ナルコレプシー?
「そしたら……急に、眠っちゃって……」
カヤは暗い部屋で、携帯電話を耳にあてていた。隣には、仰向けでベッドに倒れている和幸がいる。心配そうに彼を見つめながら、カヤは電話の向こうにいる人物に話しかける。
「そういうことって、あるんですか?」
電話の相手は、しばらく黙った。カヤは、緊張の面持ちで返事を待つ。
「つまり」と、呆れたような声が聞こえてくる。「俺に、そういう経験があるのか、知りたいわけだ?」
カヤは、苦笑いを浮かべた。まさに、それを聞きたかったのだ。
「俺はないな。やってる最中に、急に眠るなんて」
「や、やってる最中じゃないです!」
相手は電話の向こうだというのに、カヤはあわてて手を横に振った。顔が一気に赤くなる。
「でも……ブラをはずされた後、て言わなかったか? やろうとしてたんじゃないの?」
「あ……それは、その……そうなんですけど……」
カヤは無意識に正座になって、うつむいていた。やる、という表現にどうも抵抗があった。――だからといって、他にどんな言い方があるかも分からないのだが。
「もしかしたら、興奮しすぎて気を失ったのかもね」
「え?」と、カヤは顔を上げる。「そういう経験、あるんですか」
「……ないよ」
ため息交じりの声が聞こえた。どうやら冗談だったようだ。カヤは、あちゃ、とひきつり笑顔を浮かべる。
「まさかとは思うけど……ナルコレプシーかもしれないな」
カヤは、は、ととぼけた声をだしていた。
「ナルコ……え?」
「ナルコレプシー。居眠り病、ともいわれる、睡眠障害だ。睡眠発作といって、急に眠ってしまう症状もあって……」
カヤは話についていけず、ぽかんとする。それを悟ったのか、電話の相手は「とにかく」と話をきった。
「どうやっても起きないようなら、病院に連れて行ったほうがいいかもしれない」
「そう、ですよね」
今度はカヤがため息をつき、和幸を心配そうに見下ろした。
「それで、月曜日なんだけど」と、電話の向こうの声はトーンを変えて言う。「この前話した通りで大丈夫?」
「あ、はい」
カヤはハッとし、微笑んだ。
「会えるの、楽しみにしてます」
「……」
かすかだが、鼻で笑ったような音が聞こえ、カヤは首をかしげる。
「どうかしました?」
「いや……あんなことがあったってのに……電話はしてくるし、会いたがるし。君は変わっているよ」
その言葉に、カヤは微笑を浮かべる。
「話さなきゃ、分からないこともあると思って」
「え?」
そのときだった。和幸の手がぴくりと動くのが、目に飛び込んできた。カヤは、あ、と声をあげる。
「あの……起きるかも!」
「そうか、よかったな」
「夜更けに、すみませんでした」
慌てて早口でそう言い、「ああ」という声を聞き届けてから電話をきった。両手をベッドについて、和幸の顔をのぞきこむ。
「和幸、くん?」と、カヤはおそるおそる声をかける。すると……
「ティアマト」
彼は、目をつぶったまま、そうつぶやいた。
***
「ティ、ティアマト?」
なんだろう、それ? 聞き違いだろうか。首をかしげていると、和幸くんの目がゆっくりと開いていく。私は、思わず前のめりになった。
「和幸くん!」
眠たそうな目で、和幸くんは私を見つめてきた。何度か瞬きをして、不思議そうな表情を浮かべる。
「……カヤ」
名前を呼ばれただけで、こんなに胸がきゅんとするなんて。私は頬を緩め、愛おしく彼を見つめる。
「大丈夫?」
「あれ……俺……」
まだまだ眠そうな顔。やっぱり、単に眠気が急にきただけなんだろうか。和幸くんはゆっくりと体をおこす。その動作も、だるそうだ。
「寝てたのか?」
前髪をかきあげながら、和幸くんは聞いてきた。
「うん」と、私は苦笑して答える。
「……いつのまに……あ?」
和幸くんは、いぶかしげな表情で自分の上半身を見下ろした。
「なんで、裸……」
「へ」
そう、和幸くんは上半身裸。それはそうだ。だって……これからだったんだから。それにしても、この様子……寝ぼけて、何があったのか覚えてないのだろうか。
ふと、和幸くんはぼうっと私を見つめてきた。その視線は、ゆっくりと顔から体へ向けられる。ボタンをしめず、羽織っているだけのシャツ。私は下着も素肌もさらけだしていた。あ……と、私はそれを思い出し、慌てて下着を隠すようにシャツをひっぱる。今さら、だけど……改めてまじまじと見られると恥ずかしい。
「……あ……」
聞いたことも無いような情けない声をだし、和幸くんは表情を変えた。
「俺……ええ!?」
急に目が覚めたかのようにハッとして、和幸くんは頭をかかえる。
「やってる最中に寝たのか!?」
「……」
また、やってる、か。その表現、なんとかならないのかな。私は何も答えずに苦笑した。
***
「ど、どこまで……その、どこまで……?」
ありえない。大失態もいいとこだ。あんなに強引に抱こうとしといて……寝たのか、俺は!? 最悪だろ。
「覚えてないの?」
カヤは遠慮がちにそうたずねてきた。覚えて……は、いる。でも……
「外したとこ、までは……覚えてるんだけど」
具体的に、何を、とはいいづらい。だが、カヤには伝わったようで、胸元をぎゅっとおさえた。
「それなら」とカヤは顔を赤らめて苦笑する。「和幸くんは、全部覚えてるよ」
「……」
嘘だろ。一体、どう間違えば……そんな大事なとこで眠りにつくんだ!? せっかく、うまく外せた……あ、いや……とにかく、男として失格だ。俺はカヤと目もあわせられず、がっくりと肩をおとした。
「気にしないで」と、カヤの明るい声が聞こえてくる。はは。余計に、へこむ。「よくあることだよ」
いや、絶対ないだろ。今の俺には、カヤの気遣いがつらい。
にしても……なんでいきなり? 眠気なんてなかった。そもそも、あんな状況で眠くなるわけが無いんだ。それに……と、俺は頭をかかえる。
なにか……大事なことを忘れている気がする。とてつもなく、重要なこと。寝ている間に……何かあった気がする。いや、でも……寝てる間に何が起きるっていうんだ? 夢? 夢を見ていた? なんの? 思い出せない。記憶にもやがかかっているみたいだ。なんなんだ、一体?
