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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第三章
188/365

カインの花嫁 -4-

多少ですが、暴力的な言葉、行為があります。苦手な方はご注意ください。

 私はとある駅前のマンションに来ていた。オートロックもない、エレベーターもない簡素なマンション。その三階、三つあるドアの真ん中の前で立っている。濃い緑色のドアがまるで金庫のドアのように強固に見える。

 震える手をインターフォンに伸ばすと、ごくりと唾を飲み込んでボタンを押した。ネームプレートには何も書かれていないが、誰が住んでいるかは分かっている。といっても、名前と性別と、この人が裏社会の殺し屋だということくらいだけど。

 しばらくすると、ガチャガチャと鍵を開けるような音が響いてきた。その瞬間、私の背筋はぴんと伸びる。今日、五人目のカイン(曽良くんもいれれば六人目だけど)。今までで一番緊張していた。リーダー代理である曽良くんが、裏番長と呼ぶカイン――静流さん。

 緑色のドアがゆっくりと開いていく。緊張のあまり、出てきた人を確認する前に、私は頭を下げて大声を上げていた。


「初めまして! 神崎カヤです!」


 そういえば、同じ失敗を茶々さんのときもしたっけ。

 確かに、誰かが私の後頭部を見つめている視線を感じる。息遣いが聞こえる。でも……何も言わない。

 曽良くんは、無茶苦茶な人だって言っていたし。今までとは比べ物にならないような拒絶をされるかもしれない。嫌な汗が背中を伝っていくのを感じた。

 いつまでも、こうして頭を下げているのも変だし、失礼だ。私はごくりと生唾を飲み込んで、ゆっくりと顔を上げる。

 扉を開けた人物を足元からじっくりと見上げていく。黒いレギンス。膝まであるだぼっとした黄色いワンピース。カラフルな石を連ねた、みぞおちまで垂れる長いネックレス。かわいらしい服装だ。

 背筋を伸ばしたときには、その人物とはたりと目が合っていた。

 百七十五センチはあるかな。長身のすらりとしたお姉さん。あごまである長い前髪を真ん中わけにして、ゆるいウェーブがかった後ろ髪をシュシュで一つにまとめている。たれ目が特徴的な、おっとりとした印象の女性だ。大きめの口は、弧を描いてにこやかな表情。

 この人が……静流さん? とてもじゃないけど、無茶苦茶な人には到底見えない。

 話しかけるのを忘れて、ぽかんと見つめていると、女性は小首を傾げて三日月形に目を細めた。


「やっぱり、来たぁ。噂の神崎ちゃん」

「え?」

「ようこそぉ」

 

 想像していたより一オクターブ高い声があたりに響いた。そして……想像していたより、ずっと反応が優しい。喜ぶべきなんだろうけど、今まで散々嫌がられてきたから、逆に戸惑ってしまう。


「中、入んなよぉ」

「え……い、いいんですか?」


 静流さんと思しき人は、私の腕を引っ張って玄関に押し込んだ。


「さ、さ、靴脱いで。中でお話しましょ」


 言いながら、静流さんは後ろ手に扉を閉めて鍵をかける。一気に玄関が暗くなった。線香の香りがほのかにした。どこかで焚いているのだろうか。


「ほらほら」と静流さんは玄関に上がると私の腕をひっぱった。私は言われるままに靴を脱ぐと、揃える暇もなく中へと誘導される。

 廊下はエスニック調の布があちらこちらに飾られていた。それを見回しながら歩いていると、目の前に扉が現れた。


「リビングだよ」と静流さんはおっとりした笑顔を浮かべて振り返った。そしてドアノブに手をかけて、おもいっきり開く。その途端、さっきまで漂っていた香りとは違う、甘い果物の香りが私を包み込んだ。中で、別のお香でも焚いているんだろうか。

 リビングもまた、エスニック調で統一されていた。壁、ソファ、テーブル。いたるところに、エスニック調のカバーがかけられている。にしても、一人暮らしにしては大きな部屋だ。長谷川さんの部屋よりは小さいけど、それでも十人以上がゆったりと床で眠れるスペースはある。

 ぼうっと突っ立っていると、静流さんはやっと私の手を離して部屋の中に入っていった。そして、


「神崎ちゃんが来たよぉ。しずるん」

「!?」


 え? 思わぬセリフを耳にして、私はぎょっとした。部屋の鑑賞をやめてとっさに静流さんと思っていた人物を見やる。彼女は確かに誰かに向かって話しかけていた。その『誰か』は私のほうからは死角で見えない。慌ててリビングに入って、その人物――『しずるん』さんを確認する。


