愛してる
あのおばあさんの言葉が、あの夢を記憶の奥からひきずりだした。思い出さないようにしていた悪夢。和幸くんに刺される夢。とてもリアルな恐ろしい夢。それに……和幸くんの、おばあさんへの態度が不安を上乗せした。なぜ私を殺さないのか、とたずねるおばあさんに、和幸くんは何も答えなかった。しばらく絶句しておばあさんを見つめていた。
怖くなった。私が悪魔だ、なんておかしなことを、どうして和幸くんは一蹴してくれないのだろうか、て。まして、私を殺せ、だなんて……。すぐにでも、呆れた顔であしらってくれると思った。なのに……和幸くんは、おばあさんの言葉を黙って聞いていた。
ううん、ただ、黙って……なんてものじゃなかった。様子が、明らかにおかしかった。結局、「うるさい!」とおばあさんを引き離したけど……不思議だった。なんであんなにムキになるのか。
だから、ハッと気づいたんだ。和幸くんは、おばあさんの言うことに、何か心当たりがあるんじゃないか、て。そしたら……いろんなことを思い出してしまった。呪いのことや、両親のこと、神崎の家で死んだ警官、血だらけだった私。そして……目を覚ましたら、跡形もなくなっていた銃痕。そう、和幸くんに撃たれた、胸の傷。いつのまにか消えていた。和幸くんは、いつか理由を話してくれる、と約束してくれたから、気にしないでいたけど……でも、やっぱりおかしいよね。傷がなくなるなんて。
そんなことを考えていたら……自分は本当に悪魔じゃないか、て思えてしまったんだ。そして、和幸くんもそれを知っているんじゃないか、て。変だよね。馬鹿みたいだよね。でも、恐くなったの。すごく、とてつもなく、恐ろしくなったの。
でも、結局……うやむやにされてしまった。その不安ごと、強引にねじ伏せられた。そんな気がする。ずるいよ。反則だよ。けど、嫌な気分はしないんだ。逆に、嬉しい。私、変かな。胸いっぱい、幸せを感じている自分がいる。
確かに、あまりに唐突だけど……私は、受け入れる。いつかは、こうなりたいってどこかで思っていた。成り行きは、想像とは違ったけど……いいよね、そんなの。
私は彼のベッドの上で、カーディガンの裾に手をかけた。
***
ベッドの上で、カヤは何も言わずカーディガンを脱いだ。そっとそれを床に落とし、シャツのボタンに手をかける。上から一つずつはずしていくと、黒いレースの下着があらわになる。それでもカヤはためらうこと無く、最後のボタンをはずして、はらり、と白いシャツを脱ぎ捨てた。
浅黒い彼女の肌にはひとつの穢れもなく、体の滑らかなラインが月明かりに照らされている。その表情は落ち着いていて、ぱっちりとした大きな目はまっすぐ前に向けられている。
その視線の先で、和幸も同じように上着を脱いだ。それを無造作に放り投げると、前かがみになり、カヤを押し倒す。そして――ベッドに横たわる彼女の唇を奪った。
ほんの少し触れる程度の軽いキスを交わし、和幸はカヤの腹部に手を這わせた。手のひらで、指先で、そのやわらかく滑らかな肌の感触を味わうように滑らせて、やがて、その手をぐっと背中へと潜り込ませた。
「あ……」
つい、戸惑いの声が漏れていた。彼がなにをしようとしているのか理解するより先に、あっという間に胸元の圧迫感が無くなっていた。
彼に聞こえているんじゃないか、と思ってしまうほど、鼓動がうるさく鳴り響いていた。
誰の侵入も許さなかったバリケードはあっけなく破られ、ゆるんだブラジャーの下から彼の手が潜り込んでくる。誰にも触られたことのないそこに、彼の指先が――カヤは堪えるようにぎゅっと瞼を閉じ、顔を横にそむけた。
その動きに気づき、和幸はぴたりと手を止め、体を起こした。
暗がりで、目を凝らして彼女の表情を伺う。ほんのりと頬を紅潮させた彼女は、ぐっと目をつぶっている。
「嫌か?」
馬乗りになったまま、和幸はぽつりとそう訊ねた。カヤはハッと目を開く。
「え?」
そういえば、久しぶりの会話だ、とカヤは思った。いきなりキスされ、それから会話は一切なかった。ただ流れに身を任せるように、体を動かしていただけだった。
「悪い。俺……なんか、急に……」
