正義の告白 -3-
「殺してやろう……て、じゃあ、そのときに和幸くんを利用しようと考えたんですか?」
カヤは喉に何かがつまったような息苦しさを感じた。正義のそのときの苦しみを思うと、胸が締め付けられる。
さくらか。真紀か。過酷な選択を迫られ、正義が選んだのはどちらでもなかった。選んだのは……大野を殺すこと。その選択肢を肯定する気はないが、それほどまでに追い詰められた彼の気持ちは分からないでもない。もう逃げ場がなかったんだ。カヤはそう思うと、いつかの正義に捕まれた腕の痛みを思い出す。アザができそうなほどの強い力で掴まれ、脱臼するかと思うほどの勢いで引っ張られた。あのときは、なんて乱暴な人だ、と怯えたが……今となってみれば、あれは彼自身の恐怖と焦りのあらわれだったのでは、という気がしてくる。心の奥底で自分よりも怯えていたのは、もしかしたら彼のほうだったのかもしれない。
「ああ」としばらくしてから正義は低い声で答える。「俺のクローンがいる。しかも、殺し屋の。その事実はすでに知っていたからね」
それを聞いて、カヤは一週間も前の会話を思い出す。和幸を初めて目にしたのは、平岡がつくったホームページの動画。確か、正義はそう言っていたはずだ。
カヤが気になっていたのは、そこからの彼の行動だ。自分の生き写しのような少年を見つけ、探偵を雇ってまで調べ上げた。カヤにはその行動が理解できない。自分だったら、他人の空似ですましていたはずだ。わざわざ調べようとまでは思わない。つまり……と、カヤは眉根を寄せる。冷静になって考えてみれば、明らかだ。正義はそれ以前から、クローンの存在を知っていたのだ。居場所や名前までは知らないまでも、どこかで自分のクローンが生きている、その事実を把握していたに違いない。
「いつから、知ってたんですか?」カヤが慎重にそう尋ねると、正義は小首を傾げた。
「クローンのことか?」
カヤは口元だけ笑って答える。はい、と言うのもはばかられた。事実だから仕方がないといっても、和幸をクローンだと表現することに嫌悪感があった。裏切っているような罪悪感まで感じる。
もちろん、正義は和幸を自分のクローンとしか思っていない。カヤがそんなことを気にしているとは思いもしていなかった。
「二十年前……俺が四歳だったときのことだ」
正義はそう言って口火をきると、淡々と話し出す。
「幼稚園に入ってから高熱や咳に悩まされる日々が続いていて、ある日病院で診察を受けた。両親は肺炎かと思っていたが、違った」そこで区切ると正義は胸に手を当てた。「原因はここにあった」
「ここって……」
「心臓だ。移植が必要だと診断されて、すぐに移植手術を受けた」
さらりと言ってのけた正義。カヤは何も言葉がでなかった。つい、まじまじと正義を見つめてしまう。移植手術を受けたってことは……と、彼が押さえている胸元に視線を集中させた。あそこで動いている身体のモーターは、正義のものではなく別の人間のもの。それが不思議で、首を傾げた。さらに不可解なのは、この話と和幸との関係性だ。和幸が今生きているということは、少なくとも和幸の心臓を移植したわけではない。なぜ、彼はこんな話を始めたのだろうか。
その疑問に気づいたかのように正義は胸から手を離して、一切の躊躇を感じさせない滑らかな口調で続ける。
「そのときの俺は、何も疑問に思ってはいなかった。なぜすぐに手術ができたのか。ドナーがなぜそんなに簡単に見つかったのか。他にも大勢の子供たちが移植を待っているのに……なぜ、俺だけすぐに移植ができたのか」
正義はそこで間を置いた。一呼吸おいて、「高校にはいって、母は病の床に付いた」と哀しげに話を切り替える。
「死期が近づき、母は怯えるようになった。これは罰だ、呪いだ、と騒ぐようになって病気も悪化した。病気のせいで心まで病んでしまったのかと俺は思っていた。だが……死ぬ間際、まるで懺悔をするかのように、俺に全て明かしたんだ」
「全て?」
カヤが続きを促すと、涙を堪えるようなつらい表情で正義は見つめてきた。
「俺の心臓は闇ルートで買った孤児の……それも、生きた子供のものだった、と」
「!」
