大事な話
「自宅謹慎!?」俺は小さな教室に響き渡る大声で叫んでいた。「俺が!?」
「お前に決まってるだろ!」
机に手を思いっきり叩きつけ、担任の羽田が嗄れた声で怒鳴り返してきた。
俺は初めて生徒指導室に来ていた。狭い教室は閑散としていて、日当たりも悪い。教室の隅には受験用の本と大学のカタログが並ぶ本棚。真ん中には向き合わせて並べた二つの机。俺と羽田はそれを挟んで向き合うように座っていた。
羽田は二十代後半の若い国語教師。父親がどっかの高校の校長らしく、コネで入ってきたくせに偉ぶっている。自分では男前のつもりなのか、無駄に長い前髪を横に流して雑誌のモデル気取りだ。ミリ単位で形を調整していそうな左右対称の眉毛。痩せこけた頬。目は細くて切れ長で、唇はやたらと薄い。鼻は低く、のっぺりとした顔つきだ。
正直、俺はこの教師は好きではない。見境なく女子にちょっかいをだすし、授業も退屈で、なにより……むかつく。くそ。なんでこいつ、一時間目授業ないんだよ。担任とはいえ、こいつに説教されるのは心底気に食わない。
「クラスメート殴っといて、問題にならないとでも思ったのか!?」
ああ、ならないと思った。一般人になったし普通にケンカしていいものだと思ったんだが……どうやら、校則かなにかにひっかかったようだ。
何考えてるんだ、と呆れた羽田の声が木霊する。俺はつい苦笑してしまった。それに気づいたようで、羽田は低い鼻の周りに皺を寄せる。
「なにがおかしいんだ、藤本?」
「いえ」と、俺は肩をすくめる。「手加減したので、大丈夫かと」
一週間前、体育倉庫で大野を殴ったとき、どれくらいの強さだと『一般人』でも大丈夫かはなんとなく計れた。個人差はあるだろうけど、熊谷も鍛えてるようだったし、一発くらいいいだろう、と思ったんだ。というか……我慢できなかっただけだけど。
「手加減? そういう問題じゃないだろう! 暴力事件を起こしたんだ、分かってるのか!?」
羽田は俺の言葉(いや、態度か?)に怒り心頭のようで、顔を真っ赤にして憤怒の声をあげた。
『それも俺のクラスで』――セリフの最後にそういう言葉が続きそうだ。これだけ取り乱しているのは、自分のキャリアが傷つくことが恐いだけだろう。監督不行き届きなんて非難されかねないもんな。だが、悪いが俺はこいつの名誉に興味はない。
「分かってますし、後悔もしてませんよ」と冷静に返す。「それより、熊谷のほうが問題でしょう」
「問題」馬鹿にしたような言い方でつぶやき、羽田は机の上で無残な姿で横たわるある物を手に取った。「神崎の盗撮写真か?」
羽田が持ち上げて俺に見せてきたある物――それは、俺が真っ二つにへし折った熊谷の携帯電話だった。つい、見せしめにと思ってやってしまったのだが……こうして壊れた携帯を見ると罪悪感にかられる。携帯に罪はなかった。物を大切に、という広幸さんの諌める声が蘇ってくる。
「熊谷がアレを回した。お前はそう考えてるわけだな」
頭痛でもするかのようにこめかみを押さえ、羽田は冷静な口調でそう言った。
アレ……無意識に、眉がぴくりと動いた。さては、こいつも見たんだな。そう思うと腸が煮えくり返る思いだ。平岡の話だと、誰かが携帯を取り上げられ、その中にカヤの写真が入っていて――ってことだった。それなら、取り上げた教師と担任は少なくともその写真を見ていておかしくはない。
だが、無関係のこいつも見てるってのはどうなんだ? まさか、教師の中でも回してるんじゃないよな。一部の生徒に見られただけでもあいつにとっては耐えられない辱めだってのに。くそ、腹が立つ。こうなるのを恐れて、一週間前、大人しく熊谷に殴られてやったってのに。熊谷が予備を持っていること、なんで考え付かなかったんだ。詰めが甘すぎる。
「何度も言ってるじゃないですか」と、俺は苛立った声をあげた。「熊谷が神崎の写真を売りさばいたんです。推測でもなんでもなくて、真実です。だから、まずはあいつをなんとかするべきだろ!?」
