今彼の役目
「なんで、俺にこんな話をした?」
しばらく黙り込んでから、和幸はそう尋ねた。リストはそれまで強張らせていた表情をやわらげ、へらっと笑ってみせる。
「それはほら、元彼のトラウマを消してやるのが、今彼の役目というか」
「だから、俺にわざわざ話したってのか?」和幸は唇の片端をあげ、リストを睨む。「冗談はいい」
真面目なんだから、とリストは肩をすくめてため息をついた。適当にごまかせそうにはないな。リストは、口元から笑みを消す。
「まさか、封じられた記憶が蘇るとは思えません。追放されたといっても、女神ティアマトの力はそこまで甘くはない。なんせ、神々を生み出した母ですからね。本来、最も偉大な神なんですよ」
声のトーンを高くしてそう言うと、リストは腰を上げた。よいしょ、とわざとらしくつぶやいて、腰を叩く。
「だけど、夕べの『人形』の言動からして……はっきりとではないにしても、無意識下で彼女は過去を思い出してしまった。そうとしか考えれない」
まるで、カヤの言葉をその場で聞いたような口ぶりだな。和幸は苦笑した。こっそり人に天使をとり憑かせて盗み聞きしたというのに。
嫌味の一つでも言ってやろうか、と和幸が口を開けたときだった。ふと、リストは独り言のようにつぶやいた。
「愛する人に殺された記憶……それは、神の力をもっても消せない傷なのかもしれない」
いつもふざけているだけのように見えるリスト。だが、たまに的を射たことを言う。和幸は視線を落とすと、そうだな、とつぶやいた。
部屋に重い空気がたちこめ、時計の針が時を刻む音だけが響いた。その音に耳を傾け、和幸は自分が何か大事なことを忘れているような感覚に陥った。自分は急いでいたのではなかっただろか。
「和幸さんにクバティムの話をしたのは、その傷を癒してほしいからです」
突然、そんな重い言葉が頭上から降ってきた。は、というすっとんきょうな声が口から漏れる。振り仰ぐと、リストが真剣な顔でこちらを見下ろしていた。
なんでお前がそれを頼む? 和幸には、リストの考えていることが全く理解できなかった。カヤは人ではない、カヤは死ぬべきだ、などと冷酷なことを散々言っておきながら、彼女を気遣っているようなことを口にする。一体、何を考えているんだ。
リストは窓の外に目をやり、前髪を左手でかきあげた。南中に近づきつつある太陽の光が、あたりのマンションを照らしている。
「彼女には、せめて人間である間だけでも、幸せでいてほしい。普通に暮らせる貴重な時間を、余計な不安で無駄にしてほしくないんです」
確実に、カヤを殺す前提で話している。ろうそくの火ほどの希望も無いかのようだ。和幸はその言い方が癇に障ったが、文句が口から出てこなかった。――あまりにも、リストの表情が苦しそうで。
「リスト、お前本当は……」と、和幸が言いかけると、リストはすばやく視線を戻して微笑んだ。
「ってわけで! また、夕べみたいなことがおきたら、そのときはお願いしますね。
キスなり押し倒すなり、今彼の権力を行使して、忘れさせてあげてください。和幸さんのテクに期待してますから」
気づけば、いつものリストのへらへら顔だ。和幸は調子を狂わされ、顔をしかめた。真面目になったかと思えば、いきなり冗談を言い出す。いつまでたってもつかめない性格だ。
「お前な……」呆れてため息混じりにそうつぶやく。その続きは自分でも分からなかったが、考える必要もなかった。リストは無邪気な笑顔を浮かべると、すぐさま穏やかな声で諭すように和幸に告げた。
「彼女の過去の傷を消せるのは、神じゃない。やっぱ、今彼の役目なんですよ」
***
「遅いなあ」
私はつぶやいてあたりを見回す。さすが若者の街。交差点まで、びっしり人だかりだ。日曜日だしな。中学生くらいの子もミニスカートであたりを闊歩している。つい、その足を目で追いかけてしまう。砺波ちゃんに負けないくらいの丈の短さ。見ているこっちが顔を赤くしてしまいそうだ。やっぱり、男の人はああいう服装が好きなのかな? ――和幸くんも?
