カインの花嫁 -2-
千葉県内、とある寂れた駅前。駅自体は大きく立派なのだが、周りは駅ビルもなく、あるのは駐車場とファストフード店だけ。その東口で、一台の赤い軽自動車が停まっていた。運転席には二十代後半のふくよかな女性。たった一つのシミさえ許さないかのような厚い化粧が顔を覆っている。彼女は名残惜しそうな瞳で助手席に座る少年を見つめて、念を押すように確認する。まるで初めておつかいを頼む母親のように。
「この駅から、夕べ話した通りに電車に乗れば、トーキョーに着くからね」
少年の視線はラジオへと向けられている。軽快なポップミュージックがさわがしいほどの音量で流れている。女はいらだったようなため息をつき、ラジオをきった。
「ユリィくん? 話を聞いてくれるかな」
いきなり静まり返った車内に、女性の金切り声が響いた。
パーマがかった茶色い短髪を揺らし、ユリィは女へ振り返る。くりっとした茶色い瞳が女性を射抜いた。その目には不思議な魅力がある。見つめられているだけで、すべてを見透かされているような錯覚に陥ってしまう。そう、たとえ服を着ていても裸を見られているような、そんな錯覚――女は身震いして頬を赤く染めた。
「『お持ち帰り』してくれて、ありがとう。あと、地図とかいろいろありがとう」
ユリィはじっと女を見つめたまま、薄い唇を小さくもごもごと動かした。まるで最低限のエネルギーで済ませたいかのような動きだ。
「本当にもうお店に戻っては来ないの?」
女は諦めたようなため息をつき、そう尋ねた。ユリィは表情を一切変えることなく、唇だけ器用に動かす。
「夕べだけ、て約束だったから。とにかく、トーキョーに行くお金が欲しかっただけだし。あと旅費」
「そんなことのために、一晩だけホストをやったのよね」言うと、女は呆れた笑顔を浮かべる。「まったく……どうやって、お店に許可もらったのかしら。短期バイトで選ぶ仕事じゃないでしょうに」
「人と話すだけでお金いっぱいらもらえた。いい仕事」
相変わらずの、のんびりとした話し方。幼い子供のような舌足らずなしゃべり方。これが母性本能をくすぐるためのテクニックならば、大成功だ。ただ、女は確信していた。彼は何も創ってはいない、と。すべて彼の素なのだ――年齢を除いて、だが。おそらくは、ホストクラブの要望だったのだろう。本人は二十二歳だと言い張っていた。色気があるのはその瞳くらいで、他は――見た目も行動も――すべてが彼を十代の少年であることを示している。サバを読んでいることは明らかだった。
おかげで、『お持ち帰り』したところで何もできなかった。家に連れ帰ると、テレビゲームに興味を示し、一晩中遊んでいた。自分に弟がいたなら、こんな感じだったのだろう、とゲームに熱中する彼を見て女は思った。
結果的には本来の目的は果たせなかったが、彼と一緒にいるだけで不思議と癒されて心が和らいだ。もしかしたら、自分が必要としていたのはまさにこんな時間だったのではないか、とさえ思えた。
「また、会えるかな」
ユリィが助手席のドアを開け、車から降りようかというとき、女はぽつりと寂しげにつぶやいた。ユリィはぴたりと動きを止めると、振り返りもせずに答える。
「うん。もし、世界が滅びなければ」
「え?」
その声は、二十二歳といってもおかしくはないほど、大人びていた。
きょとんとする女を車内に残し、ユリィは車から降りた。じゃりっと靴の裏で小石が悲鳴をあげる。
「そのために、ここに来た。オレは、神を試す」
静かに車のドアを閉め、ユリィは駅へと一歩足を踏み出した。
***
電話の回数、二十五。その内、怒鳴られて切られた回数、十。無言で切られた回数、二。つながらなかった回数、三。なんとか、待ち合わせができたのは……たったの四人。
期待はしていなかった。努力が必要だろう、とは思っていた。だから、まずは四人のカインと仲直りをするところから始めればいい。焦らなくていい。大丈夫、きっとうまくいく。話せば分かってくれる。砺波ちゃんだって言っていたじゃない。私は、試していないだけだ、て。
そうやって自分を励ましながら、最初の待ち合わせ場所――白亜女子医科大学の正門に立っていた。一人目のカインは、ここの大学に通っているアリサさん。二十歳の女子大生。
「……アリサさん、か」
カインの中には変わり者もいる、と藤本さんは言っていたけど……一体、アリサさんはどんな人なんだろうか。アリサさんも変わり者なのかな。それとも、和幸くんみたいに優しいカイン?