「神崎?」


 まるで風邪をひいているかのような、ハスキーボイス。それを発したのは、彫りの深い顔立ちをした女性だった。リビングの隅っこであぐらをかいて、林檎にナイフをあてている。半分ほどまで一つなぎで皮はむかれていた。大根のかつらむきのようにきれいに螺旋を描いて垂れている。

 女性は私に気づいたようで、細長い切れ長の目でこちらを睨みつけてきた。左目の下には泣きぼくろ。擦れた声をだす唇は厚く、逆三角形の輪郭は痩せこけている。肩までの黒髪は、きつめのウェーブ。Tシャツにジーンズというシンプルな服装だけど、ワイルドな印象の彼女にはよく似合っていた。

 『しずるん』……曽良くんがつけるあだ名よりも、分かりやすくて助かる。間違いない。この人が、静流さんなんだ。


「神崎カヤ?」二日酔いで頭痛でもあるかのような表情を浮かべ、本物の静流さんはおもむろに立ち上がる。「なに、勝手に人ん家にあげてんだよ、美月(みずき)

「だって、留王ちゃんもさっき電話で言ってたじゃない? 一度、会って欲しいって」


 私が静流さんだと思っていた人は、美月さんというらしい。美月さんは静流さんとは対照的に、ニコニコと楽しげだ。この二人……雰囲気が正反対。

 それよりも、留王くんからの電話? 私に会って欲しい? さっきってことは……私が彼に会いに行ったあとだよね? どういうことだろう、と不思議に思っていると、ナイフを片手に静流さんがこちらに歩み寄ってきた。


「何の用だ、神崎カヤ?」

「え……」


 ゆらりと燃える炎のように、静流さんは力を抜いて目の前にたたずんでいた。厚い唇はうっすらと笑みを浮かべている。でも、鋭い瞳に宿っているのはあくまで敵意だ。

 私は緊張のあまりに収縮しそうな喉を無理やりこじ開けるようにして声を出した。


「私、皆さんのこと知りたいんです。私のことも知ってほしいんです。それで、分かり合えたらな、て。いろいろ、誤解もあるみたいで……それも、解きたいんです」


 静流さんは筆で弧を描いたような眉をぴくぴくと動かしつつ、黙って聞いていた。その後ろでは美月さんが、どこからかスポットライトでも浴びせられているように、たれ目の瞳をキラキラと輝かせている。どうやら、もう少しスピーチの時間はもらえるようだ。


「それで、皆さんと和幸くんの卒業パーティーを開けたらな、て思いまして。和幸くんも、カインの皆さんと会いたいでしょうし。だから、朝から皆さんに連絡をとっていたんです。

 ただ、中々思ったようには話ができなくて。そんなとき、曽良くんが、静流さんなら力になってくれるって教えてくれて」


 不安をごまかすように、無理やり笑顔をつくって明るくそう言った。静流さんは右手でバトンのようにナイフをクルクルと器用にまわしている。どういう指の動きだか、目で追うのも難しい。


「あたしが力になってくれる? どういう思考回路でそんなことを言ったんだろうね、あの馬鹿は」

「ほら、曽良ちゃんはいい子だからぁ」美月さんはパンと手を叩いて口を挟んだ。だが、静流さんはそれに微塵も反応せずに、私をじっと見据えている。

「あんたはあんたで、どうしてあたしらカインと仲良しこよしになれると思っちゃったわけ? 能無しなの」


 それは、と私はうつむいた。学校のカバンと一緒に提げている紙バッグを見つめる。


「私は、和幸くんのことが好きだからです」


 ぽつりとそうつぶやくと、「は!?」という擦れた静流さんの声が聞こえてきた。一気に機嫌を悪くさせてしまったことがはっきりと分かった。でも、今度こそ……今度こそ、今度こそ、引き下がりたくない! 今度こそ、ちゃんと気持ちを伝えなきゃ。