ここに呼び出されてから、それを何度も説明しているのだ。なのに、こいつは一向に信じようとしない。敬語を使うことも忘れ、俺は夢中で訴えていた。
「証拠がないだろう」
また、それか。何度繰り返せばいいんだ。
「だから、携帯に写真のデータを入れてた奴に聞けばいいだろ!? 誰から買い取ったんだ、て。そしたら、熊谷って言うはずだ」
「知らない、と言うんだから仕方ないだろう」
「知らないわけねぇだろ! 口止めされてるだけだよ!」
俺はため息をついて背もたれによりかかった。話にならない。なんで「知らない」が通じるんだよ。
「とにかく」羽田は落ち着かない様子で机を指で叩きはじめた。モールス信号でも送っているような動きだ。「今はまず、自分の心配をしなさい。後悔してももう手遅れだけどな」
「は?」
意味深な言葉に俺が小首を傾げると、羽田は身を乗り出して脅すような低い声で告げる。
「熊谷の親はPTAの会長だ。息子が殴られて黙ってはいないだろう」
PTAの会長!? 思わず鼻で笑ってしまった。あんな奴の親が? 冗談だろ。どうなってんだよ。
「お前は事の重大さが分かってないな」
俺の眉を読んだのか、呆れたように首を横に振って羽田はそうぼやいた。
「いいか、藤本。覚えておけ」言って、羽田は携帯を机の上に戻し、睨むように俺を見つめてきた。「親の権力が全てを決める世の中だ。お前みたいな孤児には希望はない」
「!」
思わず、ハッとして言葉を失くした。ショックだったわけじゃない。俺は裏の世界で生きてきた。汚く醜い世の中ってのを嫌と言うほど見てきたつもりだ。羽田に言われずとも、トーキョーがそういう世界だということは知り尽くしている。ただ、こいつはそれを知らない。俺を孤児院出身の普通の生徒だと思っている。その上で……よくそんなことを言えるな。どんな教師だよ、と呆れ返った。
「波風立てないように大人しく生きていくしか孤児には道はないんだ」
熱のこもった口調で、羽田はまるで説得するかのように言ってきた。俺は唖然として何の反応もできずに硬直する。
「もうこんなことを言っても後の祭りだがな。とにかく、今日のところは自宅謹慎」羽田は満足したかのように姿勢を正してまとめに入った。「帰りなさい」
「……大人しく、ですか」
俺は羽田を睨みつけ、皮肉たっぷりに吐き捨てるように言った。
***
「羽田の奴、何様なんだよ」
和幸はぶつくさ文句をいいながら、生徒指導室から階段へ向かって廊下を進んでいた。生徒の今後を考える教室で和幸が学んだことといえば、やはり担任は気に食わない――それだけだった。
「波風立てずに大人しく、だ?」と鼻で笑って馬鹿にしたようにつぶやく。「狸寝入りしろってのかよ。冗談じゃねぇよ」
自宅謹慎がなんだ、PTA会長がなんだ、引く気はさらさらない。カヤの写真を回したのは熊谷だ。あいつが処罰を受けるまではどうあってもあがいてやる。和幸は決意を胸に廊下を闊歩する。今朝のカヤの様子と平岡の話からして、彼女が盗撮の件を知ってしまったことは明らかだ。もう隠し立てる必要はなくなった。堂々と戦えるってもんだ、と和幸はほくそ笑む。
不謹慎かもしれないが、少し安堵していた。今朝、顔色の悪いカヤを見たときは自分のせいだと思い込んだ。ケンカのことを引きずっているのだろう、と。話を後にして、と言われたときは避けられているのかとさえ思った。それが全て、盗撮写真のせいだったというなら……少なくとも、二人の仲はまだ――
考え込みながら歩を進め、階段への曲がり角にさしかかったときだった。
「きゃっ!」
いきなりだった。かなりの勢いで階段を駆け下りてきたのか、誰かが突然飛び出してきて和幸に思いっきりぶつかってきた。咄嗟のことに、考えるより先に体が動いて、和幸は無意識によろめく女子生徒の腕をつかんでいた。
「大丈夫か!?」と尋ねて、少女の腕を引き寄せ――和幸はハッと目を見開く。
***
どうして? どうして何も言ってくれないの? また隠し事? なんでいつも隠すの?
