救世主の条件 -7-
「はあ……はあ……」という荒い息が暗い教室に響く。
怖い。
あの人、すごい怒っていた。「そいつ、捕まえろ」という彼の怒鳴り声が頭に響く。私は口をおさえる。気分が悪い。血の味がする。ごめんなさい。痛かったよね。人に噛み付くなんて……最低。
でも、仕方がなかった。そうやって隙をつくるしか、逃げ出す方法はなかった。私は、長谷川さんが手を離し、大野という男が私の腕をつかんだその瞬間、思いっきり噛み付いた。というより……気づいたら、噛み付いていた。必死だった。何かしなくちゃ。その思いでいっぱいだった。そして……無我夢中で走り出したのだ。
「う……」
嗚咽がもれた。涙がでてきた。
「和幸くん……和幸くん……」
教卓の中に、私の涙声が反響する。長谷川さんは、後ろから追ってきていた。きっと、この校舎を隅から隅まで探していることだろう。ここにも……いつか来る。あまりにもパニックになって、軽率な判断をしてしまった。校舎に逃げ込んだら、とじこめられたも同然なのに。でも、正門のほうには長谷川さんがいたし。
あぁ、後悔してももう遅い。どうしよう。ここにずっと隠れていたら見つかるのをまっているようなものだよね。思い切って校舎から抜け出そうか。
どくん、どくん、と心臓がはやくなる。
だめだ。怖い。足がすくむ。私はぎゅっとひざを抱える。
教室からでて、長谷川さんに見つからないように昇降口まで戻る。できないことはないだろう。でも……単純に、怖い。勇気がでない。次に見つかって、大野という人のもとに連れて行かれたら、今度こそ何をされるか分からない。ひどく怒っていたもの。そして、もし私がまた暴力をふるわれるようなことになったら……和幸くんは……
だめだ。私は首を横に振る。考えただけでもつらい。和幸くんが私のせいで、誰かを殺すなんて……。和幸くんがあの警官四人を殺したのかどうかは、まだ分からない。結局、聞けていないもの。でも、変わらない気がした。もし、殺していなかったとしても……ここで私に何かあれば、和幸くんは過ちをおかしてしまう。そういう気がしてならない。和幸くんは優しくて、いつも私のことを心配してくれる。その優しさが……引き金をひかせてしまう気がする。私が止めなきゃ。
でもどうやって……? 教卓の中に隠れている私に、これ以上何ができる?
「!!」
びくっと体が震えた。扉の開く音。キュッキュッという足音。
誰かが入ってきた。すぐそこにいる。私はぐっと体を教卓の奥に押し込める。音をたてないように……。
荒い息が聞こえる。誰かは姿を見なくても分かる。この校舎にいるのは、私と……長谷川さんだけだ。少なくとも、生きている人間は。
長谷川さんは、教室の後ろへと向かっていった。足音でしか判断がつかないけど……。ガシャッという音。何か鉄の扉を開く音だ。きっと……掃除用具入れだ。私を探している。
お願い。どっかへ行って。体が震え、意思に反して涙があふれてくる。今、泣いている場合じゃないのに。嗚咽がもれないように、私は口を押さえた。
和幸くん。会いたい。恋しい。好きだ、て伝えたい。抱きしめてほしい。そう思うと、余計に涙があふれ、息が苦しくなってくる。
「うっ……」
しまった。声が……もれた。私、なんてばかなの。
ガタッと教室の後ろから机がゆれる音がした。胸がやけるように熱くなる。もう……だめだ。私は覚悟した。
足音が近づいてくる。体が震える。だめだ。腰が抜けたように、体が動かない。
バン、と教卓に手をおく音が響いた。私は、祈るように目をつぶる。
――ごめんね、和幸くん。
「カヤ!」
すぐ目の前から聞こえた。びくっと私の体が反応する。声……やっぱり同じだ。和幸くんそっくりだ。でも、もう騙されない。私はぐっとひざを抱く手に力をいれる。そうやって、和幸くんの声で私を呼んでも……
ぐっと唇をかみ、私は目を開く。
「あなたは和幸くんじゃない!」
「ひどいな」
え……。
私は、目の前でしゃがんでいる人物をじっと見つめた。涙が、ぽろりと落ちる。
「迎えに来た」
そういって、彼は私に手を差し伸べた。
「遅くなって悪かったな、カヤ」
「……」
「もう、大丈夫だ」
肩が震える。熱い何かがみぞおちからこみあげる。
もう、間違ったりしない。この優しい笑顔。包み込むようなあたたかいオーラ。居心地のいい安心感。傍にいるだけで感じる安らぎ。
「和幸くん」
私は、彼の手をとることなく、彼に飛びついた。
一番大切な……愛する人の胸に。