曽良の苦言
「マジでごめんな」
バイトを終え、俺は焼き鳥屋をでるとすぐに頭をさげた。相手は、俺が遅刻したせいで二人分の仕事をしなくてはならなくなったバイト仲間だ。彼女はつり目をさらに細くして、俺をにらむように見つめている。ただ、全く怖くはない。もともと愛嬌のある猫顔だからか、それとも……もっと恐ろしい顔でいつも睨んでくる女を俺は知っているからか。そういえば、彼女の服装は、あいつを思い出させる。黒いタイツにホットパンツ。高いヒール。上はロングTシャツにジャケットで、そこだけはあいつとは違うが。まるで露出狂のように、季節構わず肌を露出するあいつ――砺波だったら、寒空でもチューブトップにコートで出歩くだろう。
「ほんっとに、大変やったんやから」と、同僚は桜色の唇をとがらせる。「お昼時は忙しいって、前も言ったやん」
「……悪い」
とはいうものの、方言で怒られるとなぜか嫌な気分がしない。いや、反省しなきゃいけないんだが、聞きなれない言葉遣いについ気をとられる。彼女……紺野葵は、中学のときに福岡から引っ越してきたらしい。まだ福岡弁 (というのだろうか)は抜けきっていないようだ。
「ちゃんとした言い訳、用意してきてるん?」
「え……」
葵は腰に手をあてがい、ヒールの音を響かせて大またを開いた。そんな威張ったポーズも、小柄なせいで特に迫力はない。
言い訳……か。一応、ちゃんとした理由はあるんだ。神の子孫がいきなりウチに来て、彼女が昔どう死んだのか長々と話していった。それを聞いているうちに、バイトのことはすっかり忘れて気づいたときには大遅刻。だが、こんな話、いえるわけがない。
「彼女の元彼のことで、ちょっとな」と、俺は言葉を濁した。嘘と本当の真ん中くらいだろう。
すると、葵は目を丸くして俺を見てきた。こうして目をぱっちりさせると、本当に猫みたいだ。猫じゃらしでも持ってくれたら様になりそうだな。
「彼女おるんや」ぽつりと彼女はそう漏らした。なんだ、意外だったのか? 「どれくらい、付き合っとうと?」
「え?」
こういうこと、聞かれるもんなのか? 俺は今まで誰かと付き合ったことはないし、そもそも表の世界では薄っぺらい人間関係しか築いてこなかった。こういう会話になったことがない。どこまで話したらいいのかもよく分からない。
まあ、質問に答えていればいいか。
「一週間……くらいかな」
「なんや、バリ短いやん」
なぜか彼女は、あはは、と笑い出した。とがった八重歯がちらりと見えた。
バリ――葵はよく使うのだが、どうやら、すごい、という意味らしい。
「悪かったな、短くて」
「あ、そういうことやないよ。ごめん、ごめん」と、葵は俺の腕をつかむ。「ね、今からどっか行かん?」
「は?」
どっかって? いきなり、なんだ。彼女の話をすると、誘われるのか?
