居場所
「関係をきる? どうして、急に?」
思わぬ正義の言葉に、カヤは動揺を隠せなかった。一週間前の事件以来、直接会うのはこれが初めてだ。しかもやっと落ち着いて話ができたというのに。正義の話を聞いて事情も分かった。過去は水に流して、これからいい関係を育めればいいと思っていた。できれば、和幸も一緒に……。だが、その考えは正義の一言で崩れ去った。これで最後にしたい――容赦ない別れの言葉だ。
「君も分かったはずだ」と、正義は身を乗り出して力強い口調で切り出した。「彼と俺の世界は、交わってはいけない。俺たちは何も共有してはいけない。そういう気がするんだ」
「でも……」
戸惑った表情で言いかけるカヤの言葉を右手で制し、正義は説得するように続ける。
「あんな事件を起こした俺が言うな、と思うかもしれないが……だからこそ言えることもある。俺はもう少しで取り返しの付かないことをするところだった。あんなはずではなかった。俺はただ、大野さえ死ねば……」
そこで言葉をきると、正義は邪念を取り払うかのように首を横に振った。
「とにかく、これ以上は関わるべきではないと思うんだ。勝手だと罵ってくれても構わない。ただ……俺はさくらを守らなきゃいけない。二度と、危ないことに巻き込みたくは無いんだ。だから……」
正義はぐっと堪えるような顔でカヤを凝視する。必死に許しをこうような視線だ。カヤは一瞬たじろいだ。自分が正義に押し売りをしているような気分になった。
カヤは諦めたようにため息を一つつくと、にこりと微笑んで穏やかに告げる。
「分かりました」
さくらの名前を出された時点で、反論の余地はなかった。正義の懸念は最もだ。彼はまだ和幸が殺し屋だと思っている。いや、殺し屋を辞めたと知っても、決意は変わらないだろう。引退したといっても、彼は裏世界で殺し屋として生きていた。そんな人物と関わっていたら、また厄介ごとに巻き込まれる――そう思っても不思議ではない。まして、彼は今や父親。大事な、それも幼い娘がいる身だ。どんな小さな危険でも完全に排除したいはずだ。そして、真紀が自首したことで大野と縁がきれた今、彼にとってその危険とは、自分と和幸に他ならない。カヤはそれを悟った。
「ありがとう」
緊張が正義の体から抜けていくのが見て取れた。ホッと肩をなでおろし、頬をゆるめる。
カヤはふと、閉店セールのようだ、と思った自分の感覚は正しかったのかもしれない、と思った。正義の過去の告白。あれほどまでに根掘り葉掘り話してくれたのは、これで会うのは最後と決めていたからだろう。疑問を全て取り払うことで、今後会う動機を無くしたんだ。
「でも」と、正義は真剣な眼差しでカヤを見据えながら付け加える。「何か困ったことがあればいつでも頼ってくれて構わない。君には大きな貸しがあるんだから」
「……はい」
そうは言ってもそれはないだろうな、とカヤは思った。さくらのために関係を切りたい。そう訴える人に、わざわざ助けを求めるようなことはしたくない。よっぽどのことでもない限り。
話が一段落つき、すっかりさめた紅茶に手をのばしてカヤは一口啜る。真剣な会話を続けていたせいか、喉がカラカラだった。それに今の今まで気づいていなかったのだから、相当集中していたようだ。食道をなめらかに液体が通っていくのを感じた。
「ところで」と正義は声色を高くして、話題を変える。「気になるのは、君の理由だ。なぜ、連絡してきたんだ? 俺は憎まれていて当然だと思っていたのに」
そのことですか、とカヤは紅茶をテーブルに戻して苦笑した。
「事情があったんじゃないか、て思ったからです。悪い人とは思えなくて」
事件の翌朝だった。体育倉庫で顔中アザだらけで倒れていた正義を見つけて駆け寄ると、朦朧とした意識の中、彼は涙を流して女性の名前をつぶやいた。表には出さなかったが――特に和幸の前では――ずっと気にかかっていたのだ。したことはともかく、悪い人ではないはずだ、と信じていた。
すると正義は不思議そうに首をかしげて鼻で笑う。
「それだけで、会おうと思ったの? あんなことがあったのに?」
「もし、私に何かできることがあれば……と思って。つい、連絡しちゃいました」
