正義の告白 -1-
「だめだ。トミー全然電話にでないや」
閑静な住宅街の暗い路地を歩きながら、曽良は落胆した様子で携帯をおろした。俺は「そうか」と条件反射で答える。正直、砺波が来ようが来まいがどうでもよかった。一人増えただけでどうなる。携帯も切ってこの広い街を彷徨うカヤを、どうやって探せばいいんだ。
くそ。せめて、あいつが行きそうな場所さえ俺が知っていれば……。
『災いの人形』だ、終焉の詩だ、『収穫』の日だ、とそんなことは知っているのに、カヤの服のサイズも趣味も、こんなときにあいつがどこに行くかも分からない。何が彼氏だ。余計な知識ばかり増やして、肝心なことは何一つ分かってないじゃないか。あまりに情けなくて、そして腹立たしい。しかも、人を見下して楽しんでいるようなあのふざけたボディガードが、心当たりがあるようなことをほざいていたんだ。こんなに悔しいことはない。
俺は隣に曽良がいることも忘れて、ずんずん足を進める。
「ちょっとかっちゃん、待ってよ」
バタバタと地面に足を叩きつけて、後ろから曽良が追いかけてきた。
「待てねぇよ」
「そりゃそうだ。じゃなくてさ!」曽良は呆れたような声をだし、俺の腕を掴んで引き止める。「いくらなんでも、二人じゃ無理があるでしょ。手がかりがゼロなんだから」
そんなの分かってる。俺は曽良の手を振り払うと「だから!」と怒鳴る。
「とにかく歩き回るしかないだろ! 手分けして。立ち止まってる暇なんか……」
「そうだけどさ。そんなにカリカリしてても仕方ないでしょ」
いい? と曽良は自慢げに微笑むと人差し指を突き出した。
「成功の秘訣は深呼吸から」
「は!?」
どこのじじいの名言だ? 聞いたことないぞ。
「いいから、いいから。深呼吸して」言って曽良は、大げさに深呼吸してみせる。「ね、ほら。かっちゃんも」
「やってられるか」
曽良のアドバイスを一蹴して俺はまた足を動かす。確かに、イラついてもカヤが見つかるわけじゃない。曽良の言うとおり、落ち着くべきかもしれない。でも……そうは頭で分かっても、うまく感情をコントロールできるほど大人じゃない。カヤがいなくなって冷静でいられるほど、俺は強くないんだ。焦りと不安、恐怖。心の中でごった返して、どう収拾つければいいのか分からない。心が荒れてる。自分の感情がよく分からない。
とにかく、カヤを見つけなきゃ。見つけて……それからどうすればいいのかも分からないけど……とりあえず、カヤが無事ならそれでいい。仲直りでも第二ラウンドでもなんでもしてやる。
「かっちゃん!」と、曽良の呆れたような声が聞こえてきた。「他の兄弟たちに手伝ってもらおうよ」
後ろから飛んできた言葉は、見事に俺の心臓を貫いた。何を言われようと無視しようと決めていたのに、その決意は一瞬でぐらついた。俺はハッとして振り返る。
「できるのか?」
曽良は肩をすくめ、「やってみる、としか言えないけど」と携帯をちらつかせた。
兄弟たち――それは、カインの皆のことだ。その手があったか、と思うと急に肩の力が抜けた。「頼む」と俺は呆然としてつぶやく。
今のカインのリーダーは曽良だ。代理だが。一応はカインの皆に命令できる立場にいる。『おつかい』と銘打ってカヤの捜索を頼むことも可能だろう。公私混同、とあとで親父に叱られても文句は言えないが。でも、曽良も言ったように、今は手がかりがゼロ。残されている策といえば人海戦術くらい。人手があれば、カヤをどこかで見つけられるかもしれない。――作戦というには、お粗末すぎるけどな。
「『迎え』に行くのは俺たちの十八番だしね」
そうつぶやきながら、曽良は携帯をいじり始めた。口ではそんな冗談を漏らしているが、顔は真剣だ。