緊張で乱れる呼吸をなんとか落ち着かせて待っていると、そこに一人の女性が現れた。
自信に満ちた笑みを浮かべてキャンパスから出てきたその女性は、きらびやかな輝きを放ち、周りの景色をモノクロに変えてしまう――それほど、美しい女性。
赤いカチューシャが映える漆黒の髪は真っ直ぐに胸まで伸びている。白いブラウスにリボンのついた紺のスカート。見るからにお嬢さまだ。目鼻立ちがはっきりとしていて、ふっくらとした唇は女の私から見ても官能的だと思えた。切れ長の目には茶色いアイシャドウ、頬骨のあたりにはオレンジ色のチーク。眉尻までしっかりと形が整えられている山を描く眉。女優さんかと思うほどの美しさで、私は息を呑んだ。
「神崎カヤさん?」と女性は、私の前で立ち止まると鈴を転がすような声で尋ねてきた。
私はハッと我に返って、慌てて「初めまして」と頭を下げる。
この人が、アリサさん。そう思うと、心臓の鼓動がみるみるうちに早くなっていった。
私はおずおずと顔をあげて、アリサさんを食い入るように見つめる。とてもじゃないけど……裏世界の殺し屋には見えない。スポットライトをあびてキャットウォークを颯爽と歩いているほうがずっと似合う。
つい見入って、言葉を発するのを忘れていると……アリサさんは「ふーん」と瑞々しい唇をすぼめた。そして、まじまじと私を見つめ、
「あなたが私のかわいい弟を穢してくれたクソ女」
「!」
一瞬にして、アリサさんの表情が険しくなった。私はぎょっとして後ずさった。さっきまでの気品に満ち溢れた女性はどこにいったのだろうか。整った眉はつり上がり、瞳には黒い炎がくすぶっているように見える。
「てゆーか、なに?」とくぐもった声でアリサさんはつぶやいた。「意外と超絶美女……」
「え……あの?」
ぐいっと顔を寄せられて、私は思わず後ずさる。苺のような甘い香りがただよってきた。
アリサさんはその秀麗な顔立ちには似合わない脅すような低い声で、さらに言葉を並べる。
「つまり、和幸は見た目で落ちたわけ? ありえないわよ。あの子は見た目で女を選ばない。だって、それなら、私にすがりついて僕になっているはずですもの」
「はい!?」
思わず私は眉をひそめていた。し、しもべって……僕って言った、今!?
アリサさんは私の声に眉一つ動かさない。無視、というよりも、聞こえていないみたいだ。どうやら、アリサさんは私に話しているようで、そうじゃない。これは独り言なんだ。
アリサさんは何か苦いものでも食べたかのように顔をしかめて、ぶつぶつと早口でひとりごちる。
「私はカイン一の美女。カインだったら一度は私に恋をするっていわれてるのよ? なのに、和幸は私の誘惑をはねのけた。つまり、天然記念物ものの純粋男子。いえ、ツチノコ並みの珍生物。いつかは私が調教して立派な豚野郎にしようと思っていたのに、どうして……」
「ちょ、調教? ぶたやろう?」
「あの子には痺れるような素質を感じていたの。きっと大物になる。最高の豚野郎になってくれるってずっと目をつけていたのに」
「あの……」
「それがいきなり、変な女の飼い犬に成り下がるって聞いて、どうして豚よりも犬の道を選んだのか、私には分からなくて……。家畜よりもペットがよかったのかしら。でも、私なら豚でもペットにできるわ。豚ってかわいらしいもの。ああ、どうしてかしら……どうして、あの子は私じゃなくてこんな小娘を……」
アリサさんの話が、まったく分からない。唖然としていると、アリサさんはやっと私から目をそらして頭を抱えた。憂いに満ちた表情を浮かべるその様は、今にも倒れてしまいそうなか弱いお嬢さまにしか見えない。
私は、カインの皆さんと仲良くなろう、という目的をすっかり忘れて、ただ呆然としていた。
しばらく考え込んで、アリサさんはハッと目を見開いた。そして、勢いよく私の両肩をつかむと緊迫した表情で迫ってきた。
「あなた、さてはとんでもない調教テクニックをお持ちなのね!?」
「何の話ですか!?」
どうしよう。仲良くなるどころか、会話が……できない。
アリサさんとは結局、有意義な会話はできなかった。次の待ち合わせもあるから、とりあえず無理やり別れて……駅前のゲームセンターに来ていた。
