Liszt 1:1
遠く離れた島国。女王が治める誇り高き国、イギリス。その北部、小さな村のとある墓地。低い空には厚い雲が浮かんで太陽を隠している。広大な青々と茂る芝生に並ぶ十字架は、そこに眠る躯の生きた証。手向けられた花束は、遺された者からの愛の証。
そんな中、金髪の少年がある墓を前に立っていた。その手には花束も何もない。彼はただ呆然と墓を見つめていた。
そこに眠る躯に、『形あるもの』で何かを証明する必要は、彼にはなかった。なぜなら、彼こそが、今や抜け殻となった躯の生きた証であり、その躯が生けるものたちへ遺した愛の証。
一筋の風が墓地を通り抜けた。少年のブロンドがなびいて目元をくすぐり、少年は目をつぶる。髪をはらうようにゆるやかに顔を横に振って、透き通るような白い左手で前髪を掻きあげた。
美少年という言葉がよく当てはまる彼は、子猫のような愛らしい印象の顔立ちをしていた。もうすぐで十六になる彼なのだが、その容貌と小柄な体のせいでずっと年下に見られてしまう。くりっとした碧眼に、それに覆いかぶさるような長いまつ毛。高い鼻。透き通るような白い肌。顔は小さく、全体的に、まるで少女のようだ。
そのアクアマリンのような碧眼には、ある名前が映り込んでいた。それは他でもない、土の中で静かに眠る躯が血を通わせていたときに呼ばれていた名前。――リチャード・マルドゥク。それが、目の前の墓に刻まれている名だ。
「リストちゃん」
ふと、少女の声が後ろから聞こえて、少年――リストは、振り返る。
「ナンシェ。どうしたの?」
にこりと微笑むと、とがった八重歯がのぞいた。
「ううん」
そこに立っていたのは、白いロングワンピースに身を包んだ少女だった。清純そうで慎ましやか。聖女のような雰囲気を漂わせて佇んでいる。
リストと同じ輝くような金髪に、ガラス玉のように透き通った碧の瞳。まだ幼さを残す頬はふっくらとして、ほんのりと桃色に染まっている。
リストが女だったらこうなっていただろう、とそう思わせるほど、リストによく似ている。二人で一緒にでかければ、いつも兄妹と間違えられた。唯一、明らかに違っているのは——体格はもちろんだが——金色に輝きながら風になびく彼女の長い髪だ。
ナンシェ、と呼ばれた彼女は、リストの隣に歩み寄り、哀しげにリチャードの墓を見つめた。
「リチャードおじいさま……悔しそうでしたね」
同意を求めるような声色だったが、リストは懐かしむ表情を一切浮かべず、「ねばりすぎだよ」と冷たく言い放った。
「もっと早く、王位を継承するべきだった」
すると、ナンシェはせつない表情でリストを見つめて訊ねた。
「リストちゃんも、王位がほしかったの? ほかの皆みたいに……」
「いや。あんな老体じゃ結局なにもできなかったのに、て意味だよ」
そもそも、王位なんてほしくなかった。リストは喉まできていたその言葉をのみこんだ。
ナンシェはしばらく黙ってから、ため息まじりに微笑んで口を開いた。
「きっと、見ていたかったんじゃないかな。リストちゃんが育っていく様子を。できる限り、長く見ていたかったんだよ。だって……」
ふっとナンシェは頬を緩め、リチャードの墓に視線を向けた。
「だって、リチャードおじいさまは、一生懸命リストちゃんを騎士として訓練してたもの」
そんな優しいナンシェの言葉が、余計にリストを苦しめた。リストはたまらなくなってふいっとそっぽを向いた。そして、違う、と心の中で否定する。——きっと、あいつはナンシェを見ていたかったんだ。
リストは知っていた。リチャードが本当に守り続けてきたものが何か。リチャードがなぜ、必死に自分を騎士として育てていたのか。
「でも」ふいに、ナンシェは険しい表情で切り出した。「なんだか、納得いかない」
「なにが?」
「王位継承は、命と引き換えに行われる」ぽつりと言いながら、ナンシェはリチャードの墓の前で腰を下ろした。「そんなルール、おかしいよ」
「……」
