兄弟ゲンカ
静流姉さんに連れられて玄関に着くと、そこにはスーツ姿の男が立っていた。二十代後半……だろうか。やや天然パーマの髪。妙に凛々しい濃い眉毛。細長い目。長方形の輪郭。見覚えの無い顔だ。俺は思わず顔をしかめた。
「翔太さんだ」と静流姉さんが横から口を出した。「あんたは初めて会うんだろ。挨拶しな」
翔太……さん、か。年上のカインを、兄や姉と呼ばずに「さん」付けするのは、相手が『出稼ぎ』に出ている場合だ。たとえそれまで「兄さん」「姉さん」と呼んでいても、『出稼ぎ』が始まった途端「さん」付けになる。それが藤本家の決まりだ。
『出稼ぎ』は、殺し屋を引退して表の世界で働くことを意味する。といっても、単に働くんじゃない。要はスパイだ。カインはカイン。殺し屋でなくなっても、裏社会の人間であることは変わらない。表の顔は、いつだってはりぼて。日向では、仮面をかぶり嘘を着飾ってしか生きていけない。
この人も、偽りだらけの生活を送っているに違いない。きっちりとしたスーツを着込んで、パッと見、まじめなサラリーマンでも、裏では親父に情報を漏らしているんだ。そして……と、俺は翔太さんの左手を見つめた。薬指にはシルバーのリング。婚約……もしくは、結婚している。相手は翔太さんの正体を知っているのか? いや、知らないだろう。結婚もまた武器。情報を得るための、権力を得るための、有効な手段だ。恋愛結婚であるはずはない。
翔太さんの、あっさりとした所謂しょうゆ顔を見上げ、俺は「和幸です」と軽く会釈する。
「初めまして、和幸くん」はきはきとした口調でそう言って、翔太さんは静流姉さんを見やる。「ありがとう、静流」
静流姉さんは愛想笑いのようなものを浮かべて頷くと、踵を返して去っていった。気持ち悪いほどしおらしくて俺は眉をひそめてその背中を見送った。さすが、仁侠映画好き。年上には従順だな。
「突然、お邪魔して悪いね。パーティーの最中なんだろう」
優しげな声でそう言われ、俺は弾かれたように振り返った。
「いえ。でも、俺に何の用ですか?」
俺も全てのカインに会ったことがあるわけではない。正直、全部で何人のカインがいるのかなんて分からない。特に、『出稼ぎ』に出ているカインとは接点はない。知り合えるはずもない。多分、カイン全員を把握しているのは親父くらいだろう。あとは……曽良か。リーダー代理なんだ。連絡係もしていたし、あいつは少なくとも全員の連絡先は知っているだろう。
だから、この人が俺を訪ねてきたのが不思議だった。会ったことの無い弟の卒業パーティーに顔を出すわけはない。俺がカインを抜けることで文句でも言いにきたのだろうか。いや、それにしては表情は穏やかで怒ってる様子はないし。
俺がいぶかしげな表情で返事を待っていると、翔太さんはどこか恥ずかしそうに鼻をかいて微笑んだ。そして、つぶやいた。予想もしていなかった一言を。
「アンリは元気か?」
「!?」
***
曽良くんが行っちゃう。どうしよう。何か言わなきゃ。このままお別れなんて……嫌。でも、何て言えばいいの? たくましい背中が遠ざかっていく。私は彼のジャケットを握り締め、体を震わせていた。寒いんじゃない。混乱と焦りだ。
「曽っ良ぁー!」
リビングから突然出てきた人影。シルエットと透き通るような美しい声で、誰だかすぐに分かった。アリサさんだ。
曽良くんに倒れ掛かるように抱きついて、持っている飲み物の缶を曽良くんの頬になすりつけている。
「アリサ姉さん、飲みすぎ。ここらへんでやめといてよ~。あとが大変なんだから」
曽良くんはいつもの能天気な声でそう言った。アリサさんの肩をつかんで、優しく引き離す。ついさっき、私を見つめていた彼とは別人。元の曽良くんだ。私の知っている曽良くん。
「あ! 神崎カヤ、みーつけた」
