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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第三章
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パンドラの箱

 男は夢を見ていた。遠い昔の夢。三十年以上も前の幻のような日々。夢の中でしか会えない家族。それをいい夢というべきか、悪夢というべきか。男には分からない。

 ただ、夢の中で男は幸せだった。小学校にはいりたての愛娘が「お父さん」と言ってかけてくる。茶髪がまじった長い黒髪。ニホン人離れした顔だち。ひろいおでこ。つぶらな瞳にくっきりとした二重。太めの眉毛がまた愛らしかった。ロシア人の母親によく似て肌が雪のように白かった。

 少女は「行ってきます」と元気よく言って家を出て行った。男は妻と並んでその後姿を見送った。その赤いランドセルが、ものの数十分後、血で染まることになるとは知らず。

 娘は、二度と帰ってこなかった。

 男は娘を取り返そうとしただけだった。たった一人の愛する娘。その死を受け止めることはできなかった。今にも娘のもとへ自らを誘おうかという妻を見ていられなかった。だから、どこからともなく現れた妙な女の口車に乗り、その身を、その魂を、裏社会に売った。

 天才と謳われるほどの名医であり研究者であった男は、闇医者に成り下がった。そして、没頭した。娘を取り返すために、研究に没頭した。やがて男はある物を創り出した。生命を創り出す奇跡の機械--人工子宮。男は振り返って思う。あれは『パンドラの箱』だった、と。人が決して開けてはならない災いのつまった箱。世界に混乱と不幸をふりまく箱。男の研究はまさにそれだったのだ。男の画期的な人工子宮は、一度に大量の胎児を製造することを可能とし、裏社会ではやりつつあったクローン製造・売買を一気に発展させた。

 男は自覚していた。自分が『パンドラの箱』を開けたことを。だが、当時の男にはどうでもよかった。男にとって重要だったのは、娘だった。男を裏社会へ誘い込んだ女は、人工子宮が完成すると、約束通り男の娘のクローンを無償で創って男に与えた。そして、今後、クローン売買で女が得る利益の二十パーセントを男の口座に振り込むことを約束し、二人は別れた。女はその手に『パンドラの箱』を抱え、男はその手に娘のクローンを抱いて。

 男は夢を見ていた。家に帰り、その腕に眠る娘を見て喜ぶ妻。以前と変わらない、笑顔の絶えない三人家族。もう一度、三人であの幸せな日々を送れると信じていた。ところが、現実は残酷だった。妻は蘇った娘に発狂し、ひどく拒絶した。これは自分の娘じゃない、と叫び、男にその赤ん坊を捨てるように告げた。男はなんとか妻を説得しようとしたが、無駄だった。仕方がなく、男は断腸の思いで赤ん坊をあの女に返した。女は言った。大丈夫、私に任せてください、他に赤ん坊を欲しがる親はたくさんいるから、と。男はそれでいいだろう、と思った。このトーキョーのどこかで娘が幸せに暮らしてくれるなら、自分の元でなくても構わない。そう思ったのだ。

 ところが……

 男は気づいた。これは悪夢だ、と。自分は悪夢を見ているのだ、と。気づけば、頬を涙がつたっているのを感じた。ゆっくりと瞼を開くと、まぶしい光がとびこんでくる。歪んだ視界の中、神々しく光を身にまとった若い女性がこちらを見ているのが分かった。男は思った。彼女は自分を迎えに来た天使か。いや、そんなわけはない。自分を迎えくるとすれば、それは悪魔。もしくは――


「フィリオ」


 男は震える声でそうつぶやいた。


***


 私は息を切らせながら筒井クリニックの玄関に駆け込んだ。一週間ぶりに会った筒井先生は私を見るなり目を丸くして「どうしました?」と心配そうに声をかけてきた。全速力で走ってきて、汗はびっしょりだし顔は真っ赤だし。何事かと思ったのだろう。


「藤本さんにお会いしたくて」


 そう告げると、筒井先生は頬をほころばせて「お見舞いですか」と病室まで案内してくれた。

 もしかして、カインの誰かがいるかもしれない。そう思ったのだが、病室に入ると静かなものだった。確かに、多くのカインが見舞いに来ていたようで、床やテーブルの上にたくさんの花や果物、手紙が置いてある。愛されているんだな、と思った。

 広い個室で、さびしくベッドが窓際に一つだけ。燦々と差し込む光を浴びて、安らかに一人の男性が眠っている。私は足音を立てないようにそうっと近づき、その寝顔を見つめた。頭を薄く覆う真っ白な髪。繭のような白い眉毛。一つ一つ深く刻まれた皺。この皺の数だけ、苦労をしてきたんだろう。いや、きっともっとだ。

 私はただ見つめていた。カインノイエの創立者。『無垢な殺し屋』と呼ばれる子供たちを束ねるリーダー。そして……和幸くんのお父さん。藤本マサルさん。

 ふと、閉じられている瞼がぴくりと動いたように思えた。目を覚ますのだろうか、と食い入るように見つめていると、その瞼から……一筋の涙がこぼれおちた。

 私は驚いてハッと息を呑んだ。藤本さんが、泣いている? 

