新たな事実
カヤは結局教室には戻らず、一時間目が終わるまでトイレの中で隠れていた。鏡に背を向けてずっとぼうっとしていた。考えたいことはたくさんあった。時間が足りないくらいだ。
とりあえず、和幸の「大事な話」というのが気になる。階段で抱きしめてきた和幸の様子は尋常ではなかった。極度の緊張と不安が感じ取れた。そして……
――ごめんな。いつも、うまく隠し通せなくて。
あれはなんだったんだろう。カヤは小首を傾げる。悔しそうで哀しげで……そして、深い愛を感じた。カヤはうつむき、胸元を押さえた。
自分は一体何をしているのだろうか。明らかに、和幸を困らせている。苦しめている。罪悪感で身が引き裂かれそうだ。なのに、引き下がれない。和幸が何を隠しているのか――不安で仕方が無い。気になって自制できない。
苦しげなため息をつき、カヤは頭を抱えた。
丁度そのとき、終業を知らせるチャイムがあたりに鳴り響く。カヤはハッとして目を見開いた。授業が終わった……ということは、和幸と話せる。続きが聞ける。
ごくりと唾を飲み込み、深呼吸をする。
覚悟を決め、おもむろに足を一歩踏み出すと、出口へ向かってゆっくりと歩き出した。
トイレは廊下の端。三組の教室の目の前にある。廊下にでるなり、まっすぐに三組に向かい、カヤは教室をのぞきこんだ。黒板には化学反応式がびっしりと書かれ、化学の授業だったことが伺える。白衣を着た坂井が教科書を脇にはさんで、騒がしい教室から逃げるように出て行った。
カヤは緊張で早くなる鼓動を感じながら、授業が終わってざわつく三組の教室を見回す。点々と四、五人が固まって話し込んでいる。一通り見回して、カヤは表情を曇らせた。注意深く見るが、どこにも彼の姿は見えない。まだ校長室から戻ってないのだろうか。
落胆のため息をついて、カヤは後ずさる。そのときだった。
「あれ、神崎さんじゃない!?」
急にそんな甲高い声が教室の中から聞こえ、カヤはハッとした。少女の声を皮切りに、三組の教室がざわめきだす。皆の視線が廊下に立ち尽くすカヤに集まっている。
カヤは胸騒ぎを覚え、その場から離れようと体の向きを変えて歩きだす。すると、誰かがバタバタと向かってくる足音がした。それも、一人ではない。
「神崎さん!」と茶髪の女子生徒がいきなり教室から飛び出してきて、カヤの腕を掴んだ。「藤本くんと付き合ってるの!?」
「え……」
いきなり投げかけられた問いに、カヤはぎょっとして振り返る。なぜ急にそんなことを聞かれたのが分からない。戸惑いで答えられずにいると、巣をつつかれた蜂のように、次から次へと三組の女子が教室から現れた。
カヤが目を点にしてその様子を見つめていると、現れた少女たちは興味津々でカヤに質問責めを始めた。
「マジなの!?」
「なわけないじゃん」
「嘘だよねぇ?」
「でも、藤本くん、『神崎の彼氏だ』ってはっきり言ってたじゃん」
先頭でカヤを食い入るように見つめている茶髪の少女は「ねえ、どうなの!?」と急かすように答えを促す。カヤはパニックで呼吸を荒くしながらも、不安そうな表情で頷く。
「付き合ってるけど」
それは消え入りそうなほどの小声だったが、ゴシップに飢える少女たちの耳には十分な音量だった。歓声のようなものが上がり、少女たちは顔を見合わせにやついた。
「それじゃ」とリーダー役になっている茶髪の少女は瞳をギラギラと輝かせ、あらたまって違う質問を口にする。「熊谷くんとはどういう関係なの!?」
カヤはぎょっとして目を丸くした。熊谷……それは、和幸が自分の写真のことでもめていたという人物の名前だ。そういえば、なぜ和幸は彼ともめていたのだろうか。カヤはふと疑問に思った。そしてすぐに答えを思いつく。考える必要もない。明らかだ。熊谷こそ――
「浮気したんでしょ、熊谷くんと!」
いきなり飛び出してきた邪推にカヤは心臓が止まるかと思うほど驚愕した。バッと声の主を見つめると、「え?」と聞き返す。茶髪の少女の隣で、ツインテールの生徒が侮蔑を含んだ笑みを浮かべて、