突然、アリサさんはこちらに振り返って、指差す代わりに缶をこちらに向けて突き出した。きゅっとひきしまったウエストに、細長い手足。シルエットまでモデルみたいに様になっている。
「逃げるんじゃないわよぉ。まぁだ、話は終わってないんだからっ。調教のこと、聞かせてもらうわよ」
そう言って、千鳥足でこちらに向かってくる。その背後で、曽良くんがこちらを見つめていた。どこか遠くへ行ってしまうかのような、哀しげな表情。喉が締め付けられるように苦しくなった。
「ほら、神崎カヤ! あんたも飲みなさいな」
いきなり、がばっとアリサさんがよりかかってきて、私はハッとして曽良くんから目を離した。倒れそうになるアリサさんの肩を支えて、「大丈夫ですか」と尋ねる。今朝感じた苺のようないい香りは、鼻につんとくるアルコールの匂いでかき消されている。
「あ、アリサさん?」
返事が無いので顔を覗き込む。あんなに大きかった瞳はうつろで半開き。すぐにでも眠ってしまいそうだ。
「もう、お家に帰られたほうがいいんじゃいですか?」
「だいじょーぶよ」
そうは言っても……大丈夫とは思えないほど、ろれつが回っていない。私の肩を借りてまっすぐに立つと、アリサさんは持っていた缶を突き出してきた。
「飲みなさい」
「え」飲みなさいって、それビールじゃ……。「私は、アルコールはちょっと」
やんわりと断ると、不機嫌そうにむすっとした表情を浮かべ「あっそ」と言って、アリサさんは自ら開けた。私はハッとして、今にも缶を口に運ぼうとする右腕を掴んで止める。
「もう、飲まないほうが……」
「なめんじゃないわよぉ。まだまだ、若いんだから」
この状況に、若さって関係あるかな。私は苦笑するしかできなかった。どうしよう。きっと何を言っても飲んでしまう。でも、止めたほうがいいんだよね。曽良くんだって、さっき……
そうだ、曽良くん――ハッとして、リビング側のベランダに振り返ると、そこには誰もいなかった。ズキン、と胸の奥が痛んだ。きっと、曽良くんはリビングにもいないだろう。そう思った。もう彼は私に会うつもりは無い。まっすぐに帰ったに違いない。
結局、何も言えなかった。
私は唇をかみ締めた。ついさっき、彼と口付けを交わした唇。和幸くんを裏切った唇。
つい、アリサさんの腕をつかむ手に力が入っていた。
「ちょっと、離しなさいよ」と苛立った声が聞こえてくる。
もう、いい。どうにでもなれ――私は目を見開いてアリサさんを睨みつけた。
「だめったら、だめなんです!」
「は?」
私は勢いよくアリサさんの手から缶を奪い取り、その口を唇に当てた。ひんやりと冷たい感触。一気に缶を持ち上げると、苦い液体が舌の上を滑り喉へと入っていく。
「あら! 空気読めるじゃないのぉ」
嬉しそうなアリサさんの声が横から聞こえてきた。
***
アンリ? 俺は目を見開いて言葉を失った。何秒間か、確実に思考が停止した。
「父さんから、アンリの劇のことを聞いたんだ。君、参加しているんだろう?」
尋ねられても、俺は答えられなかった。というより、反応できなかった。ぱちくりと目をしばたたかせて、目の前で姿勢よく立っている男を見つめる。
アンリの劇……それは、カインの劇だ。あいつを救い出してくれたカインの話。
俺はごくりと生唾を飲み込み、心を落ち着かせて尋ねる。
「あなたが、アンリを『迎え』に行ったカイン?」
すると、翔太さんは懐かしむように目を細めて頷いた。
「『迎え』に行ったとき、あの子は怪我をしていてね。両親に返す前に、入院させていたんだ。一週間ほどだったけど、毎日見舞いに行って、すっかり仲良くなって……だから、名前も覚えていた」
それを聞いて、俺はフッと失笑していた。
「知ってます。劇に、そのシーンがありますから」
といっても、だいぶ脚色されているけどな。劇では、確かそこで二人が愛の誓い……まあ、どうでもいい。