それと、もう一つ。カヤは心の中で付け加える。関係を切りたいと言われてしまった後では言えないが……和幸と和解してほしかった。できれば、友達として仲良くなってくれれば。カヤはそう願っていた。ドッペルゲンガーは会うと死ぬ。あの夜、和幸はそうつぶやいていた。だが、クローンはドッペルゲンガーではない。会うべきじゃない、という考えは彼女にはなかった。それよりも、助け合えればこんなに力強い味方はいない、と思っていた。こうして本人に会いたくないと言われてしまうと……それが第三者の自己満足にすぎなかったことを思い知らされるが。
「君は……」正義はソファにもたれかかって、ため息混じりにつぶやく。「呆れるほど、お人よしなんだね」
「そう、ですか」
まさか、お人よし、と言われるとは思ってはいなかった。カヤは、きょとんとして目をぱちくりと瞬かせる。正義は、そうだよ、と力強く肯定すると苦笑いを浮かべた。彼女の人が良いことは――人が良すぎることは――この状況を考えても明らかだった。一週間前に自分を騙して連れ去った男の部屋にいるという現状。警戒心がなさすぎるというか、世間知らずというか……正義は呆れたような表情でカヤを見つめる。
「一度君を騙した人間を信じて、こうして部屋までついてくるし……君はもっと人を疑ったほうが――」
そこまで言ったときだった。カヤの表情が一変したことに気づいて、正義は言葉を詰まらせた。さっきまで穏やかな表情を浮かべていた彼女は、険しい顔で睨むようにこちらを見ている。
「どうかした?」とソファから背を離して柳眉を寄せて尋ねる。
カヤは咄嗟に目をそらすと、苛立ったような口調で質問を返してきた。
「長谷川さんまで、どうしてそんなこと言うんですか」
正義はいぶかしげな表情で小首を傾げる。長谷川さんまで……つまり、他にも誰かにそういわれたのか。まさか、あのクローンだろうか。そんなことを考えつつ、正義はつとめて落ち着いてカヤの問いに答えようと口を開く。
「どうしてって……」どうしてだろうか。正義は答えに詰まった。そもそも、軽い気持ちで口にした言葉だ。まさか、彼女の気分を害すとは思ってもいなかった。「深い意味はなかった。言われて嫌なことだったのなら、すまない。ただ、そう思っただけで」
正直に告げると、カヤは潤んだ瞳をこちらに向けてきた。荒い息遣いで肩が上下している。すうっと息を吸い込むと、深刻な表情で問う。
「人を信じて責められる世の中ってなんなんですか?」
「!」
正義がすぐに答えられずにいると、カヤはうつむいた。髪がその横顔にかかって表情はうかがえない。ついさっきまでは元気そうに話していたのに、この変化はなんだろうか。正義は戸惑いつつも、さくらに話しかけるように優しく問いかける。
「何かあったの?」
カヤの様子に変化は無い。「なんでもないです」といわれるよりはマシか、と正義は言葉を続ける。
「実を言うと」とじっとカヤを見つめて語りだす。「ずっと気になっていたんだ。どうして急に今夜会いたい、と言ってきたのか。明日会う約束を繰り上げてまで。それも突然。気まぐれってわけじゃないんだろ?」
電話は突然やってきた。明日会うはずの、クローンの恋人からだ。予定を変えたいのか、と思って電話に出てみると、様子が変だった。ひどく落ち込んだ声で張りがない。言葉もしどろもどろで、動揺しているようだった。何度か電話をしているから、彼女らしくないことは正義にも分かった。話を聞いてみれば、今すぐに会いたい、とのこと。わけを聞くのもはばかられて、言われた通り迎えに行ったのだ。だが会ってみれば変わった様子はなく、部屋で話しているときも普通だった。気にしすぎだったのか、と思いきや、これだ。
「話したくないならいいけど……話したいから、会いに来たんじゃないの?」
その言葉で、やっとカヤに動きがあった。ハッと顔をあげて正義に振り返った。口は開いているが、言葉がでてこないようだった。あてずっぽうで言ってみたが図星だったか、と正義は微笑する。
「俺の話を聞くのは、会うための口実だった?」
「そんなことないです!」あわててカヤは今にも立ち上がらん勢いで否定する。「長谷川さんの事情を知りたくて、私……」
