悪役の素質
ううん。頭がぼうっとする。ビールって全然おいしくない。どうしてアリサさんはあんなに夢中で飲めるんだろう? やけになって、アリサさんに薦められるまま一本飲んじゃったけど……体が熱くて頭がぼんやりして体がうまく動かせない。あまりいい気分ではない。やっぱり未成年がお酒を飲んじゃいけないんだ。きっと二十歳にならないと良さが分からないんだ。
静流さんに「能無しか」と怒られちゃったなぁ。
ふかふかのベッドに横たわり、私は鼻で息を吸う。部屋のどこかで焚いているお香の香りが入ってくる。なんの香りなんだろう。果物みたいだけど。私は寝返りをうって壁にかけられているエスニック調の布を見つめる。やっぱり、思ったとおり静流さんの寝室はエスニック調でまとめられていた。
隣のリビングから笑い声が聞こえてくる。まるで子守唄のように心地よい。和幸くんも皆と楽しんでくれてるかな。
おかしいな。眠くなってきた。うとうとし始め、瞼を閉じると、出口の無い真っ暗闇が広がっている。不意に、そこに一筋の光が入ってきた。
あれ、と目を開くと、暗い部屋にどこからか光が漏れてきている。ガチャン、と扉が閉まる音がして、誰かが入ってきたことに気がついた。
誰だろう、と目を向けるが、暗闇でよく分からない。
「アリサ姉さんに酒飲まされたんだって?」
心配そうな、聞き覚えのある声がした。私は「あ」と声を漏らす。ふらつきながらもベッドに両手をついて上体を起こす。すると、「寝てろ」と慌てて彼が駆け寄ってきた。この暗闇ではっきりと物が見えているかのように、迷うことなくベッドまで来て私の肩を押さえた。いや、もしかしたら、ちゃんと見えているのかもしれない。それもまた、虚しくも、商業用のクローンとして創られた利点か。ふと、そんなことを考えながら、私は彼を見つめた。といっても、ぼんやりと輪郭くらいしか分からない。私の目はまだ暗闇に慣れてはいなかった。それでも、誰かは分かる。
「和幸くん」
なんて元気のない声だ、と自分でも分かった。
彼はベッドに腰をおろして「寝てろって」と優しく私の肩を押す。でも、私は抵抗した。決して体を横にしようとはせず、彼の手を押し返すように前のめりになった。
「あの……」
酔いがまわって頭がぼんやりとしているといっても、さっきあったことを忘れたわけじゃない。というか、忘れようと思ってアリサさんからお酒を奪い取ったのに……効果は無かった。酔いがまわっていくにつれて、罪悪感が増して、余計にあのキスを思い出してしまう。ぼんやりとした意識の中、間近に迫った曽良くんの顔が思い浮かぶ。それだけで――和幸くん以外の男の子が心の中にいるってことだけで、浮気をしているような気分になる。ううん、違う。私は、事実、浮気をしたんだ。唇をしっかりと重ねたんだもの。それも、彼の兄弟とも言える幼馴染と。
言わなきゃ。和幸くんに謝らなきゃ。
でも……そんなこと言って、曽良くんは大丈夫かな。和幸くんはきっと怒るに違いない。私だけじゃなく、曽良くんにも。嫌だ。二人がケンカするのなんて……それも、私のせいで。
どうしよう。どうしたらいいの? このまま、罪を胸の奥にしまって、何事も無かったかのように彼と過ごす? でも、そんなこと赦されるんだろうか。
心臓の鼓動がうるさいくらい響いている。お酒のせいだけじゃない。困惑、罪悪感、恐怖、不安……そんなものが全身をめぐっているんだ。このまま狂ってしまえたら、楽かもしれない。
言葉が出てこなくなってしまった。発声法を忘れてしまったかのようだ。代わりにでてくるのは、涙。目元が熱くなって、それを冷やすように涙がぽろぽろと落ちてくる。
和幸くんは何も言わずに、そんな私の髪に手を伸ばした。そうっと撫でられ、余計に胸が苦しくなる。うっと嗚咽がもれて、「ごめんなさい」と言おうと口を開いた。でも、その言葉は口から出るより先に、耳に入ってきた。
「ごめんな」
「!?」
彼の手が私の頬をさすり、涙をぬぐった。ぱちくりと目を瞬かせ、彼を見つめる。夜目がきいてきた瞳に、彼の苦しそうな表情が映った。
「嫌な目にあわせたな」
嫌な目……? 何の話?