ううん、と私は自分が着ている服を見下ろす。一応今夜のことを考えて、一番気に入っているワンピースを着てきたんだけど……丈は膝下まであるし、胸元も特に開いているわけでもない。これじゃ、だめなのかな。女らしくない? そういえば、和幸くんの好きなタイプってどんな女性だろう? やっぱり、色気のある子がいいのかな? それとも、かわいらしい子?
首を傾げて考えている私を、通り過ぎる人たちがちらちら変な目で見てくる。ショッピングモールの入り口で突っ立っている私は、それでなくても目立っている。私は恥ずかしくなってうつむいた。
それにしても……お昼が近づいてきたからだろうか。カップルの姿がよく目に付く。今から、ランチなのかな。いいなぁ。こんなこと、和幸くんには言えないけど、私も本当はもっとデートしたい。待ち合わせして、買い物して、ご飯を食べて、映画を見て……そういう普通のデートがしたい。でも、平日は学校だし、休日は和幸くんはバイトだし。のんきに昼間から私と遊んでいる時間はないよね。
それに……と、少しはなれたところで壁にもたれかかって立っている男性を見つめた。タイトなジーンズのせいか、いつも以上に足が長くみえる。スタイルもいいし、顔もかっこいい。服装と髪型のせいでちょっと遊び人にも見えるけど、目鼻立ちの整った正統派の美形だ。肩まである髪をばっさり切ったら、爽やかな好青年に生まれ変わることは間違いない。ホストにも見える彼は、何を隠そう私のボディガードだ。こうやって、いつも遠くから私を見守っていてくれる。――和幸くんとのデートのときも。
私は、はあ、と一つため息をついた。どうして、付き合ってからのほうがややこしくなっているんだろう。私はただ、和幸くんと一緒にいたいだけなのに。
「!」
そのときだった。ハンドバッグから振動が伝わってきた。携帯電話だ。私は慌てて取り出し、ディスプレイを見て目を丸くする。
「和幸くん!?」
噂をすれば、というやつだろうか。でも、この時間帯は……不思議に思いながらも、携帯を耳に当てた。
「もしもし?」
「……よう」
『よう』? なんだか、不自然な返しだ。私は戸惑いつつも「よう」と真似をした。
「どうかした、和幸くん?」
「あ、いや……」
「?」
電話くれて嬉しいけど、様子が変だ。そもそも、今電話があるのはおかしい。
「何かあった?」
おそるおそる尋ねると、和幸くんは恥ずかしそうに答えた。
「声が、聞きたくなって」
「!」
ドクン。心臓が飛び跳ねた。古典的だけど、効果抜群だ。一気に体が熱くなった。
「わ、私も」と、慌てて返事をする。「会えなくて、さびしい……」
周りに聞こえないように小声で言ってうつむいた。暇をしている左手に目をやると、薬指に輝く何の変哲も無い黒い石が視界に入った。私の、大切な『婚約指輪』。これに小型カメラが隠されているとは、誰も思わないよね。
「そっか」
上擦ってる。私はつい噴出してしまった。照れてるの、声だけでも分かるよ。
それにしても……電話くれたのは嬉しいけど、気になることが一つ。私は遠慮がちに尋ねる。
「バイト中に電話して、怒られないの?」
「へ?」
へ? その間の抜けた反応はなんだろう?