「だって、それ以外なくない? 彼氏が他の男を殴る理由なんてさぁ」
殴る? カヤは顔をしかめた。何の話だ? だが、それを聞く暇もなく、周りの女子が楽しげに騒ぎ出す。
「確かにぃ! それなら納得だよねぇ」
「ってか、どっちが本命か分かんなくない?」
「言えてる、言えてる。藤本くんが浮気相手なんじゃないの?」
「それ、うける! かわいそー」
少女たちの無邪気で、そして残酷な笑い声が響いた。カヤは困惑とパニックで目が回りそうになった。頭がぼうっとして耳が遠くなっていく。
「ねえ!」という茶髪の少女の声がくぐもって聞こえた。耳に膜が張っているかのようだ。「どうなの!?」
カヤは眩暈を覚えながらも、「何のこと?」と声を絞り出す。
すると、「とぼけてるよー」と誰かが後ろのほうで嫌味っぽく言った。茶髪の少女は冷笑し、「だから」と呆れたように説明する。
「藤本くんが熊谷くんを殴ったじゃない? その理由を聞きたいわけ」
「殴った!?」
カヤの大声が廊下に響き渡った。カヤの周りを囲む少女たちは鼓膜に痛みを感じて顔をしかめる。
「殴ったってどういうこと!?」とカヤは茶髪の少女に迫った。「いつ!?」
「今朝よ。熊谷くん、頬めっちゃ腫らしちゃって。今、保健室」
いきなり血相を変えたカヤに戸惑いつつ、茶髪の少女はそう答える。
カヤの顔が一気に青ざめた。和幸が熊谷を殴った……だから、生徒指導室にいたんだ。だから、校長室に呼び出されたんだ。全ての『答え』が見つかった。心臓が壊れそうなほど早く動いている。胸が痛い。カヤは胸元を押さえ、シャツを握り締める。
「あ、そうそう。藤本くん、自宅謹慎だってぇ」
おもしろがるような声色で誰かがそう言った。カヤはハッとして顔を上げる。
「うそ!?」と茶髪の少女は興味深げに声をあげた。「だから、さっき帰ってたの!?」
「帰り際、中村くんに言ってたの聞いちゃったんだ」
「自宅謹慎って、学校さぼれんじゃんねぇ」
「うらやましぃ」
きゃっきゃ、きゃっきゃ、と少女たちは忙しく言葉を交わしてゴシップを楽しんでいた。カヤは顔面蒼白で愕然とする。今にも気を失いそうだ。和幸が自宅謹慎……呼吸が早くなり、吸っても吸っても息が入ってこない。
そういえば……と、さっき羽田が捨て台詞のようにはいていった言葉を思い出す。
――藤本もまんまと騙されて……これで退学じゃ、報われないな。
「退学……」
カヤはうつむき、声にならないほど小さな声でつぶやいた。まさか、自宅謹慎は一時的なもので、和幸はこれから退学になるのでは。寒気がして、体が震えだした。
「ねえねえ」と、そんなカヤを心配する様子もなく、取り囲む女子の一人が高らかな声をかける。「何があったの? 三人の間でさぁ。何かあったんでしょ? やっぱ、浮気しちゃったの? 教えてよぉ」
名前も知らない同級生が、いかにも親しげに肩に触れてきた。カヤはびくっと肩を震わせ、ロングヘアーの少女に振り返る。
「浮気なんて……」
こみ上げてくるものがあった。涙が今にもあふれだしそうだ。これ以上言葉を出せば、確実に声をあげて泣き出してしまう。カヤは中途半端に言葉を切り、少女たちのバリケードを破って足早に自分のクラスへと向かった。
「え? ちょっと!」
「逃げるの!?」
「やっぱ、やましいことあんじゃね?」
「美人はこわーい」
後ろから不平不満の声と嘲笑が聞こえてきた。カヤは一切構わず自分のクラスに駆け込むと、周りに見向きもせずまっすぐに自分の席へと向かう。机の横にかけてあるカバンを乱暴に取り、クラスメートの視線を感じながらもクラスを飛び出した。
そのときには、すでに涙はこぼれていた。それを隠すために顔を伏せ、廊下を駆ける。
和幸が熊谷を殴った理由。明らかだった。
――お前を守りたかったからだ、と言ったら……納得するか?