 私は顔を上げると、まっすぐに静流さんを見つめた。


「私は、彼のことが好きなんです。カインの皆さんと同じように。それが原因で嫌われていることも、もちろん知っています。でも……それって、共通点にはなりませんか!?」


 決して笑顔を消さなかった美月さんまできょとんとしてしまった。静流さんはといえば……


「はあ!? 頭おかしいのか、お前?」

「私、静流さんにもきっと気に入ってもらえると思うんです!」


 言い終わったその瞬間、静流さんは一歩、二歩、三歩、と大またで近寄ってきて私の胸倉を掴んだ。思わぬことに、カバンと紙バッグから手が離れる。


「なに、ふざけたこと言ってんだ!?」


 怒鳴り声が空気を切り裂いてカマイタチのように私に襲い掛かってくるようだった。思わず肩をすくめて身を引いた。美月さんは「あらあら」と目を丸くしている。巻き込まれる気はさらさらないようだ。


「あんたをあたしが気に入ると思ってんのか、てめぇは!?」


 胸倉を掴む手はいつ喉元を切り裂くのだろうか。自然とそんな不安がよぎるほど、静流さんからは『殺気』が溢れていた。留王くんから感じたものとは比べ物にならないほど、はっきりとした戦慄。私の中にある野生の勘が、逃げなきゃいけない、と私に告げていた。体中がそれに反応して、足は震えるし、鳥肌は立つし、心拍数は上がるし。でも、私の中の『女』としてのプライドだけは、それに反抗していた。


「思ってます! だって……」

「だってもクソもねぇんだよ!」


 静流さんはいきなり胸倉を掴む手に力を入れて、勢いよく私を背後の壁に押し付けた。背中に味わったことの無いほどの強い衝撃が走り、思わず目をつぶった。内臓にくる鈍い痛み。一瞬、喉に何かが詰まったような息苦しさ。あの細い体にどこにこんな力が――そう疑問を抱いた瞬間、悟った。そうか、静流さんも商業用の……。


「表でのうのうと生きてきたお嬢さまに、何が分かるってんだよ!?」

「私は――」


 ハッとして目を開いた瞬間、飛び込んできた何かに息を呑んだ。一瞬のことだった。キラリと何かが目の前で光ったかと思ったら、それは一筋の風を起こしながら、私の頬をかすって壁に突き刺さった。吐息とともに「え」という声が漏れ、汗ではない液体が頬を伝うのを感じた。そして、ふわりと舞う何か……地面にパラパラとシャーペンの芯のようなものが落ちていく。呆然とそれを見下ろし、しばらくしてやっと気づく。私の髪だ、と。

 そうっと視界の端に見える突起物に目をやれば、それはさっきまで静流さんが弄んでいたナイフだ。それが、頬の横スレスレに刺さっている――いや、スレスレだったのだろうか。おそるおそる、左頬に手をやれば、ぬるっと気味の悪い感触。見なくても分かる。自分の血だ。

 ほんの少しずれれば、私の左頬を突き刺していたに違いない。ごくりと唾を飲み込み、依然として力強く私の胸倉をつかむ女性を見つめる。

 不思議と、恐怖を感じてはいなかった。


***


「警告、したからね。お嬢さま」


 血に飢えた吸血鬼のような妖しげな笑みを浮かべ、静流はおもむろにナイフを壁から抜いた。

 カヤの左頬からは血が流れ、ナイフの道筋を示すかのように左側の髪は不自然にところどころ短くなっている。ほんの少しでもずれていれば、ナイフは左頬を貫いていた。それを分かっているはずだが、少女の瞳には不思議と恐怖は浮かんではいなかった。それよりも、何か確かなものを一つ見つけたかのように、しっかりと一点を見据えている。フラフラと歩いていた迷子がやっと帰る道を思い出したかのような、そんな表情を浮かべていた。

 お嬢さまのくせに怯えないのか、と静流は眉をひそめる。そのときだった。


「壁に穴あけたら、敷金全部かえってこないよぉ?」


 子犬が鳴くような声で、美月が背後から口を出してきた。

 敷金? 最もな指摘だが、正論過ぎる(・・・)。こんな状況で、なぜそんな心配をする? 静流は、美月の戯言はすべて無視しようと決めていたが、さすがにこれには知らんふりができなかった。頬をぴくりとひきつらせて振り返る。


「お前は黙ってろ! 外野で大人しくするのか、巻き込まれたいのか、はっきりさせとけ!」

「あらあら。私も警告してあげたのよぉ」


 美月は不思議そうに小首を傾げると、ぱちくりと目を瞬かせる。なぜ、静流が怒っているのか理解できない、といった様子だ。静流は「マジ、空気よめよ」とぼやいて、カヤに向き直る。


