悪魔の望み
「ちょっと、ここで待っててくれ」
部屋の玄関に入るなり、俺はカヤに振り返ってそう言った。カヤは相変わらず、沈んだ表情でうなずくだけ。俺の笑顔は自然とひきつる。スクーターに乗っているときは仕方ないとして……マンションについてから、エレベーターの中でも、部屋までの通路でも……俺たちに会話はなかった。カヤの様子が明らかにおかしい。俺と目をあわせようともしない。こんなカヤを、今まで見たことがない。
だが……「大丈夫か」とか、「どうしたんだ」とか、聞く気になれなかった。それは……俺も同じだからだ。様子がおかしいのは、俺も同じだった。自覚してるくらいだ。カヤも、それを感じ取っているだろう。
とりあえず、俺はカヤを玄関において部屋にあがった。カヤが初めて泊まりに来た日――俺が彼女を初めて『迎え』に行った夜、彼女が着てきた服……というか、寝巻き。それを返そうと思ったのだ。
部屋に入り、カヤの寝巻きをしまった衣装ケースに歩み寄る。
「どこだっけ」と、無駄に独り言を言い、三段あるケースを上から順に見ていく。
その間も、俺の頭の中に浮かぶのは、あのばあさんの顔……憎しみに満ちた表情。まるで、親の仇をみるような目。初めて、俺の罪を知る人間に会ったのかもしれない。そんな気がして仕方が無かった。親父も、カヤさえも知らない俺の罪。――世界の災いを庇う罪。あのばあさんは、きっとそれを見抜いていたんだ。
カヤの服を探す俺の手が止まる。
世界を滅ぼす……俺は、分かってなかったのかもしれない。あのばあさんの反応は、当たり前だったんだ。この世界に生きる人間なら、俺を恨んで当然だ。カヤを守る俺は、憎まれるべき存在なんだ。ただ、それを皆知らないだけなんだ。世界の終焉――それは、親父や、砺波、曽良、アンリ、平岡……皆を殺すこと。リストも、ナンシェという写真の少女も。皆、死ぬんだ。
俺は、分かってなかった。かっこつけていただけなんだ。カヤを守りたい。だからいいんだ、と自分に言い聞かせていた。それを盾にすべてを正当化しようとしていた。駄々をこねる子供となんら変わらない。
でも、仕方ないだろ! 世界を滅ぼす。そんなの、分かるわけがないんだ。俺は、ただの人間なんだ。ただ、カヤを好きなだけなんだ。
やっと見つけた彼女のキャミソール。きづけば、俺はそれをぐっと握り締めていた。
――裏切り者!
どこからともなく、そんなかすれた声が俺を襲う。俺にまとわり付いて離れない、まるで悪霊のような声。じゃあ、どうすればいいんだよ、と俺はそれに問いかける。カヤを……殺せっていうのか? あのとき、リストの言うとおり、カヤを死なせるべきだったっていうのか? 俺が間違ってるっていうのか? だめなのかよ? カヤも世界も救う。それを夢みちゃいけないのか?
カヤを殺せば、世界は確実に救われる。だから…… カヤを殺せばいい。あいつが脅威になる前に……人間であるうちに。そう言いたかったのか? それが正しいことなのか? それが、一番、確実な方法だから? カヤが死ねば、皆救われるから?
でも、方法があるんだ。『テマエの実』を食べさせなければ……そしたら、カヤは人間のまま。世界も滅びない。それに賭けちゃいけないのか? 危険なのは分かってるよ。世界を賭けた大博打だ。
「世界……」
カヤのキャミソールを握り締める手がゆるむ。
世界……その単語をつぶやくと、今、頭に浮かぶのは人間だった。親父と、そして俺の大事な家族――カイン。あのばあさんのせいで、気づいてしまった。俺が、カヤのために危険にさらそうとしているもの……それは、世界、なんて単語ひとつで表せるものじゃない。それは……別の、多くの命。
世界を賭ける? 俺は何様だったんだ。俺に……そんなことをする資格なんてないじゃないか。
俺は、がくりと肩を落とした。
「どうすればいい」
今更、不安になった。本当に、俺はカヤも世界も守れるのか。もし……万が一、あいつが『テマエの実』を食べてしまったら……俺はどうするつもりなんだ?
俺は震える手を見つめる。
カヤがたとえ『災いの人形』になってしまったとしても……俺はあいつを愛し続ける。カヤが何者だろうと、俺の気持ちは変わらない。……じゃあ、カヤを守るのか? 世界を滅ぼそうとする女を守るのか? 世界の終焉を、ただ見守るのか? ――何のために? 誰のために?
「……」
俺は力なく腰をおろす。
そうだ。俺は、一体誰のために……カヤを守ろうとしてるんだ? カヤのため?
