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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第三章
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サプライズ

 静流は壁にもたれかかり、ナイフを鉛筆回しの要領で右手で転がしていた。弟に意味深な電話を入れてそろそろ二十分。どんな顔をして現れるのか、楽しみで仕方が無い。廊下で息をすえば、線香の香りが肺に入っていく。香りが彼女を落ち着かせてくれる――厚い唇に微笑を浮かべた。

 そのときだった。突然、玄関の扉を乱暴に叩く音が辺りに響いた。和太鼓でも叩いているかのような、力の入りようだ。静流は壁から背を離すと、「開いてるよ!」としゃがれた声で怒鳴る。

 すると、間髪いれずに扉が開き、血相を変えた少年が倒れこむように入ってきた。相変わらずの美しい黒髪。目立った特徴はないものの、母親は美人に違いない、と思わせる整った顔立ち。懐かしさに、静流は目を細めた。

 だが、感動的な再会――とはいかないようで、愛すべき弟は「静流姉さん!」と、文字通り土足で上がりこんで静流の胸倉につかみかかってきた。「カヤはどこだ!?」


 小姑は嫁には勝てないか、と静流は呆れたようにため息をつき、すばやく弟のみぞおちに、持っていたナイフの柄を突き刺した――いや、めりこませた。このまま刃の部分まではいりこむんじゃないか。そう思わせるほど食い込んで、和幸は目をむいて咳き込んだ。思わず、静流の胸倉から手が離れ、うずくまる。


「涙がでるほど嬉しい挨拶だね、和幸」

「カヤはどこだよ?」和幸はみぞおちを押さえながら、睨むように静流を見上げる。「何が気に入らないのかは知らねぇけど、あいつに何かあったら、姉さんでも……」


 ひるむ様子は一切ない。俺は本気だ、と言わんばかりの真剣な表情。怒りに満ちた瞳。

 静流は、「ふぅん」と妖しげな笑みを浮かべてナイフを口元にあてる。この子があたしに反抗するか――寂しいような、嬉しいような、複雑な感情がこみ上げてきた。怯えた表情で、何でも「はい! はい!」と兵隊のように言うことを聞いていた幼い弟はもういないのだ。いつのまに……と懐かしむような眼差しで弟を見つめる。

 吐き気がしたのか、一瞬顔をゆがませつつも和幸はむくりと起き上がり、自分を睨んでくる。背筋を伸ばした弟は、自分を見下ろしていた。しばらく見ないうちに、背も随分高くなっていたようだ。

 静流は彼を見上げて、ふと思う。広幸が死んでふさぎこんでいた弟は、すっかり一人で立てるようになっていたのだ、と。もう、張り手で気合をいれてやる必要もない。手放すときはとっくに来ていたようだ。

 

「静流姉さん!」和幸の怒号が静流を現実に引き戻す。「カヤはどこだよ!?」

「うるさいねぇ。ガキじゃないんだから」


 言いながら、静流は腰に手をあてがった。


「そろそろ帰ってくる頃だよ」

「え?」和幸は目を丸くして、きょとんとした。「帰ってくる?」


 すると、それが静流の予言だったかのように、和幸の背後でドアノブをひねる音がした。ハッとして振り返ると、扉が勢いよく開き、一人の少女が飛び込んできた。


「遅くなりました」と少女は息を切らせながら叫び、崩れるように玄関にしゃがみこむ。両手には大量の買い物袋。細い腕でよくこれだけ運んでこれたな、と思うほどの量だ。

 和幸は目をしばたたかせながら、少女を見下ろす。耳を隠すように覆うふんわりとした髪は、毛先がぴょんぴょん跳ねている。うなじがはっきりと見えるほど、短い髪。肌の色には見覚えがあるが、そのショートボブには見覚えは無い。

