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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第三章
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お帰り

 これ、どういうこと? 私は、未だに目の前の光景が信じられずにいた。

 エレベーターの中で何してるの? 女の子の肩をつかんで、顔を近づけて……『続きは部屋』!? その子、誰? 偶然エレベーターで乗り合わせた子? ううん、違うよね。知らない子と、エレベーターでキスしようとしないもの。

 和幸くんは私の姿を認めると、慌てて女の子から離れてエレベーターから出てきた。私は思わず後ずさった。自然と視線が地面に落ちる。


「なんで、ここに……?」


 それが、彼の最初の言葉だった。私は返す言葉が見つからなかった。今、質問に答えなきゃいけないのは私じゃない気がした。


***


 うつむき黙りこくるカヤをかばうように、ずいっと砺波がカヤと和幸の間に割って入った。キッと鋭い目つきで和幸をにらみつけると、オペラでも歌うかのように大きく口を開けて怒鳴りつける。


「なんでここに? こっちのセリフよ! なんでエレベーターの中でちちくりあってんのよ!? 発情期の猿か、あんたは!」

「ちちくり……そんなんじゃねぇよ。お前はどいてろ」

「はっ! どかなきゃいけないのは、そこの泥棒猫でしょう!?」


 両手を腰にあてがい啖呵を切ると、砺波はエレベーターから丁度出てきた葵を指差した。

 カヤは砺波の後ろで、おそるおそる葵を見つめる。さっきはあまりのことで顔もよく確認できていなかった。エレベーターが開いたら、二人組が顔を近づけて見詰め合っていた。男のほうが和幸だと分かった瞬間、カヤの頭は真っ白になった。


――他に女でもいるんじゃないの 。


 タイミングよく砺波の声が蘇り、呆然とした。嘘からでた真。そんな諺が思い浮かんだ。

 エレベーターで和幸と見詰め合っていた少女は、小柄で華奢で愛らしい。大きな瞳のつり目。ほんのりと赤い頬。ふわふわとしたウェーブがかった茶髪。ショートパンツからのぞく足は今にも折れそうなほど細い。きっと、こういう子を見ると男の人は守りたくなるんだろう。そう思わせるような少女だ。

 葵をとらえる視界がだんだんとゆがんでいき、たまらなくなってカヤは目をそらした。ここで泣きたくない。それだけは意地でも守りたいプライドのように思えた。


「一体誰よ、あんたは!?」


 砺波の怒号が通路に響き渡る。葵は砺波の迫力に気圧され、ビクッと体を震わせた。両手に携える三つの紙袋が、ガサッと音を立てる。

 和幸は、おい、と声をあげて葵をかばうように砺波の前に立ちはだかる。


「葵に噛み付くなよ、砺波」

「はあ!? あおい?」

「バイト先の友達だよ」と和幸はちらりと葵に目をやる。すると砺波は、「あっそう」と演技じみた口調でつぶやく。その声色はいたって落ち着いている。表情もまるで菩薩のように穏やかで、さっきまでの勢いが嘘のようだ。

 和幸は、嵐の前の静けさだ、と確信した。砺波とは長い付き合いだ。どういう怒り方をするのかも大体分かっている。本気でキレるときの砺波は、こうして一度不気味な落ち着きを見せる。そして、嵐は唐突にやってくるのだ。激しい雷と豪雨とともに。

 砺波が微笑を浮かべてすうっと息を吸い込んだ。和幸は、来る、と直感して後ずさった。


「こっの……」と、丁度砺波が怒鳴りかけたとき。葵が明るく可愛らしい声を出した。

「あ! もしかして、和幸の彼女さん?」

「!」


 出鼻をくじかれ、砺波は大きく口を開けたままぽかんと静止した。しかも、葵の人差し指はどう見てもカヤではなく自分に向けられている。どうやら、カヤではなく自分を和幸の彼女だと思っているようだ。それもそうか、と砺波は冷静に思った。ぎゃあぎゃあ騒いでいるのは自分で、カヤではない。この状況を見たら、間違いなく自分が嫉妬に狂うガールフレンドに見えるだろう。苛立ちに恥ずかしさも加わって、顔が熱くなるのを感じた。人の気も知らないで……と、その人差し指をへし折りたくなった。

 だが、問題はそこではない。砺波は、ふつふつとこれまでにない怒りがこみ上げてくるのを感じた。爆発寸前の苛立ちが蓄積していく。そしてダムは決壊する。一気に――


「あんた、どういう神経してるわけ!? 彼女いるの知ってて手だしてきたわけ!? てか、よく平気そうな顔でつったってるわね! 少しくらい、動揺したらどうなの!? その鼻へし折って、分からせてや――」