翔太さんは声をあげて笑って「そうか、そうか」と嬉しそうにつぶやいた。
「二ヶ月前に、父さんから聞いたんだ。驚いたよ。まさか、カインの一人と彼女がクラスメイトになっているとはね」
「俺もです」
苦笑してそう相槌をうつ。明るいだけが取り得みたいなアンリが、まさかカインと関わりのある人間だったなんて驚愕の事実だった。
そもそも、カインに救われた経験をもつ人間と知り合うなんて、奇跡に近い。『迎え』に行った子供がその後どうなったかは、親父でさえ分からないことなんだからな。
だから、いつだったかアンリのことを親父にも話したんだ。劇が恥ずかしすぎるっていう愚痴と一緒にな。
しかし……まさか、親父の奴、アンリを『迎え』に行ったカインを探し出していただなんて。まあ、あの人のオフィスには今まで『迎え』に行った子供に関する資料が全部残っている。『迎え』に行ったカインの名前も記録に残っている(らしい)。探し出すのは簡単か。だが、俺に一言あってもいいんじゃないのか。……確かに、聞いたところでどうなるってわけでもなかっただろうけど。アンリに会わせるわけにもいかないしな。余計なことをさせないために、俺に知らせなかったのかもしれない。
「なかなか、君に会えずにいたんだ。今更、アンリのことを聞いたところで、どうなるってわけでもない。会いに行くわけにもいかないし」
「ですよね」
「でも」と、翔太さんは視線を落とした。「父さんから、君の『勘当』のことを聞いて、もうアンリの話を聞くことができない――そう思った瞬間、惜しいことをしたな、と後悔したんだ」
そこまで言って、翔太さんは顔を上げて明るく微笑む。その視線は俺を通り越して、リビングへと向けられていた。
「そんなとき……正確には、今日の昼なんだけど、静流から連絡が来てね。このパーティーが最後のチャンスですよ、と言われたんだ」
俺はハッとして、「静流姉さんが?」と間抜けな声を出していた。翔太さんは優しい笑顔のまま、俺に視線を戻す。
「ああ。静流とは長い付き合いでね。俺が『出稼ぎ』をはじめてからも、いろいろ相談する仲だ。アンリのこともよく話していた」
静流姉さんと相談? 全然想像できない。俺が落ち込んだときなんか、張り手で終わりだったけどな。やっぱ、年上には態度が違うんだな、きっと。縦社会の僕か。
「それで」と、翔太さんは興奮した様子で俺をじっと見つめていた。「アンリは、どうしてる? どんな子になった?」
まるで子供みたいに頬を赤らめ目を輝かせている。俺はそんな翔太さんが微笑ましかった。つい、頬がゆるむ。
翔太さんの気持ちはよく分かる。これだけアンリを気にかけるのは不思議じゃない。俺だって、できるなら、俺が『迎え』に行った子供たちが元気にやってるか知りたい。幸せに暮らしているのか、ずっと気になっている。でも、それを知ることは赦されない。子供たちを探し出してはいけない。そこまで関わるべきじゃないからだ。俺たちと関わるということは、裏社会とのつながりを残すということ。子供たちの将来のためにも、俺たちとの関係はばっさり切ったほうがいい。彼らを両親の元へ返した時点で、俺たちの役割は終わり。子供たちのその後は俺たちには関係ないんだ。
でも、翔太さんにはチャンスがある。俺を通して、アンリを知ることができる。
「元気すぎて、いつも迷惑してますよ」
俺は苦笑してそう答えた。
***
翔太は「背はどのくらいになった?」、「なにに興味を持ってる?」、「趣味はなんだ?」などと、まるで長年単身赴任の父親のような質問を繰り返した。和幸は照れながらも一つ一つ丁寧に答えていった。そんな和幸に、翔太はある考えが浮かんで唐突に尋ねる。
「和幸くんは、アンリとは深い関係なのか? もしかして、付き合ったことある?」