 そのときだった。ゆっくりとその瞼が開いて、あの野心に満ちた瞳が姿を現した。いや、野心に満ちていたはずの瞳。私をじっと見つめる一週間ぶりの藤本さんの瞳は、弱弱しく虚ろで、燃え尽きた灰のようだった。絶望と深い哀しみ。それを感じて私は言葉が出てこなかった。一体、どうしてしまったんだろう。

 藤本さんはゆっくりと口を開いた。そして震える声で私に呼びかける。


「フィリオ」


 フィリオ?


***


 突然、フィリオと呼ばれてカヤは唖然とした。誰かと見間違いでもしているのだろうか。カインの子供か。カヤは遠慮がちにおずおずと答える。


「神崎です、藤本さん」


 藤本はいぶかしげな表情を浮かべ、そしてハッとした。瞳に残っていた一粒の涙が転がり落ちるように頬を伝った。

 藤本は「ああ! 神崎さん」とあわてた様子で上半身を起こす。カヤはそれ以上にあわてて藤本の体を押さえた。


「だめですよ、寝ててください」

「いや、すみません」と藤本は恥ずかしそうに破顔する。「みっともないところを」


 カヤに促されるままベッドに横になり、藤本は頬を濡らす涙をぬぐう。


「子供みたいですが、悪い夢を見まして」


 カヤは毛布を藤本にかけながら、「悪い夢」とつぶやくように繰り返す。藤本は枕に頭をうずめつつ、こくりと深く頷いた。


「カインノイエをはじめるきっかけになった事件です。それを思い出してしまいました」


 そういえば、以前、藤本が自分にカインノイエについて語ったとき、きっかけになった『ある事件』については何も言わなかった。話したくないことなのだろう、とカヤはそのときあえて聞かなかったのだが、今の藤本はまるで聞いて欲しいかのようだ。

 

「わたしは知らなかったんです。創られたクローンがどのような末路を辿るのか」


 天井の一点を見つめるその目には哀愁が漂い、その声色には力強さも威厳も感じられない。


「皆、幸せに暮らすのだと思っていました。そう信じていたからこそ……」


 そこまで言って、藤本は言葉に詰まった。眉がぴくぴくと動き、頬が痙攣している。カヤが「藤本さん?」と心配そうに声をかけたときには、藤本の目から次から次へと涙が零れ落ちていた。藤本は感情の波を抑えるのを諦め、静かに目をつぶった。その間にも涙は目じりの皺を伝って枕へとしみこんでいく。


「大丈夫ですか?」というカヤのやんわりとした声が藤本の身に沁みる。やはり不思議な少女だ、と藤本は思った。なぜか、彼女には話してしまいたくなる。墓場まで持っていこうと思っていた罪をも懺悔したくなる。

 藤本は浅く深呼吸をすると、擦れた低い声でつぶやく。


「わたしはふさわしくはない」

「はい?」


 この純粋な少女に話したところでどうなる。彼女はカインでもなければ、裏世界に生きる人間でもない。言ったところで困らせるだけだ。そうは分かってはいても、藤本は止められなかった。ベッドに長い間横たわり、精神まで弱くなってきたんだろうか。単に年を取っただけなのか。この少女に救って欲しいと思っている自分がいた。少女の包み込むような雰囲気が自分にそう思わせるのだ。

 藤本はゆっくりと瞼を開き、ベッド横にある小さな机に目を向ける。そこには花瓶に収まりきらない花束が横たわっている。すべて、彼の『子供』たちが置いていったものだ。


「どの花もどの果物もどの手紙も、わたしには受け取る資格はない」

「え……」

「わたしは決して赦されない罪を犯しました」

「罪……?」


 カヤがいぶかしげに見つめる先で、藤本はじっと花束を眺めて悲しげに微笑んだ。


「わたしの罪を知れば、あの子たちはわたしを赦さないでしょう。わたしはそれを分かって隠しているのです。彼らをさも助けているようにふるまっている。偽善者だ」


 そこまで言って苦しげに藤本は目をつぶった。判決を待つ罪人のような表情で。


「わたしはあの子たちの父親にふさわしくはない。わたしはあの子たちをだましている」


 男の罪。それは『パンドラの箱』を開けたこと。人工子宮という発明で、神の領域に人の侵入を許した。命の創造は男の研究によって製造へと変わってしまった。人が自由に、そして大量に命を製造することが可能になったのだ。『子供』たちはもちろん、神も自分を赦すことはないだろう。藤本は覚悟を決めていた。天国への扉は閉ざされている。おそらく、殺し屋となってしまった『子供』たちも同じだ。それならそれで構わない。『子供』たちとともに地獄へと堕ちよう。ただ、それもまた自分の勝手な自己満足に思えて仕方がない。もし、自分の犯した罪を知ったら――彼らがクローンとして創りだされた原因が男にあると知ったら――『子供』たちは真っ先に自分を殺そうとするような気がして仕方がなかった。それで彼らが救われるならいい。いや、そうするべきだとも思った。