「なに、その顔。遅刻して人に迷惑かけた奴のする態度?」
「……悪い」
それを出されたら弱い。何も言い返せない。俺ががっくりと頭を垂らしてそういうと、葵は弾けたような笑顔を浮かべた。どうやら、完全にからかわれている。
「あ、そうや。夕飯、おごってよ。そしたら、許してあげる」
パン、と両手をあわせて、葵は頭を傾けた。ウェーブがかった短い茶髪が、ふわりと揺れる。
俺はそんな彼女をじっと見つめ、違和感を覚えた。一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。彼女は、あまりにも『普通』だ。しばらく迷子のような気分を味わってから、ふっと思い出す。――そうだ、ここは日向の世界。俺はこっちに引っ越してきたんだった。人身売買も、カインも、全てが幻の世界。俺はもう、ここでこっちに住む人間と、『普通』の関係を築いていいんだ。ただの高校生のフリをする必要はない。今の俺は、ただの高校生なんだから。
「ちょっと?」気づくと、葵はいぶかしげな表情で俺の顔を覗き込んでいた。「おごるのそんなに嫌なん?」
「え、あ……いや」
いきなり、黙り込んだらそう思われても仕方ないか。これじゃ、ドけちの器の小さい男に思われるな。確かに、お金はないけど……嫌ではない。なにより、『普通』のことをずっとしてみたかった。
「そうだな。夕飯、おごるよ」
「お。やった!」
葵は両手でガッツポーズ。まるで子供みたいな仕草に、つい笑ってしまった。一挙一動、全てが……違う。なぜか、新鮮な気分になる。彼女は何も知らない。俺を、ただのバイト仲間だと思ってる。カインだった俺のことも、カインだということを隠して『普通』のフリをしていた俺のことも知らない。彼女は、カインを辞めてからの俺――ただの『藤本和幸』しか知らない。
不思議な感じだ。そして、決して嫌な気分じゃない。世界は何も変わってないのに、まるで平和だ。自分がクローンだということも、全て妄想のように思える。本当に、人身売買なんて起こっているんだろうか。そんな気すらした。
世界は、人の目を通して無限に姿を変える。だから俺が変われば、世界も変わる。でもそれはただの幻覚にすぎない。俺の心境の変化が生み出した錯覚だ。人身売買は起こっている。俺はクローンだ。世界は……終焉の危機にある。
でも、せめて……ほんの少しでいい。一瞬だけでも、それから目をそらしてもいいよな。そんな気持ちが生まれていた。ちょっとでいい。錯覚に溺れて、全てを忘れる時間がほしい。そう望むのは、いけないことだろうか。
「といっても、まだ三時やんなぁ」
赤い皮のベルトの腕時計を見て、葵は首をかしげた。身に着けているものも本当に今時の女の子だ。って、俺、おっさんみたいだな。
「買い物、行く? それとも、映画観る?」
「そう、だなぁ」
買い物に、映画……か。俺は顔がほころんだ。いたって、『普通』だ。
「なんなら映画観て、買い物つきあうよ」
「お、いいやん! そうこなくっちゃ。あたし、観たい映画あったっちゃんね」
言って、葵は歩き出した。その後姿を見つめ、俺は目を細める。
彼女は銃を持ったことがない。まして、人を殺したこともない。『創られた』存在でもない。裏社会の存在すら知らない。なにより、彼女は世界を滅ぼさない。――『普通』の女の子だ。それが、新鮮だった。
***
玄関と部屋をつなぐ廊下。そこには浴室、トイレへの扉と、そしてキッチンがある。小さなキッチンだけど、砺波ちゃんと二人で使うには十分だった。廊下中にカレーの香りと、焼きたての紅茶クッキーの芳香がただよっている。二つが混ざって妙な匂いになってしまっているけど……あとで換気すればいいよね。
「ところで」私は冷蔵庫を開けると、二パックぎっしりつまったさくらんぼを見つめた。「こんなにさくらんぼ買ってどうするの?」
「だ・か・ら、和幸をおちょくるのよ」
隣から、ソーダの缶を片手に砺波ちゃんがそう答える。実に得意げだ。それにしても、こうして腰をかがめて砺波ちゃんを見上げると……目がいくのは、その太もも。ふわふわとしたミニスカートは、もう少しで下着が見えそうだ。こっちが恥ずかしくなって、私はあわてて視線をそらす。
「おちょくるって、さくらんぼで?」
冷蔵庫を閉じると、背筋を伸ばして砺波ちゃんに首を傾げた。そういえば、デパ地下でもさくらんぼのことで曽良くんと盛り上がっていたな。一体、さくらんぼがどうしたというのだろうか。
「だって、夕べ、和幸とヤってないんでしょう? なら、まさにチェリーじゃない」
「チェリー?」
「『さよならチェリー』改め、『がんばれチェリー』よ」
ケタケタ笑って砺波ちゃんは私の横を通り過ぎ、部屋の中へと向かっていった。結局、さっぱり分からなかった。
「カーヤ、カーヤ!」
「!」
ベッドで昼寝していたはずの曽良くんの声がして、私は振り返る。曽良くんは砺波ちゃんと入れ違いに部屋からでてきて、私の元へかけよってきた。その手には……
「かっちゃんから、電話」
目を輝かせて曽良くんは私に携帯電話を差し出す。確かに、携帯は小刻みに震え、サブディスプレイには和幸くんの名前が表示されている。私は慌てて曽良くんの手から携帯を取ると電話に出た。
「バイト終わったの!?」
思わず、いきなりそんな質問を口にしていた。
「あ……ああ、そうだけど」
いけない。明らかに和幸くんは不審がっている。人数は少ないとしても、サプライズパーティなんだから。ばれないようにしなきゃ。
「今から、帰るの?」と、なんでもないかのように平静をよそおう。
「え? あ……いや、ちょっと寄り道してからな」
寄り道? 今から? 私は顔をしかめて、曽良くんにアイコンタクト。曽良くんは、どうしたの、と口パクで言ってきた。
「寄り道って、どこに……」
「悪い、電車来たから切るな」
「え!?」
電車? 確かに、言われてみれば駅のアナウンスのようなものが聞こえる。それに、騒がしい。
「あの、和幸くん、どこに行く……」
「とりあえず、バイトはクビになってないから。それを知らせようと思って」
「え、あ、うん」
段々と雑音がひどくなる。耳に刺さるような、鉄と鉄がこすれる音が聞こえてきた。電車が到着したのだろう。
「じゃあな」
「え!」
そして容赦なく、電話は切られた。私はあっけにとられて硬直する。お昼の電話のときと同じだ。なんだか……一方的すぎない?
