和幸との約束
「和幸ちゃん、楽しんでるね」
美月さんが鍋をおたまでかきまぜながら、目を細めてそう言った。鍋からはゆげとともに食欲をそそる香りがあふれ、のぞけば辛そうな赤で染まっている。キムチ鍋らしい。ちょうど寒くなってきた今の季節にぴったりだ。
静流さんのキッチンは、リビングと壁を隔てて独立したかたちになっている。といっても、ドアはないからリビングの音はつつぬけだ。さっきから皆はなにやら大騒ぎ。和幸くんの声も聞こえてくる。
ただ、美月さんは「楽しんでる」と言ったが、私には悲鳴に聞こえて仕方が無かった。一体、何してるんだろう?
「お腹すいた?」
美月さんは小皿に汁をほんのすこしだけ注ぎながら、そう言って私に微笑んだ。薄桃色のエプロンがよく似合っていて、台所に立つ姿は旦那さんを待つ新妻さんみたい。
「少し、すいてきました」
「そう。もうちょっと待ってねぇ」美月さんは愛くるしい垂れ目を細めて、満足そうに頷いた。「よかったら、そこの林檎食べていいからね」
言われて、まな板にのっかる林檎に目をやる。ルビーのように真っ赤な林檎。いい具合に熟していそうだ。
「しずるん、林檎むきが大好きなの。だから、いっぱい林檎あるんだよ」
趣味は林檎むき? そういえば、今日初めて会ったときも、綺麗にナイフで林檎をむいていたっけ。
「さて、どうかなぁ」とつぶやくのが聞こえて美月さんに振り返ると、ちょうど小皿に注いだ汁をすするところだった。小皿から口を離すと、「うーん」と悩ましげな表情を浮かべる。どこか曽良くんを思わせる横に伸びた唇には、落とし忘れた口紅のように赤い汁がついている。それをぺろりと舐める仕草に、私は見入ってしまった。
二つしか歳は違わないのに、なんでこんなに色っぽいんだろう。動作一つ一つに色気が漂っている。う……うらやましい。
じっと見つめていると、美月さんが「ん?」と不思議そうな表情でこちらに振り返った。私の視線を感じたみたいだ。
「どうかしたぁ?」
「い、いえ!」私は恥ずかしくなって慌てて目を反らす。すると、赤い林檎が目に入り、「林檎、真っ赤ですよね」
咄嗟に変なごまかし方をして、私は林檎を手に取った。美月さんは「そうだね」と、特に疑う様子もなく笑む。私も負けじと笑顔を浮かべた。そのときだった。
「どうにかしてくれよ、もう!」
「!」
突然、そんな疲れ果てた声をあげてキッチンに現れたのは、
「和幸ちゃん、どうしたのぉ」
和幸くんだった。げっそりとした表情で、顔色が悪い。悪夢でも見たかのようだ。なぜか痛そうに肩をおさえて、ぎこちなく回している。やっぱり、楽しんでたわけじゃなかったんだ。あの悲鳴は、本当に悲鳴だった――そう直感した。
「アリサ姉さんだよ」言って、キッチンに入ってくる。美月さんの影になっているからか、私には気づいていないようだ。「覚えたての関節技を次から次へと……。なんで親父があの人に医学の道をすすめたのか、よく分かるよ。悪い意味で、あの人は人体に興味があるんだ。ろくな医者になりゃしない」
彼にしては珍しく長々と愚痴を並べ、美月さんの背後の冷蔵庫によりかかる。肩が気になるようで、ぶつぶつ何かを言いながら肩をさすっている。そしてため息をついて顔を上げ――私とばちりと目があった。そして幽霊でも見たかのように、ハッと目を見開く。やっと私の存在に気づいて驚いたかな。
「台所にいるとは思わなかった?」と照れ笑いを浮かべて言って、美月さんを見やる。「美月さんのお手伝いしようと思って。といっても何もしてないけど」
「ちゃーんと手伝ってくれてるよぉ」
言いながら、美月さんはさい箸で器用に豆腐を掴んで持ち上げた。湯気を立てながらぷるぷると震える豆腐。崩さずにお箸で持ち上げるなんて、微妙な力の入れ具合が必要とされるに違いない。美月さんの豆腐を見つめる目は真剣だ。
そんな美月さんの横顔に見とれていると、ふと、和幸くんが近づいてくる気配がして私は彼に視線を戻す。そのときにはすでに彼は目の前に立ちはだかっていて、「え」と思わず後ずさってしまった。
それも、まるで怒っているかのような、張り詰めた表情。いきなり、なんだろう。
「和幸……くん?」と震える声で呼びかけた途端、彼は力強く私の右手首を掴んだ。「痛っ!」
悲鳴に近い声が出て、思わず持っていた林檎が手から転がり落ちる。あ、と思ったときには足元に赤い林檎がころころと揺れていた。
