エンリルの僕たち
わたし……これから、どうなるのかな。揺れる船床に横たわり、わたしは呆然としていた。周りには、大きな木箱がたくさん積まれている。あの中に何が入っているのか、考えたくもない。わたしは古い小さな船に乗っている。エンジンは一体、いつ造られたものなのか……スピードもろくにでないし、その上、すぐに故障する。海の真ん中で急に止まっては船員があわてて修理し……ここにくるまでそれを何度も繰り返した。男だけの――それも海賊のような粗暴な男たちの――船だ。当然だろうが、トイレはとても使えたものではなかった。異臭とあちこちにこびりついた汚れ。彼らは、掃除、という言葉を知らないのではないか。そんな風にさえ思えた。それでも、二ヶ月という長い船旅。わたしは『慣れ』という生き残る力で、耐え抜いてきた。
ふと、ギイっという耳障りな音が聞こえ、そして光が小さな船倉に入り込んできた。床に、男の影がのびてくる。
「よう、ナンシェお嬢様」
目の前に、黒い革のブーツがきゅっと音を鳴らして現れた。わたしは力なく、その男を見上げる。三十代半ばの男……のはずなのに、見た目は二十代のように若々しい。エネルギッシュ、といえばいいのだろうか。こんな長旅でも、疲れを一切感じさせない。ギラギラと野心を感じさせる力強いまなざし。あごひげに、長いぼさぼさの髪。ワイルドなアメリカ人。この男が……わたしの一族を皆殺しにし、わたしをこんなひどいクルーズへ誘ったのだ。
「ニヌルタ……」
水もろくにあたえられず、乾いた唇をわたしはなんとか動かす。
「まだまだ、そういう目つきができる元気があるじゃないか」
タール・ニヌルタ・チェイス。アトラハシス一族を惨殺し、神の子孫であるマルドゥク一族をも手にかけた。リストちゃんの『聖域の剣』と対をなす、もう一つの神の剣『冥府の剣』をもつニヌルタの王。人間の世界『エリドー』を滅ぼす使命をもつ男。
「もうすぐでインドにつく」人間を滅ぼすために生まれた男は、そうつぶやく。
「インド……」
一体、どういう経路でどうしてインドに着いたのか。そんなこと、わたしに分かるはずもない。今までも、途中途中で様々な国に立ち寄っては、積荷を入れ替えていた。これが何カ国目だか、今となっては分からない。途中でわたしは数えるのをやめてしまったからだ。
「まったくよ」とニヌルタはわたしの頭上に置かれている積荷に腰をおろす。「お前のパスポートのせいで、とんだタイムロスだよ」
わたしを置いていけばよかったじゃない、という言葉をわたしは喉の奥に飲み込む。そんなこと言えば……また何をされるか分からない。彼はなぜか、わたしを恨んでいるようだった。会ってから何かしたわけではない。だって会ったそのときから、わたしは彼の人質になっていたのだから。会う前から、彼はわたしを憎んでいたんだ。理由は……分かるはずもない。
「せっかく航空券も買ったっていうのに……」
ご丁寧に、彼はわたしの母を殺し、わたしのパスポートを持ち出して迎えに来た。どこへでもわたしを連れていけるように……。でも、わたしのパスポートはとっくに期限がきれていた。どうやら、そこまでは彼も確認しなかったようだ。彼はそこで、パスポートをつくる手間を嫌った。どうやら、待つのが性に合わないようだ。そして、この長旅を選んだ。密輸船でニホンへ行くという、無茶な船旅を。わたしたちの遺伝子に眠る神の力。人を従わせるプレッシャー。彼はその神聖な力を使って、乗組員にわたしたちの乗船を認めさせた。そして、今に至る。
「ま……あと少しでニホンにつくわけだし。許してやるよ、お嬢様」
わたしはただ、彼を見上げていた。何を言っても、彼はそれを嫌う。わたしの発言はすべて彼の感情を逆なでしてしまうのだ。
「そうそう、インドで船を乗り換えるからな」
「え」
筋肉質の腕を組ませ、ニヌルタは微笑する。
「この船はインドまでだ。そこからは、あいつらの取引相手の船に乗ってニホンに向かう」
あいつら、と言ったニヌルタの目が船倉の扉へ向けられた。この船の乗組員……密輸業者を指したのだろう。彼らの取引相手の船に乗り換え……そこまで、話をつけていたなんて。
「とりあえず、『収穫の日』に間に合えばいいんだ。ゆっくり楽しく行こうや」
そう言って、ニヌルタは不気味な笑い声をあげた。
わたしはぐっと目をつぶり、祈り始める。わたしには、それしかできない。ずっとこの船で、わたしは祈り続けていた。いまや、たった一人の肉親。幼いときからの、わたしの王子様。――リストちゃん、助けて、と。
『収穫の日』まで、あと二ヶ月をきっていた。
***
「お金のこと何も考えてなかったよね」
のんきな声でそう言って、青年は電光掲示板を見上げていた。
「成田新東京国際空港いきのお客様……」
そんなアナウンスが響き、青年は「あ」と声をあげる。あまりにもぼうっと立っているせいで、旅行客のスーツケースやバッグにやたらとぶつかっていた。それでも彼は微動だにしない。高い鼻にほっそりとした輪郭。そして短いカールがかった栗色の髪。ユリィ・チェイスは、空港で航空券を握り締めて突っ立っていた。
――お金がない、と分かって、いきなり農場に住み込みで働き始めるなんて……ユリィには驚かされます。
ユリィの頭の中に、そんな母性にあふれた優しい声が響く。
「うん。ニヌルタのお金に手を出すのもまずいから」
本来、一族の王に選ばれたものは、『裁き』をめぐる旅にでると、一族との連絡を一切絶たなくてはならない。それはエンリルだろうとマルドゥクだろうと同じだ。王に選ばれれば、孤独に戦わなくてはならない。唯一、一族とコミュニケーションができるのは、家に帰ったときのみ。それ以外では、連絡手段を持たずに旅をする。それゆえに、ユリィがタールに会いに行こうとしていると一族にばれれば、止められるのは必至。それも、タールを止めに行くのだ、と知られれば、一族の老人たちは怒り狂うことだろう。だからこそ、ユリィは自分でお金を稼ぐ必要があった。一族のお金を使えば、何に使ったのだ、と調べられかねない。邪魔されるわけにはいかない。単なる家出にしておきたかった。アイリスには目的も行き先も話してしまったが、彼女は自分には関心はない。わざわざそれを一族の老人たちに言いに行くようなことはしないだろう。ユリィはそう高を括っていた。
「でも、思ったより時間がかかった」
――『収穫の日』まであと二ヶ月もありませんよ。
「うん」とユリィはうなるように言う。「でも、焦っても飛行機は早くならないから」
ぼうっとした表情でそうつぶやいた。ラピスラズリの笑い声が頭にひびく。
――相変わらずね、ユリィ。
でも、搭乗手続きは焦ったほうがいいかもしれない、とユリィは電光掲示板を見上げて思った。