冷静になってみると……俺たち二人のケンカに巻き込んでしまって、申し訳ないやら恥ずかしいやら。よく考えれば、ここまで曽良が付き合う必要はないよな。しかも、リーダー代理の権力を濫用してまで。
「悪いな、曽良」
ぽつりと謝って、電話をかけ始めた曽良をじっと見つめる。すると、そのアヒル口の片端が上がり、
「かっちゃんのためじゃないよ」
「は……」
なんて言った、今? よく聞き取れなかったが……聞き返そうにも、曽良は「もしもし」と通話を始めてしまって口を出せない。俺は気持ち悪さを残したまま、とりあえず電話が終わるのを待った。
***
「ありがとう、さくらに『おはなし』してくれて」
言って長谷川さんは、ソファに座る私に暖かい紅茶を手渡してきた。飲み物はいい、て言ったのに。結局、気を遣わせてしまったみたい。さくらちゃんの部屋をあとにしてリビングに戻ると、いつのまにか戻っていた長谷川さんが紅茶をいれていたのだ。
ふんわりと香るシナモンにつつまれて、私はホッと息をつく。喉は乾いてはいないけど、リラックスのための紅茶は今の私には必要かもしれない。
「どの『おはなし』をしてくれたんだ?」と長谷川さんは私の斜め横に座った。
「大した話じゃないんです。私が小さいころに聞かされていた御伽噺で」
「へえ」
といっても、さくらちゃんが気に入ってくれたのは別バージョン。私がエンディングを即興で付け加えた、王子さまが登場する『終焉の詩姫』。彼女は満足してくれたようで、何度も何度も同じ話をさせられた。彼女はよっぽど『おはなし』を聞くのが好きみたいだ。熱心に目を輝かせて耳を傾けてくれたのだから。
「よかったら」と長谷川さんは身を乗り出して、じっと私を見てきた。――和幸くんと全く同じ熱い眼差しで。「その『おはなし』、あとで教えてくれないか? メールででもいいから文字にしてくれるとありがたい」
「え!?」
「俺はあまり童話を知らないんだ。ありきたりなものばかり聞かせるから、さくらは飽きているようで困っていたんだ」
私は困って眉をひそめた。もちろん、『終焉の詩姫』を教えるのは一向に構わない。ただ、さくらちゃんに聞かせたのは、半分は私が考えた別バージョン。それを長谷川さんに教えるのはちょっと恥ずかしい。
「頼む」
長谷川さんは相変わらず、彼によく似た視線で見つめてくる。もし、これが今日でなかったら――彼とケンカした日でなかったなら、顔を赤くして照れていたかもしれない。でも、今の私にはつらいものでしかなかった。ただ胸が痛んで目をそらす。「分かりました」と逃げるように承諾して。
「ありがとう」
嬉しそうな彼の一言が、私の心をひっかいて爪あとを残した。
居心地悪く俯いていると、長谷川さんのため息が聞こえてきた。そして「さて」と息の詰まったような声がして――
「さくらの母親は、真紀という女性でね」
「え」
唐突に切り出され、私は一度逸らした視線を彼に戻す。
真紀……その名前は、私がずっと気になっていた名前だ。長谷川さんが遠のく意識の中で呼び続けた名前。それが、さくらちゃんのお母さん? ということは、長谷川さんの奥さん――いや、結婚しているとは限らないか。指輪はしてないみたいだし。でも、こうしてさくらちゃんと一緒に暮らしているってことは、真紀さんもここに住んでいるんだよね? 姿は見かけないけど。でかけているのかな。
「彼女は身体を売る仕事をしていた。いわゆる、娼婦、てやつだ」
「!」
娼婦? 私は言葉を失った。い、いきなり、とんでもない話が始まった。まだ、心の準備が……。
「娼婦なんて、神崎さんには分からないかな」
私が呆然としている理由をはきちがえているようだ。私は「知ってます」と咄嗟に答えた。そもそも、長谷川さんに連れて行かれた体育館で実際に見ているじゃないか。忘れているのだろうか。煙たい体育館で、男に裸体をさらしていた女性たち――娼婦。
