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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第三章
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正義の告白 -2-

 一ヶ月前。雨が激しく降る夜だった。正義はそのときのことを思い浮かべる。

 予告もなしに部屋に尋ねてきた真紀は、服がすけて下着が見えるほどびしょぬれだった。おかっぱのようなショートヘアはぴたりとやせこけた頬にへばりつき、ややつり目のまぶたに引かれたアイラインは黒い涙となって流れていた。すっきりとした鼻筋に雨が伝って、雫を落とす。今にも折れるんじゃないか、と心配になるほど細い足はカタカタと震え、官能的なふっくらとした唇からは「助けて」という言葉が漏れていた。

 風邪をひく、と、バスタオルで包んで抱きしめると、雪崩のように突然泣き崩れた。そして、彼女は全てを語りだしたのだ。正義に隠していた、大きな秘密。一人で抱え込んで、やがて破裂しそうなほど膨れ上がってしまった罪。娼婦でシングルマザーとなった不安、頼れる人がいない孤独、育児と身体を売る生活による疲労から精神的に追い込まれ、つい大野の口車に乗ってしまったこと。――つまり、大麻に手を出したこと。

 正義は彼女が娼婦だった事実にも、最初は動揺を隠せなかった。それでも、真紀への気持ちは変わらない、となんとか気持ちの整理をつけた。だが、ここにきて、今度は麻薬だ。どう受け止めればいいのか分からず、正義は困惑した。麻薬で現実の苦悩から逃れようなど、正義が嫌う愚か者のすること。はっきり言って自分が軽蔑している部類の人間の行動だ。だが、バスタオルにくるまってひどく取り乱す真紀は、明らかに助けを必要としている。こういうときのために自分はいるんじゃないか。正義はそう腹をくくって、どうしたんだ、と尋ねた。


「私は、大野の奴隷なの」


 真紀は正義にしがみつきながら、そう叫ぶように訴えた。


「奴隷って、どういう意味だ?」

「あいつに逆らえば、警察に突き出される。あいつは……私が大麻を買った証拠を持っているの。だから、あいつに言われたことは何でもしなきゃいけない」


 真紀の震える肩を抱きつつ、正義は顔をしかめた。


「ブラフに決まっている。そんなことをしたら、大野って奴も危ないだろう。なぜそんな証拠を持っているんだ、と怪しまれるに決まっている」

「関係ないの! 大野の父親は警察に顔がきくから、あいつは何があっても捕まらない。私が警察に捕まって、全部話しても同じ。大野は何をしても罪には問われないの! あいつはそうやって楽しんできたのよ」


 そんな馬鹿な、と正義は愕然とした。世の中が腐っていることはもちろん知っていた。だが、正義(せいぎ)を市民に提供するはずの警察まで権力に惑わされ、己の使命をねじまげているとは……正義(まさよし)にとって、信じたくない事実だ。


「私は……捕まるわけにはいかなかった」と真紀は正義の胸に顔をうずめる。「さくらがいるもの。あの子には私しかいないから……私が刑務所にはいることになれば、あの子は一人きり。お金だってないのに。生きてなんていけない。だから……言うことを聞くしかなかった!」


 必死に正義に弁解しているようだった。か弱い肩がいつも以上に脆く見える。正義は「分かってる」と慰めるようにつぶやいた。法を破っておいてその罪から逃れてきた彼女を許すこと――それは自分自身の正義を裏切るようなものだ。それでも、彼女を突き放すことなどできなかった。正義は初めて、悪を庇おうとしていた。


「私、いろんなことをしてきたよ」真紀は力なく、そうつぶやいた。「大麻を運んだこともあった。何も知らない女の子を騙して、大野のところに連れて行ったこともあった。罪に罪を重ねても、罪は消えることはないのに」

「真紀」


 正直、なんと声をかければいいのか分からなかった。自分の知らないところで、恋人は罪の底なし沼に足を踏み入れていたのだ。だが、どう引き上げたらいい? 一歩踏み出せば、自分も沼に足を取られ、二人で沈んでいくだけではないだろうか。


「ねぇ、これは罰なのかなぁ」


 ふと、真紀は疲れ果てた声でそう言った。


「大野に……さくらを連れて来いって言われたの」

「!」


 さくら――なぜ、あの子の名前が出てくるんだ。正義はいきなり心臓をつかまれたような気になった。


「どうしよう」と、真紀は嗚咽をもらしながら震える声で言う。「さくらまで、目をつけられるなんて。まだ六歳よ。何する気なの?」


 正義は自分が震えていることに気づいた。悪寒ではない。恐怖ではない。こみ上げて来る強い怒り。


「もう自首しようかな、て。そしたら、あいつの言いなりにならないですむもの」真紀は正義の背中に手を回す。まるでこれで最後かのように、きつくかみ締めるように抱きしめた。「私が刑務所に居る間、まさくん、あの子の面倒見てくれるよね?」


