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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第三章
179/365

神崎の彼氏

 一時間目が始まる直前だった。ばらばらと散らばって話している二年三組の生徒の視線は、ある一点に集中していた。


「何してるの?」という不安そうな声がちらほらと聞こえ、「馬鹿じゃないの」と誰かが小声で囁いた。


 廊下側の列。その真ん中にどっしりと構えているのは、鋭い目つき、すっきりとした鼻筋、細い顎、短い眉、さらりとなびく肩までの長髪。学年一かっこいいと女子からもてはやされる熊谷だ。見た目は確かにいいのだが素行は悪い。喧嘩っ早いし、気弱そうな男子生徒を見るとちょっかいを出して笑いものにする。気に入った女子がいるとすぐに手を出すし、気に入らないことがあると女相手でも平気で手をあげるという噂だ。よくない噂しかないのだが、それでも外見のおかげで女子には人気が高い。といっても、さすがに彼に近づこうという女子はいない。無論、男子もだ。触らぬ神に祟りなし。皆、遠目で見るだけで、なるべく関わらないように努めていた。

 ところが、今朝は妙なことが起きていた。

 彼の周りにはいつも二人の男がいる。見るからにガラの悪い、ひょろりとやせ細ったスキンヘッドの石井。そして石井とは対照的に、がっしりとたくましい体つきのスポーツ刈りの林。熊谷、石井、林――この三人がたむろっているのはいつものことだった。他の生徒もその風景には見慣れていた。だが、今朝は違っていた。もう一人、無謀にもそこにつっこんでいく男子生徒の姿があったのだ。それも、意外な人物――クラスで特に目立たない、窓際でいつもぼーっと座っている生徒。


「藤本くんだよね、あれ?」と、どこかで女子が誰かに尋ねた。


 熊谷と他二人も、近づいてきた人物に気づいていぶかしげな表情で顔を見合わせる。


「何の用だよ、藤本」


 石井と林の間にわけいって目の前に現れた彼――藤本和幸に熊谷はそう言った。馬鹿にしたような笑みを浮かべて。


「写真のことだよ」和幸は冷たい表情で無機質な声を放つ。「分かってるだろ」


 熊谷は前髪をかきあげると、含み笑いをしながら「さあ、なんのことだよ」と答える。石井と林もせせら笑っている。

 和幸は全く気にする様子もなく、熊谷をじっと冷たい視線で見据えて小首をかしげる。


「ああ、そうか」


 わざとらしくそう言って、顔色一つ変えず、熊谷の机の上にある携帯電話をすばやく手に取った。


「いいケータイだな」と涼しい顔で携帯を開く。

「おい、なんだよ、さわんじゃねぇよ!」


 どすのきいた声があたりに響く。クラスがざわついた。「何してんの?」という不安そうな女子の声が聞こえてくる。

 和幸の不可解な行動に石井と林が顔を見合わせていると、熊谷は苛立った声で「お前ら取り返せよ」と怒鳴る。


「返すよ、返すよ」鼻で笑って熊谷を見下ろして、和幸は携帯を両手で持つ。「二人に渡せばいいんだな」


 なめきった態度だ。一週間前に感じた苛立ちが蘇ってくる。熊谷は怒りでわななき何かを言おうと口を開けた。

 そのときだった。

 熊谷の目の前で、和幸は携帯を思いっきり真っ二つに折った――というより、まるで引きちぎった。唖然とする三人を尻目に、何事も無かったかのように二つに分かれた携帯を石井と林にそれぞれ手渡す。


「ほら」と、和幸は得意げに笑んだ。「仲良く半分こだ」


 石井と林は(いか)るのも忘れ、放心状態で和幸から携帯だったもの(・・・・・)を受け取る。コードが虚しくぶら下がって、なんとも憐れな姿だ。二人とも、青ざめた顔で無謀な男子生徒をじっと見つめる。恐ろしすぎて、熊谷の様子を伺うことができない。命知らずだ。こんなことをしたら、どんな目にあうか。二人にはよく分かる。熊谷はキレたら手に負えない。限度を知らないのだ。何かというと二人が止めに入って、大事(おおごと)になるのを防いできた。だが……一週間前のこともある。今回は二人に熊谷の暴走を止める自信はなかった。