「空気は吸うものよ、しずるん」という美月の暢気な声を消し去るかのように「とにかく!」と静流はカヤに怒鳴った。


「痛い目にあいたくなかったら、さっさと帰んな。次に顔を見せたら、カインがどんなものなのか、体で知ってもらう」


 はき捨てるようにそう言って、静流は乱暴にカヤの胸倉から手を離した。一歩下がると、舌打ちをしてナイフについたカヤの血を人差し指でぬぐう。

 愛用のナイフは窓からの光を反射して銀色に煌いている。静流は切っ先を惚れ惚れと見つめた。が、すぐにその恍惚感は消え去ることになる。ナイフの向こう側で突っ立っている少女。ぴくりとも動かないカヤが目に入ったのだ。


「帰れっつってんだよ。あんたを殺して和幸に恨まれるのも厄介だ」


 腰に手をあてがって、見下すような視線をカヤに送る。獲物を狙う蛇のような鋭い瞳だ。おびえて顔を青くしてもよさそうなのだが、少女はひるむ様子を微塵もみせずにまっすぐな視線を返してきた。

 頬からひたたる血も、一切気にしていないようだ。あごまで伝って床に落ちる赤い雫に、静流のほうが気になってしまう。シミになったら、敷金が……と頭の中でぼやいた。


「私は」とカヤは真剣な表情でやっと口を開く。「静流さんに気に入ってもらえる自信があるんです」


 その言葉に、静流は一気に頭に血が上った。やっとおさまりかけていた怒りが大波となって戻ってくる。


「まだそんなことを……」

「どれだけ痛めつけられても構いません!」 


 静流はこめかみで何かが切れるような感覚を覚えた。全身の血が逆流してくるようなざわめきを感じる。ナイフを勢いよく床に突き刺すと、カヤの喉元を目指して腕を伸ばした。


「よくも、そんな大風呂敷を!」怒鳴りつけるのと同時に、カヤの喉を親指と人差し指で挟むようにつかんでまた壁に押し付ける。その二つの指は正確に彼女の動脈を圧迫し、呼吸と血の流れを遮っている。

 カヤは喉がつぶされるような圧力に顔をしかめつつ、必死に静流を睨むように見つめる。条件反射のように動いた両手は静流の右手首を掴んでいた。だが、止めようという意思は彼女にはなかった。ただ、話を聞いて欲しい――それだけが、思考の栄養である酸素と血が薄れていく頭で考えられることだった。


「私はただのお嬢さまじゃない!」夢中で叫ぶ彼女の両手に力が入り、静流は掴まれている右手首を一瞥した。「十六年愛していた両親に売られそうになった娘が、ただのお嬢さまだと思いますか!?」


 その瞬間、静流の顔つきが変わった。ぴくりと頬が痙攣したように微動し、切れ長の目がカヤを見やる。


「売られそうになった?」男のような低い声で静流は尋ねた。カヤは目を反らすと、一瞬にしてしぼんだ風船のように弱々しく覇気のない声で答える。

「確かめようとしたときには、両親は自ら命を絶っていて、未だに真相は分かりません。でも、証拠となる会話はしっかりと聞きました。妙な男と、金と引き換えに私を渡す算段をしている会話を」

「……」

「それなのに」と震える声をだすカヤの瞳には涙が浮かぶ。「それでも……両親が恋しいんです。悪い人たちだったかもしれないってどんなに思っても、恋しいんです。まるで、永遠にとけない催眠術をかけられたみたいに……憎めないんです」


 怪訝そうな表情を浮かべる静流は、カヤの首を絞める手を無意識に緩めていた。

 カヤの瞳からこぼれた涙は頬の血と合流して、水気の多い絵の具のような雫をつくった。潤んだ瞳は静流へと向けられ、唇には冷たい微笑が浮かぶ。


「がっかりしました?」と、消え入りそうなか弱い声がつぶやかれた。「『神崎カヤ』は、その程度の女なんですよ。たとえ私が本当に『黒幕の娘』だったとしても、カインが恐れるに足る女じゃありません」