「かっちゃん、どうしたの?」
曽良くんが小首をかしげて聞いてきた。私はゆっくりと携帯をおろしながら、首を横に振る。
「今から寄り道するって」
「寄り道? どこに?」
「聞けなかった」
詳しく聞いても怪しがられちゃうし。勘付かれたらサプライズじゃなくなっちゃう。でも、帰ってきてくれなきゃ始まらないし。難かしいなぁ。
「まあ、そのうち帰って来るんだし。のんびり待とうよ」
曽良くんはアヒル口をにぱっと開き、私の肩をぽんぽんと叩いた。曽良くんの笑顔を見ると気が和む。私は微笑して頷いた。
「ねえ、カヤ!」
今度は砺波ちゃんの声が部屋のほうからした。キッチンの用事はもう済んだし、私はコンロの火が止まっているかちらりと確認してから曽良くんと一緒に部屋に向かった。
和幸くんの部屋……男の子だというのにきちんと片付けられている。曽良くんが寝転がっていたせいでベッドはぐちゃぐちゃだけど。それ以外はきっちりしている。ベッドと向かい合うようにおかれた二人掛けソファも真っ白で汚れもないし。その間にある白い小さなテーブルも、新品みたいに光沢がある。A型……なのかな?
「なに、砺波ちゃん?」
「あんたのイケメンボディガードだけどさ」
砺波ちゃんは窓をほんの少し開けて、外を眺めていた。確か、あそこからは駐車場が覗けるはずだ。私は「望さん?」と答えを返しつつ、砺波ちゃんに歩み寄る。
「本当に、ずっとあそこで待ってるわけ?」
「うん」
私もちらりと駐車場を見下ろした。ベランダにでればもっとよく見えるのだが……何分、ベランダには得体の知れない大きな穴が開いていて、危なくて足を踏み出せない。ちょっと穴を覗けば階下のベランダがしっかり見える。一体、このベランダに何があったんだろうか。和幸くんに聞いても「老朽化だ」なんて説得力のない言い訳をされるし。
とにかく……今は、駐車場だ。砺波ちゃんと私の視線は、白い軽自動車と青いクーぺに挟まれた黒の高級車に注がれていた。マンションの駐車場で浮いた存在のその車には見覚えがある。おじさまの自家用車であり、今は望さんが私の送り迎えのために使っている車だ。昼間、砺波ちゃんたちとの待ち合わせ場所にもあの車に乗ってきた。そして今は、望さんが一人であそこに乗っている。じっと停車したままで。
「九時まで、ずぅっと?」
砺波ちゃんは、呆れたような、不審そうな、どちらともつかない表情を浮かべて私に言った。九時はおじさまから提示された私の門限だ。
「うん」それしか言えない。私だって居心地が悪い。ずっと望さんを一人で外に、それも車内に放っておくなんて。でも、これでも譲歩したほうなのだ。最初は、部屋の扉の前でずっと立っている、とまで言ってきた。それをなんとか、二階、一階、エントランス、そして駐車場……と交渉したのだ。
「ふうん。暇なイケメンね」
一体、興味があるのかないのか。結局、砺波ちゃんはそんな気がない返事をしてその場を去っていった。残された私は、再び視線を駐車場に停まる高級車へ向ける。
「椎名望、だよね」
「え!?」
背後からの声に私は驚いて振り返った。いつのまにいたのだろうか。気配を全く感じなかった。そこに立っていたのは、真剣な表情の曽良くん。その視線は私を超えて、駐車場へ向けられている。