 だが、『子供』たちの愛を失うのが何よりも恐ろしかった。神の救いを望めない男にとって、『子供』たちの愛こそが神といえるものだからだ。身勝手な男は、自分が救われることを選んだ。『子供』たちに真実を隠し、父親のように愛を注いで。藤本はそう思い悩み、常に罪悪感と戦ってきた。

 まるで女神のように美しい少女はしばらく黙っていた。藤本は目をつぶったまま、少女の聖母のような穏やかな声を待っていた。自分でもこの少女に何を期待しているのか分からない。ただ、少女の言葉がどうしても欲しかった。


「藤本さんが何を隠されているのか、私には分かりません。聞き出そうとも思いません」


 カヤは落ち着いた声で優しくそうつぶやいた。藤本はゆっくりと瞼を開けるとカヤを見つめる。窓から差し込む光を浴びて、カヤが一段と崇高な女性に見えた。すべてを見透かすような漆黒の瞳。なめらかで穢れのない浅黒い肌。鋼のような黒髪は、光を反射させて天使の輪をつくっている。


「でも」とカヤは慰めるように微笑んだ。「こんなに愛されてるじゃないですか」


 そう言って、カヤは机に横たわる花束を一つ手にとった。色とりどりのガーベラの花束だ。赤、黄色、ピンク。にぎやかで可愛らしい。


「いまさら藤本さんが何を隠していようが、皆さん気にしないですよ。藤本さんが大事なお父さんであることは、何があっても変わらない。和幸くんや砺波ちゃん、曽良くんを見ているとそう思います。

 それだけのことを藤本さんはされてきたんじゃないですか」


 藤本はガーベラの香りをかぐ少女をじっと見据えた。女神、天使、聖女……そのすべてが当てはまるようで、それだけでは足りない気もした。

 カヤは微笑を浮かべながらガーベラを藤本の枕元にそっと置く。ふわりと風となってガーベラの芳しい香りが藤本を包んだ。


「きっと」とカヤは麗しい唇をなめらかに動かす。「藤本さんはもうその罪を償ったんですよ。ここにある花束も果物も手紙も、その証だと思います」


 カヤの一つ一つの言葉が心に沁みていく。自分の罪が溶かされていくように思えた。藤本はかみ締めるように固く目を閉じる。息を吸えば、ガーベラの香りが心を癒す。耳をすませば、聖女の赦罪(しゃざい)の言葉が心を浄化する。


「だから、受け取っていいんですよ」


 自然と、涙がこぼれた。彼女は自分の罪を知っているわけではない。すべてを知らない少女の言葉は慰めにしか過ぎないのだろうが、それでも救われた気がした。これで、安らかに眠りにつけると思った。

 もう自分は長くはない、とどこかで藤本は気づいていた。だからこそ、曽良に早々とリーダーの役に就かせたのだし、だからこそ、この不思議な少女に告解をしようと思い立ったのかもしれない。といっても、罪自体を告白していないのだから不完全な告解だ。だが、二十年以上も藤本の心を覆っていた暗雲は確かに晴れ間を見せていた。晴天となることは一生ないのだろう。それこそ、自分が背負わなければいけない罪の代償なのだから。

 目を開けば、小さく愛らしい花びらが視界に広がる。色とりどりの鮮やかなガーベラの花。藤本はそっとその花びらに触れた。ちょっとでも力を入れればちぎれてしまいそうな、脆く美しい神の創造物。見ているだけで心が癒される。ただそこに在るだけでその場の雰囲気を変えてしまう。まるで――目の前の少女のようだ、と藤本は思った。


「ありがとう」


 男は震える声で少女に言った。少女は少し照れたような笑みを見せて頷く。

 

 男は決して知ることはない。目の前に立つ少女もまた、男の開けた『パンドラの箱』によって呼び出された存在だということを。男が世界に招いた災いの一つ。神の『裁き』――それを世界に知らしめる存在、パンドラ。

 少女もまた知らずにいた。なぜ自分がここにいるのか。その本当の理由を。何も知らずに、ただ朗らかな笑顔を浮かべて、男を見つめていた。神の領域に土足で踏み込み、神の怒りを買った罪深い人間(ルル)を。今はまだ、慈悲深い瞳で。

なんだか重くてすみません。

ちなみに、人工子宮はそう簡単には実現できません(と思います)。あくまでフィクションですので。

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