校長の苦悩
「なにやってんだ、こんなとこで。帰れ、と言っただろう」言いながら、羽田はズカズカと和幸とカヤが座っている階段へ歩み寄る。「まあ、丁度よかったけど」
「丁度良かったってなんスか」
このタイミングで……とやるせない思いに襲われながら、和幸は仕方なしにだるそうに立ち上がった。カヤも和幸につられるように、スカートをおさえながら慌てて腰をあげる。
すると、和幸を見ていた羽田の目がカヤに移り……そして細い目が大きく開いた。
「神崎!?」
え、とカヤはたじろいだ。気づいてなかったのだろうか、と不思議に思う。中東系の生徒は学校でカヤだけだ。一目見れば、神崎カヤだと分かるはず。薄暗かったから色黒の女子生徒と勘違いしただけだろうか。
「はあー」と羽田はカヤと和幸を見比べて感心したような声を出した。「そういうことか、藤本。驚いたな」
「え?」
そういうこと? カヤはいぶかしげな表情を和幸に向ける。彼はカヤに一瞥もくれることなく、不機嫌そうな表情で羽田を睨みつけていた。
「あんたには関係ねぇだろ」
あからさまに反抗的な口調に、カヤはぎょっとした。わざとなのか、無意識なのか、敬語が苦手なだけなのか……いずれにしろ、カヤには衝撃的だった。当の本人は悪びれた態度は一つもなく、しれっとして教師にガンを飛ばしている。その隣で、カヤは身が縮こまる思いで彼を見つめていた。自分には到底マネできない。教師に向かってそんな言動……自分には無理だ。カヤは表情を曇らせて心の中でそう呟いた。
「あんた、とは何だ」と羽田は腕を組んで和幸を睨み返す。
「何か用デスカ」
面倒くさそうにため息をつき、和幸はわざとらしく敬語を使った。
とりあえず、和幸が敬語を使ったので、カヤは安堵した。が、反抗的な声色は消えてはいない。馬鹿にしているようにさえ聞こえる。敬語は敬語でも、これでは変わらない気がした。
「ああ、そうだった」と羽田は思い出したかのように真面目な表情に戻って言う。「校長が帰る前に話したいそうだ。すぐに校長室に行け」
「校長!?」
和幸の驚く声が階段に響く。カヤも目を丸くして羽田に振り返った。
どうして、校長室? いや、それよりも……とカヤは眉をひそめる。そういえば、和幸はなぜ生徒指導室にいたのだろうか。それも、一時間目の最中に。授業中に呼び出されるなんて……何かしでかしたのだろうか。カヤの心を不安が覆った。
「早く行け」羽田は腰に手をあてがって和幸にそう言うと、カヤにも視線を向け「お前も授業だろ!」と怒鳴ってきた。
カヤはハッとしてあわてて「体調が悪いんです」と嘘をついた。羽田はいぶかしげな表情を浮かべ、呆れたようなため息をつく。
「それなら階段じゃなく、保健室だ。つれていくから来なさい」
「え……あ、大丈夫です! 治りました」
さらなるカヤの嘘に、羽田の表情は曇る。カヤはごまかすように微笑を浮かべた。
「じゃあ、教室に戻りなさい」と羽田はため息混じりにカヤに言って、忙しく和幸にも怒鳴り声を上げる。「お前は校長室だ! 行きなさい!」
「……」
和幸は、くそ、と心の中で悪態をつく。どれだけ気に入らない教師だとしても、教師は教師だ。さすがに教師を殴ってはいけないという常識はある。和幸には何も出来ない。このままカヤについていてやりたいが……校長の呼び出しを無視するわけにもいかないし。仕方がない。和幸はわざとらしくため息をついた。
羽田を横目に、カヤに振り返ると小声でつぶやく。
「あとで話すから」
唐突に言われ、カヤはハッと目を見開いて彼に振り返った。心臓が大きく揺れる。そうだった、大事な話。
「うん」とカヤが緊張の面持ちで頷くと、和幸はせつない笑顔を見せる。まるで、これがお別れのような――カヤはそんな印象を受けた。なんだろうか、胸騒ぎがする。カヤが不安で眉根を寄せると、和幸は憂いに満ちた表情を浮かべ、
「ごめんな。いつも、うまく隠し通せなくて」
「!」
和幸はそれだけ言うと、カヤの反応を見ることなくさっさと階段を下りていく。
羽田の横を通り過ぎ、角を曲がる彼の背中を見つめながら、カヤは呆然としていた。耳に残る和幸のさっきの声色……思い出しただけで胸がえぐられるようだ。なんて哀調を帯びた声を出すんだろう――苦しそうに顔をゆがめてシャツの胸元を握り締める。カヤは明らかに今、自分が和幸を傷つけていることを実感した。
「お前が藤本に頼んだんだな、神崎」
いきなり、羽田が意味深長な言葉をつぶやいた。カヤはハッと我に返って顔を上げる。