そういう職業の女性がトーキョーに溢れていることは、さすがの私も耳にしていた。もちろん、違法だ。表向きにはいないことになっている。でも実際には――あまりにも需要があって止められないのか――その数は増える一方だという。ただの高校生だった私の耳にまでその噂が入るほどだ。裏世界の華は、表も裏も関係なくあらゆる男性を虜にして止まないのだろう。
「出会ったときは……恋に落ちたときは、娼婦とは知らなかった。陰のある女性だ、とは思ったけどまさか身体を売っているとは思ってもいなかったんだ」
まるで言い訳をするような話し方だった。きっと長谷川さんは娼婦という仕事をよくは思っていないんだろう。それが伝わってきた。
「さくらはね」と急に長谷川さんは声を落とす。「彼女の客との子供なんだ」
「え!?」
こんな反応は失礼だっただろう。でも、あまりの事実に冷静な判断はできなかった。私は思わずぎょっとして大声をあげていた。
そんな私に、長谷川さんはまるで子供を見つめるような優しい視線を向ける。
「だから、あの子に俺の遺伝子は入ってないよ」
「……!」
「気になっているかと思ったから」
遺伝子……そう言葉を濁してはくれたけど、長谷川さんの言いたいことははっきり分かる。そしてそれは、確かに私が気にしていたことだ。心が読まれたようで恥ずかしい。
「どの客なのかは、真紀にも分からないそうだ」
何事もなかったかのように、長谷川さんは話を続ける。
「分からない?」と、私は気を取り直してなんとか相づちをうつ。
「男と寝るのは彼女の仕事だ。一週間にいろんな男と行為をする。『どの男が失敗したのか、なんていちいち覚えていられない』。真紀の言葉を借りれば、そういうことだ」
なんて言葉を返せばいいのか、分からなかった。とりあえず、浮かんだのはさくらちゃんの顔だ。彼女は知っているんだろうか。実の父親が分からない、という事実。いや、たとえそう言ったところで幼い彼女には理解できないだろう。
そういえば、長谷川さんのことを「まさよし」と呼んでいた。「パパ」や「お父さん」ではなく。その時点で気づいても良かったのかもしれない。長谷川さんが実の父親ではないことを。
「真紀は、いきなり子持ちの娼婦になった。もともと孤児院出身の彼女には家族はいない。助けてくれる人もいないし、仕事も続けなくてはお金もない。そうやって精神的に追い込まれていった彼女は……ある男につけこまれることになった」
「ある男?」
遠慮がちにそう尋ねると、長谷川さんはじっと私を見つめて厳しい表情でつぶやく。
「大野だ」
「!」
大野……忘れるはずもないその名前。思わず震えそうになった身体を私は必死に抑えた。たくましい上半身をあらわにして体育倉庫から現れたあの男。口の中に、嫌な鉄の味が蘇る。私は彼の手から逃げようと咄嗟に彼の腕に噛み付いた。それも、血が皮膚からにじみ出てくるほど強く。あの女を捕まえろ、と叫ぶ憎しみに満ちた彼の声は未だに頭に残っている。今度もし、会うことがあれば……そのときは、私は文字通り、痛い目にあうことだろう。
「そう」と、長谷川さんは低い声で言葉をつなげる。「俺がクローンに殺させようとした男だ」
「覚えてます」
それだけしか言えなかった。
「最初は真紀も、娼婦として大野と会っていたらしい。要は、大野に身体を売っていた。
だが、そのうち……大野に薦められ、大麻に手を出すようになった。それが始まりだったんだ。彼女の悪夢の」
「……!」
大野さんから大麻を買った? 真紀さんが? ってことは……と、私の中でからまっていた糸がするするとほどけていく。
そうだ……そういえば、あの夜、タクシーの中で長谷川さんは言っていた。大麻を大野さんから買った客は、それをネタに強請られる。無理難題をつきつけられるんだ、て。だから、あのとき私はてっきり長谷川さんが大麻を買ったんだと思った。それで大野さんに強請られて、彼を殺そうと考えたのかと。でも、彼は確かにこう答えた。
