帰ろう
「抵抗したのに……」と、カヤが俺の胸の中で泣きじゃくる。
不謹慎かもしれない。俺は最低の男かもしれない。だが、ホッとしていた。泣いているカヤに、俺は安堵しているんだ。
曽良にキスされて、もしもこいつの気持ちが変わっていたら……そんな不安が心をかき乱していた。いや、その前に、もしも曽良の言っていたことが嘘で、カヤが望んであいつのキスを受け入れたんだとしたら……そんなこと、あるわけないって分かってる。でも、思いつめた表情で黙りこくるカヤを見ていたら、そんなくだらない疑心がどこからか沸いて出てきた。信用しきっていた曽良の思わぬ一面に動揺し、不安定だった俺の心は、不意に現れたその疑惑を無視することはできなかった。
怯えていたんだ。カヤの心が少しでも他の男に奪われるのが嫌でたまらなかった。
華奢なカヤの背中をぎゅっと抱きしめた。この体に触れられるのは、俺だけでありたい。他の男に、髪の毛一本触って欲しくは無い。
初めて、生まれて初めて、そんな強い独占欲がうずまいていた。
「和幸くん、ごめんね」ふと、首元でそう言うカヤの吐息を感じた。キスのことかと思い、「カヤは悪くないだろ」と即座に言葉を返すが、カヤは首を横に振った。
「そのことじゃないの。ケンカのこと」
ケンカ。あ……そういえば、正式に仲直りしたわけでもなかったな。いろいろ起きて仲直りした気になっていた。泣いているんじゃないか、悩んでいるんじゃないか、なんて思っていたが、会ってみたら髪も切っていつもの笑顔が戻っていたし。でも、実際何も解決してないんだよな。
俺が黙っていると、カヤは申し訳なさそうに「ごめんね」と改まってもう一度言った。
「和幸くんの優しさに、いつも守られているっていうのに。私、何も分かってなかった。ひどいことも、たくさん言ったよね」
「ひどいこと……?」
なんだろうか。何か、言われたっけ。ええと、と考えていると、カヤはしっかりとした口調で言う。
「私、強くなるから」
「へ?」
「和幸くんが隠し事しなくていいくらい、強くなるから」
カヤは、いつのまにか泣き止んでいた。
隠し事という言葉に、ドクンと心臓が大きく鳴った。そうだった。葵がもたらした口論で気づいてしまった、俺たちの溝。それは、俺の隠し事――カヤが世界を滅ぼす『人形』だという残酷な事実。カヤは答えを求め続け、俺はそれを拒絶し続けていた。知らないほうが、カヤは幸せだと思っていたからだ。
でも、その考えは間違いだったんじゃないか、と思い始めていた。だから打ち明けようと決意した。俺が嘘をつくたびに、真実を隠そうとするたびに、こいつが苦しむなら……それならいっそのこと、全部話してしまおう、と腹をくくったんだ。
思い返せば、羽田に邪魔されてまだ打ち明けていなかった。ドクンドクン、と心臓の低い音が早まっていく。今がチャンスかもしれない。言うときがとうとう来たんだ。
「カヤ……その、隠し事のことなんだけど」
言いかけたときだった。カヤはおもむろに体を離して、俺の両頬にはさむように両手を添えた。涙が目の端で真珠のように輝いている。
「いいの。無理して言わなくていい」
俺は「え」と戸惑った。そりゃ、言わなくていいって言ってくれると助かるけど……
「なんで? あんなに知りたがってたのに」
「知りたいよ」カヤは穏やかな笑みを浮かべた。「でも、今じゃなくていい」
「!」
「今朝、階段で聞いたよね。私を守るために隠していると言ったら、納得するか? て」
そういえば、そんなことも言ったな。生徒指導室から出て、偶然カヤとぶつかって、階段で話したときだ。でも、あのとき確か、「分からない」と言われたんじゃなかったか。俺は柳眉を寄せながら「ああ」と答える。
「それね、今なら納得できるの」カヤは俺の頬から手を離し、俺の右手を握り締めた。「いつもそうだもんね。いつも、知らないところで私を守ってくれてる。今日だって、私のために人を殴って自宅謹慎になっちゃうし」
「あ」
