの気配を感じました。そこで、こうして参上したまで」
「アサルルヒのエミサリエスの気配も感じたでしょう?」
やっと我を取り戻したのか、ケットは確認するように尋ねた。アサルルヒのエミサリエスはバール。つまり、アトラハシスの守護天使だ。
聞かれてラピスラズリは困ったような声をだす。
「はい。ただ、追いかけようとしたのですが、どうも避けられているようでして。すぐに諦めました」
「やっぱりか」
残念そうにケットはため息をつく。ま、そりゃそうだろうな。アトラハシスは誰とも会う気はないだろうから。このまま、『パンドラの箱』を隠し持って『収穫の日』まで逃げ切る気か? だが、なぜ神崎先輩を手放したんだ? 『パンドラの箱』と一緒に、かくまっていればよかったのに。こちらとしては、お陰で助かったけどな。神崎先輩をアトラハシスに奪われなければいいわけだから。だが……不気味だ。何か考えでもあるのか?
まあ、いい。今、考えたって仕方がない。
「ねえ」とユリィが再び口を開いた。さきほどまでの熱弁はどこへやら。気の抜けた声だ。「君もここにいて、しかも高校にまで通っていて……アトラハシスもこの辺りにいる。てことは……」
上半分隠された瞳が、キラリと光った気がした。オレはごくりと唾を飲み込み、頷く。
「『災いの人形』もここにいる」
***
そうだろうと思った、とユリィは心の中でつぶやく。兄がトーキョーを目指したことからも、何かがトーキョーにあることは明らか。考えられうる『何か』は二つ。アトラハシスが持ち去ったとされる『パンドラの箱』とパンドラ。
とりあえず、パンドラはすぐに見つかりそうだ。エンキのエミサリエスの元へ来て正解だった。
「会える?」
尋ねると、マルドゥクの王はぎょっと目を見開いた。
「会って……どうするんだ?」
「全部、教えてあげるんだ」
その言葉に驚愕の声をあげたのは、マルドゥクの王とエンキのエミサリエスだけではなかった。己の守護天使さえ「ユリィ!?」と悲鳴のような声をあげた。
「何を考えているんだ?」という内容のことを三者三様の言葉で言われ、ユリィは小首を傾げて「だから、パンドラに『裁き』のことも全部話してあげようと思って」とまとめて答えた。
「そういう意味じゃない!」とマルドゥクの王は必死に声を荒らげる。
「神を軽んじるにも程があるよ、ニヌルタの子」頭を抱えてそう騒ぐのはエンキのエミサリエス、ケット。
「どうして、いつもそう無謀なことばかり」嘆いているのは自分の天使、ラピスラズリ。「『収穫の日』が終わる前にパンドラに全てを話すと、神の怒りが下るといわれています。命をおとすやもしれません」
「神の怒り?」ぼうっと寝起きのような声でユリィは聞き返す。「何が起きるの?」
「それは、分かりません! 誰も試したことはないんですから」
「じゃあ、神の怒りは下らないかもしれない」
その言葉に、一気に静まり返った。
「誰も、確かめていないんでしょう? うそっぱちかもしれない」
しっかりとした口調でユリィはそう口にする。ラピスラズリは悟った。もう彼を止める術はない、と。きっと彼は元からそのつもりだったのだ。パンドラを見つけたら、全てを告げるつもりだった。おそらく……神の怒りの有無を確かめるため。神の力を試すため。
「『災いの人形』は」とマルドゥクは気分でも悪いかのような表情で口を開く。「今、人間として幸せに暮らしてる。それをぶち壊すことは、オレは赦せない」
「すぐにその幸せはぶち壊れるでしょう。嘘でかためられた幸せなんてまやかしに過ぎない」すんなりとユリィは言い返した。「だったら、人間として彼女にも選択肢を与えるべきだ」
「選択肢?」
「世界を滅ぼす存在になるかどうか、自分で選んでもらうんだ」
「!」
マルドゥクは目をむいた。顔面蒼白で、今にも気を失いそうだ。この国に黒船が現れたとき、得体の知れない恐怖におののいた国民たちは、こんな顔をしていたんだろう。ユリィはそう思った。
「彼女が決めてもいいはずだ」そう続け、ユリィは首を左右に振る。「いや、彼女が決めるべきだ。彼女が人間であるうちに。彼女に自由意志があるうちに」
自由意志。その言葉に、マルドゥクは眉をひそめた。彼の中に関心が生まれていることにユリィは気づいた。この調子、と言わんばかりに、言葉を連ねる。
「『テマエの実』を食べるかどうか。それも彼女が選択していいはずだ」
「なんてことを!?」
それまで大人しかったエンキのエミサリエスは悲鳴に近い声を出した。取り乱すのも最もだ。ユリィの言葉はこの『裁き』全てを否定することになる。しきたり、ルール、掟……神の定めた『裁き』を根底から覆そうとしているのだから。
だが、だからどうした。ユリィの目的はまさにそれだ。この世界のために神に立ち向かう。それこそが、使命。どんな遺伝子を持とうが関係ない。自分はここに住む人間――それこそが自分を決めるのだ。
「オレは彼女に選択肢を与えたいだけ。生き方を選ぶのは、人として持つべき権利。それで神の怒りが下っても、オレは構わない。そもそも、恐くない」
けろっとした様子でユリィはしめくくった。
ラピスラズリはそんなユリィに呆れつつも、やはり愛おしいと再確認していた。神を否定する彼の言動は、すなわち、神の遣いである自分をも否定するものだ。だが、構わないと思った。こうして自分の道を見極めてまっすぐに進んでいく若き命を見守るのは楽しいもの。エリドーが滅んで、こんな子供が見れなくなるのは、確かに寂しい。
しばらく、沈黙が続き、マルドゥクはずっと重い表情で何かを考えていた。ユリィは催促することもなく、彼の言葉を待つ。
不思議だと思った。彼の使命はパンドラを殺すことのはず。なのに、先刻、パンドラの幸せを気にかけているかのような発言をした。エンキは人間に味方する神。エリドーを滅ぼす『災いの人形』は、エンキの子孫であるマルドゥクにとっては悪しき存在のはず。それとも、パンドラが人間である以上、情けをかけなければいけないのだろうか。難儀だなぁ、とユリィは暢気に考えた。
「分かった」
唐突に、マルドゥクは承諾した。青く澄んだ瞳には覚悟が見て取れる。睨むように見つめているが、敵意は感じられない。ユリィは無表情で頷く。
「リスト!?」とエンキのエミサリエスがマルドゥクの足にしがみついた。「自分が何をしでかそうとしてるのか、分かってる!?」
マルドゥクは幼いエミサリエスを暖かい目で見つめ、微笑んだ。「ああ」と言ってしゃがむと、目線を同じにして頭に手を置いた。
「滅茶苦茶だけど、このニヌルタの言っていること……間違ってはいないと思うんだ。一理あるよ」
「ま、間違ってるよ!」
「そもそも、オレの存在がすでに、神を裏切っている」
沈んだ顔で放たれた言葉に、小さな天使はハッとした。
「よくよく考えたら、しきたりとか掟とか、もうとっくに破綻してるんだよ」
「……」
ニヌルタの王はアトラハシスを惨殺し、アトラハシスの王は『パンドラの箱』を持ち去って隠れている。そしてマルドゥクの王であるリストは……。確かに、神への忠誠心や使命、『裁き』そのものもぼろぼろだ。ケットはそれに気づかされて、うつむいた。
マルドゥクの王は元気付けるような明るい声で言う。
「だったら、とことん崩れさせて抗ってみよう」
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