「知らねぇぞ」とスキンヘッドの石井がひきつった顔でつぶやいた。


 丁度タイミングよくチャイムが鳴り、二人はそれぞれ携帯のパーツを熊谷の席において逃げるように去っていく。何も言わずにちらちら何度か振り返り、我先にと教室から出て行った。

 教室は不気味に静まり返っていた。「どうなってんの?」とこそこそ囁く声があちらこちらで飛び交っている。三人が熊谷を囲んで立ちはだかっていたせいで、和幸が何をしでかしたのかは離れた席に座る生徒には分からなかった。だが、近くに座る生徒は悪夢を見ている思いだった。顔を真っ青にして、いつでも席を立てるように用意していた。

 熊谷は「なるほど」と、沈黙を破り落ち着いた様子でつぶやく。目頭をおさえ、裏返った声で「はっ」と笑うといきなり立ち上がった。


「調子に乗ってんじゃねぇぞ!」


 先刻までの落ち着きはなんだったのか、いきなりぶち切れたように怒号をあげて、熊谷は和幸の胸倉を左手でつかみ、右拳を大きく振りかぶった。教室に甲高い悲鳴が響き、緊張が走る。誰もが次に目にする惨劇を想像して身震いした――ある生徒は恐怖で、ある生徒は興奮で。ただ一人、和幸だけは冷静な表情を浮かべていた。


「こっちのセリフだよ、一般人」そうつぶやくと、自分の胸倉をつかんでいる熊谷の左手首を掴み、筋肉を収縮させる。何が不安かといえば、力加減を誤って熊谷の骨を砕きやしないか、ということくらいだ。


「……!?」


 味わったことの無いほどのすさまじい圧力が左手首を締め付ける――熊谷は目を見開いた。意志に反して左手が小刻みに震えながら開いていく。力が入らない。じわじわと和幸の胸倉から手が離れる。殴ろうとしたことも忘れ、愕然とした。和幸は依然として涼しい表情を浮かべている。力をいれてるようには見えない。だが……尋常じゃない握力が確かに左手首に襲い掛かっているのだ。


「なんなんだよ、お前」と痛みを堪えて震える声で熊谷はつぶやく。


 和幸は口元だけ笑みを浮かべ、筋肉を緩めて熊谷の手首を解放する。熊谷は咄嗟に腕を引っ込め、痺れるような痛みが残る左手を食い入るように見つめた。手首には赤いあざがはっきりと浮かび上がっている。


「神崎の彼氏だよ」

「!?」


 吐き捨てるような和幸の声が聞こえ、次の瞬間、目の前が真っ暗になった。いきなり頭が大きく揺れて耳が遠くなる。声も出せずに、背後の壁に頭から倒れるようにぶつかる。あまりに唐突なことに、見守るクラスメートも熊谷本人も何が起きたのか一瞬把握できなかった。

 まさか、熊谷が藤本和幸に殴られるなんて、誰も予想はしていなかったのだ。

 和幸は邪魔になる机を蹴り飛ばしてスペースをつくると、熊谷の左手首を再び掴み、右ひじを彼の背中に叩きつける。そのまま熊谷を顔面から壁に押し付けると、右手で熊谷の肩甲骨を押さえつけ、左手で彼の左腕を後ろに引っ張りあげた。