 その瞬間、何の躊躇もなく罪の泥沼に飛び込んでいく自分がいた。正義は大きく息を吸うと、玄関に響き渡る声で叫ぶ。


「自首なんてしなくていい!」

「え」


 正義は真紀の両肩をつかむと自分から引き離し、真紀を真剣な眼差しで見つめる。


「悪の根源は大野だ。なんであいつが捕まらずに、真紀が捕まらなきゃならない!? まずはあいつが罪を償うべきだ! 真紀じゃない」

「でも……私が自首するか、さくらをあいつに渡すか。二つに一つしか……」


 それを聞き、正義はグッと唇をかみ締めた。確かに、真紀の言うとおりだ。だが……どちらも、正義の選択肢にはない。


「とにかく、まず俺がそいつに会いに行く」

「だめよ! そんなこと……」

「会って君の代わりに交渉する。まずはそれしかないだろ。さくらを渡すわけにはいかないし、君が警察に捕まればさくらは母親を失う。父親もいないのに……あんまりじゃないか」


 真紀は返す言葉もなく、静かに涙を流してうつむいた。


「俺に任せてくれ。なんとかしてみせる」真紀の肩をつかむ正義の手に力が入る。「どんな手をつかってでも、大野は俺がなんとかする。罪は必ず、償わせるから」


***


「どんな手をつかっても……」カヤは顔を曇らせた。「それが、和幸くんだったんですか」


 責めるような口調ではなかった。同情に近い、哀しい声だった。正義は、「いや」と言って背中を丸める。


「最初は違ったんだ。最初は……金で解決しようとした。大野も乗り気だった。週に十万ずつを一ヶ月間。それで手を打つ。さくらには手を出さない。そう言ってきたんだ」

「週に十万!?」それを一ヶ月間続けるとなれば、単純計算で四十万。カヤは目を丸くした。「そんなお金……」


 すると、正義は皮肉そうに鼻で笑う。


「金のことは問題なかった。見ての通り……」と、正義は部屋を見回した。「父親のおかげで、俺は金には余裕がある。四十万でさくらが助かる。安いもんだった」


 言われてみれば、確かにそうだ。こんな豪華なマンションに住んでいて、金に困っているわけはない。父親のおかげ、と言うのだから自分で稼いでいるわけではないのだろうが、少なくとも裕福な家の出ということになる。マンションに一歩足を踏み入れた時点で、正義が所謂(いわゆる)お坊ちゃまであることに気づくべきだった。――だが、問題はそこではない。カヤはまるで眩暈(めまい)がしたかのように首をふると、気を取り直して問いかけを続けた。


「それじゃあ、どうして和幸くんを巻き込んだんですか?」


 そこまで言うなら、金で解決すればよかっただろう。なぜクローンを使って大野を殺そう、という考えにいたったのか。カヤには理解できなかった。正義の父親は、こんなマンションを息子に与えるほどの財力を持っている。金が急に払えなくなった、というわけではないはずだ。


「大野の……」と、正義は苦しそうに声を出した。「大野の気が変わったんだ」

「気が変わった?」

「あの事件の一週間前だった。急に、金はいらないとあいつが言い出したんだ。さくらのほうが、使い道があると……」

「!」


 使い道――その言葉に、カヤは顔色を失くした。なんて言葉を、幼い少女に使うんだ。大野という男は、人と金の区別がつかないのだろうか。正義が彼を「悪の根源」とまで罵倒していた理由がカヤは分かった気がした。そして……そんな男のことだ。なんとなくだが、大野がさくらを使って(・・・)何をしようとしていたのか、想像がつく。


「ひどい」と、か細い声でカヤはつぶやく。


 ぐっと膝を握り締める正義の手が震えていた。思わずその手を掴みたくなって、だが、カヤはその衝動を押さえた。正義が和幸のオリジナルだからこそ、越えてはいけない一線をわきまえておかなくてはならない。見知らぬ男以上に、気を使わなくてはならない。手に触れる。それだけでも、思わぬ結果を導きかねないのだから。


「そのときだった。殺すしかない、と思ったんだ」


 正義は搾り出すように、そう言った。


***


「神崎カヤなんだけど」


 そう言ってしばらくすると、曽良は表情を曇らせた。


「いや……分かってるっす。でも、緊急事態というか」


 またなのか。俺は、二十二回目の電話をしている曽良の横で大きくため息をついた。

 なぜか、カインの兄弟姉妹たちからことごとく断られ続けていた。『おつかい』は今、休止中。だから、こんな時間に忙しいということはないはずなんだ。カインのリーダー(代理)の頼みを断るほどの理由はなんだ? しかも、どうもカヤの名前を出すと向こうの反応が芳しくなくなるようだ。一体なんなんだよ?

 ああ、くそ。こんなんだったら、歩き回って探したほうがマシだった。曽良が「そう言わずにぃ」と引きつった笑顔で言うたびに、俺の苛立ちはつのっていく。相手が嫌がっている証拠だからだ。


「ああ……だから、そう言わずに」


 そうそう、これだ。二十二回も聞けば、耳のたこも破裂する。

 俺は勢い任せに曽良の手から携帯を奪い取ると、誰だかも確認せずに怒鳴りつけた。


「頼むから、手伝ってくれ! なにが気に入らないんだ!?」


 いきなり手から携帯が消え、曽良はきょとんとして俺を見ていた。そして、「かっちゃん」と哀れみに満ちた表情を浮かべ……合掌?


