砺波のプライド
それは、教会の扉を開けたときだった。ギイッと重い音が教会に鳴り響き、光が差し込んでくる。いきなり飛び込んできた光に和幸が目を細めると、後ろから慌しいハイヒールの音と甲高い声が聞こえてきた。
「ちょっと、和幸!」
ハッとして振り返ると、砺波がウェーブのかかった黒髪を揺らして駆けてくる所だった。さっきまで自分をおちょくっていた少女と同一人物とは思えない、真剣な表情だ。
「どうした、砺波?」と、和幸は振り返る。
「金曜のオークションのこと」
砺波は、和幸の前で立ち止まると、姿勢を正す。
「曽良は言わないだろうから、私から言っとこうと思って」
「何を?」
「今ね、『おつかい』は全部休止中なの。ほら、パパが入院中だからさ」
和幸は、ハッと目を丸くした。そういえば……と、藤本の言葉を思い出す。
――入院している間は、『おつかい』は中断しなくてはならないな 。
確かに、そう言っていた。うっかりしていたな、と頭をかく。
砺波はそれを気にする様子もなく、腰に手をあてがい困ったような表情を浮かべて話し出す。
「だから、ここ最近は誰も『迎え』には行ってないのよ。三神さんも今バケーション中で、情報も全くはいってこない状況だし。実質、カインノイエはなーんにもしてないわ」
三神がバケーション中。それは初耳だ。和幸は、顔をしかめた。
三神さんといえば……と、密かに尊敬していた裏の『青年実業家』を思い浮かべる。まだ二十代とは思えないほどの世渡り上手。依頼をそつなくこなす敏腕情報屋。いつも平然とした表情で忙しさを微塵も感じさせない。そんな彼が休暇をとるとは意外だった。何かあったのだろうか、と心配にさえなる。
「そう、だったのか」と、和幸ははっきりしない口調でつぶやいた。そういえば、カインを辞めた今、彼と会うことももう無いのかも知れない。そう思うと、感慨深くなる。
「あんたとは、長い付き合いだし、分かるのよ」
「ん?」
「あいつは徹底して、あんたをコッチから引き離すつもりみたいだけど……そんなの、どうせ逆効果でしょ」
砺波は顔をそむけると自分の髪をいじりだした。口をとがらせ、いじけているようにすら見える表情だ。いつもと少し雰囲気の違う砺波に、和幸は目をぱちくりさせる。なぜかむっとしている表情も、いきなり小さくなった声も、かわいらしくさえ感じる。これが初対面だったら、素直に可愛いと思えたのかもしれないが、砺波の素を知っている和幸には、不気味なだけだ。
「砺波?」と機嫌をうかがうかのように、恐る恐る声をかける。「何の話だ?」
「何も言わなかったら」唐突にいつもの砺波に戻り、和幸に怒鳴るように言い放った。「あんた余計に気にするでしょ! 危なっかしいのよ、脳みそのない猪みたいで」
「!」
なんで、今度は怒り出したんだ。和幸は思わず後ずさり、顔を引きつらせる。砺波の激しい感情の起伏はいつものことだが……いつまでたっても慣れない。
「だから、勘違いしないでよ」と砺波は、頬を赤らめて言いづらそうにつぶやく。「私だって、気持ちは曽良と同じ。あんたは今、部外者なんだから。余計なことはしないで。迷惑だからさ」
「……砺波」
あぁ、そういうことか。和幸はやっと安心して、肩の力を抜いた。実に、砺波らしい言い方だ。和幸は、懐かしむような表情で目を細めた。どうやら自分は、自己チュー女にまで心配をかけているようだ。
曽良は情報を隠し、砺波は事情を伝えた上で釘を刺しにきた。二人とも各々のやり方で自分を気遣ってくれている。はっきりとした言葉がなくとも、彼らの曲のある優しさは十分伝わってくる。
「……分かってるよ」
和幸は微笑して、そうつぶやいた。
カインを辞めたことに対して、罪悪感があった。どうやら彼らは、それにしっかり気づいていたようだ。だからこそ、わざときつい言い方をしているんだろう。役立たずだ、とか、迷惑だ、とか――気にするな、と言われるよりずっといい。優しい言葉は、今の自分には余計につらい。そんな幼稚な心情を分かってくれているんだ。和幸は、改めて自分は恵まれていた、と実感する。
「……」
そんな感傷にひたっている和幸の前で、砺波は何かを言いたそうに口をもごもごとさせていた。
ずっと言いたかったことがあった。でも、どうも自分の性格がそれを許さない。それを自覚するのも負けるような気分で、気に食わない。だから、ずっと気づかないフリをしてきた。いや、本当に気づいていなかった。――ある女の子が、自分の服を着て『実家』に現れるまでは。
商業用のクローンではない砺波は、普通の少女だ。身体能力もそこらの女子高生と変わりはしない。そんな彼女は、和幸や曽良たちと違って、下手をすれば足手まといになりかねない。だから、どうしても強くならなきゃいけなかった。フリでもいい。自分を強く見せなきゃいけないと思っていた。何より、そうやって自分を騙したかった。自分は強いから大丈夫だ、と言い聞かせて乗り切ってきた。だから、必死に弱みを隠してきた。――この幼馴染以外には。
気づくと、何かある度に彼の部屋に泊まりに行っていた。気軽に駆け込める避難所だった。砺波は、最も記憶に新しい事件を思い浮かべる。『おつかい』の最中、曽良を誤って撃ってしまったときのこと。藤本にこっぴどく叱られ、夜通し和幸の部屋で泣きじゃくったものだ。