私は夢中で階段を駆け下りていた。和幸くんと今すぐ話がしたかった。今すぐワケを聞きたかった。今すぐ――
転げ落ちそうになりながらも、足を忙しく動かして一階まで一気に駆け下りる。
屋上でリストくんが教えてくれた。和幸くんは今、生徒指導室にいる、と。なぜ彼がそれを知っているのかは不思議だったけど、どうでもよかった。
最後の一段を降り、あとは左に曲がれば生徒指導室は目の前だ。はやる気持ちを抑えきれず、階段を降りてきた勢いのまま角を曲がり――
「きゃっ!」
いきなり、何かにぶつかった。目の前が一瞬真っ暗になって、体に衝撃が走り後ろに弾かれる。何が起こったのか考える暇もなく、足がよろめき頭がふらついた。倒れる――と思ったのもつかの間、今度は急に左腕が引っ張られ前のめりになる。頭が忙しく揺らされて、何がなにやら分からなかった。
やっと我に返ったのは、声が聞こえたときだ。
「大丈夫か!?」という……優しい声。ハッとして顔をあげると、驚いた顔で彼もこちらを見ていた。
「和幸……くん」
乱れた髪を直そうという考えすら浮かんでこなかった。呆然と私は彼を見上げて硬直していた。彼に会うためにここまで来たというのに、いざ会ってみると……緊張して言葉が出てこない。そもそも、こういう出会い方は想像していなかった。突然すぎる。
「大丈夫か?」
和幸くんはぎこちなく同じ言葉を口にした。ぶつかってきたのが私で、彼もあっけにとられているようだった。なんだか恥ずかしくなって思わずうつむいて顔を隠す。
「大丈夫。そっちは?」
言って、やっと身だしなみを気にする余裕が出て髪を手で整える。
「ああ、俺は全然……」
やはりぎこちない。和幸くんは私の左腕から手を離すと、そのまま自分の頭をかいた。
「今、一時間目じゃないのか?」
「うん。さぼっちゃった」
「……そっか」
「……」
付き合ってるはずの私たちの会話はそれだけで途切れた。階段の前で向かい合って立ちすくみ、居心地の悪い沈黙を許す。彼の目が見れず、私はひたすら自分の上履きを見つめていた。その間も自分を説得する――話さなきゃ。話があってここまで来たんじゃない。
でも、頭に浮かぶ言葉はシャボン玉のように忽然とどこかへ消え去ってしまう。話したいことがあるはずなのに、何を言えばいいのか分からない。どう切り出したらいいのか分からない。夕べのせいか……いつも以上に、慎重になってしまう。勢いに任せて言葉をばら撒いたらどうなるか、二人とも身をもって知ったもの。
「座ろう、か」
私が躊躇っていると、彼が遠慮がちにそう提案してきた。おずおずと顔を上げると、和幸くんは変わらない優しい笑みを浮かべていた。
「階段でよければ、だけど」
私の好きな彼がそこにいた。胸が締め付けられて、息苦しくなる。彼はすぐ目の前にいるのに……どうしてこんなに寂しいんだろう。
***
俺たちは階段の二段目に並んで座った。一時間目の最中だ。人気はなく、静かなものだ。
ちらりと壁側に座るカヤを横目で見やる。深刻な面持ちで何かを考えている。こいつが授業をさぼるなんて……やっぱ、写真のこと、相当堪えてるんだな。それを思うと、自分に腹が立って仕方が無い。一週間前のアレはなんだったんだ。全くの無意味だ。殴られただけじゃないか。結局、写真は出回ってしまったし、カヤもそれを知ってしまった。防ごうとしたことは全て起きてしまった。自然と拳に力がはいった。熊谷を殴ったというのに、気持ちが全然晴れていない。余計に苛立ちが増しただけだった。
「写真のこと……」
「!」
貝のように堅く閉じられていたカヤの口が開いた。俺はハッとして振り返る。
「写真?」つい、何も考えずに鸚鵡返ししていた。聞くまでもないだろ、とすぐに気が付いて焦る。盗撮写真のことに決まってる。カヤの口からそれを言わせるつもりかよ。俺は慌てて「いや、分かってる。言わなくていいから」
カヤはぐっとスカートを握り締めた。表情が曇る。
「そう、分かってたんだよね……一週間前から」
一週間前……? 俺は顔をしかめて彼女を見つめた。
「なに、言ってんだ?」嫌な予感をごまかすように俺は苦笑して尋ねる。すると、カヤはこちらに顔を向けて見覚えのある表情を浮かべた――夕べと同じ、俺への不信感を宿らせた表情。
「リストくんに全部聞いたの」
リスト!? 俺はぎょっとして眉をひそめる。なんであいつの名前が出てくるんだ?