「は!?」なぜ、そうなる? と和幸は耳まで赤くして首を横に振った。「そんなわけないでしょう!」
すると、少し残念そうに翔太は苦笑い。
「いやぁ、アンリをよく知ってるみたいだったから。つい」
「クラスメイトですから」呆れたように和幸はため息をついた。「まあ、二年も同じクラスなんで、いろいろ知ってますよ」
それと、やたらと付きまとわれて面倒ごとにまきこまれてきたし――和幸は心の中でそう付け足した。
暢気な高い声が廊下に響いたのは、丁度そのときだった。
「翔太さん! 何してるんですか?」
ドアが閉じる音がして、誰かが駆けてくる足音が迫ってくる。和幸はぎょっとして背後に振り返った。やはり予想通り、絵に書いたような満面の笑みがこちらに向かってくる。
「曽良くん。元気そうだね」と、翔太は顔をほころばせて、勢いよく廊下を走ってきた少年に声をかけた。
曽良は和幸の背中にとびつくと、「仕事のほうはどうですか?」と尋ねる。前のめりになりながら、和幸は苦しそうに「だから、なんで抱きつくんだよ、お前は!?」と怒りの声をあげている。
「順調だよ。専務の娘さんとの結婚も決まってね」
そう言って、翔太は左手を二人に見せる。その途端、騒いでいた和幸は大人しくなり、「専務……」とぽつりとつぶやいた。曽良もまじめな表情に戻って、和幸の背中から降りると「おめでとうございます」と大人びた声で言う。
和幸は背筋を伸ばして翔太を見つめる。専務の娘と結婚。明らかに、権力目当ての結婚だ。無意識に、同情するような視線で翔太を見つめていた。
その視線に気づき、翔太は「勘弁してくれ」と苦笑して隠すように手を下ろす。
「セイクリッドは、トーキョー中の防犯システムをほぼ独占している企業だ。俺の出世次第で、君たちの『おつかい』もしやすくなる」
セイクリッド――和幸は聞きなれたその企業名にハッとした。今まで『おつかい』で潜入してきた屋敷のほとんどは、その会社の防犯システムを取り入れていた。そうか……と、改めてじっくりと翔太を見つめた。かっちりとしたスーツに身を包むサラリーマン。もし、彼がセイクリッドのお偉いさんにでもなってくれれば、機密情報に手が出せる。防犯システムへのハッキングも可能だろうし、穴を見つけるのも容易くなるはず。もしかしたら、『出稼ぎ』に出ているカインたちの中で、彼こそが最重要人物かもしれない。そうとさえ、和幸は思った。
「そのためには、俺はなんだってするよ」
指輪を見下ろす視線は哀しげではあったが、その声には迷いは微塵も感じられない。
「期待してます」と曽良がにこりと微笑んで言った。場の空気にはあわない、緊張感のない声で。
おいおい、という視線で和幸は曽良を睨む。が、そんな視線をはね退けるように、満面の笑みを浮かべ、曽良は和幸の肩をたたいた。
「じゃ! 元気でね、かっちゃん。俺、帰るから」
「え……は? 帰る?」
曽良の言い方は、放課後の同級生が交わす挨拶のようにあっさりしている。和幸はあわてて、靴をはこうとした曽良の腕を掴んだ。翔太には申し訳ない気もしたが、このまま「じゃあな」というわけにもいかない。
「待てよ! 今夜で最後なんだ。もう少し、話しておかなきゃならないことが……」
「ないない」と、曽良はあっけらかんと答える。「思わず、カーヤに無理やりキスしたこと口走ったら大変だし」
「……え?」
翔太は居心地悪そうに顔をしかめて、一歩後ずさった。ピリッと嫌な空気が走ったのを瞬時に察知したのだ。しかもそれは、自分にはまったく関係のない争いごと。むざむざ巻き込まれて体力を消耗するのも御免だ。
和幸は目を細めて明らかに無理した笑顔を浮かべる。
「冗談だよな?」
言われて、曽良はわざとらしく「しまった」と頭を抱えた。「つい、口走った」と、靴を履きながらいたずらっぽく笑う。