俺はつい頬をひきつらせた。多分、顔はやや赤らんでいるだろう。自宅謹慎……改めてカヤに言われると、なんか恥ずかしいな。てか、俺、全然謹慎してない。
「私を守るために隠してるんだよね?」と、カヤは小首を傾げて尋ねる。その仕草があまりに可愛くて、思わず抱きしめたくなった。「だからね、強くなろうと思うの」
そういえば、さっきもそんなこと言ってたな。
「別に、強くならなくても」俺が守るから……と心の中で付け足す。
「ううん。もっと、強くなりたいの。それで、和幸くんが頼れるくらいの女になる。静流さんみたいな」
その瞬間、ゾッと背筋が凍った。
「そこまで強くならないでくれ」
カヤはクスクスと肩を揺らして笑った。いや、本気だって。
「じゃあ、和幸くんが丁度いいと思ったら教えて」
「丁度いい?」
「うん。それで……そのときがきたら、全部話して欲しいの」
急に、カヤはまじめな表情になった。じっと俺を見つめている。
「私ね、多分、和幸くんと初めて出会ったときより、ちょっとだけ強くなったんだよ」
なんて……可愛いんだろう。のぼせたように頭がぼうっとしてしまう。少し酔っているからか、たまにろれつが回っていないのがまたたまらない。って、真剣な話をされてるってのに、俺はロクなことを考えていないな。男丸出しだ。カヤが人の心を読める力を持っていなくてよかった、と心底思った。
「だから、いつかきっと、和幸くんを守れるくらいたくましくなれると思う」
たくましい、か。さっきの一言で、頭に浮かぶのは静流姉さんみたいにナイフを持ち歩くカヤの姿だ。やめてほしい、と本気で思う。
「守られてばかりは嫌だから。隠し事ばかりさせるのは嫌だから」
だって、とうつむいて、カヤは胸元にぶらさげてある十字架を握り締めた。十字架を手に、憂いを含んだ表情でうつむくその姿は崇高な美しさがある。まさに聖女。『実家』のステンドグラスで微笑む、青い外套に身を包んだ女性を思い出した。
「だって、隠し事をするのも……つらい。今なら、それがよく分かる」
何かあったんだろうか、と思わせる意味深な言葉。でも、詮索しようとは思わなかった。カヤに隠し事があったって構わない。正直であってほしいとは思う。けど、大切な人を想うがゆえに隠さなきゃいけないこともある。それは俺が誰よりも分かってる。
「カヤ」と俺は彼女のあごをつかんで、顔をあげさせた。「大事な話があるって言ってたの、覚えてるか?」
カヤは戸惑いつつも十字架から手を離し、こくんと頷く。
「いつからお前のことを『普通』じゃないと思っていたのか。その答えを言うよ」
「え?」
眉根を寄せて、どこか不安そうな色が見受けられた。俺はそれを拭い去るように穏やかに笑んで続ける。
「お前を好きだって気づいた日から」
カヤは目を見開いた。「へ」と気の抜けた声が唇から漏れる。「その日から」と言いながら、俺は彼女の髪を撫でた。
「俺にとって、カヤは何よりも『特別』な存在なんだ」
「……」
間抜けにも見えるカヤの驚いた表情に、俺はつい笑ってしまった。
「答えになったか?」と照れながらも尋ねると、カヤは泣きべそをかく子供のように顔をゆがめる。こくりと頷くと、潤んだ瞳から小さな真珠の粒が零れ落ちた。
「完璧」と涙でぬれた頬をゆるませる。「完璧な答えだよ」
夕べのトラウマが、やっと癒えそうだ。俺はほっと肩を撫で下ろした。「愛してる」と言って、「答えになってないよ」と言われた心の傷。結構、深かったんだぞ――そう、文句を言ってやりたいくらいだ。
もちろん、ごまかしに近い『答え』だった。カヤもそれには気づいていると思う。本当は……一緒に帰った次の日、こいつが『災いの人形』だと知ったときから、全てが変わったんだ。カヤを『普通』だとは思えなくなっていた。
そりゃそうだ、カヤは『普通』じゃないんだ。世界を滅ぼす力をもった人間を、誰が『普通』だといえる? 俺は思わない。カヤは『普通』ではない――それを否定するのはもうやめにする。