 和幸は視力が悪いかのように目をほそめて、うつむいて息を整えている少女をまじまじと見つめる。

 少女は苦しそうに咳をし、「飲み物買って来ました」と汗と笑顔を浮かべて顔を上げた。そして、ぎょっと目を見開く。


「あれ」と肩で息をしながらつぶやく。あまりに急いで入ってきたため、少女は彼の存在に気づいていなかった。目が合う今の今まで。「か、和幸くん?」



***


「カ、カヤ!?」


 半ば気づいてはいたが……まさか、本当にカヤだとは。状況と髪型(・・)的に、カヤであるはずはなかった。俺の声はかっこ悪く裏返っていた。


「な……なんで、買い物?」


 俺はどこからつっこめばいいのか分からず、とりあえずそうつぶやいた。カヤは……いきなり、ショートヘアになっていたカヤは、「ああ」と微笑んで買い物袋を見渡す。


「『おつかい』してきたの」

「お、おつかい……?」


 いやいや。全然説明になってないだろ。どうなってんだよ? なんで、普通に買い物袋ぶらさげて静流姉さんの部屋に入ってきたんだ? 俺……何しにここに来たんだ? 確か、カヤを助けにきたはずなんだけど。カヤは見るからに元気そうだぞ。危ない目に遭ってる様子はないし、傷一つ無……くはないな。


「どうしたんだ、その頬!?」


 髪に気を取られてうっかりしていた。声を荒げてそう尋ねると、カヤはハッとして左頬を押さえた。そこには、ガーゼが貼られている。つい今朝までなかったはずのものだ。


「あ、これは」とカヤは口ごもった。だが、続きを言おうとはしない。目をそらして口を閉ざした。

「誰にやられたんだ!? まさか……」


 ハッとして振り返れば、静流姉さんが得意げにナイフを右手の中で回している。


「姉さん!?」と怒鳴ると、姉さんは肩をすくめて唇の片端を上げた。

「うるさいよ」

「姉さんがやったのか!?」

「だったら何だよ。やり返すか?」


 苛立つ俺をあざ笑うかのようにケロッとそう言って、姉さんは俺の横を通り過ぎる。さっさとカヤの前にしゃがむと、袋の中に手をつっこんで物色を始めた。


「ビールにチューハイ。ちゃんとメーカーもあってるねぇ。上出来、上出来。あれ? 梅酒は?」

「あ、こっちの袋です」

「あぁ、こっちね」


 静流姉さんが袋から取り出すのは、どれもアルコールだ。もしかして、カヤが運んできたビニール袋は、すべて酒か?


「ちょ、ちょっと待て!」と俺は思わず叫んでいた。「カヤに……酒、買わせたのか!?」

「そうだけど?」まるでなんでもないかのように、静流姉さんは答える。

「カヤは未成年だぞ? ってか……カヤ、どうやって買ってきたんだ!? 未成年がいつからアルコール買えるようになった!?」


 どこから手をつけたらいいのか分からない雑草地帯みたいだ。質問を選ぶのも一苦労だ。

 カヤは尋ねられて、ごまかすように微笑んだ。俺はそれを見て……とりあえず、ショートヘアはよく似合っている、とそれだけは結論付けた。フェイスラインにかかる髪が、カヤの小顔を余計に小さく見せている。髪に邪魔されることのない首筋が、一段と色っぽい。

 って、そんなこと考えてる場合じゃない。


「おい、姉さん!」

「もう、ぎゃあぎゃあうるさいねぇ。クソ真面目なんだから」言って、静流姉さんは缶ビール片手に立ち上がって、俺に振り返る。「こんな可愛い子が頼めば、どんな成人男性も酒くらい買ってくれんだよ」

「は?」


 どんな男でもって……どういうことだよ? さっぱり分からない。カヤを見つめれば、相変わらず笑顔でごまかすだけ。


「カヤに何させたんだよ、姉さん!?」

「何って……楽な生き方を教えてあげただけだよ」

「楽な生き方?」

「こんだけの容姿を持て余してたから。一つの活用法を教えてあげたわけ」


 まさか、色仕掛けでも教えたのかよ。俺はジト目で姉さんを睨みつける。すると、一切気にする様子もなく、缶ビールを開けて一口飲んだ。


「てか、姉さんもまだ未成年だろ。飲んでいいのかよ」

「殺し屋に向かって、なに堅苦しいこと言ってんだよ。脳無しか?」


 もっともだ。それに関しては、放っておこう。


「こんなに酒買ってどうする気なんだ?」


 再び、ビニール袋に目を向けたとき、ちょうどカヤが立ち上がった。おもむろにロングコートを脱ぐと、浅黒い素足が俺の目に飛び込んで……って、おい!