正義は冷静にカヤを見据えていた。どうかな、と試すような表情だ。カヤは言葉を失った。正義に指摘されずとも、それは嘘だ、と自分で気づく。勢いをなくして、カヤは呆然とした。最初に正義と会おうと考えたときは、確かに事情を知りたかったからだ。人を殺す以外の方法で、自分に何かできることがあれば助けたい。そう思ったからだ。だが……
「ケンカしたんです」と、カヤはぽつりとつぶやいた。
正義はソファに座りなおして姿勢を正すと「彼と?」と尋ねる。カヤは視線を落としてうなずいた。
「ちょっとひどいのを」
「それで、俺のとこに来た?」
すると、カヤは切ない笑顔を浮かべて正義を見つめてきた。
「他にいくところ、思いつかなかったんです」
***
和幸くんとケンカして、気づいたことがある。こんなこと、長谷川さんに言うべきことではないなんて分かってる。彼は和幸くんのオリジナルだってだけで、本来私とは何の関係もない人。出会ったきっかけだって、言うなれば『暗殺計画』の一部。ついさっき、もう関係は切りたいとまで言われたばっかりだ。けど……誰かに聞いてほしかった。喉の奥につまっている毛玉を吐き出したくて仕方がなかった。誰かにそれを手伝ってほしかった。――きっと、そのために私はここに来たんだ。
「居場所がないんです」
長谷川さんの優しさにつけこんでいる。最低だと分かっていても、あふれる不安を抑えきれない。
「こんなときにどこに行けばいいのか、全然思いつかなくて……思えば、両親が死んで和幸くんが代わりに傍にいてくれてた。だから、寂しさもごまかせてた」
恥ずかしいことだと思う。自覚していなかったのだから。ケンカをして彼と離れたそのときまで。どれほど私が彼に依存していたのか、分かっていなかった。
彼を信じてはいけないのかもしれない――そう思った瞬間、ひどい喪失感に襲われた。孤独に凍えそうになった。立ち上がろうとしても、どこに手をかければいいのか分からなかった。彼だけを信じていればいい。そう思っていた自分がいたんだ、と気づいた。どんなに恐ろしいことが起きても、彼の言うことを信じてれば大丈夫。何があっても平気。そう言い聞かせて、不安や疑問をうやむやにしてきたんだと思う。それが、崩れてしまった。愚かにも、自分が彼に投げかけた問いのせいで。
聞かなければよかった。そしたら、彼が答えを隠していることにも気づかないですんだのに。過去なんて振り返らなければよかった。信じればいい、と心に決めていたのならそのまま進めばよかったんだ。なぜ……疑うことを思い出してしまったんだろう。意識してしまった疑惑は、もうごまかせないのに。
私は軽い眩暈に襲われて、頭を抱えた。
「彼に寄りかかりすぎて……自分でどうやって立てばいいのかもう分からないんです。いざ、彼が傍にいなくなったらって考えただけで、もう自分を支えられなくなってて」
長谷川さんは頷きもせずにじっと私の話を聞いている。真剣な目で。それだけでも、救われる思いだった。
「私には、他に世界がないんです。彼の傍しか……私の居場所はない」
だから、それを失ったら……私に行き場はない。そう思ったら、孤独に首を絞められて息苦しさを感じた。いつか、私は彼に言った。彼の『存在の証明』になりたい、て。大間違いだ。彼に存在を認めてもらっているのは、私のほうだった。
「居場所がないって……でも、新しい家があるだろ? 本間だっけ。養女にはいったって、前に電話で話してくれたじゃないか」
「ありますけど……まだ、何でも話せる仲じゃないですから。余計な心配もかけたくないですし」
おじさまのことは尊敬しているし昔から大好きだ。でも、だからといってすぐに父親と思えるわけではない。さくらちゃんの父親になったばかりの彼の前ではそんなこと口にはできないけど……。正直に言えば、本間の家でもまだ気を休めることはできない。ルールも違うし、環境も違う。なにより、両親がいない。おじさまと会っていると、父の顔が浮かぶ。長方形のような輪郭、黒縁目がね、ほがらかな表情を浮かべる父。そのたびに、ここにはもう父はいないんだ、と思い知らされる。もちろん、そんなことおじさまに言えるわけもない。逃げるように、ただただ、自然と距離をあけてしまうだけ。だからいつまでたっても他人行儀はぬけないし、「おじさま」と呼んでしまう。
「友達は?」
聞かれて、首を横に振った。今、友達といえるのは、砺波ちゃんと曽良くん。私の友達、というよりは……和幸くんの家族。二人とも、和幸くんを介して知り合って仲良くなった。交友関係にしても、和幸くんが軸になっている。おんぶにだっこだ。