私の隣には、もう十二月も近いのに、タンクトップ姿の元気な高校生が立っている。久徳くん、十六才。この辺の工業高校に通っているカインだ。坊主頭に鼻ピアス。明らかに鍛えていそうながっちりとした体格。細長い目はつりあがり、ごつごつとした印象の顔。一見、恐そうな彼は、和幸くんの弟分らしいのだが……失礼かもしれないけど、和幸くんよりずっと年上に見える。
そんなことを彼の横顔を見つめてぼうっと考えていると、
「ばっか! いきすぎだよ! なにやってんだよ!?」
「あ、ごめんなさい!」
私は思わずボタンから手を離して後ずさった。すると、「ああっ!」と久徳くんはガラスに顔をなすりつけるようにして、UFOキャッチャーを覗き込む。
私がぼうっとしていたせいで端っこのほうまで進んでしまったクレーンが、何もないスペースへ虚しく降りていく。どうせ何も取れはしないのに、アームは律儀に最後まで手順を踏む。私たちの目の前に、何も掴んでいないクレーンがなめらかな動きで戻ってくる。
久徳くんは悔しそうに体を震わせている。それが横目で見えた。恐くて、振り返れない……。
「俺のにゃんちょび……」と、弱弱しい声が聞こえてくる。
「ご、ごめんなさい」
UFOキャッチャーの中では、にゃんちょびと呼ばれるかわいらしい猫のぬいぐるみが並んでいる。目が大きくてキラキラして、幼い女の子みたいだ。ううん、もしかして女の子なのかな? 女の子に猫みたいな耳と尻尾が生えている? それとも、猫の顔が人間……人面猫? 私は無意識ににゃんちょびを見つめて首を傾げていた。
私は今までその名前すら聞いたこともなかったのだが、久徳くんの話だと一部で流行っているらしい。
「いいか、神崎カヤ!」と百八十センチはあるかという長身の高校生が声を荒げる。「にゃんちょび一個で会話一往復だ」
私は久徳くんを見上げて苦笑するしかできなかった。そう、これが彼の提示した条件。にゃんちょびの数だけ、彼と話ができるというルールだ。でも……私は、ゲームセンターに来たのもこれが初めて。UFOキャッチャーなんて今まで触ったこともなかった。一つ取れる気すらしない。
「ほら、早く。次の待ち合わせまでに、俺と話したいんだろ?」
高圧的にも聞こえるセリフだが、その表情は駄々をこねる子供みたいだ。坊主頭と鼻ピアスが浮いている。
私は財布から四百円を取り出すと、慣れた手つきで機械に飲み込ませていった。
「和幸兄ちゃんは、一発で取ってくれたんだ」
「!」
彼はかろうじて聞こえるくらいの小声でぽつりとつぶやいた。
それから三十分の死闘の末、にゃんちょびを三匹(三人?)獲得。でも……話にならなかった。三往復の会話で一体何が話せるの? もしかしたら、最初から彼は私と話す気はなかったのかもしれない。ただ、にゃんちょびが欲しかっただけなのかも。
私は深いため息をついた。そのときだった。
「神崎カヤか」
ハッとして振り返ると、学ランを着た少年がゆっくりと歩いてくるところだった。こちらへ――正門へと向かってくる。
ぱっちりとしたつり目。きめ細やかな白い肌。染めてずいぶん経つのだろうか、毛先のあたりだけ茶色い短い髪。百六十センチあるかないかの小柄な体。女の子みたいにかわいらしい男の子だ。
「留王……くん?」
遠慮がちに尋ねると、彼は無表情で頷いた。
三人目のカイン、留王くん。中学三年生。中学時代の、和幸くんの後輩らしい。つまり、ここの中学に彼も通っていたんだ。私はちらりと留王くんが出てきた校舎を見つめる。ここが彼の母校……そう思うと、校舎が見れただけで嬉しくなって頬がゆるむ。
「話はなんだ?」
ズボンのポケットに両手をつっこんで、留王くんは唐突にそう言った。私はハッとして彼に振り返る。
「あ、ごめんなさい!」
「用件は? 時間をつくってやったんだ。早くしろ」
声変わりがしていないかのような、高い声。攻撃的な口調だけど、そのせいで可愛くも聞こえてしまう。って、そんなこと考えてる場合じゃない! 留王くんの言う通りだ。せっかくこうして会ってくれたんだから、早く本題に入らないと。
「和幸くんの卒業パーティーをしたいと思っているんです。だから、留王くんにも来て欲しくて」
留王くんの表情が曇った。狐のように鋭い目をこちらに向けてくる。
「曽良の馬鹿にもう言ったと思ったんだが」
「え」
曽良の馬鹿……? あれ。留王くんって年下なんじゃ?
