太古の元彼
驚いた。いきなり、和幸さんは乗り気になったんだから。腰をすえて聞こう、てか? 話しやすくて助かるけど、不気味だ。なんで急に?
「クバティムは、物静かで優しくて温和で……凛々しくも美しい人だった」
隣で、ケットが懐かしむようにそうつぶやいた。和幸さんは、え、と目を丸くしてケットを見つめる。
「会ったこと……あるのか? 何千年も前なんだろ?」
「そりゃそうですよ」と、オレはケットの代わりに答える。「ケットは『聖域の剣』に宿る天使。神々が地球を去ってからずっと、マルドゥクの王から王へと引き継がれてきたんです」
褒めているわけではないのだが、ケットは嬉しそうに、えへへ、と頭をかいた。
「そうか……本当に天使なんだな」
ぽつりと和幸さんはそうつぶやいた。ケットが天使だということを信じてなかったわけではないだろう。改めてそう実感したんだな。
「クバティムとシュ・シンは、とても仲が良かったんだよ。シュ・シンは無愛想でこわい人だったけど、クバティムにだけは笑顔を見せていた」
おいおい、ケット。元彼の話をするときは注意しないと。といっても……と、オレはちらりと和幸さんに目をやる。予想通り、嫌な顔はしていない。和幸さんは、クバティムと神崎先輩(今は本間先輩か)が同一人物だ、といまいち理解できていないんだろう。まだ、説明してないしな。
とりあえず、これ以上ケットに自由に話させるのはよくないな。きゃっきゃ、きゃっきゃ、と思い出話を始めそうだ。どうせ行き着く先は、悲しい結末なのに。だったらせめて、さっさとその結末を話してしまおう。
「ただ」と、オレは和幸さんを真っ向から見つめて切り出す。「シュ・シンは、知ってしまいました。自分の妃が、国を……世界を滅ぼす人形だ、ということを。ある日、突然ね」
「ケットもその場にいたの。シュ・シンはひどくうろたえて、見ているこっちがつらかったよ」
ケットは悲しそうにうつむいてしまった。全てを覚えている、というのも考えものだな。忘却も、神が人に与えた尊い贈り物なのかもしれない。記憶が脆く儚く、そして曖昧だからこそ、人は生きていける。それも人間の強さ。そんな気がした。
「その気持ち、たぶんよく分かるな」
和幸さんが、鼻で笑ってそうつぶやいた。オレはハッとして、目の前の人間を見つめる。何かを思い出しているのだろう、視線を落としてじっと黙っている。
ああ、そうか、とその様子を見て気づいた。この人もまた、パンドラを愛する人間。同じ経験をしたんだよな。というか、オレがさせてしまった。まあ、神崎カヤの正体を明かしたとき、この人が彼女をどう思っていたのかは分からないけど。特別な感情を抱いていたかは定かではない。それでも、今となっては……シュ・シンと同じ。世界を滅ぼす女を愛してしまったんだ。
嫉妬云々という問題じゃないのかもしれない。彼女の抱える問題を元彼がどう対処したのか……和幸さんにとって気になるのは、そっちかもな。残念ながら、参考にはならない話なんだけど。
「その事実を知ってまもなく」とオレは、更なる昔話の口火を切る。「『収穫の日』が来て……マルドゥクとニヌルタは『テマエの実』をめぐって決闘をしたんです。それが、しきたりですから」
そう、本来の『収穫』はそうやって行われるべきものなんだ。『災いの人形』の十七の誕生日、『パンドラの箱』を前に、マルドゥクの王とニヌルタの王が決闘し、勝者が『テマエの実』を手に入れる。シンプルなルールだったのに……アトラハシスのせいで、今回はそうはいかなくなってしまった。
「それで、どっちが勝ったんだ?」
緊張の面持ちで、和幸さんは聞いてきた。前まで、マルドゥクって? ニヌルタって? といちいち尋ねてきたのが嘘のようだ。すっかり巻き込んでしまったんだな。しみじみ思った。
「勝ったのは」と気を取り直し、オレはつぶやく。「ニヌルタでした」
「!」