自分が涙を見せるのは、後にも先にも、こいつだけだ。砺波は、いつの間にか自分の背を追い越していた幼馴染を見上げる。
「私を……」と、砺波はやっとのことでつぶやく。自分でも嫌になるほどか細い声だ。すると和幸は、やはり聞きにくかったのだろう、耳の遠い老人のようなとぼけた顔で、「え、なに?」と言ってきた。
まったくこいつは。砺波は出鼻を挫かれ、苛立ったため息をついた。――やっぱ、私には向いてない。心の中でそうつぶやくと、気を取り直し、いつもの調子で言い放つ。
「私ら家族を捨てるんだから……ちゃんと、幸せになってよね」
「え」
出てきたのは、砺波自身も驚くほど、素直な言葉だった。和幸は唖然として、まるで体調でも心配しているかのような目で見てくる。砺波は居心地が悪くなり、目をそらすと「カヤ、いい子だしさ」と、ごまかすようにつぶやいた。
すると和幸は、照れくさそうに微笑んでうなずく。
「それも、分かってる」
「……」
自分が褒められたかのような自慢げな顔だ。砺波はその鼻をへし折りたくなった。それを防ぐように腕を組むと、それで? と平然を装い、和幸をにらむ。
「その自慢の彼女から、靴は受け取ったわけ?」
「は? 靴?」
「とぼけないでよ。めんどうくさいわね。
クリスマスパーティの靴よ。夕べ、渡されたでしょ?」
それはつい昨日のこと。砺波は、初デート前のカヤに靴を手渡していた。実行委員会が指定した、シンデレラの靴だ。もちろん、ガラスの靴とはいかなくて、シンプルな銀色のパンプスに落ち着いたのだが。
だが、和幸は全くピンと来ていないようで、眉をひそめて首をかしげた。
「……いや。何の話だ?」
***
成田空港の到着ロビーに、バックパックを背負う一人の少年が呆然と突っ立っていた。窓ガラスに囲まれた長い廊下に、ガラガラとスーツケースのタイヤの音が鳴り響き、荷物の到着を知らせるアナウンスが何度も何度も繰り返される。新天地に胸を躍らせる人々、終わりを告げた休暇を悲しむ人々、久方ぶりの再会に声をあげる人々。そんな中で、彼はたった一人、途方にくれていた。
「トーキョー……どこだろう」
そうつぶやいて、カールがかった栗色の髪をくしゃくしゃとかく。
――下調べはしなかったの? ユリィ。
どこか、呆れたような声がユリィの頭に響く。それは紛れもなく、彼の守護天使の声だ。
「うん。忘れてた」
うっかり、と言う言葉ではすまされないだろう。天使――ラピスラズリは、ため息をついた。
――エミサリエス同士は、気配で互いの存在を確認できます。ただ、ある程度、近い距離でないと。
それは知っている。ユリィは心の中でそう答えた。エミサリエスがお互いの気配を感知できることは、話に聞いていた。だからこそ、彼はわざわざ博物館に侵入して指輪を盗み出したのだ。タールを見つけるには、天使の助けが必要だ、と確信したから。
「まあ、『収穫の日』まで時間はあるし」
――ありませんよ。のんきなことを言っている場合では……
「でも、お金がなければ、生きていけないもの」
その言葉に、ラピスラズリは絶句した。まさか……とは思うが、詳細を聞くのが恐ろしい。永遠とも思える長い経験の中で、こんなに自分を心配させる主人は初めてだ。
――あの、ユリィ。お金、もう残っていないのですか。
すると、ユリィは顔色一つ変えずにうなずく。
「飛行機代で全部なくなったから。まずは、どこかでバイトを探そう」
――計画性がなさすぎますよ、ユリィ!
当然、ニホンについてからの滞在費もろもろを計算にいれて、金を稼いでいたのかと思っていた。それくらいの常識的な考えはできるだろう、と高を括っていた。どうやら、買いかぶりすぎていたようだ。ラピスラズリは、嗚呼、と嘆いた。
――そう簡単に、また仕事が見つかるとは思えませんよ。それも異国の地で。
「大丈夫。なぜかオレの言うことは皆、聞いてくれるから」
それは……と、ラピスラズリは言葉をつまらせる。もちろん、ユリィもそのトリックは知っているのだろう。彼に眠る神の遺伝子が持つ、偉大なる力。人間の本能――創造主への忠誠心に訴えかける力。神の一族はそれを使って人間の意志に干渉することができる。あまりに強い意志は変えることはできない、といわれているが、ささいなことならその力で人間の心を操ることができる。バイトで雇ってくれ……そんな命令なら、いとも簡単にできてしまうだろう。とはいえ、そんな尊い力を小遣い稼ぎに平気で使ってしまうのだから……
――なんて、恐れ多い……もう好きになさい、ユリィ。
「うん、好きにする」
言って、ユリィはのろのろと歩き出した。
異端児……ラピスラズリは、ふとそんな言葉を思い浮かべていた。新たな主にふさわしい言葉に思える。地球に存在する二つの神の一族。ユリィ・チェイスは、その一つ、ニヌルタ一族の子。――それなのに、どこか……人間じみている。ラピスラズリはそんな印象を受けていた。呆れることも多いが、興味深い子。これも神の遺伝子のせいかもしれないが、理屈では説明できないカリスマ性を彼から確かに感じていた。今から何かをしでかそうという革命家の、静かなる炎。ユリィのぼうっとした性格は、それを隠すためのオブラートにすぎないのかもしれない。
いえ、とラピスラズリは呆れた。さすがにそれは、天使の贔屓目か。
「早く、サムライに会いたいなぁ」
ぼそりとユリィは冗談とも本心ともつかぬ言葉をつぶやいた。