月明かりが逆光になって、彼の表情が分からない。それでも、声の感じから容易に想像できる。申し訳なさそうに眉をひそめる彼の顔が、カヤの頭に浮かんだ。カヤはあわてて顔を横に振った。
「嫌じゃないよ」
嫌なわけない……と、心の中でも、つぶやく。
左手を持ち上げ、和幸の頬に触れる。その薬指には、指輪が光っている。おもちゃのような指輪。それでいて、どんな高価な指輪よりも自分には価値のある指輪。
「私……」
胸の奥から、こみあげてくるものがあった。それは言葉だ。ある言葉が湧き上がってくる。それは、今まで口にしたことのない言葉。ぐっと横隔膜が持ち上げられるような感覚がする。肺が押し上げられ、息がつまるよう。
その言葉は、カヤにとって重要な言葉だった。軽はずみに使ってはいけない。そんな意識が物心ついたときからあった。それが一般常識なのか――他の皆も同じように思っているのか。それとも、自分だけのこだわりなのか、願掛けのようなものなのか。自分でも分からなかった。ただ、ここぞというときにしか、その言葉を口にしてはいけない。そんな意識だけは、はっきりしていた。
そして、今がそのときだ、とカヤは確信していた。
「私、和幸くんのこと……」
そこまで言って、唇を舐める。たった一言だというのに、緊張が高まる。ごくりとつばを飲み、カヤはとうとう生まれて初めてその言葉を発する。
「愛してる」
カヤは頬を赤らめ、はっきりとした口調でそう言い放った。俺もだ、そんな言葉を期待しながら。
だが……予想に反し、和幸は何も答えない。それどころか、まるでマネキンが倒れるように無防備に、自分に倒れ掛かってきたのだ。
「え!?」
力が一切はいっていないのだろう。自分に覆いかぶさってきた和幸は、さっきと違い、苦しいほど重い。全体重がカヤにかかっていた。胸や腹部が圧迫され、痛みと息苦しさに襲われる。
「和幸、くん!?」と息苦しい声で叫ぶが、和幸はぴくりとも体を動かさない。
とりあえず……と、カヤは力をふりしぼって、和幸の体を横にのけた。下着をおさえながら、カヤは上体を起こす。
「和幸くん、どうしたの?」
一体、どうなってるのか、さっぱり分からない。カヤは和幸を揺り動かす。が、やはり反応はない。いきなり、どういうことなのか。まったく前兆などなかったのに。急に意識を失ったようだ。
救急車でも呼んだほうがいいのだろうか。そんなことを考え始めていたときだった。かすかだが、息遣いが聞こえてきた。それは、間違いなく和幸から。カヤは顔を和幸に近づけ、よく耳をすます。すると、スースー、という穏やかな寝息が聞こえてきた。
「へ……」
まさか、寝ているだけ? カヤはぽかんとした。あのタイミングで眠りに落ちたというのだろうか。そんなことあるはずはない。貧血でも起こしたのか? でも……と、和幸の顔を見つめる。暗くて分かりにくいが、顔色が悪いようではない。健やかに寝ているだけ。何の変哲もないただの寝顔だ。
カヤはぽつんとベッドの上で座り、首をかしげる。そういえば、学校とバイトと忙しそうだったし……その上、自分を『誘拐』してスクーターで走り回った。疲労かな? でも……と考えながら、カヤは仕方なしに下着のホックを付け直す。
「こんなタイミングで寝れるかな?」
悲しげな彼女の声が部屋に響く。
たとえどんなに眠かろうと、これから彼女と……というときに眠りに落ちる男がいるだろうか。うーん、と唸りながら、カヤは、何らかの病気の可能性を考え始めていた。
***
あれ? 俺、こんなとこで、何してんだ? ここは……と、俺は辺りを見回す。よくなじみのある景色。――学校だ。目の前には、夕焼けが差し込む二年二組の教室。誰もいない、放課後の教室だ。俺のクラスは隣の三組。なんで、二組の教室の前で突っ立っている? 誰かを……探してたんだっけ?
廊下で突っ立ち、うーん、と首をかしげる。思い出せない。何してたんだっけ? なんか、大事なことをしようとしていたような……でも、なんだっけ? 思い出せない。何しようとしてたんだ? 何しに、ここに来たんだ?
そのときだった。
「週番?」
急に、後ろからそんな声が聞こえてきた。