気づけば、羽田が自分を凝視していた。それも、汚いものを見るような目で。好奇の目にさらされることはよくあったが、羽田のそれはまったく違っている。カヤが今まで受けたことの無い視線だ。軽侮の眼差し――それも、口元には嘲笑が浮かんでいる。カヤは自分が震えていることに気づいた。単純に、恐いと思った。
カヤは怯えた表情で「何がですか」と小声で尋ねる。
「うまく、取り込んだもんだ」
羽田は呆れたように鼻で笑った。カヤはますます困惑し、「何の話です!?」と教師に向かって声を荒げていた。
「藤本とお前?」と羽田は肩をすくめて首を横に振った。「まさか」
はき捨てるようにそう言うと、羽田はくるりとカヤに背を向け歩き出す。
「藤本もまんまと騙されて……これで退学じゃ、報われないな」
カヤはまたも、背中を見送っていた。一体羽田が何を言っているのか結局分からず、眉をひそめて立ち尽くす。
「退学……?」
まるで泣いているような、弱弱しい声が漏れた。
***
校長室は職員室の奥にある。
一時間目の最中で、職員室は閑散としていた。何人かは羽田のように授業がないのだろう、イスに座って教科書を読んでいたり、ぼうっと窓を見ている奴もいる。俺が暴力事件を起こしたことはまだ聞いていないのか、俺が後ろを通り過ぎても無反応だ。
校長室への扉の前に来て、俺はため息をついた。どうせ、ルールのなんたるかを演説されるに決まっている。人を殴ってはいけないんだ、と物知り顔で言うんだろうな。俺だってそれくらい分かってるさ。
ただ――と、俺は右手を見つめる。ぐっと握り締めて拳をつくった。ただ、他にいい解決法が思いつかなかったんだ。俺がカヤのためにできることは……情けないほど少ない。
堪えるように目をつぶってから、気を取り直し、顔を上げて瞼を開ける。握った拳を高々と挙げると、校長室の扉を叩いた。
「入りなさい」と高らかな声がして、俺は扉を開ける。
一人が使うには広すぎる部屋。日差しが燦燦とそそぎこんで、眩しいほど明るい。部屋をぐるりと囲むように置かれた棚には様々なトロフィーが飾ってあり、部屋の真ん中には黒い皮のソファがオーク材の机をはさんで二つ置かれている。
「おはよう、藤本くん」
はきはきとした口調の女性の声。窓際に目を向けると、座り心地の良さそうな社長イスに座り、几帳面に整理された広い机の上で手を組む五十代くらいの女の姿があった――白石校長だ。
「おはようございます」
言って、校長の机に歩み寄る。
校長は穏やかな笑みを浮かべ、フレームの無い眼鏡を滑らかな動きで外して机に置いた。気品のよさが動き一つ一つからにじみ出る。薄化粧だし、香水もつけていない。スーツもシックで、飾り気が全く無い。年齢を感じさせない透き通るような白い肌。艶やかな短い黒髪。若いころは(いや、もしかしたら今もか?)さぞモテたんだろうな、と思わせる。
「率直に言いましょう」と俺が机の前で立ち止まるなり、校長は薄ピンクの唇を動かした。「馬鹿をしましたね」
「!」
いきなり率直過ぎるだろ。俺はぎょっとして顎をひいた。だが……言葉とは裏腹に、校長は涼しげに微笑んでいる。口調もやんわりとしていて、怒っているとは到底思えない。
「理由はあえて聞きません。後々、報告を受けますし、第一、聞いたところで何も変わりません」言って、俺を食い入るように校長は見つめてきた。「今まで築き上げてきたもの全てを棒に振った気分……どうですか?」
笑みは消え、校長は厳しい表情になっていた。尋ねられ、俺はぽかんとした。質問の意味が分からない。
「は……はい?」と目を瞬かせると、校長は目の前に置かれている紙切れに目を落とした。
「成績も優秀。全国模試の結果も素晴らしい。出席率も良いし、素行も良い……いえ、良かった」
言われてハッとする。どうやら、あの紙切れは俺の資料のようだ。成績表? 調査書? そうっと覗こうとして、急に顔を上げた校長と目があった。
「自宅謹慎ならまだいい。ただ、それで済むことはないでしょう」
「……え?」
校長は身を乗り出して手を組みなおし、俺をじっと見据える。真剣な眼差しだ。色素が薄いのだろうか、緑がかった茶色い目が真っ直ぐに俺に向けられている。
「熊谷くんのお母さまはPTAの会長です。教育委員会にもつながりのある方で、はっきり言って、わたしも歯向かえません」
「!」
はっきり……言いすぎだろう。俺は半ば呆れて苦笑した。いや、笑うしかない。
「ついさっき、そのお母さまから電話を頂きました。明日、話をしにこちらに来られるそうです。あなたの処分の件で」
俺はつい鼻で笑ってしまった。