「な、なんつー格好で!?」


 思わぬものを目にして、慌てて俺はカヤに駆け寄った。だが、駆け寄ったところでどうすることもできない。砺波を彷彿とさせる――いや、それ以上に短い黒いミニスカートのワンピース……ここで脱がすわけにもいかないし。

 唖然としていると、カヤは頬を赤らめてはにかんだ笑みを浮かべた。

 

「静流さんに薦められて、アリサさんからお借りしたの」

「……え」聞き間違いだと思った。いや、そう信じたかった。「アリサ?」


 まさか、それはアリサ姉さんじゃないよな。俺は頬をひきつらせた。その名前を思い浮かべただけで、背筋が凍る。頭に思い浮かぶのは、調教、調教、と人を追いかけるあの変態女王……なんでカヤからその名前が出てきたんだ?

 

「皆さん、待ってるよ」

「!」


 ふと、カヤの優しい声が聞こえてきた。ハッとして見つめると、懐かしい……随分見ていなかったような、朗らかな笑みがそこにあった。どんな傷をも癒してくれるような、悩みも哀しみも打ち消してくれるような、全てを包み込むような、美しい笑顔。髪型がかわっても、その笑顔は変わることは無い。ってか、一段と可愛いと思った。

 俺は呆気にとられた。てっきり、この笑顔はしばらく見れないと思っていた。次に会うとき、カヤは泣いているだろう。そう思っていたのに。どう慰めればいいのか、どう元気付けたらいいのか。そればかり考えて思い悩んでいたのに。カヤは……俺のカヤに戻っていた。


「待ってる?」と戸惑いつつもつぶやくと、カヤは「うん」と深々と頷く。


 誰が? そう尋ねようとしたときだった。


「かっちゃーん!」


 俺の疑問を全て吹き飛ばすような勢いの、弾けるような声が廊下に響いた。驚いて振り返れば、廊下の突き当たりのドアから、水色のロングTシャツに細身のジーパンを着たアヒル口の男がスキップで駆けてくる。


「曽良? なんで、お前がここに?」

「愚問!」と叫んで、勢いよく俺に飛びついてくる。げ! と俺は声をあげた。

「だから、なんで抱きつくんだよ、お前は!?」


 これで頬ずりでもしてきたら、本気で殴ろう。

 曽良は俺に抱きついたまま、後ろにいるカヤに「お帰り」と声をかける。すると、カヤも「ただいま」と当たり前かのように答える。

 そのやり取りがあまりに自然で、まるでこの二人が同棲でもしているかのようだった。妙に……イラつく。俺は曽良の頭をつかむと乱暴に引き剥がす。


「どうなってんだ!? 俺はてっきりカヤが静流姉さんにさらわれたのかと……」

「兄ちゃん!」と、突然、思わぬ声が俺の言葉を遮った。聞き覚えのある声。聞き覚えはあるが……こんなところで、『勘当』された俺が聞くはずのない声。

 ハッとして声のしたほうを見やる。


「和幸兄ちゃん、久しぶりー!」


 わーい、と子供のような声をあげてリビングから出てきた鼻ピアスの中学生。筋肉質の体を自慢するような冬のタンクトップ姿。つりあがった細い目。角ばった輪郭。中学生とは思えない迫力のある顔つきだ。こいつと初めて会った奴は、百パーセント不良だと思うだろう。だが、ポケットからはみ出ている、俺には理解できない趣味のキーホルダーがそれを否定している。懐かしいな……にゃんちょび。

 俺は曽良の頭から手を離すと、久々の弟を笑顔で迎える。


久徳(ひさのり)」と呼ぶと、久徳は今にも泣きそうに顔をゆがめた。


「兄ちゃん! クレーンゲームみたいに、女もうまいことひっかけたんだね。さすがだよ」

「は……」


 会って早々、なんつー挨拶だ。思わず、俺は笑顔を消し去った。目の端で、静流姉さんの頬がぴくりとひきつったのが分かった。なにくだらねぇことを言ってやがんだ、能無しか――静流姉さんの心の声が聞こえてくるようだ。