――俺じゃない。
「もしかして……だからだったんですか?」言葉が勝手に口からこぼれていた。「真紀さんのため?」
長谷川さんはしばらく何も答えなかった。
でも、私は自分の憶測になんの疑いもなかった。だって、そうとしか考えれない。大切な人を庇うために、大野さんを殺そうとしたんだ。それなら、納得できてしまう。彼の行動も――そして、彼が和幸くんのオリジナルだということも。
「真紀さん、強請られていたんですね」優しく尋ねると、長谷川さんはつらそうに頷いた。
その表情には、見覚えがあった。
―俺は……未来をお前と一緒に見たい。
虹の橋でそう言った和幸くんとそっくりだった。プロポーズの直前に彼がみせた切ない表情。言葉にそぐわない哀しい顔。なぜ、彼はあんなにも苦しそうだったんだろう。今、考えるべきことではないんだろうけど……つい、頭に浮かんでしまった。
「俺が真紀と出会ったのは、病院だった」と、長谷川さんは遠い目をして語りだす。「二年前だったかな。病院で迷っていたさくらを見つけて、彼女の病室に連れて行ってあげたのがきっかけでね」
「病室?」
「神経衰弱、過労、栄養失調……そんなものだったんじゃないか、と思う。真紀は二、三日、入院していたんだ。とにかく……」そこで言葉を切ると、長谷川さんは懐かしむように優しい笑顔を浮かべた。「俺は彼女を一目見たときに、何かを感じた」
何かって……それって、もしかして? 私はきょとんとしたまま「一目ぼれ?」とつぶやいていた。長谷川さんは恥ずかしそうに苦笑する。
「薄っぺらく聞こえるだろうけど……そうなるんだと思う。この人を守らなきゃいけない、という強い使命感を覚えたんだ。不思議な感覚だった」
ロマンチックじゃないか、と私はほほえましくなった。薄っぺらくなんてない。
「彼女も、俺に興味を持ってくれたようで……というか、さくらが俺によく懐いてしまって。お互い退院してからも、会うようになったんだ」
「お互い?」
長谷川さんも入院していたんだ。てっきり、誰かのお見舞いか何かだと思ったけど……。
「ただ、そのころは俺は何も知らなかった。彼女が娼婦だということも、大野に脅されていることも」
「いつ、知ったんですか?」
「つい一ヶ月くらい前、かな」
「!」
そんな最近? 私はぎょっと目を丸くする。すると、それに気づいたのか、長谷川さんは慌てて訂正した。
「いや、娼婦だということは、もっと前に知っていた。ただ……大野とのことはずっと気づいてやれなかったんだ。付き合いだしてからもずっと……真紀は、何も相談してくれなかったから。一人で抱え込んでいたんだ。自分のまいた種だから、と。俺に迷惑をかけたくなかったのかもしれない」
二年もの間、真紀さんは大野さんのことだけは隠し続けたんだ。私は唖然としてしまった。だって、二年……長すぎる。そんなこと、できるの? ずっと、好きな人に隠し事をするなんて。よほどの覚悟がないとできない。それに……きっと、すごくつらい。傍によりかかれる肩があるのに、無理して背筋を伸ばして……。
でも、気持ちは分かる気がする。だって、恐ろしいほど正義にこだわる長谷川さんだ。あの事件で、私はそれを体感している。大麻に手を出したなんて、彼に言えるわけない。もし私が真紀さんでも、やっぱり打ち明けられなかったと思う。嫌われるかも、許してくれないかも……そんな不安が邪魔して。
「だが、一ヶ月前、真紀はとうとうどうすることもできなくなった」と、長谷川さんは眉根を寄せてうつむいた。そして、体のどこかが痛むかのような苦しい表情を浮かべて、恐ろしい事実を口にする。「大野が、娘を連れて来い、と言ってきたんだ」