Liszt 1:2
二週間前のことだ。ハノーヴァー家の屋敷にある、めったに使われることのない広い食堂に、久しぶりに一族が集まっていた。いや、正しくは……集められた、だ。といっても、再会を喜ぶ、というような和やかな様子はない。身内でなにやらひそひそ、こそこそ話しているくらいだ。
リチャードは、皆が静まるのを待つこともなく、一族に言った。
「王位をリスト・ロウヴァーに譲る」
一気に、食堂はざわついた。
マルドゥク一族は、ハノーヴァー家、アブキール家、エリオット家、モンロー家、そしてロウヴァー家に分かれていた。ハノーヴァーが本家、ほかは分家だ。中でも、ロウヴァー家は、イリーナ・ロウヴァーとその息子、リスト……俺だけだった。だからこそ、リチャードのこの宣言は、ほかの一族の人間を混乱させた。
もちろん、リチャードが、オレを未来の後継者として育てていたのは周知の事実だった。だが、実際にこうして宣言されるまでは、皆も半信半疑だったに違いない。なぜなら、オレの母、イリーナには、売春婦という過去があったからだ。
「リチャードおじい様。納得いきません」言い出したのはハノーヴァー家の、チャーリーだ。リチャードの息子である。「正しい順番でいけば、わたしのはずです。神託をお聞き間違いになったのではないですか?」
「あら……」と隣に座っていたエリオット家のセシルは笑う。「大学も卒業できなかったあなたが、王に選ばれるとお思い? それよりも、ウチのリディアのほうが……」そう言って、隣で行儀よく座る愛娘のリディアを誇らしげに見つめた。
大体、こうなるのはよめていた。それから、食堂は嫌みであふれた。
オレは、イリーナの横で黙って座っていた。彼らはなにもわかっちゃいない。なぜ、あいつがオレを選んだのか。それは、リチャードなりの一族へのいたわりだったというのに。
「遅れてごめんなさい」
その晴れやかな声は食堂に響き渡り、静寂をつくりだした。皆が、食堂の入り口へ振り返る。大きな扉の前で、彼女は、皆の視線をあびて、えへへ、と頭をかいた。
「もうはじまっちゃってますね」
彼女は、アブキール家のナンシェ。正装をしてきたほかの連中と違い、彼女は高校の制服のまま、息をきらせて食堂にはいってくる。学校帰りにまっすぐ来たのだろう。それに、ほかの連中は唖然としている。
「ナンシェ、こっちよ」
リチャードの隣の席で、ナンシェの母、ウェンディが手をふった。母の姿を見つけると、ナンシェはあわててそちらへ向かった。
しかし、ウェンディは、ナンシェが席につくのを待つことなく、ついさっき宣言された重大ニュースを告げる。
「リストちゃんが選ばれたのよ!」
ナンシェはそれを聞いて、目を丸くし、オレを探した。
「うそ! リストちゃんが!」オレを見つけると、彼女はとびっきりの笑顔で駆け寄ってきた。その勢いで、オレの手を握ると、「おめでとう」と騒ぎ出した。
そう、彼女はこういう子なんだ。周りは、その勢いに負けてしまったようで、困った表情を浮かべていた。
「ありがとう、ナンシェ」いろんな意味で、だな。
しかし、ふとナンシェは真顔になった。何かを思い出したかのように、顔を曇らせる。
「あ……」力ない声をもらし、リチャードのほうに振り返る。
「王位継承、てことは」
リチャードは、ナンシェが言いたいことを察したのか、優しく微笑んだ。
「ありがとう、ナンシェ」
ナンシェは相変わらずオレの手を握ったまま、リチャードを見つめている。
「マルドゥクの女なら、その先の言葉は言ってはいけないよ」リチャードは優しく、だが厳しい声でそういった。
ナンシェは、その言葉にハッとし、ゆっくりとうなずいた。
「はい」
ナンシェが、オレの手をぎゅっと強く握り締めた。彼女だけだ。この中で、リチャードのことを気にしたのは。オレには分かる。きっと、だからリチャードは、オレに彼女を頼む、と言ったんだろう。
そう、リチャードはオレに言った。オレがここにいる理由は、『パンドラの箱』が開かれ、エンリルの裁きが行われるこのとき、マルドゥクの王となり、一族の使命を果たすこと。そして、ナンシェを守ること。
リチャードは、特別ナンシェを愛していた。一族の中で一番、大事にしていた。それはきっと、彼女のこの純粋な優しさに救われていたからだろう。オレも、ナンシェの世話をしていたつもりだったが、逆に助けられていた気がする。
「リスト・ロウヴァー。お前に、リスト・マルドゥクの名を与える」