「どうしたの?」怪訝そうな表情で、美月さんは豆腐を箸で掴んだままこちらに体を向けた。
私と美月さんの間で立っている彼は、美月さんに背を向けた状態になっている。だから、美月さんには分からないだろう。彼の……この、鬼気迫る表情は。
私の手首を掴む彼の手が若干だが震えていた。林檎を落としてから、力は弱まったけど……それでも、まだ痛い。長谷川さんに誘拐されたときのことが頭に浮かび上がった。
「神崎ちゃん、怖がってるじゃない」
いつもよりほんの少しだけ低い声で、美月さんは和幸くんの背中に呼びかける。余計な力が入っているのだろう、さい箸にはさまれている豆腐が今にも逃げ出しそうだ。美月さんはもしや、豆腐を掴んでいることを忘れているんじゃないか、とさえ思った。
「和幸、手を離しなさい」
ぴくりとも動かない彼に、さっきよりも強い語調で美月さんはそう命じる。
それでも、彼は見向きもしない。ただ、じっと恐ろしいほど真剣な瞳で私を見つめていた。美月さんは正しい。私は……怯えている。
「和幸くん……ごめんなさい」
消え入りそうな声で私は謝っていた。彼が今何に対して怒っているのかは分からない。でも、何かを責められているような気がして仕方が無かった。無言で罪を問い立たされているような、そんなプレッシャーを感じたんだ。
その感覚が正しかったのかは分からない。でも、事実、和幸くんはやっと我に返ったようにハッとした。一つ瞬きをすると、ゆっくりと私の手首を離してくれた。私は右手を胸の前に持ってきて、そうっとさする。あざが残るほどではなかったけど……それでも、まだ痛みを感じるほどの力だった。
彼は思いつめた表情でうつむくと、頭を抱えた。よくよく観察してみると、彼の額には汗が噴き出ている。息遣いも荒く、たった今、階段を駆け上がってきたかのよう。
彼の背後では、美月さんがいぶかしげな表情でじっとこちらを伺っている。
「どうしたの?」と彼の顔をのぞきこんで尋ねる。「私、何かした?」
謝って彼が手を離してくれたのだから、きっと私が何か悪いことをしたのだろう。それも、ここまで動揺させるほどのことを。
和幸くんはじっと下を見つめて動かない。ただうつむいているだけではないのかも。そう思って視線をたどると……そこにあったのは、林檎。
「食べなきゃいい」
「え」
ぽつりとつぶやいたかと思うと、彼はすばやく落ちていた林檎を拾い上げた。見えない亡霊から奪い取るかのように、乱暴に。背筋を伸ばすと、林檎を片手に私を真剣な眼差しで見つめてきた。さっきとは違って、懇願するような表情だ。
「二度と、林檎に……こういう実には近づくな」
彼は低い声で脅すように言ってきた。美月さんは彼の背後でぽかんとしている。おそらく、私も同じような表情を浮かべていることだろう。
こういう実には近づくな? 一体、何の話?
「頼む、カヤ」
「!」
きょとんとしている私に、彼は一歩近づいて熱のこもった視線を向けてきた。
「頼む。絶対に……何があっても、変な実を食べないでくれ」
「は……い?」
自然と小首を傾げていた。変な実? 和幸くんが持っている実は林檎だよ? 静流さんが買った林檎だよ? まさか、私が変なものを拾って食べるとでも思っているのだろうか。そこまで子供じゃないよ。
でも……彼は真剣そのもの。決して冗談を言っているわけではないみたい。彼が何を考えているのかは分からないけど、でも、和幸くんがそこまで言うなら私の答えは一つ。
「分かった」と戸惑いつつも頷く。「変な実は……食べないようにする」
といっても、そう簡単な話じゃない。私は遠慮がちに彼に尋ねた。
「でも、変な実ってどんな……」
「林檎に似た実だ! いや、とにかく、林檎は食べないでくれ」
急に彼は声を荒げた。ますますワケが分からない。美月さんも、あのおっとりとした印象がどこかへ行って、怪訝な表情を浮かべている。とにかく、今は彼を落ちつかせるためにも、「分かったから」ともう一度はっきりと告げる。
すると、和幸くんはまじめな表情で、自分で確認するように何度も頷いた。
「それなら、いいんだ。それなら、いい」
ため息をついて、狂ったように同じセリフを繰り返している。その視線はいつのまにやら、彼の右手に収まっている林檎に向けられていた。
「食べさせなければいいんだ」
彼によからぬものが取り憑いているのではないだろうか。私はそうとさえ思った。