「てめぇの女が気にいらねぇんだよ、和幸!」

「!!」


 いきなり、鼓膜が破れるほどの怒鳴り声が携帯から飛び出してきた。電波を経由してここまで恐ろしい声が忠実に再現されるものだろうか。曽良の合掌の意味が分かって、俺は背筋がゾッとした。聞き間違うはずはない。この声は……


静流(しずる)姉さん……」

「久しぶりねぇ。もう二度と、あんたの声を聞くこともないかと思ってたんだけど。よくも怒鳴りつけてくれたね。いい度胸じゃないか」


 相変わらずの、低いハスキーボイス。そしてこの高圧的な口調。何も変わってない。昔のままだ。

 女番長とも呼ばれている、二つ年上のカイン――シズル。小学生(ガキ)の頃、俺や曽良、砺波の姉代わりだった人だ。中学に入ってすぐ、広幸さんが死んで……それから立ち直るまで、俺の面倒を(きびしく)見てくれたのもこの人だった。仁侠映画好きで、言葉に難があるが……頼れる皆の姉貴分ってとこだ。そういえば、砺波のあの口の悪さはこの人の影響だろう。


「元気そうでなによりだよ」言って、とりあえず機嫌をとる。怒らせると砺波よりも厄介だからな。悪いけど、今、シズル姉さんのことで頭を悩ませている場合じゃないんだ。


「なんで、お前に心配されなきゃなんねぇんだよ?」

「……」


 たった一言でも、素直に言葉を返せないんだろうか。シズル姉さんらしいといえばらしいけど……久々の会話だというのに、淡白というか冷たいというか。まあ、予想はついてたけど。


「曽良から聞いただろうけど」と、俺はため息混じりに本題に戻す。「姉さんが気に入らないと言った、『俺の女』がいなくなったんだ。探すの手伝ってくれると助かる」

「嫌だって言ってんだろ」

「なんで? 面倒くさいからか?」


 そもそも……なんで、『俺の女』が気に入らないんだ?

 すると、電話の向こうで「は」と呆れた笑いが聞こえた。


「分かんねぇのかよ? 神崎カヤがいなくなったなら、こっちは万々歳なんだよ」

「なんでだよ!?」と俺は腰に手をあてがった。話が読めない。まるで……カヤを嫌ってるみたいな口ぶりじゃないか。なんで? 会ったこともないだろ。

 頭を悩ます俺に、酒やけの男のような声でシズル姉さんは一気に畳み掛けてくる。


「お嬢さまがクルーザーでどぶ川に迷い込んできて、偶然釣り上げた珍しい魚を水槽にぶちこんで熱帯魚代わりに眺めて楽しんでやがる。どぶ川の仲間にとっては、いけすかねぇ話じゃねぇか」

「……は?」


 何の話だ? どぶ川? 魚? 俺は意味が分からず、ぽかんと口を開けた。


「和幸。女に騙されるほど、お前も馬鹿じゃねぇだろ。戻っておいで」

「!」


 騙される? 俺がカヤに? 何を言ってるんだ、姉さんは?


「まだ間に合う。曽良に言って、『勘当』は延期してもらいな」

「勘当? なんだ、それ?」

「それから、悪いけど、他のカインに頼んでも無駄だよ。その前に、あたしが根回しするからね。

 それじゃ、せいぜい飽きるまで女のケツ追い回してな」

「は!? なんだよ、それ!」


 引き止める俺の声は聞こえたのか聞こえなかったのか。シズル姉さんは有無を言わさず電話を切った。言いたいことだけ言いやがって。久々の弟の頼みも断固拒否か。仁侠映画好きなら、人情ってもんにもう少し興味を示してもいいんじゃないのか。


「どうなってんだよ?」と俺は苛立ちながら、曽良に携帯を返す。「シズル姉さんはカヤが嫌いなのか? 会ってもいないのに、なんでだ?」

「……さあ、なんでだろうねぇ」


 この話には関心がないのだろうか。曽良は適当な返事をした。

 まあ、いい。シズル姉さんは独特の世界を持つ、滅茶苦茶な人だ。カヤの噂でも聞いて、何かとんでもない勘違いを起こしたんだろう。それよりも……


「勘当ってなんだ?」


 尋ねた瞬間、曽良がハッと目を見開いた。「あ」と言ってアヒル口をゆがめる。

 当然のようにシズル姉さんはその単語を口にしたが、俺は聞いたことがなかった。勘当って言葉自体はもちろん知っている。でも、勘当を延期? そんな使い方は聞いたことがない。無論、カインの間でも。


「今夜の卒業パーティで言おうと思ってたんだけど」


 曽良は言いにくそうにそう切り出した。俺が眉をひそめると、曽良は真剣な表情で俺を見てきた。


「今夜が、かっちゃんとの最後の夜なんだ」

「!」


 最後の夜? どういうことだ、それ?

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