頬を撫でる彼の手は私の唇へと移動した。彼の親指が唇をなぞる。まるで、唇についていた何かを拭うような動き。
そして、おもむろに彼は顔を近づけてきた。キスされる――そう悟って、私は慌てて彼の胸に手を置き腕を突っ張った。
「今はだめ! 私、さっき……」
「曽良にキスされたんだろ」
「!」
目を見開いて彼を見つめる。彼は穏やかな笑みを浮かべていた。
「知ってるの?」
「ああ。本人に聞いたよ」
本人!? って、曽良くん? 曽良くんが和幸くんに言ったの?
和幸くんは顔をこわばらせて眉根を寄せた。嫌なことを思い出すかのような表情だ。
「嫌がったのに、無理やりされたんだよな」どこか確認するようにそう言って、視線を落とす。悔しそうな表情だ。「そんな奴だとは思ってなかったから、安心しきってた。悪い」
私は言葉を失った。嫌がった? 無理やり? 違う。確かに、あまりに唐突だったけど……力ずく、てわけでもなかったし。それに、私は……驚きのあまり、何も抵抗できなかった。されるがままだった。嫌がるような素振りは見せなかった。もし私がちゃんと抵抗していたら、彼もキスなんてしなかったかもしれない。
心臓が変なリズムを刻み始めていた。
そもそも、どうして曽良くんはわざわざ和幸くんに言ったんだろう? 言わなかったら、和幸くんに知られることはなかったかもしれないのに。もしかして――知って欲しかった? なぜ? 別れさせたかった? まさか。彼は言ってたもの。和幸くんを好きな私が好きだ、て。それに、別れさせたいなら、本当にあったことを言ったほうが効果的だ。私は抵抗することなく、キスを受け入れた、て。
「恐かっただろ」と、優しく甘い声が耳に届いた。「もう大丈夫だから。二度と近づくな、てはっきり言っといた」
彼に怒っているような様子はかけらもない。それよりも、彼は心配している。愛おしそうな視線を向けてくれている。他の男と――それも兄弟同然の友人とキスをした私に、だ。
そのとき、私はハッとしてうつむいた。もしかして……と、思った。曽良くんが和幸くんにわざわざキスのことを話した理由。それも、自分が悪者になるような言い方で打ち明けた理由。私をかばうため? 和幸くんの怒りの矛先が私に向かないため?
「カヤ?」
「……」
「カヤ!」強い口調で呼ばれて、慌てて顔を上げる。黙りこくる私に、さすがに不審に思ったようで、和幸くんは疑うような視線で見つめてきた。そして、眉間に皺を寄せて尋ねる。「お前、嫌がったんだよな?」
「!」
ぽつりと放たれた言葉に、心臓が打ち抜かれたようだった。ビクンと体が動き、和幸くんはさらに顔色を曇らせる。
「抵抗したんだろ? 無理やりってそういうことだよな」
心拍数が異常に上がっていく。元々、アルコールで上がっていた脈拍がさらに急上昇する。
「黙って、キスさせたわけじゃないんだろ?」
「……あ」
核心に迫った質問だ。心臓が大きく飛び跳ねる。もう、勘付かれてる。かすかに、彼から苛立ちを感じる。もうだめだ。正直に言おう。だって、このままじゃ、和幸くんは曽良くんを誤解したまま……力ずくで私にキスするような人だと思ったままになっちゃう。それは真実じゃないもの。彼だけに非があるんじゃない。
覚悟を決め、私はごくりと生唾を飲み込んだ――そのときだった。
――かっちゃんを裏切らないでね。
曽良くんの声が脳裏に蘇った。その瞬間、違う、と誰かが心の中で叫んだ。曽良くんはきっと、真実を望んでない。曽良くんが望んでるのは……
じっと前を見つめれば、思いつめた表情を浮かべる和幸くんがいる。つらそうに、私の言葉を待っている。そんな彼の様子を目にして、私は悟った。曽良くんは私をかばったんじゃない。彼が傷つけたくなかったのは、私じゃなくて……。
それまでの弱気だった私の考えはどこかへ飛び去り、別の覚悟が生まれた。私は唇をかみ締めると、和幸くんに抱きついた。
「カヤ?」と突然の私の行動に、彼は戸惑いの言葉を漏らす。「おい……」
私は構わず、彼の肩に顔をうずめて背中を抱きしめる。
「抵抗したのに」と、初めて人を陥れるような嘘をついた。「抵抗したのに……」と自分に言い聞かせるようにもう一度言う。
