救世主の条件 -5-
「フォックス! なにしてるのです?」
いらだった声をだしたのはバールだ。相変わらず暗い部屋で、ソファにすわって鏡を見つめる主人に叱り付けている。鏡には、正義に腕をひっぱられて歩くカヤが映し出されている。
「声がないから状況はよく分からないけど……」
この鏡は、アトラハシスの一族に伝わる贈り物だ。どこにいようと、フォックスが願えば『災いの人形』の姿を映し出してくれる。さらに、この鏡に宿る天使であるバールは、この鏡に映る場所に瞬時に移動することもできる。『災いの人形』を守る使命をもつアトラハシスにとって、この上なく便利な道具だ。ただ一つ問題があるとすれば、会話までは聞くことはできない、ということだろう。
「明らかに様子がおかしいでしょう? ほら」
バールは、フォックスの持っている鏡を指差す。鏡の中で、何度もカヤは腕をふりはらおうとしている。だが、そのたびに正義に何か言われ、ひきずられるように歩いている。
「何かしなくていいのですか?」
妖艶な天使は腰に手をあてがい、大きくため息をついた。まるで宿題をしない息子に呆れる母のような態度だ。
彼女の主人は、藤本和幸という少年が『災いの人形』を連れ出してから不可解な行動をとるようになった。いや、正しくは……何も行動をとらなくなってしまった。以前なら、『災いの人形』に少しでも近づこう輩がいるものなら、すぐにでも呪いをかけて脅していた。それが、最近はただ見ているだけ。昨日なんて、そのせいで『災いの人形』は男に殴られてしまったのだ。今までなら、考えられないこと。策を変えたのだ、と何度も言われるが、バールには納得がいかなかった。
「まさか、これを痴話げんかだとでも思っています?」
バールはふっくらとした唇をとがらせてそう言う。
フォックスもバールも、鏡の少年を和幸だと勘違いしていた。会話が聞こえない状態では、和幸とカヤが二人ででかけたようにしか見えなかったのだ。フォックスが何も行動にでないのも、それが大きな原因だった。
「この会話を何度繰り返すつもりですか?」
フォックスの落ち着いた声が静かな部屋に響く。バールは、はいはい、と不満そうに返事をした。
「彼がカヤを愛すること。それが、カヤが生き残る鍵です」
「もぉ、さっぱり意味がわかりませんわ」
「ルルである彼がいれば、マルドゥクも恐れるに足りません。ルルには、彼らは手を出せませんから」
バールはその言葉に、ぴくりと眉を動かした。人間を守る神の一族・マルドゥク。それは、本来ならフォックスが仕えるべき一族。だが、彼はそのマルドゥクを見限った。十七年前の、あの事件から……。
「だから」と、フォックスは整った顔に、微笑を浮かべる。「困難は二人で乗り越えてもらいます」
その言葉に、バールは肩をすくめる。
「障害こそ、愛を深める。そういうことかしら」
返事をすることなく、フォックスは黙って鏡を見つめていた。バールは、やれやれ、と背すじをのばす。またしばらく、暇な日が続きそうね、と落胆しながら。
***
「大野!」
体育倉庫は、正門のすぐ近くにあった。白いコンクリートで囲まれた長方形の小さな倉庫だ。
長谷川正義は体育倉庫のドアを何度もたたいた。
「長谷川さん」と私は震える声で問いかける。「お願い。考え直して」
こんな説得も無意味なんだろう。私にはそれは分かっていた。彼の目は、ずっとずっと遠くを見据えている。目の前の小さな犠牲なんていとわないんだ。いや、見えていないのかもしれない。そんな覚悟が言葉がなくても伝わってくる。
でも……どうしようもなく、怖い。なんとか、気が変わってくれないだろうか。私は藁にもすがる思いで長谷川さんに懇願する。
「長谷川さん、お願い!」
「大丈夫だよ」
長谷川さんは、私に微笑みかけた。とても、冷たい笑顔。和幸くんはこんな笑顔、私に見せたことなんてない。
「すぐに助けがくるから」
「!」
「こいつがいなくなれば、大勢の人が助かるんだ」