「私を守るため……いつも、私を守るため」
涙声の独り言が口から漏れる。
通り過ぎる生徒に変な目で見られながら、カヤは泣きながら階段を駆け下りていた。
熊谷くんこそ……! と唇をかみ締める。彼こそ、あの写真をばら撒いた本人。そして、和幸が彼を殴ったのは、その報復。自分を守るため。カヤは確信した。
和幸は自分のために熊谷を殴り、生徒指導室に呼ばれ、自宅謹慎を受けた。つまり、自分のせいでそんな処分を受けることになってしまった。それなのに……と、カヤは踊り場で立ち止まり、涙をぬぐった。それでも、階段で愚痴も泣き言も恨み言も何も漏らさなかった。誰かを殴ったなんて、自宅謹慎を受けたなんて、一切匂わせなかった。まるで、何事もないかのように隣で話を聞いてくれた。
そんなこととは露知らず、自分は難癖ばかり――なんて自分勝手だったんだろう。なんて愚かだったんだろう。いつから、自分はこんなにも醜くなっていたんだ。カヤは恥ずかしくて情けなくて、どこかに隠れて大声で泣きたくなった。
「あ、カヤッち!」
ふと、明るく陽気な声が踊り場に響いた。ハッとして真っ赤な顔を上げると、そこにはぱっちりとした瞳をいつも以上に大きく開けたアンリがいた。ショートヘアはところどころ寝癖が見受けられる。右手にはバッグを携えて、一目で今登校してきたことが分かる。どうやら、遅刻してきたようだ。
「どうしたの?」と怪訝そうな表情でカヤに歩み寄ってきた。「号泣?」
なんでもない、と言おうとしたが、言葉が出てこなかった。カヤは笑顔を浮かべたが、それはアンリを余計に心配させるだけだった。まるで製作途中の人型ロボットだ。笑顔の作り方は知っているが、笑顔のもつ意味を理解できていない機械。今のカヤはまさにそれだった。
「何かあった?」
カヤはボロボロと涙を零し、嗚咽を漏らして答える。
「ごめん」
かろうじて出てきたのはそんな言葉だった。今、一番言いたい言葉。だがそれは、アンリに対して用意していたものではなかった。
アンリは「は?」と眉をひそめる。当然だ。彼女には謝られる覚えはないだろう。
「ごめんね」とカヤはもう一度言うとアンリの横を通り過ぎ、階段を駆け降りて行った。今度はアンリへの謝罪だ。今日は、劇の練習に出れそうに無い、ということへの。
***
下駄箱について、私は下穿きに手を伸ばす。そこで……限界だった。私はその場に崩れるように座り込み、口元に手を当てて泣き出す。罪悪感が重くのしかかる。和幸くんにどう謝ったらいいのか分からない。ううん、もう彼に合わせる顔がない。
私は、和幸くんにばかり苦労をさせている。和幸くんにばかり迷惑をかけている。和幸くんはいつだって私のことを考えてくれてる。知らないところでも守ってくれてる。
それなのに……それなのに、私は!? 私は一体彼に何かしてあげた? 彼のために何か……しようとした?
「!」
打ちひしがれていたときだった。ふと、虫の羽音のような低い音がブレザーのポケットからして、かすかに腰のあたりに振動を感じた。携帯だ。ハッとして私は慌ててそれを取り出した――和幸くんかも。そんな期待を胸に。
だが、サブディスプレイに表示されていたのは、意外な名前。
「砺波ちゃん?」
なんだろう。こんな時間に電話なんて珍しい。何かあったんだろうか。
咳払いして声を出す準備をする。深呼吸して息を整えて、私は電話を耳に当てた。心配させないようにしなきゃ。いつも通りの声を出すんだ。私は声が震えないように注意して、
「もしもし、砺波ちゃん? どうかした?」
「は? 朝っぱらから泣いてるわけ?」
「え!?」
砺波ちゃん……すごい。バレバレだ。それとも、私が分かりやすすぎなんだろうか。
「さては和幸と仲直りしてないのね?」
「!」
それも、分かっちゃうんだ。私は返す言葉が見つからず、押し黙った。
「沈黙。てことは、やっぱそうなのね。だろうと思った」と電話の向こうでため息が聞こえた。「実は、そのことで電話したのよね」
「え?」
「渡したいものがあるのよ」
渡したいもの?
「昼休みにでも、そっち行くから。昇降口にでてきといてよ」
「こっちに来るの?」
驚いてそう声をあげると、砺波ちゃんは不機嫌そうに「なに? 嫌なわけ?」と間髪入れずに言ってきた。
「あ、違うの! そういうわけじゃなくて……あの……」
昼休みまで学校で待ってることは出来ないと思った。それに……今すぐ、砺波ちゃんに会いたかった。
「私がそっち行っちゃだめ?」
「……うちの高校に? 別にいいけど」
珍しく、砺波ちゃんが戸惑っている。失礼かもしれないけど、新鮮だった。私はホッと安堵して微笑する。
「今から行くから。空いた時間にでも正門に来てくれるかな」
「今から!?」耳に刺さる甲高い声がした。「授業ないの?」
「あるけど……いいの」
本当はよくない。一時間目も授業サボっちゃったし。今日一日学校をサボることになる。おじさまに知られたら、一気に信頼を失っちゃうな。
砺波ちゃんはしばらく沈黙してから、「あっそ」と軽い調子で言った。
「了解。とりあえず、着いたらメールして」
「うん」
砺波ちゃんに話せる。それが分かっただけで、だいぶ気持ちが楽になった。