親父
カインノイエを抜ける。息子の一人がそう言った。今までこんなこと、ただの一度もなかった。怪我や病気で抜ける者はいたが、自分の意志で、目的をもってやめたいと申し出る子供は彼が初めてだ。藤本は、自分の顎が震えていることに気づいた。あふれてくるものがあった。目頭をおさえ、「そうか」と搾り出すように言う。やっと……この日が来たのか。藤本は、肩の荷がおりたような気さえした。自分は、ずっとこのときを待っていたんだ。藤本はそう思うと、あふれでる涙を止められなくなった。
子供たちのために創ったカインノイエという組織。やがてそれは、子供たちの生きる道を狭めることになってしまった。――少なくとも、藤本はそう感じていた。自分を神のようにあがめ、言われたことに何の疑問も持たずに実行する。彼らに、そんな偽りの『使命』を与えてしまったのは他ならぬ自分だ。ずっと罪悪感があった。彼らを『無垢な殺し屋』にしてしまったこと。彼らからカイン以外の選択肢を取り上げてしまったこと。それがやっと……やっと一人、自分で生きる道を見出した子供が現れた。
「藤本さん……すみません。恩を仇で返すような……」
独り立ちしようとしている息子は、申し訳なくそう言い出した。いや、違うんだ、と藤本は言おうとするが、喉がつまって声が出てこない。彼はどうやら、自分が泣いている理由を勘違いしている。誤解を解かなければ、と藤本はなんとか自分を落ち着かせた。
「ありがとう」
最初に出てきたのは、その言葉だった。少年は、え、と眉をひそめる。藤本の表情に、怒りや悲しみはない。息子を誇りに思う父親の顔だ。
「信じる道をいきなさい。お前の人生なんだから」
和幸はぎこちなく笑んで、藤本の言葉を噛み締めるように何度も頷いた。
「これから、どうするつもりなんだ?」
落ち着いた声で、藤本はそう尋ねる。和幸はしばらく間をおいてから、照れ笑いのようなものを浮かべた。
「学校辞めて……バイトして金貯める」
その言葉に、藤本は顔をしかめた。
「学校を辞める? 何言ってるんだ?」
「カインノイエを抜けるんだ。『おつかい』をしないのに、藤本さんにもう甘えるわけにはいかない。マンションも、もっと安いところに引っ越すよ」
学校にマンション。藤本は、これがどういうことなのか理解した。カインを辞める今、藤本から金銭面の支援ももう受ける気はないということか。カインの中でも一際真面目な性格の彼なら、そう考えても不思議ではない。だが、と藤本は悲しく微笑んだ。
「お金の面倒くらいみさせてくれ」
無力の自分には、それくらいしか手伝ってあげられないのだから、と心の中でつけくわえる。
「でも、それじゃ、けじめがつかない」としぶる和幸に、藤本は首を横に振った。
「せめて、高校を卒業するまでは父親面をさせてくれ。これはわたしのけじめだ」
そう言われ、和幸は言葉に詰まった。
「高校は卒業してくれ。頼む」
懇願するように、藤本は和幸を見つめる。
いくらけじめだといっても、藤本からの仕送りがなくなれば、和幸は道端でのたれ死ぬことになるだろう。今からバイトで金をためるといっても、たかがしれている。生活もままならず、結局裏のビジネスに身を落とす、なんてことになりかねない。
和幸もそれは十分分かっているだろう。結局、観念したように和幸は遠慮がちに頷いた。それを見て、藤本は安堵したように微笑む。
もう少しだけ、和幸の父親面が出来ることも嬉しかった。
ちょうどそのとき、誰かが扉をノックした。
「和幸くん?」という遠慮がちな声が聞こえる。
和幸は振り返ると「どうした?」と答える。
「ごめんね。ちょっと、話があって……」
扉の向こうから、そう返事が来る。なにやら深刻そうだ。
和幸は藤本に振り返ると、名残惜しそうに苦笑した。
「行かなきゃ」
藤本は深く頷く。あの声は、神崎カヤだ。そうか、連れてきていたのか、とほほえましくなった。やはり彼女だったか、と納得する。
和幸に変化をもたらしたのは神崎カヤという存在だ。『おつかい』をさぼり、そしてとうとうカインを辞めた。ベッドサイドテーブルに目をやると、そこには銃が横たわっている。和幸が十三のときに自分が渡した古い拳銃だ。武器を捨てて守りたい大切な誰か……それは、彼女なんだな。藤本は、目を細めた。
「また、見舞いに来るから」と去り際に和幸は微笑んだ。「親父」とぎこちなく付け加えて。
***
「親父、か」
和幸が出て行った部屋で、藤本は感慨深げにそうつぶやく。
「そう呼ばれるのに、十二年かかったなあ」
真面目な性格だからこそ、和幸は誰よりも自分が『創られた』ことに戸惑っていた。カインの中で、一番それにコンプレックスを抱えていたのは彼だろう。カインの中で唯一、人を殺さなかったのも……そして、自分を十二年間、父と呼ばなかったのもその現われに違いなかった。それが、彼は今、自分を父と呼んだ。何があったかは分からないが、どうやら自分の存在とやっと向き合えたようだ。それもきっと、彼女のお陰なんだろう、と藤本は苦笑する。
「やはり」と藤本は朝日が差し込む窓を見つめた。「人を救うのは愛なんですね」
それは、実家――つまり、カインノイエの隠れ家である、あの教会に居た神父の言葉だ。
――この世に愛がある限り、人は救われます。
藤本は、満足げにため息をもらし、体を倒した。