ただ、せめて俺の傍にいる間だけでも、『普通』の女としての幸せを与えてやりたい。かりそめでもいい。こいつが自分を『普通』だと思える時間を与えてやりたいんだ。それが俺に出来ることだよな。
隠しきろう。やっぱり、知らないほうがいい。
カヤは隠し事を認めてくれた。それに耐える決意をしてくれた。俺も隠し切る決意をしよう。彼女から『普通』の幸せを奪っちゃいけない。俺はそれを与えるためにここにいるんだから。
「カヤ」つぶやいて、顔を近づける。艶やかなその唇の感触を味わいたくて仕方がなかった。いや、単に早く奪い返したかっただけかもしれない。少しでもカヤがあいつの感触を覚えているのが嫌だった。
だが、「あ、あの!」とカヤは慌てた様子で身を引いた。「ほら、さっき、曽良くんと……」
「……」
いくら俺とでも、すぐに違う男とする気にはならない、か。気持ちは分からないでもないが、ここまで拒否されるとさすがに落ち込んでくる。ま、こういうところもカヤなんだ。尊重してやらないと。
「そうだな」と俺も顔を離して苦笑する。「悪い」
「ありがとう」
カヤは安堵したようにそうつぶやいた。やっぱ、こいつの安心した顔を見ると俺もホッとする。心が温まる。
おもむろに手を伸ばし、ばっさりと切られた髪を撫でる。カヤははにかんだ笑顔を見せて、目を瞑った。指から零れ落ちる一本一本の髪。全てが愛おしく思える。顔がほころんでいるのが自分でも分かった。
「帰ろう、カヤ」
ぽつりとそうつぶやいていた。カヤはハッと目を開いて、不安そうな表情を浮かべて俺を見てくる。
「もう、いいの?」
遠慮がちにそう尋ねられ、俺は深く頷いた。ああ、もういいんだ。
壁を隔てた隣の部屋からどっと沸き起こる笑い声に耳を澄まし、心の中で別れを告げる。ここはもう俺の居場所じゃない。俺の居場所は……
「パーティー、ありがとうな」
「うん」
嬉しそうに眩しいほどの笑みを浮かべる少女。ずっと見ていたいと思った。この笑顔をずっと守り続けたいと思った。彼女を幸せにするのが、俺の使命。それが、この命が『創られた』理由だと思いたい。俺はこいつの傍にいられればいい。カヤこそ、俺の世界なんだ。
この笑顔が見ていられるところ――それが、俺の居場所なんだ。
***
静流の寝室から二人の人影がぬっとでてくる。まるで泥棒のように二人は忍び足で廊下へと出てきた。背の高いほうの人影は、ちらりと光が漏れるリビングの扉を見やった。たまに叫び声のようなものが聞こえて、苦笑する。自分の代わりに誰かが関節技を決められているのだろう、と心の中で同情する。
「挨拶していかなくていいの、和幸くん?」と小さいほうの人影が心配そうに尋ねる。「これで最後なんだよ?」
「ああ」言って、和幸は振り返る。「カヤが構わないなら、だけど」
カヤはすぐさま首を横に振る。「和幸くんの好きにして」
その瞬間、和幸は頬を赤らめた。「そ、そうか」と不自然に言ってカヤから目を反らして玄関へと向かう。ほろ酔いの彼女の表情は、扇情的だった。とろんとした目に、紅潮した頬。ぼうっとした表情。そんな顔で見上げられ、「好きにして」と言われたら、和幸の頭の中は関係ない想像で忙しくなる。
そんなこととはつゆ知らず、急にぎこちない動きになった彼に、カヤは小首を傾げつつもついていく。
「寒くないか?」
靴を履きながら、和幸はカヤに尋ねた。カヤはハッとして自分の服を見下ろす。そういえば、まだアリサのワンピースを着たままだ。自分の制服や荷物は全てリビングに置いたまま。慌ててリビングに振り返る。取ってきたほうがいいだろうか。でも……と、和幸を見つめた。
彼は別れの挨拶をしたくないようだった。その意思を尊重したい。静流に怒られるだろうが、荷物は明日にでもこっそり取りに来よう。カヤはおもむろに和幸の手を取ると、指を絡めて握り締める。
急になんだ? と目をぱちくりとしばたたかせる彼に、カヤははにかんだ笑顔を浮かべた。
「こうしてれば、あったかいから」
「……あ、そう」