 全ては、まるで『作業』のように手際よくあっという間に行われた。熊谷は気づけば、クラスメートに押さえつけられ、腕に激痛が走っていた――折られる、と瞬間的に思った。

 熊谷の悲痛な叫び声が木霊する。それを皮切りに、観客はやっと我に返ったようにざわめきだした。

 和幸は力をゆるめることなく、そのまま熊谷の耳元に顔を近づけて脅すように低い声で言う。周りには聞こえない、囁くような小さな声で。


「儲かったみたいだな」

「は!?」と、熊谷は苦しそうな声をだす。「何の話だよ!?」


 和幸は呆れたように苦笑し、熊谷の左腕をさらに本来曲がるべき方向とは逆に引き上げる。注目されていることも忘れ、熊谷は痺れるような痛みに声をあげる。


「少しくらい分けてくれよ」と和幸は押し殺した声で熊谷に皮肉を囁く。「俺の女の写真なんだから」

「!」


 熊谷は寒気を感じた。壁に頬ずりしているような体勢で押さえつけられ、どちらにしろ振り返ることはできないが……たとえできても、背後にいるクラスメートの顔を見ようとは思わなかっただろう。背筋が凍るという感覚を、熊谷は初めて味わっていた。まさか同級生に――それも眼中になかった目立たないクラスメートに、自分が怯えているなんて。


「俺の女、だ?」と熊谷は震える声でかろうじて言葉を出す。「何言ってんだ、お前。頭おかしいんじゃねぇか」

「かもな」と残酷な冷たい声が後ろから返ってきた。「よく聞け。今度ふざけたマネしてみろ。次は(・・)お前の腕だ」


 熊谷は目を見開いた。次……その言葉に、ごくりと唾を飲み込む。SDカード、携帯電話、ことごとく真っ二つに折られてきた。次は、腕。脅しではないだろう。事実、たった今、左腕は折られる寸前なのだから。こいつは本気だ、と確信して背筋に戦慄が走った。なんでこんな危ない奴が今まで注目も浴びずに埋もれていたんだ――熊谷は心の中でそう叫んだ。

 そのときだった。思わぬ声が教室に飛び込んできた。


「何やってんだ!?」


 ガタガタと慌しく席に座る音が響き、和幸と熊谷も声のしたほうに目をやる。教室にズカズカと大またで入ってきたのは、白衣を着た定年手前の高齢の化学教師。はげあがった頭。牛乳瓶の底のような分厚い目がね。丸く大きな目が食い入るように和幸と熊谷に向けられていた。学年主任でもある坂井だ。

 和幸は諦めたようにため息をついて、熊谷から体を離す。


「何やってんだ!?」と坂井は二人の前に仁王立ちしてもう一度尋ねた。


 熊谷は殴られた左頬を腫らして、和幸を睨みつける。「こいつに聞いてくださいよ」と吐き捨てるように言うと、大げさなほど痛そうに顔をゆがめて被害者面。和幸は呆れてため息をついた。


「藤本?」坂井は目を大きく見開いて、和幸を見つめる。「何やってたんだ?」


 和幸は肩をすくめると、悪びれた様子もなく答える。


「ただのケンカです。何も問題ないです」

「殴った上に腕折ろうとしたんですよ、センセー」


 熊谷はすかさず横槍をいれる。和幸は「お前が……」と声をあげたが、それは学年主任の怒号に遮られた。


「藤本は生徒指導室! 今すぐだ!」

「え?」坂井に視線を戻すと、和幸は眉をひそめる。「俺だけ?」


   *   *   *


「つまり」と『人形』は落ち着かない様子で立ち上がった。「和幸くんは一週間前に、私の盗撮写真のことで熊谷くんとケンカしてたってこと!?」


 オレはあぐらをかきながら穏やかに笑んで、頷く。


「だと思いますよ」


 よっし。オレは勝利を信じて疑わなかった。うまくいった。日ごろのよい行いはちゃんと自分に返ってくるものですよ、和幸さん。

 まさか、彼氏が自分の知らないところで自分のために戦っていたなんて。こんな胸を打つ話はないじゃないか。女の子は守ってくれる白馬の王子に弱いもの。コロッとケンカの原因なんて忘れて、ありがとう、と抱きつくんだろうな。

 これで二人は仲直り。和幸さんは未知のリスクを冒して『人形』に全部明かすようなことはしないだろう。万事オッケー。

 オレが満足げに微笑んでいると、


「信じられない!」と『人形』は声を荒げた。

「?」


 ……荒げた? いや、違うだろ。もう胸がいっぱいで嬉しすぎる――そんな声色のはずじゃ……。

 オレは眉をひそめて『人形』を見上げる。表情が曇っている。オレは「あれ」と苦笑した。やはり予想とは違う反応だ。恋する乙女の笑顔を期待していたんだけど。なんか、様子がおかしい。