「ねぇ、和幸くん」と、カヤはさっきとは違い、真剣な声で呼ぶ。なんだ? って振り向くのが恐ろしい。これ以上、フォローされたら俺は立ち直れなくなりそうだ。といって、最低! と言われても、それはそれで……
「ティアマトってなに?」
「!」
ティアマト? 俺は眉をひそめ、カヤに振り返る。
「寝言、なのかな。起きる前、そうつぶやいてたから」
「俺が?」
カヤは戸惑いつつ、うなずいた。ティアマト……ティアマト……聞いたことあるような気もするけど。
「聞き間違い、とかじゃないのか?」
俺は眉をひそめてそう尋ねる。聞き覚えがある気がしなくもないのだが、はっきりと、これだ、というものはない。何か似たような言葉かもしれない。カヤは、うーん、と考えてから、肩をすくめた。
「かもしれない」
「ま、なんにしても……ただの寝言だ。深い意味はないよ」
と、言いつつ……なんだか気になる。ティアマト。その単語を頭の中で繰り返す。なんか、ひっかかる。落ち着かない。思い出しそうなのに……出てこない。何なんだろう?
まあでも、思い出せないってことは、結局大事なことでもないんだよな。
それよりも、だ。俺は、ティアマトという言葉をとりあえず頭の片隅に置き、気持ちを切り替える。そう、俺が気にしなきゃいけないことは別にあるんだ。
「カヤ!」
気合をいれて、俺は姿勢をただし、カヤの両肩をつかんだ。カヤは驚いて目を丸くしている。
「どしたの?」
「今度は、寝ないから」
「へ」
馬鹿の一つ覚えみたいだが……他に汚名を晴らす方法も見つからない。よくよく考えたら、さっきは無理やり迫ってしまった。いくら気持ちが高ぶって我を忘れたからって……アレはアレで最低だったな。今度は、あんな乱暴なやり方じゃなくて、カヤが安心できるような……って、俺の場合、その前に、寝ないこと。これが第一目標だよな。はは。自分で言ってて……なっさけねぇ。普通、寝るか?
「仕切りなおそう」
言って、俺はゆっくりと彼女の唇にキスをしようと顔を近づける。あと少し……俺の心臓は高鳴っていく。目をつぶり、唇にあたる感触を味わう……と、想像とはまったく違う感触がして、俺は目を開いた。
「え?」
彼女と俺の唇の間に割って入ってきたのは、彼女の人差し指だった。唐突に、カヤは指を俺の口にあててきたようだ。
俺も馬鹿じゃない。この行動の意味は分かる。拒否だ。
ぽかんとする俺に、カヤはクスッといたずらっぽい笑顔を浮かべる。
「しばらく、後悔しててもらおっかな」
「は」
「寝た罰」
それ以上何もいうことなく、カヤはさっさとベッドから降りていく。あっけにとられた俺は、引き止めることもできず、彼女の肩から力なく手を離した。
つまり……おあずけってことか。俺は、がっくりと頭を垂らした。そりゃ、怒って当然だよな。どこの世界に……初めてやろうってときに、寝る馬鹿がいるんだ。それも……
「!」
俺はハッとし、顔をあげる。そうだ。大事なこと、忘れてた。俺は、カーディガンを拾い上げる彼女の背中を見つめる。
――私、和幸くんのこと……愛してる。
俺、まじで最悪だ。
「カヤ!」と、思わず立ち上がり、俺もベッドから飛び降りる。カーディガンをちょうど着ようとしていた彼女は、胸のとこでそれを握り締めて目を丸くしている。
「もう一箇所……連れて行きたいところがあるんだ」
「……今から?」
「ああ」
そういえば、今、何時だろう? もういい時間だよな。でも、居てもたってもいられない。どうしても、今しなきゃいけないことがある。やるとかやらないとか……そんなことより大事なことがあったんだ。
俺は、問答無用で彼女の腕をつかみ、玄関へと向かった。
「ちょっと、和幸くん!」
「大丈夫だ、日が昇る前には家に帰すから」
「服、着ないの!?」
え……俺ははたりと立ち止まり、自分の体を見下ろす。
「風邪、ひくよ?」
あまりに夢中で、上半身裸なのを忘れていた。彼女の優しい言葉が追い討ちをかけて、俺の顔は一気に赤くなった。