「今、バイト中でしょ?」
「……」
するとやや間をあけて、和幸くんの悲鳴にも似た声が聞こえてきた。
「やっべぇ!」と言う声と、ガタガタと何かにあわただしくぶつかる音がした。「悪い、また電話する」
「あ、じゃ、バイト終わったら……」
「ああ、じゃあな」
ぶちっと容赦なく電話は切れた。なんだったんだろう? 私はぽかんとして、携帯を下ろした。分かることと言えば、どうやら彼はバイトのことを忘れていたということ。でも、普通忘れるかな? バイトがある、と言ってあわただしく帰って行ったのに。それに……急に、声が聞きたい、だなんて。もちろん嬉しいけど、今朝会ったばかり。何かあったのかな?
「カーヤ!」
タイミングよく、聞き覚えのある明るい声がした。私はハッとして、声のしたほうに振り返る。
交差点からこちらへ走ってくる二人がいた。高い鼻に、色白の肌。そして、愛嬌のあるアヒル口。ニホン人離れした顔立ちの少年だ。そして、もう一人。ゆるいウェーブのかかった髪に、あどけなさの残る愛らしい顔の少女。――曽良くんと砺波ちゃんだ。
「ごめんね、カヤ」
私のもとに来るなり、砺波ちゃんは息をきらせてそう言った。その隣で、汗ひとつかいていない曽良くんは不機嫌な表情を浮かべている。
「恩を仇で返しマンが現れたんだよ」
「え?」
恩を仇で……なに? 会って早々、曽良くん節が炸裂みたいだ。
「わたしまで巻き込まれたんだから! なんで朝っぱらからコフィンタワーに行かなきゃなんないのよ。辛気臭っ!」
そして、砺波ちゃんもいつもの彼女にはや戻り。さっき浮かべていた申し訳ない表情はすっかり消え去っている。おそらく、砺波ちゃんの中では一度謝ればチャラなんだろう。
にしても、何に怒ってるんだろう? コフィンタワーにかかわること?
「あんた一人でとりに行けばよかったのよ」と、砺波ちゃんは曽良くんのふくらはぎに勢いよく蹴りをいれた。ローキック?
曽良くんは顔色一つ変えずに、ええ、と悲しそうに声をあげる。相当強く蹴られたようにも見えたけど……全然痛くなさそう。見ているこっちのほうが悲鳴をあげそうになった。
「電車よりトミーのバイクのほうが早いじゃんか」
殺し屋とは思えない弱弱しい声で、曽良くんは嘆くように砺波ちゃんに反論した。まるで、尻にしかれている夫みたいだ。私はただ唖然として、二人の口論を見つめていた。
砺波ちゃんは曽良くんに体を向け、腰に手をあてがう。
「カヤを待たせた罰として、今日一日、荷物もちね」
「ええ!? トミーだって遅れたんじゃないか」
「あんたのせいで遅れたんでしょ」
これ以上の抵抗は無駄だ、と思ったのか、曽良くんはがっくりと肩を落とした。「恩を仇で返しマン」と、消え入るような小さな声が聞こえてきた。なんだか、小学生みたいなやりとりだ。懐かしくさえ感じる。
私が苦笑していると、曽良くんが悔しそうな表情で私を見つめてきた。
「カーヤ、どういうしつけしてるのさぁ」
「し、しつけ?」
何の話? 私も、何か関係しているの? 左手で髪を耳にかけながら、私は眉をひそめた。すると、「あれ!?」という甲高い声が左耳を貫いた。それが砺波ちゃんだと私が判断するより先に、彼女は私の左手首をつかんで自分のほうにひっぱる。
「この指輪!」と砺波ちゃんは、目を丸くして叫んだ。その視線は、薬指の指輪に釘付けだ。
あ、そうか、と私は照れ笑いを浮かべる。まだ、砺波ちゃんに言ってなかった。実は、誰かに言いたくて仕方なかったんだ。のろけ話だ、と呆れられるかもしれないけど……構わない。話したい! 私はきっと満面の笑みを浮かべていたと思う。
「これね、和幸くんに……」そこまで言ったときだった。
「ダサくない!?」
砺波ちゃんが、あからさまに不快な表情を浮かべてきっぱりと私にそう言った。