「卒業パーティーには行かない。理由は、あんたが気に入らないからだ。てか、夕べやったんじゃないのかよ」
ずきっと胸が痛んだ。分かってはいたけど……やっぱり、こうして直接言われると、ちょっときついな。でも、落ち込むために来たんじゃないんだ。私はごくりと唾を飲み込み、真剣な表情で留王くんを見つめる。
「夕べ、中止になったの。だから、いつかやり直したくて」
「日にちが変わろうが同じだ。あんたが居るなら俺はいかない。媚を売られたって俺はあんたを好きにはならない」
私はぎゅっと紙袋の取っ手を掴む。砺波ちゃんから受け取った、和幸くんの荷物――macaronの紙袋。
「媚は売りません!」と私は叫んでいた。「チャンスが欲しいだけです」
「チャンス?」留王くんは嘲笑のようなものを浮かべて私を睨みつけてきた。「カインノイエを潰すチャンスかよ?」
「え?」
カインノイエを潰す……?
「何の話?」
「とぼけるなよ。黒幕の娘」
「!」
ドクン、と心臓が大きく揺れた。重い石が胸に落ちてきたかのような衝撃。一瞬、呼吸が止まった。
「お前の狙いは分かってる。和幸の馬鹿に取り入って、カインノイエを探ること。そうだろ?」
留王くんは視線を一ミリたりとも動かさずに私を凝視していた。中学生とは思えないような、冷酷な声。私のことを微塵も信用していない――それが、はっきりと伝わってきた。
否定すればいいのに、私は言葉が出なかった。この小柄な少年に怯えていた。
「和幸や曽良の馬鹿が騙されても、俺は騙されない」言って、留王くんは一歩私に近づいた。「次に俺の前に現れたら、殺すからな。神崎カヤ」
「!」
私は……絶句した。中学生の言葉に、背筋が凍った。ただの言葉なのに、今にも殺されるんじゃないか、と思った。殺気というものがあるとしたら、きっとこれだ。今、留王くんから放たれているプレッシャー。きっとこれを殺気というんだ。
でも、ここで怖気づいたら何も変わらない。私は恐怖心を振り払うかのようにぎゅっと拳を握り締め、大きく息を吸った。
「私は黒幕の娘じゃない! 和幸くんの恋人――」
「違う! お前は黒幕の娘だ!」
留王くんは有無を言わさず、はっきりと断言した。私の言い分を聞こうという気はさらさらないようだ。もしかして、彼がこうして私と会ったのは、ただ念を押すため? 近づくなって脅すため?
「和幸の恋人気取りはやめろ。利用してるだけなんだろ」
「……」
恋人気取り? 利用? そんな風に思われてるの? 愕然としていると、留王くんは呆れたように首を横に振る。
「慣れ慣れしく連絡してきやがって。これじゃなんのために『勘当』したんだか」
勘当……さっき、藤本さんが言っていたこと? ハッとして留王くんを見つめたときには、彼は背を向けて歩き出していた。
待って、話は終わってない――喉まできたその言葉を、口にする勇気が出なかった。
「じゃあな」
留王くんははき捨てるようにそう言って、校舎へ向かって歩いていく。
残された私は、呆然と立ち尽くした。動けなかった。哀しいんじゃない。絶望しているわけでもない。どうしようもない憤りを感じていた。
私を黒幕の娘だ、と疑うことは構わない。神崎の両親が黒幕だったかどうかはまだ闇の中。どちらにしろ、証拠はない。疑惑が晴れていなくて当然だ。ただ……ただ――!
まだ弱い自分が消えてくれない。しつこく心の闇に隠れている。手が震えて、涙が浮かんできた。
「私は、和幸くんの恋人だよ……」
彼への気持ちを否定されることだけは、どうしても嫌だった。許せなかった。
私はしばらく気持ちが落ち着くのを待って、それから歩き出した。へこたれてる場合じゃないんだ。あと一人……カインとの待ち合わせがある。
何があっても、何を言われても、諦めたくない。なんとか、一人でもいい、彼の家族と分かり合いたいんだ。私が本当に、心の底から彼のことが好きだって、分かってもらいたいんだ。
どこか、私は意地になっていた。カインに認めてもらえなきゃ、彼への愛が証明できない――そんな思いさえ抱き始めていた。