 だが、こいつはうまいことを言ったと思っているのだろう。満足げに頬を赤らめて微笑んでいる。


「ありがとう」

 

 とりあえず、ひきつった笑顔ではあるが、礼を言うことにした。見た目で誤解されがちだが、こいつは『ガラスのように繊細な心』ってやつを隠しもっている。狼の皮をかぶった羊だ。人見知りなのか、心を開くまではとんがった態度をとっていたが、一度懐いた途端、ころっと純真な少年に早変わりした。


「久徳」と、落ち着いたハスキーボイスが横から入ってきた。「カヤが帰ってきたよ」


 じっくりと脅すような声色だった。カヤが帰ってきているのは見れば分かる。わざわざご丁寧に口に出して知らせることもないだろうが……。言われた久徳は一瞬にして表情を凍らせると、ぶるっと体を震わせた。さも、今カヤに気づいたように俺の背後に目を向ける。


「そ、そうでした」上擦った声でぎこちなくそう言って、「カヤ義姉(ねえ)ちゃん、お帰り」


 ひきつり笑顔を浮かべながら、久徳は俺の横を通り過ぎてカヤの元へ向かった。


「俺が持っていくよ」


 久徳は違和感のある笑い声をあげながら、カヤの足元においてある買い物袋を持ち上げた。


「ありがとう、久徳くん」


 屈託の無い笑顔を浮かべるカヤとは対照的に、くるりとこちらに振り返った久徳の笑顔は怯えているようにも見えた。なんか……様子が変だな。まるで、脅されてカヤに親切にしているみたいだ。ちらりと静流姉さんを見やると、呆れたような微笑を浮かべている。姉さんが何かしたのか?

 ってか、その前に、なんで久徳までここにいるんだ?


「ほらほら、かっちゃん!」


 困惑して表情を曇らせる俺を、曽良が肘うちしてきた。振り返ると、アヒル口がにぱっと開いている。相変わらずの能天気な笑顔だ。


「ぼうっとしてないで。中に入って」


 中って……リビングか? リビングに何がある? 不気味にさえ感じて、いぶかしげな表情でリビングを見つめる。

 すると、くいっと袖がひっぱられるのを感じた。ハッとして振り返ると、


「和幸くん、行こう」

「……」


 つい、呆けてしまった。穏やかで、優しくて、暖かい笑顔。カヤが帰ってきた――滑稽な表現だが、そう感じたんだ。

 俺は何も答えられず、カヤに引っ張られるままリビングへと足を進めた。


***


 曽良くんのアドバイスは的確だった。静流さんはあっという間にカインの兄弟姉妹を集めてしまった。電話一本で。しかも、久徳くんやあの留王くんまでわざわざ私に謝りに来てくれたのだ。今朝は失礼なことをしました……て。一体、静流さんは電話で皆さんに何と言ったのだろうか。とても気になるけど、そこまで詮索する権利はない。

 というより……もう、今となってはどうでもいい。

 私はちらりと横で立ち尽くす和幸くんを見つめた。目をまん丸にしてきょとんとしている。こんなにぼけっとしている彼は、初めて見る。私はつい笑ってしまった。

 

「お、放蕩息子!」

「お先食べてまーす」


 そんな声がリビングに響いて、そして和気藹々(あいあい)とした笑い声が溢れた。

 リビングには、十人ほどの、中学生から大学生までの様々な人々の姿があった。テーブルの上のピザを囲んでいる四人の中には、アリサさんや茶々さん、留王くんの姿もある。

 皆、見た目はまったく似ていない。和幸くんともこれっぽっちも似ていない。それでも、彼らは繋がっている。藤本という苗字で。


「久徳、こっちビールちょーだい」と、アリサさんがテーブルの一番奥で手をあげた。

「あ、はいはい」


 まるで居酒屋の店員のようなはきはきとした声でそう返事をして、久徳くんが私と和幸くんの間を通り抜けて買い物袋をぶらさげてリビングに入っていく。

 和幸くんは依然としてぽかんとしていた。私はそんな彼を見ていることに快感さえ覚えていた。だって、大成功ってことだもん。これこそ、サプライズパーティー。夕べは……私が驚かされちゃったもんね。