 静流はハッと目を見開いた。耳にかけていた黒髪がパラパラとはずれて頬にかぶさる。後ろでぼうっとしていた美月も、真剣な表情を浮かべて腕を組んだ。


「大風呂敷じゃないです。どれだけ痛めつけられても私は平気です」


 静まりかえった部屋で、カヤのどこか冷たくも感じられる声が淡々と流れる。吹っ切れたように、瞳には決意が満ちて、表情にはなんの迷いもない。


「ナイフで突き刺されようが、首を絞められようが、もう恐くないんです」静流の手からはすっかり力が抜けていて、カヤは楽々と声をだせるようになっていた。「私はもっと、もっと恐い目にあってきたんです。彼と出会って、いろんなことに巻き込まれてきたんです。

 警官に殴られて気を失って、目が覚めたときには血だらけで、何があったかは未だに分からない。麻薬の売人に襲われそうになって噛み付いて逃げて、銃で撃たれて死にかけて、生きていることがおかしいくらい重傷だったのに、どうして助かったのかさっぱり分からない。デート中に変なお婆さんに、悪魔だ、ていきなり叫ばれるし、エレベーターで彼氏が他の女の子といちゃついてるの見ちゃうし……」

「は?」


 カヤは静流のトゲのある声に、自分の話が脱線したことに気づいた。ハッとして頬を赤らめると「だ、だから」と無理やり話をつなげる。


「私はただのお嬢さまなんかじゃないんです! カインに……裏世界の殺し屋に恋した、変な女です。だから、気に入ってもらえると思うんです」

「はあっ!?」


 静まっていた血がまた沸騰するように騒ぎ出す。やっと仕事を思い出したかのように静流はカヤの首に巻きつく手に力を入れた。


「本物の能無しか、てめぇは!? 言っている意味わかんねぇよ。それとも、ただの自意識過剰の妄想女か!? さっきから馬鹿の一つ覚えみたいに、同じことを。なんで、あたしがあんたなんかを――」

「私はあなたの弟が惚れた女だからです」


 カヤはきっぱりと言い放った。首を絞められていることに気づいてすらいないかのような、純粋でまっすぐな瞳で見つめられ、静流はゾンビ映画でも見ているような気分になっていた。へこたれない真っ直ぐな少女――ゾンビよりも厄介かもしれない、と顔をひきつらせる。

 出す言葉が見つからない口はあんぐりと開き、静流は呆然とカヤを見つめていた。カヤは居心地悪そうに視線を泳がせてから、遠慮がちにぽつりとつぶやく。


「あと……砺波ちゃんと仲がいいんです」

「へ」静流と美月の呆けた声が重なった。「砺波と……仲がいい?」


 ぽかんとしながら、静流はぼそりと言う。いきなり、なんだそれは? とひどい脱力感に襲われた。

 不自然な沈黙がしばらく続き、静流と美月は呆然としていた。そんな二人の目を覚ますかのように、静流の腕時計が二時を知らせる電子音を鳴らした。それを皮切りに、美月が声を上げて笑い出す。そして、静流も呆れたように目をぐるりと回して、カヤの喉元から手を離した。


「砺波と仲がいいか」静流はため息混じりに言う。「なるほど、一番説得力あるな」


 静流の手から開放され、カヤは腰をかがめると喉元をさすりながら咳き込む。ふと床に目をやれば、まだ乾いてもいない真新しい血痕が。静流の足元のほうに視線をうつせば、そこにはナイフが突き刺さっている。ついさっき、自分の頬と髪を切り裂いたナイフだ。だが、不思議と恐くはなかった。いつのまにやら自分は一線を越えていたことに、カヤはこの日気づいた。そう、ただのお嬢さまが踏み越えるべきではない一線。それをとっくに飛び越えていたんだ。自分は決してそこまで弱くは無い。自分もいつの間にか、変わっていたんだ――静流との口論の末、それを導き出していた。試していないだけ……砺波の声が唐突に蘇る。

 違和感ある喉をごまかすように咳払いをし、カヤはゆっくりと背筋を伸ばす。

 顔を上げた彼女の視線の先には、静流が待ち構えていたかのように腕を組んでいた。そして、やれやれ、と髪をくしゃくしゃと掻くと「こうしよう」としゃがれた声で切り出す。


「花嫁修業ってのはどう?」

「え?」


 目をしばたたかせるカヤに、静流は腰に手をあてがって不敵な笑みを浮かべる。


「『おつかい』、行って来てくれる?」

「おつかい……」

「そう。カインといえば『おつかい』だろ」

ナイフを人には向けないように。危険ですので。

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