PTAの会長サンは、息子が裏で何しているか分かってるのか? 校舎内で起きる嫌がらせは大体あいつが糸を引いているんだぞ。隠し撮りだって今に始まったことじゃない。被害にあった女子はカヤの他にもいる。ただ、明るみになっていないだけだ。教師にバレることもなかったし、被害者はもちろん、他の女子も未だに盗撮写真のことは知らないだろう(カヤが誰かに話していなければ)。今回は――幸か不幸か――偶然、教師がカヤのソレを見つけて明らかになっただけ。じゃなかったら、これまでみたいに、本人の知らないところで男共が勝手に楽しんで終わっていた。
まあ、俺も一連の盗撮事件が熊谷の仕業だとは今まで知らなかったが。てか、誰が犯人だろうとどうでもよかった。カヤが標的になっていなければ……。
とにかく、そんな奴の親だぞ。偉そうに俺の処分に口出しして欲しくはない。そもそも、PTAの会長として適格か? いや……だからこそ、の熊谷の横暴な行動なのかもしれない。親が守ってくれるから、というくだらない免罪符をかざして好き勝手しているだけかもな。無能な鶏が先か、馬鹿な卵が先か。
「藤本くん? 聞いてますか?」
校長は、まるで耳の遠い老人を相手にしているかのような口調で声をかけてきた。俺は「聞いてます」と即座に答える。
「それでなんですか? PTA会長のお望みは?」とため息混じりに促すと、校長は苦渋の表情を浮かべた。
「おそらく、あなたを退学にしろ、とおっしゃられると思います」
は!? 俺は一瞬固まって息を呑んだ。いやいや、待て!
「退学!?」思わず机に手を叩きつけて叫んでいた。
「そうほのめかしておられました。大変、お怒りのご様子でしたし……」
「待ってください! 一発殴っただけで……」
「一発でも二発でも、暴力は暴力です。あなたに非があるのは確かです。それで退学が妥当だ、とPTA会長に言われれば、わたしもなんとも言えません」
校長はまるで自分のことかのようにつらそうにそう言った。その憐れむような瞳を見つめ、そうか、と分かった。校長は俺を諌めるために呼び出したんじゃない。俺に覚悟をさせるために……。
俺は机に置いた手をぐっと握り締める。脳裏に浮かぶのは、親父の言葉。
――高校は卒業してくれ。頼む 。
カインノイエを抜ける、とそう告げたあの日。親父は懇願するように俺にそう言ったんだ。高校を卒業すること……それは、俺が親父に最後にできる『おつかい』なんだ。
「退学は困ります」と搾り出したような声でつぶやく。
「分かっています。わたしも出来る限りのことはするつもりです」
出来る限りのこと……俺は苦笑して机から手を離す。たかが知れてる。トーキョーでは権力が全て。どれだけ偉い奴とつながりがあるかが物を言う。公立高校の校長と、教育委員会と繋がりがあるPTAの会長。勝敗は目に見えてる。そして俺は……そのPTA会長の息子を殴って、校長に情けをかけてもらってる孤児。絶望的だ。
にしても……嫌な奴ほど、コネがあるもんだ。トーキョーは、よくもまあ、不公平に出来ている。
「藤本くん」校長は唐突に強い語調で俺の名を呼んだ。「わたしも、孤児院出身なんです」
「!」
思わぬ言葉が飛んできた。俺はハッと目を見開き、校長を見下ろす。まじまじと白石校長を見つめ、まさか、と思う。見た目や言動から、てっきり生粋のお嬢さまかと思っていたのに……いや、それより、孤児院出身の人間が校長になれるか? 羽田は嫌いだが、あいつの言っていたことは事実だ。権力が支配するこのトーキョーで、孤児に明るい未来は無い。コネも金もないんだ。女は娼婦となり、男は裏世界で泥にまみれる――それが、典型的な孤児の行く末。高校の校長なんてのは、オプションにないはずだ。
愕然として見つめていると、校長は微笑んだ。
「孤児に対する差別があるのも、苦しい立場にいるのも分かっています。わたしも、経験してきました。我慢できないほどつらいこともあるでしょう」
良心が痛んだ。俺は正確には、校長の言っている「孤児」ではない。確かに、両親はいないが……孤児院で育ったわけではないし、血のつながりはなくとも家族がいた。校長が経験した苦境を俺は知らない。
「ただ、だからといって世界は物事を公平にはしてくれない。どんな人間に対しても、ルールだけは平等に課せられるんです」
言われている意味が分からず、俺は眉をひそめて小首を傾げる。校長は神妙な面持ちで、ゆっくりと口を動かした。
「暴力は未来の可能性を狭めるということ。それは孤児だろうがなんだろうが、同じなんですよ。
たとえどんな事情があったとしても、暴力はルール違反なんです。分かりますね?」
俺は何も答えられず、ただ突っ立っていた。分かることといえば、校長は確信しているということ。熊谷の母親が俺の退学処分をもちかけることを。そして……それを止められないことも。