思わず、カヤは立ち上がりそうになった。あまりに恐ろしいカミングアウトにどうしたらいいのか分からない。こんな展開になるとは、予想だにしていなかった。どんなリアクションが適当だかも判断しかねて、カヤは硬直した。
「俺のために、両親は他人の子供を殺したんだ」言って、正義は握り締める拳に力を入れる。そして興奮したように、熱っぽく言葉を連ねた。「衝撃だった。俺の命は、非人道的な行いで救われた。この心臓のために、殺された子供がいる。俺が生きるために犠牲になった人間がいる」
やはり、何も言葉は出ない。カヤは黙っていることしかできなかった。何かを言おうにも、全部不適切に思える。正義の言っていることは、残酷だが事実だ。ここで優しい言葉を並べて慰めても、事実を否定することにしかならない。誰よりもその事実と向き合ってきたのは正義だ。ここで自分が何を言おうと、それは軽率で薄っぺらい言葉にしかならないだろうと思った。
「俺は呪った」と、正義は低い声で言う。「両親よりも、そんなことができる世の中を。人を救うために、当たり前のように人を殺せる世界に、だ。両親は良い人間だった。ただ、俺を救おうと必死になって、そんな方法を見つけてしまっただけなんだ。
だから、変えたいと思った。この心臓のためにも……国を変えたい、と。せめて、この心臓が動き続ける限り、正義の行いを貫いていこう、と。それが、俺にできる償いだと思ったんだ」
そこまで早口で言い切ると、正義はずっと足元に向けていた視線をカヤに戻した。
「皮肉にも、正義という名前を背負っていたしね」
その笑みは、せつなくもあり、哀しくもあり、そして疲れ果てていた。そこに隠されているのは、一生消えることの無い罪。生きている限り、背負わなければいけない重い十字架。波打つ一つ一つの鼓動こそ、その罪の証明。
カヤはただ呆然として、思いもしなかった過去を抱える青年を見つめる。
――俺はこの国を変える男だ。
そういえば、以前も彼はそんなことを言っていた。あのときは、高慢な男の独りよがりの野望かと思っていた。戯言にしか聞こえなかった。だが、今なら分かる。正義は本気で言っていたのだ、と。そして、ずっと感じていた彼の異常なまでの正義への執着も合点がいった。全ては心ではなく、彼の心臓から生まれていたのだ。彼の命は罪そのもの。だからこそ、一つ一つの行動で罪を償うように正しいことを追い求めているのだろう。彼の人生は、罪深い男の孤独な贖罪の旅――カヤはそう感じた。
「すまない」正義は鼻で笑って、姿勢を正した。「つい熱くなって余計なことを話してしまった。話がだいぶそれてしまったな」
そういえば、質問は和幸についてだった。カヤもそれをすっかり忘れていて、ハッとした。
「不思議だな。君と話していると、つい懺悔をしたい気分になる。きっと、話しやすい雰囲気をもっているんだろうね。こうして一緒にいると、落ち着くよ」
「!」
思わず、顔が赤らんだのを感じた。同時に、藤本の顔がカヤの頭に浮かぶ。そういえば、似たようなセリフを藤本にも言われたことがあった。自分と話していると救われるような気分になる、と藤本も言っていた。自覚は無かったが、二人に言われれば、そうなのかもしれない、という気になってくる。もし、そうなら……思いもしなかった長所だ。ぽろりとこぼれた笑みを隠すようにカヤはうつむいた。
そんな彼女を横目に、独り言ほどの小さな声で正義はつぶやく。
「そういうところに、俺のクローンは惹かれたのかな」
***
「心臓の話を母に明かされたとき」と長谷川さんはおもむろに語りだした。「俺は初めて裏世界の存在を知った。そして同時に、そこでは当たり前のようにクローンが製造されていることも聞かされた。
母はそれを話した上で、こう言ったんだ。もしものときのために、クローンを『発注』した、と。万が一、この心臓が合わなかったときのためにな」
ドクン、と心臓が大きく揺れた。呼吸の仕方を一瞬忘れて苦しくなった。
「つまり、和幸くん?」とおそるおそる尋ねると、長谷川さんは視線を落とす。
「ああ」
おぞましい考え方だけど、理解はできる。臓器のスペアとしてのクローン。誰でも考えることだろう。長谷川さんのお母さんの気持ちは、決して異常ではない。息子を心配するあまり、道徳的な判断ができなくなっていただけだ。
