真紀
タクシーをつかまえなきゃな、と和幸くんが隣でつぶやいて、それからぶつぶつ何かを言っている。耳をすませば、この辺はタクシー少ないんだよな、とかなんとか言うのが聞こえた。それに、早朝だしね。私は心の中で相槌をうつ。
「あ」
ふと、私の目に、白いコンクリートの小さな建物が飛び込んできた。正門のすぐ近くにある体育倉庫。つい、ぎゅっと和幸くんの手を強く握り締める。
「どうした?」
それに気づいたのか、和幸くんが優しく声をかけてきた。
「あ、なんでもない」
わざわざ、話すほどのことでもない。ちょっと、大野って人のこと……思い出してしまっただけ。和幸くんに変な心配かけたくないし。
「曽良でも呼び出して、タクシー捕まえさせるかぁ」
和幸くんは相変わらず、帰る方法を探していた。私は通り過ぎざま、横目で体育倉庫を見つめる。私はもう少しで、ここで……そう思うとゾッとする。考える必要はないのにね。もう、大丈夫なんだから。ただ、気になるのは……なぜか、扉がなくなっていること。夕べまではあったのにな。どうしたんだろう。よく目をこらせば、倉庫の中でひしゃげて転がっている。まるで、外からふっとばされたみたい。まさか……和幸くん、かな。私は、苦笑してしまった。
そのときだった。私は……体育倉庫の中に、ある影を見つけた。ここからじゃ、はっきりとは分からないけど……誰かが倒れている。
「あれは……」
嫌な予感がする。私は和幸くんの手を離し、体育倉庫に走り出した。
「あ、おい!? カヤ!?」
後ろから、和幸くんの戸惑う声が聞こえる。私は、走りながら振り返る。
「長谷川さん、倒れてるの!」
「え!?」
そう。あの茶色い髪。あの服装。私には見覚えがあった。倒れているのは、和幸くんのオリジナル……長谷川さんだ。
***
「長谷川さん!」
カヤは、体育倉庫に駆け込んで、倒れている青年に呼びかけた。青年は、うつぶせに倒れている。床には、血のあと。カヤはぞっとした。
「長谷川さん!?」
あわててしゃがみこみ、青年を仰向けに動かした。カヤはその顔を見て、言葉を失う。もう、この青年が正義かどうか、分からなくなっていた。頬や目ははれ、歯もかけている。頭からは血がながれ、額が赤くそまっている。
「正義……?」
遅れて入ってきた和幸も、正義のその状態に呆然とした。
「長谷川さん、しっかりして」
カヤは、正義の頬に手をおき、優しくなでる。和幸はその様子をみて、改めて彼女の心の深さを実感した。騙されてさらわれて、ひどい目にあわされたというのに……よくそこまで本気で心配できるな。自分は、そこまで器は大きくない。正義を逃がしたのは、カヤのため。俺は許したわけじゃない。和幸は、冷たい視線で正義を見つめながら、そんなことを頭の中で考えていた。
「和幸くん、救急車!」とカヤは切羽詰った表情で振り返る。
「呼ばなくていい」
かすれた低い声が聞こえた。カヤはハッとして、正義に目を戻す。腫れた目を、できる限り開けようとしているのが分かる。
「長谷川さん!」
カヤはほっと安堵し、微笑んだ。そうっと正義の頭を抱えあげ、ひざにのせる。
和幸はそれを見てぎょっとした。いくらけが人とはいえ、膝枕はやりすぎではないか。それに、相手は一応自分のオリジナルだ。いい気分ではない。気に入らない表情を浮かべて、二人のほうへ歩み寄る。
「なにがあった、正義?」
心配する様子もなく、和幸は腕を組んでそう尋ねる。だが、正義はぴくりとも反応しない。じっとカヤを見上げている。
「病院は、だめだ……俺は大丈夫だから」
俺は無視かよ、とますます和幸は気分を害す。
「でも、ひどい怪我だし」
「真紀……」
「え?」
いきなり、正義は体育倉庫の天井を見上げ、朦朧としながらその名前をつぶやく。
「真紀……真紀……」
壊れたプレイヤーのように、その名前を繰り返し続ける。さすがにその様子に、和幸も眉をひそめた。
「真紀?」カヤはアドバイスを求めるように、和幸を見上げる。「誰?」
クローンだといっても、分かるわけがない。和幸は力なく首を横にふった。
「とりあえず……タクシー拾ってくる。病院に連れて行こう」
「でも、病院は」とカヤは慌てて引き止める。本人が嫌だ、というのだ。何かしら事情があるだろう。
和幸にも、それは分かる。だが……このまま、放っておくわけにもいかない。というより、カヤがそれを許さないだろう。まさか、正義も治療してほしくないわけではないはずだ。きっと、警察沙汰を避けているだけだ。
「カインノイエが世話になってる医者がいる。その人なら、事情も分かってくれる」
カヤの返事を待つことなく、和幸は体育倉庫から出ていった。タクシーを拾いにいったのだ。だが、この辺はタクシーが拾いにくい、とさっき文句を言っていたはず。カヤは、ふうっとため息をつく。しばらくかかりそうだ。カヤは正義へと視線を戻した。相変わらず、ひざの上で朦朧としながら「真紀」とつぶやいている。
「真紀って誰なの?」
あざに触れないように気をつけながら、カヤは正義の顔をなでた。
「真紀、すまない……すまない」
気づくと、カヤの手には正義の涙がつたっている。カヤはハッとし、静かに涙を流す正義の瞳をじっと見つめた。もしかしたら、彼のあの異常な行動には、何かわけがあったのかもしれない。カヤは、そう思い始めていた。
***
すぴー、すぴー、という気持ちよさそうな寝息が、待合室に響いていた。ソファに腹をだして寝ている少年が一人。
ここは自宅を改装した小さなクリニックだ。白を基調とした壁。待合室には水槽と大型テレビ。そして、寝心地のいいソファがある。
「曽良くん、起きなさい」
三十代後半。縁無しめがねをかけた男性が、ぱたぱたとスリッパをならして待合室にはいってきた。四角い顔に、くっきりとした二重。目じりには、同世代よりもずっとはっきりとしたシワがきざまれ、さらさらとした黒髪は、七三にわけられている。
「ほら、曽良くん! 診療時間がくるよ」と、ソファにだらしなく寝ている少年の尻をはたく。
「筒井さぁん……俺、頭が悪いんだぁ。診察してくださぁい」
ソファに寝ている少年、曽良は、えへへ、となぜか嬉しそうにそう言った。筒井は、大きくため息をつく。
「それは、自分で治せるでしょう」
「生まれつきでしたぁ!」
曽良は、ムンクの叫びのように、手を両頬におしつけた。
「いいから、さっさと起きなさい! やることがあるんでしょう?」
呆れて筒井は、曽良の尻を今度は思いっきりたたいた。痛い! と叫んで、曽良はソファをごろごろしている。
「まったくもう……これが、未来のカインのリーダーですか」
やれやれ、と筒井は頭を横に振った。そのときだった。
ドンドン、と誰かが入り口のドアをたたくのが聞こえてきた。これには、曽良も驚いて飛び起きる。
「さて、一人目が来ましたよ」と筒井は白衣をなびかせ、入り口へと向かった。