長谷川さんがささやくように私の耳元でそう言った。エゴの塊だ、この人。説得なんて、到底無理な話だったんだ。私は愕然とした。このまま、大野という人に渡されたら……どうなるんだろう。
そのときだった。ガガッと耳障りな重い音が響き、倉庫の青い扉がゆっくりと開きはじめた。
「なんだ、正義」
扉の隙間から、だるそうな声が聞こえてきた。扉が開くにつれて、男の顔が段々と見えてくる。
和幸くん……ごめんね。私は目をつぶって、そう心の中でつぶやいた。自分でも、一体何に謝っているのか分からない。
……。
いえ、何で謝ったの? 私はハッとして目を開ける。これじゃ、だめよ。諦めてどうするんだ。私は強くなるんだ、て決めたのに。このままじゃ、長谷川さんの思い通りになってしまう。なにが、「私が守る」だ。結局、和幸くんの助けを待つだけじゃない。なんとかしなきゃ。
顔をあげると、体育倉庫の扉の間から、上半身裸の男が姿を現していた。パーマがかった肩までの長髪。ほっそりとした顎にはそり残したひげ。女性のように細い眉。細い目。すっきりとした鼻筋。薄い唇。ワイルドな色気のある男の人だ。この人が、大野。
私は、ごくりと唾をのんだ。
***
低所得者層があつまる住宅街にそれはあった。五年前までは子供の声が響き渡っていたはずの建物は、今やまるで心霊スポットのように暗く重い雰囲気がただよっている。唯一、体育館からは夜な夜な人の声が聞こえてくる。それは幽霊ではない。いや、幽霊よりも恐ろしいだろう。狂った男たちの馬鹿騒ぎだ。
そんな体育館から、一人の男がでてきた。目をこすりながら「あー、見えない」とつぶやいて千鳥足で校庭を歩いている。彼は、いつのまにかコンタクトを失くしていた。気分も盛り上がらないし、ハッパでも吸わなきゃやってられない。だが、面倒なことに、その持ち主は今、体育倉庫で『お楽しみ中』だ。いちいち、外にでて取りに行かなくてはならない。
「よくみえねぇ」と言いながら、男は体育倉庫へと歩を進めた。目をこすりつつ、倉庫の扉をたたく。
「お~い、大野!」
そう大声で怒鳴ったときだった。カチャッとつめたい音が聞こえ、後頭部に何かがあたるのを感じる。
「え?」と、男はぼうっとしながら振り返った。
「大野は、ここか」
それは、ずいぶん若い声だ。それも、どこか聞き覚えがある。つい最近聞いた気がする。だが、頭がぼうっとして思い出せない。暗くて相手の顔はよく見えないが、どうやら自分は銃をつきつけられているのは分かった。男は、はは、と笑う。
「はあ? お前、誰? なに、これ? 偽物だろ? あぁ、コンタクトおちて、よくわかんねぇ」
「……」
シカトかぁ、と言おうとしたとき、銃がぐっと頭に押し付けられる。
「大野はここか」
「!」
それは……恐ろしく、冷静な声だった。男は、恐怖で身震いをする。初めて、殺気というものを知った気がした。
「この、中だよ」
男は、半笑いでそう答えていた。
***
「あ……」
いろっぽい女の声が、暗い体育倉庫に響く。大野は彼女に馬乗りになり、スカートの中に手をすべらせていた。
「すっげぇいい女だよ、お前は」
そう耳元でささやき、大野は首筋にキスをする。女の呼吸が乱れ始め、大野はにやりと微笑んだ。
そのときだった。ガガン、と耳をつらぬく大きな破壊音がして、何かがふっとんできた。暗かった体育倉庫に、月明かりが入ってきた。あたりにはほこりがまいあがり、思わず大野は咳き込んだ。「なんだ?」と困惑し、体を起こすとその『何か』に目をやる。それは地面に横たわっていた。大きなへこみを中心に、ぐにゃりと変形している。大野は状況がつかめなかった。一体、なぜ……頑丈な体育倉庫の扉がふっとんできたのだろうか。
ふと、何者かの影が体育倉庫に入ってくる。大野は顔をあげ、扉がなくなった入り口に目をやった。そこには、月明かりを背にして少年がたたずんでいる。
「迎えに来たぞ、カヤ」
少年は、そう言った。どこか、聞き覚えのある声で。