和幸くんはしばらく黙ってから、私の頭を撫でて「そっか」とつぶやく。「悪い」と謝ったその声は、どこか安心しているようだった。
私は心の中で何度も何度も曽良くんに謝っていた。もう二度と会えることはない、大切な友人に。吐き気がするほどの罪悪感に襲われ、涙がこみ上げてきた。
***
「今はだめ! 私、さっき……」
「曽良にキスされたんだろ」
「知ってるの?」
「ああ。本人に聞いたよ」
月明かりが照らす路地で、少年は電柱によりかかって黒い携帯電話(に似た機械)を耳に当てていた。そこから聞こえてくるのは、二人の男女の会話だ。
少年は長い睫毛に覆われた茶色い瞳に憂いを宿し、じっと聞き入っていた。トレードマークのアヒル口もぎゅっときつく締めている。
「恐かっただろ」と聞きなれた柔らかい声が聞こえてくる。「もう大丈夫だから。二度と近づくな、てはっきり言っといた」
しばらく沈黙し、少年は心配そうに顔をしかめた。
「カヤ? カヤ!」
男のほうは、苛立った声を出し始めた。少年は、大きくため息をつき、落ち着かない様子で背後に聳え立つマンションを見上げる。機械から聞こえてくる会話……いや、男の一方的な尋問に、少年は悩ましげに眉をひそめた。
丁度、そのときだった。内臓までしびれそうな轟音を響かせて向かってくる一つの光が現れる。徐々にその光は大きくなって少年を包み込んでいく。その間も、右耳に神経を集中させて会話を聞き逃すまいと少年は必死になっていた。
やがて光は少年の前で停まり、その全貌をあらわす――それは一台の中型バイク。黒いライダースジャケットを着込んだ女がバイクから降りて、おもむろに赤いヘルメットを脱いだ。ウェーブがかった髪がふわりと解き放たれ、少女は首を左右に振る。いかついバイクには到底似合わない童顔の少女だ。
少女はバイクを停めて、ヘルメット片手に腰に手をあてがった。少年は唇の前に人差し指を立てて、「シーッ」と静寂を要請する。少女は少年が耳を傾けている黒い携帯電話を睨みつけると、呆れたようにため息をつく。
そのころ、機械の向こうで動きがあった。
「カヤ?」という戸惑った男の声がする。「おい……」
頼むから、俺をかばわないでくれ――少年は祈るような表情を浮かべて、右耳にあててある機械のほうを見やる。すると、
「抵抗したのに。抵抗したのに……」
涙声に近い声でそう訴える少女の声。少年は大きく安堵のため息をつき、肩を撫で下ろした。なぜ自分が事実にスパイスを付け加えて彼に伝えたのか、その意図を汲み取ってくれたようだ。よかった――その言葉がどこからともなく、心に沸き起こる。それとともに、余計な気苦労をかけて申し訳ない、という気持ちが襲ってくる。全ての原因は、自分が欲求を抑えられなかったからだ。とはいえ、彼女が大人しく身動き一つしなかったのには驚いた。キスもそうだが、熱く抱きしめたときも、もっと激しく拒絶されると思っていた。そのせいで、期待をしたのか、調子に乗ったのか。何にせよ、自分がしたことが最低なのは分かっている。
「そっか。悪い」
男のその二言を聞いて、少年は携帯電話をおろし、パタンと折りたたんだ。
「さっそくなわけ? ほんっと、悪趣味。最低よ」
いきなり、少女は軽蔑の眼差しで少年を睨みつけ、そう言い放った。
「悪趣味なのも、最低なのも、よぅく分かってるよ」言いながら、携帯電話をポケットに突っ込む。「電話して二分で来てくれるなんて。実はこの辺うろちょろしてたのかな、トミー?」
ニヤニヤとからかうような笑みでそう言うと、砺波は頬を赤らめて視線を反らした。
「うっさいわね、曽良! せっかく快く来てやったってのに」
「せっかくなら、パーティーに顔出せばよかったのに」
そう言い返すと、砺波は鼻から勢いよく息を噴出し、血相変えて怒鳴りつける。
「冗談じゃないわよ! あのパーティーは最悪よ! 夕べ、私らがしようとしたものとは違う! 和幸の卒業を祝うパーティーなんかじゃない!!」
珍しく涙声になっていることに気づき、曽良は心配そうに顔をしかめた。砺波は曽良の背後に佇むマンションを指差し、息もつかせぬ勢いでまくしたてる。