二歩、三歩、と足を進め、彼は私の隣に立った。真面目な曽良くんの横顔は、かっこいいというより美しい。横を向いていると、高い鼻が特に目立つ。シルエットにしたら、間違いなく外国人に見えるだろう。まつ毛も長いし、肌は透き通るようにキレイだし……と、じっと見つめていると、茶色い瞳がいきなり私のほうへ向けられた。
「かっちゃんの言うとおり、嫌な感じだった」
「え……望さん?」
嫌な感じ? 私はつい渋い表情を浮かべていた。和幸くんが望さんのことを嫌っているのは知っている。曽良くんまで嫌いになっちゃったのかな。でも、二人は直接話したりはしていない。一応、遠目で望さんを紹介したけど、それだけだ。なのに、嫌な感じを受けたんだろうか。見た目かな? 髪型といい服装といい、遊び人のような様相なのは否定できないし。私だって、最初に望さんと会ったときは正直戸惑った。ボディガードにはとても見えなかったから。
すると、まるで私の心を読み取ったかのような曽良くんの質問が飛び出した。
「本当に、カーヤの護衛なの?」
「え!」と私は目をむく。後ろめたいことはないのになぜか慌てて言葉を続けた。「もちろん! 護衛だよ」
何を言い出すんだろう、いきなり。よっぽど曽良くんも望さんを嫌いになってしまったのだろうか。望さんも同性からは嫌われるタイプなのかな。
曽良くんは窓のふちに体をあずけ、睨むような視線を望さんの乗っている車に向けた。
「にしては……まるで守ろうとしているようには見えなかった。あれは、監視だ」
「どういうこと?」
独り言のような曽良くんの言葉を私は聞き逃さなかった。一歩足を踏み出し、曽良くんの顔を覗き込む。
「ねえ、カーヤ」彼の唇がゆっくりと動いた。そして、あの深みのある茶色い目が戻ってくる。
自分から覗き込んでおいて、いざ視線があったら萎縮してしまった。それほど、曽良くんの雰囲気はいつもと違った。この感じ……そう、なんとなくおじさまに似ている気がする。獲物を逃がさない――そんな肉食動物の気迫。
「もう少し、人を疑わなきゃだめだ」
「!」
思いもよらない言葉が曽良くんのアヒル口から飛び出していた。返す言葉が見つからない。なんでそんなことを言うの? 曽良くんからそんな言葉、聞きたくはなかった。
私たちはただ見つめあった。曽良くんの瞳は、私に的を絞って動かない。もちろん、相手は曽良くん。怖くはなかった。ただ、気圧されていた。蛇に睨まれた蛙。私はまさにそれだと思う。つい忘れてしまいがちだけど、彼もカイン――裏世界の『無垢な殺し屋』なんだ。
そんな張り詰めた雰囲気が私と曽良くんの間に漂う中、突如として甲高い声が響いた。
「やったー! エロ本みっつけたぁ。カヤ、こっち来て一緒に読もうよ」
な……なにやってるの、砺波ちゃん? 一瞬で緊張の糸がきれた。ぎょっとして砺波ちゃんに振り返る。彼女の手には、古ぼけた妖しげな本が。表紙には、扇情的なポーズをとる裸の女性。それが分かった途端、顔から火がでそうになって、慌てて私はまた窓のほうに顔をやる。――今度はさっきとは全く別の理由で。
もう、なんてものを見つけちゃうの、砺波ちゃんは。読みたくないよ。
「ほらね」
眉を曇らせる私に、穏やかで柔らかい声が投げかけられた。いつもの曽良くんの声色だ。振り返ると、曽良くんがフッと微笑んでいた。
「人は信用できないでしょ」
「……」
冗談めいた一言。それが、破廉恥な本を持っていた和幸くんに対するものか、それを掘り出した砺波ちゃんに対するものか、私は分からず苦笑した。