オレは、立ち上がった。ナンシェは、無理した笑顔を浮かべている。複雑な心境なんだろう。オレが王位を継承したとき、大好きな祖父はこの世を去るのだ。名残惜しそうに、ナンシェは俺の手を離し、一歩下がった。
「新しいマルドゥクの王に、栄光あれ」静かにそう言うと、ひざを曲げ、オレに丁寧にお辞儀をしてみせた。
「ありがとう」
隣でイリーナも目を細めてナンシェを見つめている。頭をさげたままのナンシェの横を通り過ぎ、ほかの連中の後ろを歩いていく。
ナンシェがあんなパフォーマンスをしたもんだから、ほかの連中もぼうっとしてるわけにはいかない。納得いかないようだが、うわべだけのお辞儀をしてみせた。きっと、ナンシェの狙いはこれだったんだろう。彼女は、ただ優しいだけでなく、そういう頭の良さももっている。そう、彼女こそ、本当はマルドゥクの王にふさわしい人材だ。オレも、そしてリチャードもそれは分かっていた。だが…だからこそ、オレが継がなきゃいけなかったんだ。
リチャードの前に立つと、オレはじっと奴の目を見つめた。
分かってる。オレが王を継ぐのは、一族を守るため。いや…ナンシェをマルドゥクの運命から守るためなんだ。
「ケット」リチャードが静かにその名を呼んだ。
リチャードの横に、光があらわれ、やがてそれは少年の姿になった。彼こそ、オレたちマルドゥクの主であり、ニビルという名の聖域に住まう神・エンキの使者だ。姿かたちは子供だが、確かにどこか神聖な雰囲気がある。その瞳に見つめられると、全てを見通されているような不安にさえ、おそわれる。
「リスト・ロウヴァー?」ケットはにこりと微笑み、オレに言った。
オレは、ただうなずいた。ケットはそれを見届け、今度はリチャードを見つめる。
「彼に決めたの? リチャード」
「はい」
「そう」ケットはせつない表情で静かにつぶやいた。
神の使者といっても、ケットはとても幼い。見た目もだが、中身も子供のようだ。純粋無垢とはこのことだろう、と思わせる。
「リチャード」ケットは、無理した笑顔をうかべた。その笑顔は、さっきのナンシェのそれに似ていた。
「今まで、ありがとう。主、エンキの代わりに、お礼を言うよ」
リチャードは、その言葉に、とても丁寧で尊敬に満ちたお辞儀で返事をした。
「楽しかったよ、ケット」頭を下げたまま、リチャードは小声で言った。
その声は、きっとケットとオレにしか聞こえなかっただろう。ケットは涙ぐみながら、手を天に挙げた。
「エンキがエミサリエス、ケットは……リスト・ロウヴァーに、マルドゥクの剣を継承することを認める」
リチャードは、最期に微笑んだ。オレにはそれが見えた。
ケットの言葉とともに、オレの目の前に光の筋が現れ、それは大きな剣へと姿を変えた。これが、マルドゥクの王たる証。力強くその剣の柄を握る。この瞬間、オレの名は、リスト・マルドゥク・ロウヴァーになった。
リチャードは、ゆっくりと、その場に倒れた。どよめく食堂の中で、ナンシェだけは、まだお辞儀をしたまま、小さく震えていた。一族の男連中が、あわててリチャードのそばにかけよった。もちろん、皆、知っている。リチャードは使命を終えたのだ。
「リスト……」ケットは、涙を目にためて、オレを見つめた。
「ケットは君がなにものなのか知っている」ケットのその言葉は、オレにだけ聞こえる程度の小さいものだった。
オレは、ドキッと心臓が一瞬大きく波打つのを感じた。まさか、今更、オレの王位を取り下げるのか?
しかし、ケットはすぐに表情を和らげた。
「それでも……リチャードが決めたことだ。ケットは、君を支持する」
「……!」オレは、言葉がでなかった。きっと、ホッとしたんだ。
ケットは、あどけない笑顔をうかべ、手を差し出した。
「よろしくね、リスト」
剣を左手にもちかえ、ひざまずくと、オレはその小さい手をとった。
「リスト、君の使命は、エンリルの裁きからルルを守ること。つまり」
「『彼女』を見つけ出し……」オレは剣を強く握り締め、ケットをにらむように見つめた。
「殺すこと」
ケットはオレの言葉に一瞬、表情をこわばらせた。
「全ては、ルルを裁きから守るため」
オレは、ケットをなぐさめるように言った。そして、多分、自分自身の存在を正当化するために。
「それが、エンキの願いなんだろ」
そして、マルドゥクはそのために、地上におりてきたんだ。エンリルの暴挙を防ぐために。
そう、オレは、『彼女』の詩をとめなければならない。