気のない返事はしてみたが、その表情はまんざらでもないようだった。首まで赤くして「じゃあ、帰ろうか」という声はイントネーションが不自然だ。カヤはいたずらっぽく笑った。
「そういえば、椎名はどこにいるんだ?」
思い出したようにそう尋ね、和幸はドアを開ける。手をつないでついてくるカヤに目を向けながら、外に出て――いきなり飛んできた何かに「ひっ」と声を上げた。それは目の前を通り過ぎ、ドア枠に突き刺さった。キラリと光る刃。和幸は引きつり笑顔で飛んできた方をおそるおそる振り返った。
「家主に挨拶なしか?」
部屋の真正面、四階へとつながる階段で、ジャンパーを羽織り、大また開いて座っている女が一人。
「美月の勘は大当たり。待ってて正解だったね」言いながら、パーマのかかった肩までの髪をゆらしてむくりと立ち上がる。
「静流姉さん」ぶるっと和幸の体が痺れるように震えた。「危ねぇだろ!」
和幸はカヤから手を離すと、慌てて突き刺さっているナイフを抜き、静流に足早に歩み寄る。カヤも遅れまい、と閉まりかけたドアを押し返し、外に出た。
腰に手をあてがい佇む静流に、和幸はナイフの柄を突き出す。
「カヤにあたったらどうすんだよ!?」
「あんたの声が聞こえたから、投げたんだろ。能無しか」
「……」
ああ言えばこう言う――まさにこの人の性格そのものだ、と和幸は悔しそうに押し黙る。そんな和幸から視線をそらすと、静流は後ろで微笑を浮かべる少女を見やった。
「神崎」と呼んで、持っていた大きな紙袋を持ち上げる。「あんたの制服と荷物。全部まとめていれといた」
言われてカヤはハッとして静流に駆け寄る。「すみません」と紙袋を受け取ると、静流は呆れたため息を漏らす。
「こういうときは、礼だろ。無駄に謝るんじゃねぇよ、胸くそ悪ぃ」
カヤは一瞬顔をしかめ、言葉に詰まった。見かねて、和幸は「姉さん、そんな言い方は」と責めるように言いかけたが、カヤにぐっと腕を掴まれて口を噤む。なんだ、とカヤに振り返ると、彼女はじっと静流を見上げていた。きりっと引き締まった表情で、
「ありがとうございます」
はっきりとした口調でそう言うと、頭をぺこりと下げる。唖然としている和幸の前で、静流は満足そうに微笑んだ。
和幸の頭の中で、静流のようになりたい、と言っていたカヤの声が蘇る。着実に静流の信者になりつつあるのか、とあからさまに嫌そうな顔を浮かべた。
「ね、姉さん」和幸は気を取り直し、ナイフを突き出す。「ほら、ナイフ」
すると、静流は腕を組んで「それ、神崎にやるよ」とさらりと言った。カヤはぎょっとして胸元に光る十字架に触れる。
「でも、もうカインの皆さんからこんな素敵な……」
「いいから! もらえるもんは、もらっときゃいいんだよ」
どすのきいたハスキーボイスが辺りに響いた。鬼のような剣幕は、決して人にプレゼントを渡すときの表情ではない。カヤはぽかんとしながら、「はい」と力弱く言って和幸の手からナイフをそうっと抜き取る。だが、カヤ以上に顔色を悪くしていたのは和幸だった。静流の迫力におされたのもそうだが、それ以上にカヤが静流の愛用のナイフを手に入れるのが恐ろしかったのだ。これからずっと静流の生霊にまとわりつかれるような気がしてならない。
「これ、ケースな」さっきとは打って変わって落ち着いた声でそう言って、静流はポケットからシンプルな黒い皮のナイフケースを取り出してカヤに差し出した。
カヤはぺこりと小さくお辞儀をして受け取る。それを、どこか申し訳なさそうに静流は見つめていた。和幸はそんな静流に小首を傾げる。静流の哀しげな表情がものめずらしくて仕方なかったからだ。広幸が死んだ日以来、静流は弱い一面を一切見せることはなかった。表情にだすことさえしなかったのに。
「姉さん、大丈夫か?」心配そうにそう尋ねると、静流は額に青筋をたてて和幸を睨みつける。
「お前に心配されたくねぇんだよ! さっさと帰れよ、のろまか!?」