「一週間前、屋上で熊谷くんともめてたんでしょう? 私の写真のことで」
「!」
俺はハッとして目を見開く。そうだった。そういえば、あのときリストもあの場にいたんだった。
だが、だからといってなんであいつがカヤにそのことを話す? あいつには関係ないことだろう。そもそも、カヤとあいつが会話をしたこと自体不思議だ。劇の打ち合わせでもしたのか? まさか……あいつ、またついでで重要なことを話したんじゃないだろうな。俺にカヤが『災いの人形』だとバラしたときみたいに。
「それに」と、カヤは俺の答えを待たずにうつむいて言う。「SDカードがどうのって話してた、て」
「それは……」
リストの野郎、余計なことを話しやがって。なんのつもりだよ? これ以上俺たちの仲をこじらせてどうする? カヤは俺が隠し事をしていることにストレスを感じてる。そんなときに、熊谷のことまで隠してたなんてバレたら……
「また、隠しごと?」
「……」
ほらな。こうなるだろ。予想通りの展開に、ついため息がでた。一気に疲労感が襲ってくる。
「全部、知ってたんだよね?」とカヤは視線を俺に戻し、確認するように語調を強めて尋ねてくる。「盗撮写真が回されてること……一週間前から知ってたんだよね?」
何かを言おうにも、言葉が出てこない。何を言ってもカヤには言い訳に聞こえるだろうと思ったからだ。全てが悪い方向へと転がる終わりの無い連鎖。そこから抜け出そうという気力すら俺には無かった。
「ああ、知ってた」
詳しく言えば……回されようとしていることを知っていただけだ。俺は防ごうとしただけ。でも、違いはないだろ。結局、俺が失敗して回されたんだし。
あまりに俺がはっきり答えたので、カヤはあっけにとられていた。なにより、それ以上何も言わないことに戸惑っているようだ。
「どうして?」と、苦しそうにカヤは言葉をしぼりだす。「どうして、ずっと隠してたの?」
「何でだと思う?」
俺はカヤを真っ直ぐに見つめ、そう尋ねた。質問で返され、カヤは驚いて目を丸くする。
「なんでって……」
「お前を守りたかったからだ、と言ったら……納得するか?」
「え」
***
私を守りたかったから? どういうこと? 私を守りたいから、隠し事をするの?
あまりにじっと見つめられ、私はたじろぎながら首を横に振った。
「分からないよ」
そう答えると、和幸くんは悲しい表情を浮かべた。「そうか」と言って顔を正面に向ける。
「知らないほうが幸せかと……思ったんだ」
手を組んで視線を落とす彼の横顔は、切なげで苦しそうだった。見てられなくなって私も顔を正面に向けた。私が彼にこんな顔をさせてるんだと思うと、自分が嫌になる。大好きな彼の笑顔を奪っているのは、他でもない私。最低だ。
でも、心のしこりはごまかせない。大きくなるばかりでどうしようもないんだ。このままだと肺を押しつぶして息ができなくなりそう。
「知らなくても」と、私は不安と罪悪感を抑え付け、勇気を振り絞って反論を口にする。「それが事実である限り、何も変わらない。私が知らない間にも、学校の誰かはあの写真を見ているし、盗撮だってされてる。だから――」
「……そうだな。知らなくても、いつかは『収穫』はくる」
「え?」
しゅうかく? 唐突に、聞きなれない単語がでてきて私はあっけにとられた。聞き違いだろうか。でも、確かに彼ははっきりと言った。収穫、と。何の収穫?
眉根を寄せて彼を見つめると、険しい表情で荒い呼吸をしていた。組んでいる手にもやたらと力が入っている。手の甲に血管が浮き出ていた。
「和幸くん、どうかした?」
調子が悪いんだろうかと思って、彼の背中に手を回してさすろうとしたときだった。いきなり、彼は上半身をひねって私に倒れかかるように抱きしめてきた。
「え、え!?」
慌てて周りを確認してしまう。学校でこんなこと……しかも、背中に回る彼の腕はいつも以上にきつい。胸が苦しいのは圧迫されてるせいか、ときめきというものなのか分からなかった。
「もうごまかさない」
「え?」
いきなり、何? 耳元ではっきりとつぶやかれた言葉。ドクン、と鼓動が大きく鳴った。これだけ密着していたら彼にも伝わったんじゃないか、と思うほど。
「落ち着いて聞いてほしい。大事な話なんだ」
和幸くんは私を抱きしめたまま、真剣な声でそう続けた。大事な話? 一気に緊張が高まる。心臓が徐々に早くなっていく。私は戸惑いつつも、こくんと頷いた。
「いつからお前のことを『普通』じゃないと思っていたのか。そう聞いたよな」
私は緊張で乾いた唇を舐め、「うん」と小さくつぶやいた。
「あのな……」
背中に回る手がぎゅっと私のブレザーをつかむ。彼の荒い息が耳にかかる。彼も緊張しているようだ。
続きを言うのを躊躇っているのか、なかなか次の言葉が出てこない。ほんの数秒だったかもしれないが、焦らされる時間は永遠のように長く感じるものだ。
「初めて一緒に帰った次の日……俺は知ったんだ」
心なしか、声が震えているようだった。暗雲が立ち込めるように私の心を不安が覆う。嫌な予感がした。
「お前が――」
「藤本!」
虫の知らせだったのだろうか。私の予感は的中した。思わぬかたちで。
和幸くんの言葉を遮って、突然階段に意外な声が響いた。私はハッとして振り返る。和幸くんも咄嗟に体を離した。私たちの目に飛び込んできたのは、スラっとした長身の若い教師。確か……国語の、羽田先生だ。