思ったとおりの表情だ。期待が裏切られたかのような顔で、和幸さんは黙り込んだ。クバティムと神崎先輩の関連性を完璧には理解してないまでも、二人が同じ『災いの人形』であることは分かっている。それだけで、太古の昔に生きた女でも、感情移入してしまうんだろう。この人は本当に……まっすぐな人だ。
「ち、違うんだよ!」
「え」
唐突に声を高らかにあげたのは、他でもないオレの守護天使だった。慌てた様子で、和幸さんに向かって首を横にぶんぶん振っている。
「ティティは、戦いとか……向いてない女の子で、無理して剣を持っていたんだ。だから、ニヌルタに力負けしちゃって、でも、がんばったんだよ」
「ティティ? 誰?」と和幸さんは苦笑する。
やれやれ。もう少し、空気を読めるようになってくれなきゃな。見た目だけじゃなくて、中身も子供なんだから。オレはケットの頭に手をのせると、ため息混じりに和幸さんに答える。
「当時の、マルドゥクの王です。つまり、昔のケットの主。オレのオリジナルの先祖。ティティ・マルドゥク」
「ああ……そういうことか」
そういうことです。まったくもう、大昔に死んだ奴をこんなとこでかばっても仕方が無いだろうに。オレはため息混じりに苦笑した。
「ケットは一回休み」
そう言って、ぽんぽんとケットの頭を叩く。「ええ!?」という声だけ残して、ケットは光の粒子に分散して消え去った。
「それで」と、ケットの姿が消えるや否や、すぐさま和幸さんが話を促してきた。「ニヌルタが勝ったってことは、『テマエの実』は」
「はい。クバティムは、『テマエの実』を食べました」
オレの言葉を聞き、和幸さんは腹でも痛いかのような、苦い表情を浮かべた。参考にならない話で申し訳ない。オレは心の中でそうつぶやく。オレはこの人がすがっている希望を知っている。『テマエの実』を食べなければ、パンドラは人間として生きられる。それだけを信じて和幸さんは『収穫の日』に備えている。なんて虚しい望みだ。同情してしまうよ。でも……それは他でもない、オレがこの人に与えた最悪な贈り物。――我ながら、オレは神の一族失格だと思う。
和幸さんは数学の難問でも解いているかのような怪訝な表情で口を開く。
「クバティムは『テマエの実』を食べた。でも、世界はこうして滅んでいない。ってことは、ティティって女――マルドゥクの先祖が、ちゃんと殺したんだな。あの剣で」
ちゃんと、ね。考えすぎかもしれないが、精一杯の嫌味に聞こえた。
でも、違うんですよ、和幸さん。もしそうだったら、オレはわざわざ話しに来ていない。クバティムが迎えた最期。それこそ、オレが彼に伝えたかったことだ。クバティムは、他のパンドラとは違う稀有な運命をたどった。だからこそ、オレたちの間ではよく知られているパンドラなんだ。彼女こそ、パンドラが『災いの人形』と呼ばれるようになった所以。パンドラの逃れられない哀しき終焉を象徴する人形。
オレは声を落としてある質問をする。
「ケットから聞いたんですが……夕べ、『人形』はひどく取り乱したそうですね」
いきなりなんだ、と和幸さんは目を丸くした。
「殺さないで。そう泣きながら訴えた、て」
すると、和幸さんは顔を曇らせた。頼むから、ここにきて「放っといてくれ」とか怒り出すのはやめてくれよ。その件はもう終わらせたんだ。今はもうからかう気分じゃない。
そんなオレの心配を見事に裏切り、和幸さんは「ああ」と答えてくれた。部屋の入り口のほうを見つめ、夕べのことを思い出すかのように目を細めた。
「最初は、正反対のことを言ってた。自分が悪魔だったなら、俺に殺してほしい。そう言ってきたんだ。でも、急に泣き出して…… 」
そこで言葉を切ると、こちらに視線を戻す。
「何か、関係あるのか?」
「大有りです」
ケットからその話を聞かなければ、オレは和幸さんにクバティムの話をしようとは思わなかった。