「砺波、いい加減にしろよ! 誤解だ!」


 とうとう暴れだした砺波の肩を必死に押さえながら、和幸は声を荒らげた。葵はまるでいきなり猛獣に出くわしたかのように、顔を真っ青にして後ずさる。


「いい加減にするのは、あんたでしょ!」砺波の勢いは衰えず、その矛先は和幸に向けられる。「五時間も待たせて、土産に女連れ帰ってきて! 何様のつもり!? いつから、そんなご身分になったわけ!? しかも、エレベーターの中でフライングスタート!?」

「五時間? 何言ってんだ?」

「ああ、もう信じらんない! わたしはあんなもの見るために、五時間も待ったわけ!?」


 砺波はそう吐き捨てると、和幸を殴るような勢いで突き飛ばし、「カヤ!」と振り返った。じっと黙ってうつむいていたカヤは、ビクリとして顔を上げる。


「和幸の彼女はあんたでしょう! なに黙ってんのよ。さぼってないで、口動かしなさいよ! 楽してんじゃないわよ!」

「……あ」


 砺波の血走った目が睨むようにカヤを見つめている。さわがしい言葉の応酬が急におさまり、月夜に静けさが戻った。集まる視線を感じ、カヤはたまらくなってうつむいた。きっと、和幸も自分を見ている。目を合わせるのが嫌だった。


「カヤ、どうした?」と優しい和幸の声がカヤの耳に入ってきた。いつもと変わらない声。それが余計につらい。どうしたもこうしたもない。なぜ、まるで心配しているような声色で尋ねてくるのか。優しい言葉が腹立たしく思えたのは初めてだ。せめて、必死になって言い訳を始めてくれたらマシだったかもしれないとカヤは思った。キスしようという現場を見られたのに、自分にフォローもないし、さっきから葵をかばってばかりだ。どうなっているのかさっぱり分からない。何を言えばいいのかも分からない。


「へえ。和幸の彼女、外人なん!」

「え」


 唐突に、通路によく通る声が響き渡った。カヤはハッとして顔を上げる。砺波の背中を超えた向こうに、葵が興味深そうに自分を見つめていた。


「ニホン語分かると? ないすとぅみーちゅー?」

「!」


 限界だ。カヤはこみ上げてくるものを抑えるのに精一杯だった。今、一言でも口にしたら泣き出してしまう。そう確信すると唇を噛んで葵から目をそらす。

 そんなカヤの様子を横目で見つめ、砺波ははらわたが煮えくり返るのを感じた。こちらはとうに限界は過ぎていた。なんで、わたしが……と思いつつ、カヤの代わりに怒りを全部ぶちまけることを決意する。バッと葵に顔を向きなおすと、まくしたてるように怒鳴り散らす。


「言葉わかんないのは、そっちのほうでしょ! なんなのよ、その似非(えせ)方言は!? どうせ、男の前でだけ方言だしてんでしょ。性根腐ってんのよ、泥棒猫は!」


 葵は怒りに震えた。子供みたいな可愛い顔して、この女はどういう性格をしているんだ。さすがにここまで言われては黙ってはいられない。葵は顔を真っ赤にして、肺に一気に酸素を吸い込むと「似非やないんですけど!?」と、かすれるほどの高い声で言い返した。


「あたしは福岡出身ばい!」

「どうでもいいわよ、そんなこと! 一生いらない情報だっつーの。興味ないわよ!」

「はっ!?」


 ケンカをふっかけておいて、興味がない? 言っていることが無茶苦茶だ。葵は憤怒にわなないた。


「さっきから、あんたなんなん!? そもそも人のこと、泥棒猫って失礼やん!」

「本当のことじゃない。文句あるなら、聞くわよ。どうぞ?」


 砺波は得意げに微笑むと、腕を組んで胸を張る。葵が逆上してくれたおかげで、こっちのペースだ。その時点で勝利を確信していた。


「どうぞって……だ、大体、あんた彼女じゃないんでしょ!? 黙っててよ!」


 すると砺波はクスッとあからさまに嘲笑する。


「ほぉら」と腰に両手をあてがうと、憐れむような目で葵を見つめる。「本性でたら、しっかり共通語じゃない。設定忘れちゃった? 方言はもういいの? ぶりっこまで中途半端でどうすんのよ」


 自分が猫だったら背中の毛は総立ちだっただろう。葵は苛立ちで頭から湯気がのぼる思いだった。


「むっかつく!」


 なんとか搾り出せたのは、そんな薄っぺらい言葉だけだった。


「砺波も葵も、いい加減にしろよ。いろいろ誤解が……」


 一部始終疲れた表情で見守っていた和幸は、二人の口論が落ち着いたのを見計らってそう切り出した。


「誤解?」


 砺波はさらっと髪を後ろにはらって、へえ、と不敵に微笑んだ。突き刺すような視線で和幸を睨みつけると、口頭試問のように質問を繰り出す。


「じゃ、エレベーターの中で何してたの? 顔を近づけて見詰め合って? キス以外にいい言い訳はある?」


 その質問に誰よりも反応したのは、砺波の後ろでじっと黙っていたカヤだった。心臓が大きく飛び跳ね、体がびくんと震える。カヤの頭の中で、さっきの光景が思い浮かんだ。和幸の首に手をまわす葵。葵の肩をつかみ、真剣な顔で葵を見つめる和幸。その先――キスなんて、想像もしたくない。