「違う」と俺は鼻で笑う。
自然と力がぬけた。急に無力感に襲われる。俺は知らない。カヤの気持ちを。カヤの望みを知らない。だってカヤは何も知らないんだ。自分の正体を知らないんだ。彼女が何を望んでいるかなんて分かるわけがない。
……いや、それも違う。
――カインの皆が……日向で暮らせる世界も、きっと来るんだよ。
そうだ。あいつははっきり言ってたじゃないか。彼女の望み……世界の未来だ。
「……!」
急に息苦しくなった。自分の心が黒くにごっていく。そんな気がした。そのまま体中、闇に飲み込まれていくような、そんな嫌な気分。
世界が滅んでもいいと思ってた。それでも、カヤを守りたいと……そう思ってた。それがカヤのためだ、と勝手に思い込んでいたんだ。でも……俺はぐっとカーペットをむしるように握り締める。考えたくも無いことを考えている自分がいる。それを自覚したくもないのに……勝手に言葉が頭の中で並んでいく。俺は目をつぶり、歯を食いしばった。こんなこと、気づきたくなかったのに。でも、分かってしまった。もう認めるしかない。
もし、あいつが本当に『終焉の詩姫』になってしまったら……
本当にカヤを想うなら……
俺は……きっと、あいつを――
「殺してね」
「!」
そんな無機質な声がしたのは、そのときだった。
***
唐突に聞こえたその声に、和幸はハッとして振り返る。暗い部屋にたたずむ彼女は、恐ろしいほど無表情で、和幸はゾッとした。
「カヤ……?」と和幸はやっとのことで声をだす。
カヤは部屋の入り口で佇み、隣にある姿鏡に目をやった。そこに映る自分を冷たい視線で見つめ、腹に手をおく。腹痛でもするかのように、一瞬、顔をゆがめて。
「和幸くんに刺される夢……あれは、予知夢なのかもしれない」
「え?」
不気味なほど、彼女の様子がおかしい。和幸は、ゆっくりと立ち上がった。
「和幸くんは、きっと私を殺すんだよ」
「!」
和幸は、えぐられたような痛みを感じた。胸に穴があいたんじゃないか、とさえ思った。カヤは鏡から目を離し、じっと和幸を見つめてくる。
「なんでだと思う? 私が、悪魔だからかな」
「なに、言ってんだよ」
かろうじて出たのは、そんなうすっぺらい言葉だった。ごまかすこともままならない。和幸の心は、不安と迷いで動揺していた。足が床に縫い付けられたかのように、動けない。
「考えたら……私の周りは、事故や怪我ばかり。幼い頃からそうだった。呪われてる、とずっと言われてきた」
やっと彼女の顔に表情が戻ったかと思えば、それは悲しみに満ちたもの。蓋をしたはずの過去が、どんどんと彼女の中にあふれでてくる。
「もし……私自身が、災いの元凶だったとしたら……全部、私が引き起こしていたことだとしたら……筋が通っちゃうんだ」
「!」
「だから、あのおばあさんの言ったこと……きっと、本当なんだよ」
和幸は、何もかける言葉が見つからなかった。彼女は、助けを求めるような視線で自分を見つめている。そんなことはない、という言葉を待っているんだ。それは分かる。だが……いえなかった。今、そんなことを言っても、余計に彼女を不安にさせてしまう。今の和幸にとって、そんなことはない、という言葉は嘘でしかないからだ。きっと、演技だと簡単にばれてしまうだろう。
もちろん、その呪いはすべてアトラハシスの仕業で彼女のせいではない。だが、彼女が災いの元凶であることは、否定できない。的を射ていた。
何も言わない和幸に、カヤは悲しく微笑む。
「結局、私が和幸くんを人殺しにしてしまうのかな」
「!」
まるで、あきらめのような言葉だった。
「ごめんね」と、彼女は続け、はかない笑顔を浮かべる。「でも、和幸くんに殺されるなら……て思うの」
和幸は、その言葉に目を見開く。言葉が出てこない。何を言えばいいのか分からない。どう受け取ったらいいのか分からない。手が震え、呼吸が乱れる。
カヤはそんな和幸から目をそらし、遠くを見つめてつぶやく。その表情は、言葉に似合わず、落ち着いたものだ。
「悪魔が存在するとして……私がその一人だとしたら……和幸くんに殺してほしい」
カヤは無意識のうちに、左手の薬指にはめられた指輪に触れていた。
「だから……」
そこまで来て、カヤは言葉を詰まらせた。それまで微笑んでいた表情が険しくなる。急に震えだし、うつむいた。だから……と、小さくか細い声で言うのが聞こえてくる。和幸は眉をひそめ、重い足を一歩動かす。
「カヤ」と、やっと声がでた。
「……たくない」
カヤは顔を覆い、くぐもった声をだす。それは、かろうじて音になっている程度。何を言っているのか、まったく分からない。和幸はさらに一歩近づき、耳をすませた。
「カヤ、大丈夫か?」
「いやだ……」と、カヤは今度はちゃんと言葉にして、顔をあげる。「殺さないで」
「!」
それまでのはっきりとした口調が嘘のような、弱弱しい震えた声。涙でぬれた顔は、ひどくはりつめている。それは、今まで彼女がみせたことのない表情だった。
「殺さないで……」
みっともないほど涙で顔をぬらし、カヤはまたつぶやいた。
身を切り裂かれるような痛みが、和幸の全身をはしった。頭が真っ白になり、何も考えられなくなった。自分はもう意識がないんじゃないか、とさえ思った。ただ体だけが意志をもち、勝手に動き出している。さっきまで田んぼを歩くように重かった足取りが嘘のようだ。一切の迷いの無い確かな足取りで、彼女に歩み寄る。
「……」
涙でぬれた瞳で、カヤは和幸を見上げた。おびえた表情で。
和幸の表情は険しく、口は貝のように固く閉じられている。その張り詰めた雰囲気に、カヤは、今にも殺されるんじゃないか、とさえ思った。ガタッと全身が震え、カヤは一歩後ずさる。
その瞬間、和幸は乱暴に彼女を抱きしめた。