長谷川さんの言っていた意味が分かった。恐ろしい選択をしてしまったご両親よりも……そんな選択肢が実際に存在しているこの世界のほうが問題なのかもしれない。ただ、なんだろう。理解はできるけど、何かがひっかかる。しっくりこない。
とにかく……それ以上にひっかかることが他にある。長谷川さんの話は少しおかしい。確か、和幸くんは言っていた。彼のDNAはどこからか盗んできたもので、『発注』されたクローンとは違うんだ、て。オークションで売るためだけに創られたはず。長谷川さんの言っていることが本当なら、和幸くんは『発注』されたことになる。砺波ちゃんと同じように。それなら――ええと、なんだっけ。商業用のクローン……だったっけ――和幸くんはそれではないはずだ。だったら、体を改造されてるのもおかしいし、オークションで売られたというのも変だ。
私が眉をひそめていると、その疑問に答えるかのように長谷川さんはこう語った。
「だが、父親に止められてすぐにキャンセルしたらしい」
「キャンセル?」
「というのも……父は、政治家でね。孤児を買って心臓を取り出したことさえ、漏れればとんでもないスキャンダル。それ以上、リスクを背負いたくなかったんだろう」
「……」
つまり、和幸くんのDNAは盗まれたわけじゃなくて……キャンセルされたDNA? 『発注』したときに渡したDNAが勝手に使われて、オークション用に創られた。そういうことかな。
それにしても……関係ないことだけど、長谷川さんのお父さんって政治家だったんだ。意外……ではないけど、驚きだ。なるほど、贖罪として「国を変える」という発想がでてくるのも頷ける。実際に国を変える力を持つ人が傍にいるからなんだ。
あれ……そういえば、政治家ってことは……もしかしたら長谷川さんのお父さんとおじさまは知り合いだったりするんだろうか。名前くらいは聞いたことあるかな。
「ところが……」と長谷川さんは表情を曇らせた。「三週間ほど前だった。友人に、ネットで俺によく似た奴の動画があるって言われてな。興味本位でのぞいてみたんだ」
私は、あ、と声をあげそうになった。平岡くんのホームページのことだ。
「すると、似ているなんてもんじゃなかった。数年前の俺がいた。そこで、すぐに気づいたよ。キャンセルしたはずのクローンは、なぜか完成されていたんだ、ってな。手違いでもあったのか、キャンセルしたという母の言葉が偽りだったのか……知る由もないが」
たぶん、どちらでもない。私は余計なことを口走らないように口をつぐんだ。長谷川さんのDNAは、金儲けの素材にされたにすぎないんだ。
「さらに調べると、なんと裏世界の殺し屋だという。それを聞いて絶望したよ。俺は生きるために他人の心臓を奪い、その十字架を背負って生きてきた。いや、生き続けなければならない。それを償うために必死になっているというのに……俺の分身は人を殺して生きている、というんだ。耐えられなかった!」
溜め込んでいたものを全て吐き出すような勢いでそう言って、長谷川さんは口元を押さえた。吐き気でもするかのような表情だ。呼吸を整え――声を荒らげたことにだろうか――「すまない」と一言置いてから、彼は落ち着いた様子で続きを話し出す。
「だから、せめて正しい道に導いてやろう、と思ったんだ。彼もまた、俺の罪だと思ったから」
「正しい道?」なんとなく、話がつながってきた気がした。私は眉根をよせてこう尋ねる。「それが、大野さんを殺すこと?」
「ああ」と長谷川さんは低い声で答えた。「彼が殺し屋だという事実は俺にはどうにもできない。だから、それならせめて、正義のための殺し屋になってくれれば……そう願った」
つまり、悪い人を殺す殺し屋に育てようとしたってこと? それが……長谷川さんがあの夜に訴えていた、正義の殺し屋?
でもその長谷川さんの定義からすれば、カインだった和幸くんはもとから正義の殺し屋なんじゃ? だって、彼らは人身売買で売られた子供たちを助けるために人を殺してるんだから。……和幸くんは、殺したことは無いけど。もしかしたら、長谷川さんはカインのことは知らない? いや、カインのことは知っていても、和幸くんがカインだとは知らないのかも。ただの殺し屋だと思ってる?