「和幸! お前、土足じゃん!?」


 ピザを片手に大学生くらいの男性がそう言って笑い出した。確か、平良(たいら)さん、だったかな。あごひげを生やした体格のいいお兄さんだ。


「あ、ほんとだわ。静流にケンカを売ってるのかしら。やっぱり痛めつけられたいのね! やん、たまらなーい」


 久徳くんからビールを受け取って、アリサさんが高らかな声でそう言った。「アリサ姉さん、相変わらず品が無い」と誰かがぼそりとつぶやいたのが聞こえてきた。

 和幸くんは皆に笑われているというのに無反応だ。ちらりと足元に目をやると、確かに土足。よっぽど困惑させてしまったのだろうか。


「そういえば、平良兄さん、健康診断行きました?」


 雰囲気にあわない冷静な声が聞こえてきた。茶々さんだ。そういえば、彼女は一人だけ始終真顔だったな。クールな少女なんだろうか。


「健康診断? 何の話だよ?」と平良さんが答え、それをきっかけに、皆は和幸くんの靴から目を離してそれぞれ内輪の話を始めた。


 これが最後だっていうのに、全然しんみりとした雰囲気はないんだな。それはそれで、絆を感じた。皆、分かってるんだろう。離れ離れになっても関係は変わらない、て。会えなくなっても、家族は家族。裏の世界で苦楽を共にしてきたんだもんね。私が想像もつかないくらい、固い絆で結ばれているに違いないんだ。

 しばらくしてから、やっと「どうなってんだ?」という彼の声がした。振り返ると、和幸くんは眉間に皺を寄せて呆然としていた。


「他にもいっぱい来るって」

「……え?」


 間の抜けた声をもらし、彼はこちらに振り返った。私はじっと彼の目を見つめて告げる。


「『勘当』のこと、静流さんから聞いたよ」

「!」

「だから、いっぱい楽しんでね」


 そのための、卒業パーティーなんだから――私は微笑みながら、そう心の中でつぶやいた。やはりまだ状況がつかめていないのだろう。彼は依然として放心状態。どこから質問をしたらいいのかも分からないのかな。

 ごめんね、今は我慢してね。説明している時間ももったいないから。

 私は「さ、靴脱いで」と微笑みかけた。


「玄関に置いてきてあげる」

「カヤ」と和幸君は眉をひそめた。「まさか、お前が皆に……」


 その質問はまたあとで。私は何も答えずに微笑して、手を差し出す。


「靴、脱いで」


 彼の靴を預かって私はリビングを後にした。ドアを閉める直前にちらりと振り返ると、彼が子供みたいな笑顔で平良さんに話しかけているところだった。見たことも無い表情だった。平良さんに肩を叩かれて、嬉しそうに何かを言っている。

 静かにドアを閉め、私はため息をついた。もちろん、安堵のため息。

 今日一日、本当にいろいろあった。盗撮写真の騒ぎに始まって、髪まで切った(切られた?)。心身ともに疲れがたまっていたはずだけど、部屋からもれてくる彼の楽しそうな笑い声を聞いただけで、そんなの吹っ飛んでしまう。

 静流さんから『勘当』のことを聞いたとき、胸が引き裂かれそうになった。これで本当の本当に、最後なんだよね。和幸くんは二度とカインの皆とは会えない。

 私はドアにもたれかかって、リビングの音に耳を傾ける。

 だからね、たっぷり皆と話してね。悔いが無いように、たくさん話してね。

 それで――と、私は靴をじっと見下ろした。祈るように目をつぶると、心の中で彼に話しかける。


 カインの皆と気が済むまで話したら……そしたら、その後は、独り占めさせて。私の相手、してね。それまで我慢してるから。いろいろわがままを聞いてね。抱きしめて欲しいし、キスもしたいし、それに……

 ううん。その前に、大事な話があるの。とてもとても、大事な話。あとでゆっくり、二人きりで話そうね。


 ドアから背を離し、私は玄関へ向かって歩き出した。玄関には、向かい合う曽良くんと静流さんの姿があった。


***


「気が乗らないのはあんただけじゃないよ、曽良」


 リビングへ向かう和幸たちの背中を見送りながら、静流は唐突につぶやいた。曽良はハッとして静流に振り返る。姉の鋭い眼差しは、弟とその恋人へ向けられたまま固定されている。