「それで、俺のとこにきたんだ?」
なるほどね、と長谷川さんは肘を膝にのせると手を組んだ。
「……ごめんなさい」
何に対してか、と言われたら即答はできない。思い当たることがありすぎて、どれから謝ったらいいのか分からないから。
しばらく重い沈黙が続いた。部屋の端で空気清浄機がかすかに低音を鳴らしている。音が出ていることに、ついさっきまで気づいてさえいなかったのに。長谷川さんの言葉を待ち焦がれる鼓膜は、些細な音までひろいあげてしまうようだ。
「そうだな」ようやく彼は口を開いた。思わず私が顔をあげると、彼は苦渋の表情を浮かべていた。「俺に言えることは、ここも君の居場所じゃないってことだけだ」
「え」
予想もしていなかった言葉に、私はあっけにとられた。長谷川さんは真っ直ぐに私を見つめて諭すように続ける。
「俺は藤本和幸じゃない。そう言ったのは君でしょう」
「そういうつもりじゃないです!」
必死に声をあげていた。これは真実だ。決して、長谷川さんを和幸くんの代わりにしようとしたわけじゃない。別人だってちゃんと分かってる。ここにいない和幸くんにも訴えるように、私は「違います」と繰り返した。
そんな私に、長谷川さんは困ったような笑顔を浮かべて右手の平を出してきた。落ち着いて、という意味だろう、と思った。
「ここはね」と、長谷川さんは穏やかに切り出して、あたりを見回した。「さくらの……さくらだけの居場所だ。俺にはそれを守る義務がある。さくらは子供で、俺しか頼れる人間がまだいないから」
どうして急にさくらちゃんの話? 私が首を傾げていると、一通り部屋を見回した彼の瞳が戻ってきた。
「でも、君はもうそんな子供じゃない。誰かに居場所を創ってもらう歳じゃないはずだ」
どういう意味か、分からなかった。何も答えられずに、ただ顔をしかめてしまった。すると、長谷川さんは立ち上がり、中腰になった状態で私の頭に手をおいた。
「!」
その行動は、和幸くんとは全く違っていた。こんなときに、歳の差、というものを感じて照れくさくなった。
「居場所がない、なんて文句を言っている間は、何も見つからないよ」
まるで幼いころに戻ったような気がした。明らかに子ども扱いされている、と思った。それほど、優しい声色だった。
付け足した彼の言葉も理解できずに、眉間にしわを寄せる。すると、頭におかれた手はポンポンと優しく頭を叩いた。彼は和幸くんじゃない。あの夜とは違った意味で、それを感じた。
「冷たいと思われるかもしれないけど、ここで君を慰めるのは俺じゃないと思う」
背筋をのばし、彼は私を見下ろしてそう言った。というより、と顔をしかめると言葉を続ける。
「俺ではいけないと思うんだ。こうしていると、背中をさすってやりたくなるし、肩を支えてやりたいとも思う。だから、余計に恐い。すまないけど……」
「……はい」
作り笑顔しかできなかった。もっと自然に笑顔を浮かべられればいいんだけど……頬の筋肉が言うことをきいてくれなかった。
はっきりとした口調で放たれた彼の言葉。精一杯、彼は真摯に伝えてくれた。何を言いたいのかは分かる。クローンである和幸くんとオリジナルである長谷川さんの世界は交わってはいけない。長谷川さんはそう信じている。だから、和幸くん側にいる私と、これ以上関係を深めたくないんだろう。話を聞いてくれただけでもありがたい。長谷川さんがくれたアドバイスの意味は分からなかったけど……
「追い出すようで悪いんだけど、そろそろ帰ったほうがいい。また誘拐だと思われたら、困るしね」
「そうですよね」
立ち上がったときから、そう言われるだろうとは思っていた。特に驚くこともせず、私も腰を上げる。
「すまない」
申し訳なさそうな長谷川さんの表情を見て、良心が痛んだ。余計な気苦労をかけてしまったようで申し訳ない。
「いえ、こちらこそ」
「家まで、送っていくから。ちょっと待ってて」
そう言って、長谷川さんはくるりと背を向け、車の鍵を取りにキッチンへと向かった。
私はその背中を見つめ、自分の家がどこか頭の中で問いかけていた。
長くてすみません! 次からストーリーがちゃんと動きます。お待たせいたしました。