和幸はなんとか深呼吸でキレそうなのを押し止めていた。何が気に入らないかといえば、おちょくられていることだ。どこの世界に、あんな口の滑り方をするアホがいるんだ、とわなわなと体を震えさせた。
こうやってからかわれることは昔もよくあった。特に恋愛となると、曽良や砺波にいいように遊ばれたものだ(それが原因で中学を別にしたほどだ)。これが最後の夜だし、カヤとキスをしたと嘘をついて動揺する自分を見て楽しみたかっただけなら、許そう。和幸はそう思っていた。ただし、それが嘘でないならば……
和幸は大きく息を吸い、努めて落ち着いた声で曽良に尋ねる。
「カヤにキスしたのか?」
翔太はどこか興味深げに腕を組み、まるで行司のように二人を見守っていた。
曽良は靴のつま先でトントンと地面を叩くと、得意げに笑んだ。
「したよ」と、和幸をまっすぐに見つめてさらりと答える。「嫌がったから、無理やり」
その言葉を聞いた瞬間、和幸の頭から思考というものが消え去った。何歩進んだかも分からない。気づけば、曽良の胸倉を両手でつかむと背後のドアに勢いよく叩きつけていた。鈍い銅鑼のような音があたりに響く。曽良は余裕の笑みを浮かべて、ドアに自分を押さえつける和幸を見下ろしていた。
「馬鹿だが、いい奴だと思ってたんだ」憎しみと困惑が混ざった瞳で、和幸はそんな曽良を睨みつける。「いつから、兄弟の女に手ぇ出すようになった」
「手は出してないよ」と曽良はあっけらかんと答える。喉が締め付けられているはずだが、苦しそうな様子は一切ない。「言うなれば、唇を……」
ここまで来て冗談を、と和幸の表情は一気に険しくなる。乱暴に曽良の胸倉から手を離すと、一歩下がって右手を振りかぶる。
その瞬間、曽良はクスリと笑んだ。まるでこの展開を待っていたかのような表情だ。
だが、和幸はぴたりと止まった。今にも繰り出されそうな右拳は宙で行き場を失っている。ねじった上半身を元に戻せば、その勢いで右拳は確実に曽良の左頬に当たり、無防備な曽良は頭からドアに叩きつけられることになるだろう。
その光景を想像し、そして冷静に考える。――それでカヤは喜ぶだろうか、と。
曽良はいつまで経ってもやってこない和幸の右拳に小首を傾げる。隣で傍観している翔太も目をぱちりと瞬かせた。
「兄弟ゲンカはこれで終わりなのかな?」
腕を組んで翔太は和幸にそう尋ねる。和幸は「すみません、翔太さん」と放心状態でつぶやいて、右拳を下ろした。さっきまで曽良に向けられていた視線は、足元に落ちている。一体、何が彼の燃え盛る怒りを鎮火したのだろうか。それも、唐突に。曽良は突如として意気消沈した彼に眉をひそめる。
「かっちゃん? 殴らなくていいの?」そう言って、左頬を差し出す。「殴っといたほうがいいと思うよ」
妙なことをいぶかしげな表情で言う曽良に、翔太は顔をしかめた。心配しているようにも聞こえる声色から、それが皮肉でも挑発でもないことは明らかだった。和幸はといえば、曽良の声が聞こえていないかのようで、茫然としたまま唇だけ動かす。
「暴力はルール違反」
「へ?」
おもむろに顔を上げると、きょとんとしている曽良に「帰れ」と告げる。
「お前を殴るより、俺にはしなきゃいけないことがある」
「……それだけ?」
責めるような口調で曽良が尋ねると、和幸は乱暴に一歩踏み出し曽良に近づく。目の前で立ちはだかると、はっきりとした口調で言い渡す。
「二度と、カヤに近づくな。それだけだ」
曽良は食い入るように和幸の瞳を見据え、怪しげに笑んだ。「元から、そのつもりだったけど」
「じゃあ、そうしろ」
きつく言い放ち、曽良に鋭い視線を浴びせる。
曽良はしばらく納得いかないような表情を浮かべたが、急にハッと目を丸くして「そっか」と噴出した。いきなり笑い出した曽良に和幸は眉をひそめる。