「でも、家族の中にあの女を疑う人間が居る限り、あたしらも疑わなきゃならない。ここまでリスクを負っちまったんだ。あたしらも保険(・・)はかけなきゃね」

「保険、ね」


 曽良は冷笑して視線を落とす。静流は皮肉の混じった声色に気づいて、ちらりと視線を曽良に向けた。


「曽良」と酒やけのような声で注意をひく。脅すようなトーンではなく、諭すような声色だ。「お前はリーダーだ。和幸とは(ちげ)ぇんだよ」


 言われて、曽良は睨むように静流を見上げた。反抗的な彼の視線に構うことなく、静流は低い声で続ける。


「カインか、あの子か。そんな選択肢はあんたにはない。あんたの選択肢は、いつだって家族だけだ」

「……」

「もし、あの子が『黒幕の娘』……もしくは『黒幕』の息のかかった女なら」


 段々と、静流の表情は険しくなっていった。ナイフを持つ手に力がはいる。曽良はそんな姉に気づいて、心配そうに眉をひそめた。


「姉さん」とつぶやくと、ため息を漏らす。「分かってるよ」


 先ほどまでの反抗的な目つきは消えて、優しげに静流を見つめていた。アヒル口は静流の見慣れた形に開いている。あっけらかんとした笑顔だ。


「もしものときは」と低い声で言って、曽良は涼しげな表情でリビングのほうに目をやる。「カーヤの『お片づけ』は俺がやる」


 お片付け――その言葉に、静流は目を薄めた。カインは確かに殺し屋と言われているが、基本的に身を守るためにしか人を殺さない。だから、その暗号はカインの間ではあまり使われないものだった。その意図することは、暗殺。

 静流は観察するようにじっと曽良を見つめ、おもむろにポケットからある物を取り出した。


「皆にも言ったけど……これは、あたしらにとってもチャンスだ。もし、あの子が『黒幕』につながっていれば――」


 静流が取り出したものは、大きめの十字架がついたネックレス。厚さのあるシルバーの十字架だ。


「あの子を通じて『黒幕』に辿り着けるかもしれない」


 言って、静流はネックレスを曽良に渡す。


この餌(・・・)にかかってあの子が行動を起こせば、あたしらの勝ち」


 餌……静流の言うそれが何か。曽良には分かっている。今、そして、これからここに集まってくるカインだ。命を狙われるのを覚悟でパーティーに参加することを承諾した兄弟姉妹たち。

 受け取ったネックレスをぐっと握り締めると、曽良はぽつりと尋ねる。


「行動を起こさなければ?」

「和幸の勝ちだ。女を見る目がある、て認めてやらねぇとな」


 ここにきて冗談めいたことを口にした静流に、曽良は鼻で笑った。


「たとえ勝っても……かっちゃんは怒るだろうねぇ。このパーティーが、カーヤを陥れる罠だって知ったら」

「陥れるんじゃねぇ。試すだけだ」


 言いながら、静流は反対側のポケットから黒い携帯電話を取り出した――いや、正確には携帯電話に似せて(・・・)造られた機械だ。曽良はなにも言わずにそれを受け取って、ネックレスと一緒にポケットにつっこむ。


「それに」ちょうど、誰かが近づいてくる気配がして、静流は声を落として言う。「あいつが知ることはない。知らなくていい。万が一、神崎カヤが『黒幕』に通じていたとしても、あの子は知らなくていい」


 曽良はぴくりと眉を動かした。


「かっちゃんにバレないように、フィアンセを殺せってこと?」

「それが、一家の大黒柱のすることだよ、曽良」


 ふうっと大きくため息をつくと、「曽良くん」と微笑みながらこちらにむかってくる少女に笑みを浮かべて手をふった。


「分かってる」と、静流に聞こえる程度の小声でつぶやく。「彼女のことは俺が責任をもつよ」

未成年の飲酒は法律で禁じられています。まねをしないように……。

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