虹の橋 -約束-
「ここって……」
カヤは、スクーターから降りるとさっさとヘルメットをとった。フラフラとした足取りで、歩きだす。自分が連れてこられた場所におどろいているんだろう。
俺もスクーターのエンジンを切り、ヘルメットとゴーグルをはずす。スクーターから降りると、俺の足取りもおぼつかなかった。いや、これは……カヤとは違う。まったくの別の理由だ。簡単にいえば、精神的疲労だ。とんでもない拷問だった、と俺はため息をつく。よく事故らずにここまでこれたもんだ、と俺は自分を褒めたい。三十分ほどだっただろうか。その間、ずっと俺の全神経は背中に集中していた。あまりにカヤがくっついてくるもんだから、こっちはもう……
「和幸くん!」
「え!?」
カヤのはじけるような明るい声に、俺はハッと我に返る。いかん、いかん。とりあえず、背中のあの感触は忘れよう。
「きれいだよ」とはしゃいで彼女が指差したのは、トーキョーの街だった。光が満ち溢れるその都市は、こうして外からみれば、なんてことはない、ただの都会の街なんだ。その陰で、人が売られていようとは誰も思わないだろう。
手すりによりかかり、カヤは夜景に見とれていた。俺はその隣に歩み寄り、手すりにひじをつく。
俺たちは、虹の橋のちょうど真ん中に立っていた。それは、トーキョーの副都心とお台場をつなぐ橋だ。つまり……スラムへの橋。すべてを失った者が最後にわたる橋。希望を求めてたどり着く橋。
「これが、虹の橋なんだね」
カヤは夜景をじっと見つめながら、そうつぶやいた。そうだよな。普通に暮らしていたら、この橋の名前を聞くこともないだろう。虹の橋……それは、スラムの連中が勝手に呼んでいる名前だ。どうやら、この橋の昔の名称が基になっているらしい。
「昔は……」と俺は腰をかがめ、手すりに置く腕に顎をのせる。「ここも有名な観光スポットだったらしい。派手にライトアップもがんがんしてたんだって」
「ここが?」
カヤがこちらに顔を向けたのが、横目で見えた。ここが……カヤがそう言った理由は容易にわかる。俺たち以外、ここには誰もいない。いや、いることはいるんだが……と、俺はちらりと橋の反対側に目をやる。そこには、生きているのか死んでいるのかも分からない老婆の姿。少し離れたところにも、似たような人の影がちらほら見受けられる。そりゃそうだ。ここは、トーキョー中の貧しい人間が、逃げ延びてくる場所――スラムへ続く一本道。
「あれが……スラム、なんだね」
いつのまにか、カヤはさっきとは反対側を眺めていた。俺も、カヤの視線の先を見つめる。光り輝く向かいの街とは対照的に、そこには暗闇しかない。なんとか、建物の陰がうっすらと見えるくらいだ。まるで不気味な島。
「ああ。あれが、お台場スラムだ」と俺は低い声で答える。
「向かい合っているのに……全然違うんだね」
彼女がどんな表情をしているのか、向こうをむいているせいで確認できない。でも、声は悲しそうだ。
「……」
こんなとこ、連れてくるんじゃなかったかな、と今更だが、反省する。ここから見るトーキョーの夜景は格別で、それも誰に邪魔されることもない。普通の人は近づかないからな。最高の夜景を貸しきり状態だ。だから、真夜中のデートにいいんじゃないか、なんて思ったんだけど……間違ったかなぁ。
「あそこも……昔は、にぎやかだったのかな」
カヤがぽつりとそうつぶやいた。俺は、ああ、と苦笑する。
「お台場スラムも、昔は観光スポットだったみたいだ。今じゃ、そのかけらもないけど」
「世界は、そんなにも変わるものなんだね」
「……そうだな」
確かに、その通りだ。昔のデートスポットが、今じゃ貧困層の隠れ家。世の中ってのは、容赦なく変わっていくんだな。俺もしんみりと、お台場の闇を見つめる。
そのときだった。カヤがくるりとこちらに顔を向けた。晴れやかな表情で。
「だから、これから、また変わるかもしれないんだよね」
「へ?」
そんなとぼけた声を出した俺に、カヤは目を輝かせてぐいっと迫ってくる。
「世界は変われるんだよ、和幸くん」
「……あ、ああ」
なんで、そんなに希望に満ちた顔なんだよ? 俺は唖然としていた。そんな俺に気づいていないようで、カヤは嬉しそうに微笑んで、主塔と主塔をつなぐケーブルを見上げる。
「ここも、またいつか、ライトアップされるかもしれない」
「……」
「そしたら、一緒に見に来ようね」
見に来ようって……俺は、何も答えられない。 カヤの言っていることが、あまりにも理解不能だからだ。急にどうしたんだ? 何が言いたいんだ?
俺が戸惑っていると、カヤはこちらに振り返り、微笑した。
「カインの皆が……日向で暮らせる世界も、きっと来るんだよ」
「!」
***
変なことを言う女だな、なんて思われてるかもな。でも、希望が湧いてきたの。こんなところに来て、未来の希望を見つけるなんて……私は変なのかもしれない。でも……信じたいんだ。悪くなるだけが変化じゃないから。これだけ、変わってしまう世界――ううん。これだけ、変わることができる世界なら、これから良くなる可能性だって十分あると思うんだ。だから……
私は和幸くんに振り返り、微笑んだ。
「カインの皆が……日向で暮らせる世界も、きっと来るんだよ」
「!」
和幸くんはぎょっとしていた。目を見開いて、呆然としている。あ、やっぱり……おかしな奴だ、て思われちゃったかな。というか……失礼だったかな。私はカインでもなんでもない。カインに助けてもらった人間。そんな私がこんなこと言うなんて、おこがましいよね。それも、カインを辞めた彼に。
私は和幸くんに体を向け、ごまかすように両手の平を見せる。
「な、なんて……軽はずみだったかなぁ」
「カヤ」
和幸くんは、今にも泣きそうな、つらい表情を浮かべていた。どうしたんだろ。やっぱり、私まずいこと言ってしまったのかな。何も知らない人間が、いけしゃあしゃあと偉そうに言うもんじゃないよね。
「ご、ごめんね。気にしな……」
気にしないで。そう言いかけたときだった。和幸くんの手がのびてきて、私の左手をつかんだ。
「!」
「そんな世界が来ても」と和幸くんは低い声で言う。「お前がいなきゃ、意味がないんだ」
「え」
「俺は……未来をお前と一緒に見たい」
私だってそうだよ。和幸くんとずっと一緒にいたい。ううん、ずっとあなたの傍にいる。なのに……なんで、わざわざそんなこと言うの? 急にどうしたの? なぜか、胸が痛い。苦しい。どうして、そんな悲しい顔をしているの?
私が絶句していると、和幸くんはおもむろにポケットに手をつっこんだ。私の左手をつかんだままで……。
「お前の誕生日……」
そうつぶやいて、和幸くんはポケットから出した『何か』を、すばやく私の左手……左手の、薬指にはめた。ドクン、と心臓が飛び跳ねる。
「あ……」
これは……この指輪は……胸が熱くなる。シルバーリングに黒い石。見覚えがある、なんてものじゃない。これは……思い出の指輪。私は顔をあげ、和幸くんを見つめた。
「お前の誕生日に、結婚しよう」
「――え」
いきなりの……プロポーズだった。