「なんだよ?」と不機嫌そうに尋ねると、曽良は口を大きく開いて答える。
「かっちゃん、もうパンピーなんだね」
「は!?」
「――殴ってはくれないか」哀しげにひとりごちると、後ろ手にドアを開ける。「カーヤとお幸せに」
屈託の無い笑みでそう言うと、ひらりと身を翻して外に足を踏み出す。和幸は一気に顔を赤くして咄嗟に口を開くが、「お前に言われる筋合いは……」と途中で口ごもった。目の前には曽良の姿は無く、虚しく閉まるドアの音だけが辺りに響く。
和幸と翔太だけが残った玄関で、和幸は拳を握り締め、苦しそうにため息をついた。後悔しているような表情だ。それが、殴らなかったことに対する後悔なのか、こんな別れになってしまったことへの後悔なのか……翔太には分かりかねた。
とりあえず、翔太は和幸に時間をやることにし、押し黙る。
和幸が「すみません、翔太さん」とついさっき聞いたセリフを口にしたのは、一分ほど沈黙が続いてからだった。しかし、その謝罪の意味はさっきとは違うようだった。
和幸は翔太に振り返ると、
「やらなきゃいけないことができたんで。そろそろ」
実に大人びた笑顔だった。疲労の色は伺えるが、それでも苦しさは見受けられない。義務を喜んで受けれいれる――そんな覚悟が伝わってきた。
翔太は組んでいた腕をはずすと、和幸にやんわりと笑む。
「そうだね。ありがとう」言ってから、「帰る前に一つ」と人差し指を立たせる。真剣な表情になって、和幸をじっと見据えた。
「劇のことなんだが……アンリは大丈夫なんだろうか」
聞かれてすぐ、何のことを言っているのか和幸は悟った。カインをヒーローに仕立てた劇。それは、カインを悪者にしておきたい連中にはよからぬ劇だ。恐ろしい連中の怒りを買う可能性もある。
和幸はひとまず曽良のことは頭の片隅に置くことにして、翔太を安心させるように微笑んだ。
「大丈夫です。脚本からはあいつの名前を消しときましたし、本人にも口止めしときました。なんで!? と散々文句は言われましたけど」
和幸の頭の中に浮かんだのは、そのときのアンリの様子だ。お前が脚本を書いたことは内緒にしろ。そう言うと、それじゃ意味無いのよ、と歯向かってきた。謎めいているほうが客を引くだろ、と自分でもよく分からない理論を展開して言いくるめたのだ。
「俺以外の劇の参加者も、脚本を誰が考えたのかは知りません」
詳しく言えば、和幸とカヤ以外、だ。カヤはアンリ本人から脚本がアンリの実話を基にしていることを聞いている。だが、ここでカヤの名前を出す必要もないだろう、と和幸は判断した。いらぬ心配をかけるだけだ。
「さすがに、しっかりしてるね。噂通りだよ、和幸くん」
感心したように翔太はそう言って二度ほど頷いた。和幸は照れくさそうに苦笑すると、「どうでしょう」と謙遜の言葉を口にする。
「君がカインを辞めるのは残念だな。『人を殺さないカイン』の将来を楽しみにしていたんだけど」
「これが、その将来だと思います」
間髪いれずに、皮肉ともとれる翔太の言葉に和幸は切り返した。翔太はぱちくりと目を瞬かせ、「なるほど、最もだ」と笑みを浮かべる。
「友達としてでいい。アンリを守ってやってくれ」
熱のこもった口調で言われ、和幸は深々と頷く。
「はい。そのつもりです」
和幸の言葉に満足したかのように翔太はため息をつき、ドアノブに手を伸ばした。
「頼んだよ」と言い残し、ドアを開ける。その向こうには、やはり曽良の姿はない。当たり前のことだが……和幸の表情は自然と沈んだ。
容赦なく閉じられたドアの前で、和幸は壁にもたれかかった。
「良くも悪くも」と切ない表情でこぼす。「人は変わる、か」
それにしても、曽良の奴、まるで俺に殴られたいみたいだった――いや、まさか。和幸は鼻で笑って踵を返した。
未成年の飲酒は法律で禁じられています。一応、念のため……。