かといって、ここでカインのことを伝える必要もないだろう。話したところで何かが変わるわけでもないだろうし、余計なことを話して新たな事件が起きても困る。とりあえず、今は話を聞かなきゃ。
「それで、あの事件?」と、私は遠慮がちに尋ねる。
「開き直るしかないと思ったんだ」
長谷川さんは鼻で笑ってそう答えた。
「国を変えるのだって一筋縄じゃいかない。いつか手を汚さなきゃいけなくなる。彼はそのために神が俺に与えた武器なんだ――そう自分に言い聞かせた。そして大野は、そのための最初の試練だと思った。だから……君をおとりにして……」
長谷川さんが口ごもって俯いて、急に気まずい空気が流れた。こうしていると忘れてしまいそうになる。理由はどうあれ、この人は私を大野という男に……殺したくなるほど恐ろしい男に渡そうとしたんだ。和幸くんを操るために。
長谷川さんは指を絡めて両手を組んだ。
「直接話したところで説得できるとも思えなかったから……恋人である君を利用しようとしたんだ。大野に、若い女を連れて来い、と丁度言われていたしね。それで、君をつけていた」
「つけてた?」
「といっても、一日だけ」言って、長谷川さんは私を見つめてきた。「運よく、尾行を始めた夜に君は一人になってくれた。クローンも傍にいなかったし……今しかないと思った」
まるで昨日のことのように、ファミレスで長谷川さんが迎えに来たときの情景が鮮やかに頭の中で再生された。和幸くんに電話するという私を気遣って曽良くんは席を離れ(遠くから見守っていてくれたらしいけど)、その隙を見て長谷川さんは和幸くんのふりをして私の前に現れた。これっぽっちも疑わなかった。だって、まさか和幸くんのオリジナルが現れるなんて思わないもの。こんなに似ている人が現れれば、本人だとしか思えない。
「必死だった」と長谷川さんは呆れたような笑みを浮かべる。「今じゃ、あの夜のことをよく覚えていないんだ。何分、初めてのことだったから。とにかく必死だった。失敗するわけにはいかない、と」
その言葉に、つい苦笑した。
「……そんな感じがしました」
私の腕をつかむ手は、力加減が全然できていなかったもの。
長谷川さんは恥ずかしそうに「そうか」とつぶやいた。
「でも、あのときのことはよく覚えている。君が俺をかばって被弾したときだ」
気のせいだろうけど、胸がズキッと痛んだ。傷跡はすっかり消え去っても――なぜかは分からないけど――痛みだけは体に植え付けられて残っているようだ。
「あいつに言われたんだ。救急車を呼べ、と。俺はそのとき、一番に保身を考えた。君の命より、自分の未来を心配したんだ。
醜い自分に気づいた。いつのまにか、俺は自分が一番嫌う連中と同じ考えをするようになっていたんだ」
「……」
確かに、そうかもしれない。言われて、長谷川さんの矛盾に私も気づいた。人を救うために、平気で人を殺す世界。それを嫌っているはずの彼がしようとしたことは、恋人のために大野さんを殺すこと。同じだ。結局、彼もまた狂った世界に囚われていたんだ。なんて皮肉だろう。
「正しいことをしていると思っていた。でも、目の前にあったのは、血の海に横たわる瀕死の君とそれを救おうとしている一人の少年だった。
絶望感に襲われた。自分の正義に自信が持てなくなったんだ」
そこまで言うと、長谷川さんはおもむろに立ち上がった。どうしたのかと不思議に思っていると、部屋の隅にあるぎっしりと分厚い本がつまった本棚に向かっていった。
「もう一度、自分の正義を見直さなくては、と思ったんだ」長谷川さんは私に背を向けたまま、話を続ける。「あれは俺の正義じゃない。そうであってはいけないんだ、と思い直した。だから、違う方法で……俺が正義だと思える方法で、大野をいつか裁こうと決めたんだ」
「いつか?」
背中越しでも、本棚から何かを手に取ったのが動きで分かった。
「そのために……正しいことを貫くために、俺はまず、最初の過ちを正すことにした」
最初の過ち?
くるりとこちらに振り返った長谷川さんの手には、写真たてがあった。さびしい笑顔を浮かべて私のほうへ近づくと、おもむろにその写真たてを差し出してくる。何の写真だろうか、と首をかしげて受け取って……私は目を丸くした。
そこに写っているのは、さくらちゃんと……そして、素朴で美しい女性。日本人形のように、まっすぐに毛先が整えられたショートヘア。ややつり目の小さな瞳。鼻筋が通って、すっきりとした顔立ちだ。変な言い方だけど、クレオパトラはこんな女性だったんじゃないか、と思ってしまった。さくらちゃんにはあまり似ていないけど……それはきっと、痩せこけた頬のせいだろう。
この人が真紀さんなんだろう、と確信した。さくらちゃんと写っているし、長谷川さんが部屋に飾っているのだから、そうとしか考えられない。でも……偏見かもしれないけど、とても娼婦には見えない。大野さんに苦しめられてきた女性とも思えない。長谷川さんの話にでてきた女性とは思えない。写真の彼女は、自然な笑顔を浮かべて実に幸せそうだ。
「……そっか」
唐突にはっきりと分かった。写真からつわたってきた。彼女が二年もの間、大野さんのことを長谷川さんに話さなかった理由。彼女は、この幸せを守ろうとしたんだ。長谷川さんとさくらちゃんと過ごせる、愛にあふれた時間。その間だけは、彼女は普通の女性になれる。娼婦でもなく、かつて大麻に手を出した罪人でもなく、大野さんの奴隷でもなく、ただの幸せな女性に。だって言わなければ、少なくとも長谷川さんといる間だけは、悪夢のような現実も幻になるから。彼女が守ろうとしたのは、普通の幸せなんだ。
じっと見つめている間に、長谷川さんはソファに腰を下ろしていた。そして、静かにこう告げる。
「真紀に自首させた」
「!」
思わぬ告白だった。