心配になって「和幸くん」と声をかけようと口をあけたときだった。ぐっと彼の手の甲に血管が浮き出たかと思うと、指が林檎にめりこんだ。思わずぎょっとして後ずさる。血のように林檎から果汁があふれ出し、彼の指にからみついていく。
リビングではまだお祭り騒ぎが続いているはずなのに、私の耳には何も入ってこなかった。無音の世界にいるようだった。私はゆっくりと彼の手形のついた林檎から彼の顔へと視線を移す。
親の仇でも見るかのような眼差し。悔しそうな表情。全ては、たった一つの無害な果実に向けられていた。
「和幸くん」気づけば私はそう言って、林檎を今にも潰しそうな彼の右手に手を添えていた。「大丈夫」
ハッとして彼は顔を上げて、充血した瞳をこちらに向ける。私は意識することなく、何かに導かれるかのように彼に囁きかけた。
「食べないよ。林檎も、それに似た果物も、絶対に口にしない」
「……」
「信じて、和幸」
理由は分からない。彼がどうしてそこまで林檎(に似た果実)にこだわるのか。でも……彼がそれを望むなら、それだけで私には充分な理由なんだ。一生、林檎を諦めたって構わない。彼がそれを望むなら……。
私はもうあなたを疑ったりしない。詮索もしない。ただただ、あなたを信じ続ける。そう決めたんだ。だって、分かったもの。あなたは、隠し事まで優しいんだ、て。私はあなたの全てを――隠し事も嘘も全部、愛する覚悟をしたの。
彼は何も言わずにじっと私を見つめていた。瞬き一つすることなく、私を凝視している。
私は彼から目を離さずに、彼の手から林檎をそうっとはずす。色も形も完璧だったはずの林檎は、いびつな形に変形して果汁まみれになっていた。私は彼を刺激しないように、ゆっくりとそれを流しの三角コーナーへと運んだ。UFOキャッチャーのアームのごとく、躊躇無く私は林檎を落とす。
「大丈夫」
そう言って微笑むと、彼はやっと瞬きをした。安堵したかのようにふうっとため息をつき、肩を撫で下ろす。表情は和らいで、力が抜けたようだった。そして――
「カヤ」と苦しそうな声を出して、彼はいきなり抱きついてきた。勢いよく迫ってきて、私は倒れそうになったのを流しに手を置いて食いとどまる。あまりのことに、心臓が大騒ぎ。ちらりと顔を上げれば、美月さんが「あらあら」とつぶやいてまじまじとこちらを見ている。私の頬は一気に紅潮した。
「カヤ」
彼は私の名前を何度も繰り返し、私の背中を必死に抱きしめていた。まるで、しがみつくかのように。悪夢に目を覚ました子供が甘えてるみたい。
「大丈夫」とりあえず私はそう言って、彼の背中をさすった。「大丈夫だよ」
「この子、よっぱらってるのぉ?」
呆れたような美月さんの声がした。
***
俺は我を失った。カヤが林檎を手に立っているのを目にした瞬間、いつかのリストの声が蘇ったんだ。
――十七年経つと、『パンドラの箱』の中に、『テマエの実』と呼ばれる林檎に似た実が現れる。
まだカヤは十七にはなっていない。『収穫の日』も来ていない。彼女が持っている果実が、『テマエの実』であるはずはなかった。――だが、それでも我を失ったんだ。それほど、俺には恐ろしい光景だったんだ。
気づけば、彼女の手首を掴んで必死に懇願していた。変な実を食べるな、と。今となってはそのときのことはぼんやりとしか覚えていない。
『テマエの実』――カヤと世界の運命を変える運命の果実。カヤがそれを口にすれば、カヤは人でなくなり、世界は終焉へと確かな一歩を踏み出すことになる。そうなったら、残る未来は二つだけ。リストがカヤを殺して世界が残るか、カヤが世界を滅ぼすか。
俺は、どちらも嫌だ。そんな選択しかない未来は願い下げだ。だから……カヤと世界、どちらも在る未来――カヤのいる世界を得るためには、『テマエの実』をカヤに与えないことだ。逆に言えば、カヤから『テマエの実』を遠ざければいい。要は、カヤがそれを食べなければいい。
それが、俺がしがみついている希望。喉から手がでるほど欲している未来。
だから……だから、林檎を持つカヤなんて、今の俺にとって何よりも見たくない光景だったんだ。不吉で恐ろしい、悪い冗談に思えた。こんなものを俺に見せてどうしようっていうんだ――俺はそんな憤りを感じた。カヤへではない。得体の知れない『神』というものに、だ。この世界を『運命』の連鎖で縛り付ける連中。カヤを『使命』という鎖で牢獄に閉じ込める連中。これもまた、そいつらの仕組んだ悪戯なのか?