「和幸が知ったらどう思う!? 兄弟たちが皆して、自分の恋人を陥れようと企んだなんて……それも、あいつのためのパーティーと思わせて! わたしはその一員になんてなりたくないわ!」
そもそも、と曽良に怒鳴り、さっき彼が耳に当てていた黒い携帯電話がひそむポケットを睨みつける。
「カヤは何も知らずに、これからあんなもの首にぶらさげて過ごすのよ!? あんたからの贈り物だと思って、大事にするわよ! 自分を殺すための道具だとも知らずにね」そこまで言って息継ぎをし、砺波は皮肉そうに鼻で笑う。「下手したら、あいつの記念すべき初殺しはあんたになるわよ」
すると、曽良は冷めた目で地面を見つめ、ぽつりとぼやいた。
「無理だよ。かっちゃんはパンピーになったんだもん。人を殴れもしないんだ」
砺波はぴくりと細い眉を動かし、じっと曽良の様子を伺う。しばらくそうしてから、苛立ったため息をつき、ヘルメットを右手に持ち替えた。
「どいつもこいつも、世話が焼ける」
吐き棄てるようにそう言うと、曽良から三歩ほど離れたところで砺波はヘルメットを大きく振りかぶる。妙な気配に気づいて曽良が顔をあげたときには、赤いヘルメットが目前に迫っていた。「え」と声がもれたときには、勢いよくそれがこめかみ周辺にぶち当たり、視界が歪んだ。まるで遠くで除夜の鐘が鳴ったかのような音がする。まさかそれが至近距離で投げられたヘルメットによるものだとは、数秒ほど気づかなかった。
バランスを崩したものの、なんとかその場に食いとどまる。頭がふらつき、ちらつく視界で地面に転がる赤いヘルメットを捉えた。
「トミー! いくら、俺たちでも頭部は強化されていな……」
状況を把握して咄嗟に顔を上げてそう怒鳴ったが、そのときには砺波は左足を軸に、コンパスのようにくるりと一回転しているところだった。大きく弧を描き、回転による勢いをつけた右足の踵が、曽良の頭部を目にも留まらぬ速さで直撃する――ように思われたが、曽良は瞬時に動いた右腕でそれを防いでいた。
あと少し遅かったら、見事にさっきとは逆方向に吹っ飛ばされていただろう。
曽良の右腕に食い止められた砺波の右足は、ピタリと静止している。砺波は気に食わない顔でそれをちらりと見るなり、足をおろした。
「殴られたいんじゃなかったの?」くるりと体を曽良に向けると、腰に手をあてがって責めるように言う。
曽良はひきつった笑顔を浮かべると、地面にころがるヘルメットを手に取った。
「一発、済んでるじゃないか! 回し蹴りはいらないでしょ」
「左に一発いれたから」言って、砺波は自分の左のこめかみを指差し、次に違うほうの手で右のこめかみを指差す。「右に一発いれてバランスとったほうがいいかと思って」
「……そういう気遣いはできるんだね」
ジト目で呆れたように見つめると、砺波は「どういう意味よ?」と睨み返した。
曽良は頭を垂らすと大きくため息をつく。それを横目に見ながら、砺波はバイクの収納スペースから傷だらけの黒いヘルメットを取り出す。
「夕飯食べてないのよ。付き合って」
ヘルメットを頭に押し込みながら、砺波は曽良の返事を待たずにバイクにまたがる。赤いヘルメットを手にしながら、ぼうっと突っ立つ曽良の横で、バイクは雄たけびをあげて息を吹き返す。
「何してんのよ!? 嫌なわけ?」
砺波は振り返りざまに、バイクのエンジン音にも負けない大声をあげる。曽良は緊張の解けた穏やかな表情を浮かべ、「嫌だったら、電話しないよ」と言ってヘルメットをかぶった。小顔の彼にはゆるいくらいで、すんなりと入ってしまう。
砺波の後ろにまたがろうかというとき、砺波はぽつりとつぶやいた。
「あんた、悪役向いてないわよ」
「!」
ハッとして、曽良は上げかけた足を止める。砺波はそれ以上何も言わずに、前を向いて押し黙った。もう少しぼうっとしていたら「乗るの、乗らないの!?」なんて言われそうだ――曽良はヘルメットの中で微笑した。
「俺もそう思ってたところだよ」
殺し屋の時点で、充分悪役なんだろうけど。そう心の中で言い添えると、砺波の後ろにまたがった。