「リストちゃんは……」
突然言葉を切って、ナンシェはぎゅっとワンピースの裾をにぎりしめた。唇を引き結び、決して続きを言おうとしない。それでも、ナンシェが何を言いたかったのか、何を思っているのか、リストにはなんとなく分かった。
リストは愛おしそうにナンシェの背中を見つめ、呆れたように微笑んだ。
「王に選ばれたものは、不死になれる」落ち着いた声で諭すように言い、リストはナンシェの隣にひざをつく。「『王位継承は命と引き換え』。でもそれは、王位継承をしない限り、なにがあっても死なないってこと」
リストはそっとナンシェの頭に手をのせた。
「だから、心配すんな」
リストのその言葉に、ナンシェはなにも答えなかった。押し黙り、リストに振り向こうともしない。
リストは申し訳なさそうに苦笑して、すっくと立ち上がった。リチャードの墓に一瞥をくれ、身を翻す。——そのとき、ナンシェの寂しげな背中がちらりと見えて、リストの足はぴたりと止まった。
ナンシェを残して去ることには、胸が痛んだ。リストにとって唯一の心残りと言ってもいい。彼女が自分を慕っているのは、よく分かっていた。だが、それでも……。リストはぐっと足に力を入れた。
「……行くんだね」
リストはハッとして振り返った。ナンシェは、背中を向けたまま、決してこちらを見ようとはしない。リストの様子が気になる素振りさえみせない。そこには、寂しさの中にも甘えを捨てた彼女の姿があった。
リストは目を細め、妹のようにかわいがっていたナンシェの背中を見つめた。いつのまにか、立派なマルドゥク家の女になっていたんだな、と心の中でつぶやく。
「王に選ばれたからね」
リストは穏やかにそう言った。彼女に、説得や言い訳の必要はもうないんだ、と悟ったのだ。子ども扱いはもう終わりだ。
「『収穫の日』は近い。エンリルの裁きを止めるためには……」
「うん、分かってる」
ナンシェは、リストの言葉をさえぎった。
王は不死であって不老不死になれるわけではない。リチャードは老いていく体を酷使して、リストを継承者として育てていた。そして、『収穫の日』が近づき、彼は王位を手放した。自分の命とともに。
すべては、『収穫の日』のために。
「待ってるからね」
か細く震えたナンシェの声に、リストは何も言わずに頷き、踵を返した。――あどけない顔立ちに似合わない、覚悟を滲ませた表情で。
* * *
「ケット」
墓地を背に、しっかりとした足取りで歩を進めながら、リストは静かに呼んだ。その瞬間、ぞくりとリストの背筋に悪寒が走り、蛍の群れのような光の粒子が傍らに現れた。数多の金粉は徐々に形を成し、小さな人影を創り出す。まるで、人を包んだ光の繭――その中から現れたのは、八歳ほどのブロンドの少年だった。古代ギリシャを思わせるワンピースのような白い装束を身にまとい、キラキラと輝く鱗粉を散らして、腰まで伸びたその金髪をなびかせる。リストのそれとは違い、本物の黄金のような髪色だ。
彫刻と見まがうほどの白磁の肌に、瞼がふっと開けば大きな金色の瞳。太陽の光をこれでもかというほどに反射して輝く二つの黄玉は、まっすぐにリストへと向けられた。
「はーい」
光から生まれた少年は、無邪気に両手を上げて飛び跳ねた。にこにこしてはしゃぐ様子は、ただの子供にしか見えない。その圧倒的なまでの美しい容姿を除けば……。
リストは彼に振り返ることもなく、凛々しい表情で言葉を続けた。
「『収穫の日』まであと半年……」
幼い少年はそんなリストの言葉に、無邪気な笑みを浮かべた。
「うん。まずは、『収穫』を阻止しなきゃね」
リストは、ちらっと少年をみる。
「リチャードのときみたいに、助けてくれな。ケット」
にこっと微笑んでそう言うと、ケットは嬉しそうに何度も頷いた。
「もちろん。そのために、ケットはいるんだよ、リスト・マルドゥク」
「そうだね」そして、オレは……とリストはふと思った。「そのために創られたんだ」