「コンタクトだよ」と、カヤの苦悶をよそに和幸はさらりと答えた。

 

 それを耳にして、カヤはハッとする。疲れと呆れははっきりと声色から伺えるが、嘘は感じられない。こういう状況で、巧みなアドリブが彼にできるとは思えない。きっと、本当だ。


「コンタクト?」砺波は眉をひそめて馬鹿にするような口調で尋ねる。

「ああ。葵がコンタクトがずれたっていうから、様子見てただけだよ」

「コンタクトがずれた? へえ」


 砺波は鼻で笑うと、葵を睨みつける。葵はすました顔でそっぽを向いていた。その様子に、砺波は確信する。――やっぱり、泥棒猫じゃないの。そして、相変わらずの幼馴染にあきれ返った。恋愛となると、てんで勘がはたらかない。嘘と騙しあいの世界で生きてきといて、今更こんな手にひっかかるなよ、と砺波はため息をつく。


「にしても、古典的ねぇ」とつぶやくと砺波は葵の腕をつかみ、エレベーターのほうへひっぱった。


「なに!?」と葵は耳を貫くような声で叫ぶ。砺波は振り返る素振りすらみせず、エレベーターのボタンを押す。どうやらエレベーターは他の階へ移動していなかったらしく、すぐに扉は開いた。


「砺波、何する気だ!?」


 怒り狂う砺波は何をしでかすか分かったもんじゃない。和幸はあわててエレベーターの前にたちふさがって、砺波の行く手を阻んだ。


「この女を追い出す……送っていくのよ」と砺波は何食わぬ顔で答え、葵をあごで指す。

「和幸、なんなん、この子!?」


 葵は必死に砺波の手をふりほどこうと四苦八苦しているが、砺波の手はピクリともせずつかんでいる。葵の華奢な腕が折れるんじゃないか、と不安にさえなる。和幸は苦渋の色を浮かべて、諭すように砺波に言う。


「俺が送っていくから、お前は……」


 その瞬間、砺波の中でかろうじて繋がっていた最後のか細い糸が切れた。


「あんたね!!」


 今までで一番大きな甲高い声が響き渡る。砺波は勢いのままに和幸の胸倉をつかんで、睨みつけた。


「わたしに恥かかせないでよ!」

「は? 何の話……」

「ぐだぐだ言ってないで、さっさとカヤに弁解(・・)しなさいよ! 何、考えてんの!?」


 声が裏返っていた。砺波は一気に言い切ると、和幸の胸倉から乱暴に手を離した。迫力に気圧され、和幸は力なくよたついて後ずさる。

 そして――カヤに目をやった。ずっと大人しかった自分の彼女。じゃじゃ馬を抑えるので手一杯で、放っといていた。それでも、大丈夫だと思っていた。カヤは砺波とは違う。こんなことで変な誤解を起こすような短絡的な女ではない。そう信じていたからだ。うつむいて黙っているのも、てっきり癇癪を起こした砺波に怯えているだけだと思っていた。

 だが……目があった途端、カヤはとっさに目をそらした。その表情には、はっきりと拒絶の色が現れている。その瞬間、和幸はやっと気づいた。本当に心配すべきことは、ずっと幼馴染の怒りで隠されていただけだ、と。


「ほら、来なさい! 泥棒猫。ちゃんとしつけてやるから」

「痛っ! 離してよ!」


 じっとカヤを見つめる和幸の後ろで、葵は砺波にエレベーターへひきづられるように連れ込まれる。騒がしい二人の声は、扉が閉まるその時まであたりに響き渡り、そして嘘のように消え去った。エレベーターが掃除機のように舌戦(ぜっせん)ごと二人を飲み込んだのだ。

 そして、重苦しい沈黙だけが残される。ゾッとするほど冷たい空気。不気味なほどの静けさ。どこかの部屋から、テレビの笑い声がかすかに聞こえてくるほどだ。

 うつむいたままピクリともしないカヤに、和幸はそっと話しかける。


「カヤ……何か言ってくれ」


 我ながら、気が利かないセリフしかでてこない。和幸は嫌気がさした。でも、黙って待つよりはずっといいだろう。

 和幸のその読みはあっていた。カヤは下を向いたまま、ぽつりとつぶやいた。


「……お帰り」

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