「一週間も前に知ってたってこと!? 全部彼は知ってて黙ってたの!?」

「……はい?」


 明らかに、雲行きが怪しいぞ。


「また、隠しごと!? 一体、いくつあるの!?」と取り乱し、『人形』は頭を抱えてしまった。ちょっと待て待て。違う違う。この流れはまずい。オレは慌てて立ち上がり、顔を覗き込む。


「神崎先輩? どうしたんですか? らしくないですよ」


 そう、らしくない。人間であるときの『災いの人形(パンドラ)』はお人よしの代名詞。優しさと憐れみの結晶。憎しみを知らない神聖な魂。なんでそんなひねくれた受け止め方をする? そもそも、こんなに負の感情をあらわにすること自体、変だ。いや、負の感情なんて彼女は知らないはずなのに。


「!」


 そうだ。よく考えたら……誰かとケンカすることすら、あり得ないはずなんだ。

 オレはハッとして『人形』を凝視する。

 不安と苛立ちが混じった表情。口元を押さえて落ち着かない様子。オレは思った――目の前にいる『人形』は、まるで……


「ごめんね、リストくん」と、オレの視線に気づいて『人形』は無理した笑顔を浮かべた。「実は、彼氏って和幸くんなの」

「!」


 ほかの事で頭がいっぱいで、瞬時に言葉がでてこなかった。そういえば、オレは『人形』と和幸さんが付き合っていることを知らない設定だったな。つい「あ、はい」と気の抜けた返事をしてしまった。


「だから……ごめんね。ちょっと、私……」


 困惑して視線を泳がす『人形』を呆然と見つめて、オレは虚脱状態でつぶやく。


「藤本先輩、生徒指導室ですよ」

「え!?」


 弾かれたように『人形』はハッとしてオレを食い入るように見つめてきた。


「生徒指導室?」

「話しに行ったら……どうですか」


 微笑を浮かべてオレはそう促す。『人形』は目をぱちくりとさせ、不思議そうな顔を浮かべた。


「きっと、答えてくれますよ」


 自分で何をしようとしているのか、分からなかった。気づけば、そう言っていた。言葉が勝手に漏れていた。

 そんなオレに、『人形』は何かを言おうと口を開き、そしてすぐさま閉じた。しばらく黙ってから「ありがとう」と微笑む。

 スカートをひらりとなびかせて『人形』はオレの横を通り過ぎる。ほんのりと甘い香りがした。きっと、シャンプーの香りだろう。その背中を見送ることもせず、オレは立ち尽くしていた。

 背後で、ドアが閉じる音がする。真っ直ぐに会いに行くんだろう。オレは深い深いため息をもらした。

 さっきの『人形』の様子を思い出し、オレは苦笑する。


 和幸さんのことで動揺して取り乱す『人形』は――まるで普通の人間だった。


 鼻で笑ってオレは空を見上げた。青く澄んだ空。遠い遠いその先には、この世界と、そして『災いの人形』の(あるじ)である偉大なる種族が旅をしている。

 もしかして……とオレは思っていた。もう、彼女は単なる『神の人形』じゃなくなっているのかもしれない、と。

 さっきの彼女は――神崎先輩は、パンドラというより、和幸さんの彼女だった。


「人間としての、自我……?」


 オレは無意識にそうつぶやいていた。

 とにかく、もう和幸さんに任せよう。オレはそう思ってその場に座り込んだ。肌寒い風がオレの頬を撫で、オレは故郷がなつかしくなった。ナンシェは今頃、どうしているだろうか。元気だといい。それだけでいい。オレは目をつぶり、風を感じた。瞼の裏にナンシェの太陽のような眩しい笑顔が思い浮かび、拳に自然と力が入る。

 ナンシェを守らなきゃいけない。だから、神崎先輩を……オレは殺さなきゃいけない。そのために、オレは創られたんだから。

 何があっても何を犠牲にしても、マルドゥクの王としての使命を全うする――ナンシェの代わりに。それが、きっとこの罪深い命の贖罪になる。オレはそう信じていた。

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