体に染み付いた習慣なのか、反射的に和幸は背筋を伸ばし「はい!」と返事をする。即座にカヤの腕を取って逃げるように階段へと歩き出した。カヤは「え? え?」と名残惜しそうに静流を見つめながら、引っ張られていく。
「静流さん、あ、ありがとうございました」
いつまでも後ろを見ているものだから、カヤは階段で転げ落ちそうになり、和幸に抱きとめられている。静流はそんなカヤに苦笑して、階段を下りていく二人を見守る。見えなくなっていく二人の姿に段々と表情を曇らせると、
「和幸、けじめはちゃんとつけるんだよ!」と思い出したように階段に向かって叫んだ。「あんたは女を選んだんだ。最後まで、何があってもその子を選べよ」
しばらく階段を下りていく足音だけが響き、「はぁい!」と喉から無理やり出したような投げやりな怒鳴り声が聞こえてきた。静流は雑な返事に眉間に皺を寄せ、首を横に振る。
「たとえ、あたしらを敵に回してもね」それだけは、聞こえないようにぽつりとつぶやいた。
「ナイフ、神崎ちゃんにあげたのぉ、しずるん?」
ふと、飄々とした声が聞こえてくる。ハッとして慌てて振り返ると、ドアを半分開けて顔を出している美月の姿が。
「なにしてやがんだよ、お前は?」呆れたように腰に手をあてがって尋ねると、美月はえへへと笑った。
「盗み聞きかなぁ」
「だろうな」
やれやれ、とため息をついて美月が開けているドアへと歩み寄る。
「どうして神崎ちゃんにナイフあげたの? 一応、あの子を疑ってるていなんじゃないのぉ?」
「まあね」静流は真面目な表情に戻ると、鼻で笑った。「あれは落とし前だよ」
「おとしまえ?」
美月は道をあけて、静流を玄関へと導いた。バタンとドアが閉まり、暗い玄関で静流はサンダルを脱ぐ。
「あの子は『黒幕』と関わりがあるかもしれないし、無いかもしれない」
「知ってるよ」美月はぴょんと床にあがるとくるりと半回転して、静流に向かって小首を傾げた。「それで?」
「『黒幕の娘』にはあのネックレスをあげた」
ネックレス――その言葉に、美月は表情を曇らせる。手を後ろに組むと視線を落とす。「うん」と暗い返事が聞こえて静流は眉をひそめて美月を見つめた。
「だから」言って、美月の頭を叩くように撫でて廊下を歩き始める。「『和幸の嫁』にはあのナイフをあげたんだよ」
あ、と美月は目を丸くした。ズカズカとリビングに向かう静流の背中を追いかける。
「それが、落とし前なの?」
「ああ。いざ、あの子が真っ白だったときに、言い訳ができるだろ」
「もしかして、ご祝儀のつもりだった?」美月は言ってから、苦笑する。「あのナイフ」
「つもりもなにも、それだよ。あたしからの祝儀だ」
自慢げに静流は豪快に笑う。
世界広しといえど、結婚の祝儀にナイフを贈ろうと思いつく人間はこの女性しかいないだろう。お茶目なんだから、と美月は垂れ目を細めた。
静流はリビングのドアの前で立ち止まると美月に振り返る。
「あの馬鹿にしたり顔されるのは嫌だからね。保険だよ」
「はいはい」
静流の隣で立ち止まると、美月はあしらうようにそう返事をした。静流はその反応が気に入らなかったようで、「んだよ?」と眉根を寄せた。
美月は「んーん」と首を横にふり、悲鳴が聞こえてくるリビングのドアを一瞥する。
「またアリサ姉さんが誰かの関節外してる」
すると静流はげっそりとした表情を浮かべた。
「あの人は、関節外すことだけに興味あるから困るんだよ」
「そ。だから、ほら、しずるんの出番だよ」言って、美月は静流の背中を後ろから押す。「皆の関節戻してあげて」
静流は「しゃあねぇな」とリビングのドアを開けた。見るも無残に散らかった部屋で、二十人近くの悲鳴やら笑い声やらが飛び交っている。静流は頬をひきつらせると、舌打ちをした。「ったく。猿山か、ここは」
「結局、普通のパーティーになっちゃったねぇ。お片づけが大変だ」
美月は楽しげにそう言った。その言葉に、静流は筆で描いたような眉をぴくりと動かす。
「ああ、お片づけはいつも大変だよ」