そう思ったら腹が立って、カヤの手首をつかんでいた。さっさとこのふざけた実をカヤの手から遠ざけなければ――その意思だけが俺の体を動かしていた。力加減とか、カヤの気持ちとか、そんなことを考えられるほど冷静ではいられなかった。目の前にある果実が『テマエの実』か林檎かも、どうでもよくなっていた。とにかく、「食べさせなきゃいいんだ」という言葉だけが頭の中で繰り返されていた。
食べさせなきゃいい。カヤに『テマエの実』を食べさせなきゃいい。そしたら、俺はカヤと一緒に未来の世界を生きられる。
『テマエの実』さえ、なければいい。
そんな憎しみにも似た気持ちがこみ上げて、俺は体の制御ができなくなった。気づけば、林檎から果汁がにじみ出ていた。長年、この(改造強化された)体と付き合って得た力加減の術を失ったような気がした。理性が消えていく――そんな恐怖にさえ襲われた。
そのときだった。やわらかい『何か』が、暴走する俺の右手を包むのを感じた。柔らかくて暖かい『何か』。懐かしい感触。
「和幸くん」と、居心地のいい音がした。それが俺の名前であることを思い出し、それが声だと理解する。
「大丈夫」
優しくて甘美な声。段々と右手から力が抜けていくのを感じた。それとともに、右手に乗っかる果実しか見えていなかった視界が徐々に広がっていった。ゆっくりと顔を上げると、微笑を浮かべる女が俺を見つめている。
「食べないよ。林檎も、それに似た果物も、絶対に口にしない」
「……」
「信じて、和幸」
じっと俺を見つめる美しい女――女神か天使か。彼女が俺の目を見て名前を呼んでいる。包み込むようなオーラ。暖かい声。彼女の全てが、俺の体から緊張や不安、恐怖を取り除いていく。そのときになって、やっと俺は思い出した。手の中に在るそれは、ただの林檎でしかないことを。
彼女は俺の手から林檎を取ると、俺から視線を反らすことなく、それを棄てた。全ての動きに迷いは一切無かった。
そして彼女は優しさに満ち溢れた笑みを浮かべて言った。「大丈夫」と。その瞬間、体から一気に力が抜けた。冷静さを取り戻し、俺はやっと自分が取り乱していたことに気づいた。記憶が戻ってきて、俺はどういう経緯でどうしてここにいるのかを思い出した。
目の前にいるのは、まだカヤであることを思い出した。
その途端、体はまた勝手に動き、カヤを抱きしめていた。「カヤ」と確かめるように何度も呼んだ。俺のカヤ……彼女はまだここに居る。まだ手の届くところにいる。それを確認するように背中を強く抱きしめた。彼女の存在を実感したくて、そうやって自分を安心させたくて、狂ったように夢中で抱きしめた。まだ……まだ……まだ……頭の中で同じ文章が何度も何度も繰り返された。
「大丈夫」やんわりとした声が耳元で囁かれ、俺はいつのまにか閉じていた瞼を開く。背中を優しく何かが撫でるのを感じた。「大丈夫だよ」
心臓が大きく波打ち、彼女の背中を抱く腕がゆるんだ。大丈夫……その言葉が全身をかけぬける。――そうだよな。まだ、希望はある。
背後から「この子、よっぱらってるのぉ?」という美月姉さんの声が聞こえてきた。俺はおもむろにカヤから体を離すと、心配そうな表情を浮かべるカヤを見つめた。「悪い」と謝って、「酒は飲むものじゃないな」と美月姉さんの言葉に乗っかった。
カヤは小首を傾げて微笑して、「そう」と小さな声でつぶやく。俺の嘘なんてバレバレだろう。でも、それ以上何も聞かないでくれた。俺は踵を返して、逃げるようにキッチンから出た。リビングの端で立ちすくみ、ため息をついてぐっと右手を握り締める。
何も解決したわけではない。カヤが棄てたのは林檎だ。『テマエの実』じゃない。『テマエの実』はあと一ヶ月と一週間もすれば否応無く現れる。でも……彼女の「大丈夫」という甘くせつない声が、俺を支えてくれる。そんな気がした。その言葉にすがって『収穫の日』を迎えようと思った。
「和幸、ちょっといいかい?」
唐突に聞こえてきたその声に、俺はハッと我に返って顔をあげる。腰に手をあてがって俺を見つめていたのは、静流姉さんだった。ぎゃあぎゃあと騒ぐほかの兄弟たちを不快そうな目つきで一瞥してから、「会わせたい人がいるんだ」と俺につぶやく。
「ってか、あんたに会いたい人……かな。玄関で待ってるから。会いに行ってくれる?」
静流姉さんにしては珍しく、つつましくも聞こえる落ち着いた声だった。