救世主の条件 -3-
「そうか」と、正義は真面目な表情で電話に応える。「銃は?」
隣に座るカヤは、その単語にハッとした。銃? 何の話だ。そもそも、誰と話している? じっと正義の横顔を見つめると、自分の不注意さに気づいた。よく見れば、和幸よりも大人びた顔だちをしている。おそらく、二つか三つほど年上なのだろう。帽子をかぶっていたせいもあるが……微塵も疑わなかった。せめて、曽良をまつべきだったのだ、とカヤは後悔していた。
「安心しろ、幸太郎。うまくいく。俺のクローンだ。どうしようと俺の勝手だろう」
俺のクローン。和幸のことを話している。カヤは、ごくりと唾をのんだ。よく分からない感情が心にうずまいていた。どうしようと俺の勝手……その言葉を聴いた瞬間、感じたことのない気持ちがこみあげてきた。ぎゅっと唇をかみしめる。
「クローンのほうもすぐに来る」と、正義は携帯電話を閉じながら、カヤに告げた。
タクシーは渋滞をぬけ、住宅街を進んでいた。
「どういうこと!?」
「君を助けに来るんだ」
カヤに振り返った正義の顔は、覚悟に満ちていた。
助けに来る……カヤには、その意味が分からなかった。和幸のオリジナルと一緒にタクシーに乗っているだけで、危ない目にあっているわけではない。和幸が『迎え』に来るのは分かるが、『助け』に来るのはなぜか。まさか、これから……助けが必要な状況に陥るのだろうか。カヤはゾッとした。
「あなた、何をしようとしているの?」
「大野という男がいる」と、正義はおもむろに切り出す。「悪の根源だ」
「え」
「帝国大学の医学部なんだが……」
帝国大学。カヤは、ぎょっとした。それは、今のニホンで最も優秀な大学だ。いや、とびぬけている、といったほうが適切だろう。そこの医学部となれば、世界でもトップクラスの頭脳の持ち主、となる。それが、なぜ悪の根源というのだろうか。
「そいつは、大学内で大麻を売りさばき、学生から金をまきあげている。遊びでね」
「!」
大麻? カヤはその馴染みのない名前にぎょっとした。今まで、周りでその名前がでたことはただの一度もない。自分には一生無関係のものだろう、と思っていた。
「それが段々エスカレートして、今じゃ大学周辺の住宅街でも大麻が充満するようになった。この辺もそうだ」
カヤはじっと正義を見つめていた。その表情は真剣だ。でたらめを話しているわけではないだろう。本当に……帝国大学の人間が大麻を売っているのか。そして、それを買っている学生がいる。カヤは、ショックを受けて言葉を失った。
――警察は、もう機能していません。腐敗しているんです。
今朝の藤本の言葉がカヤの頭に蘇る。警察も崩れ……そして、国のトップの教育機関まで、汚染されているなんて。一体いつから狂いだしていたのだろう、とカヤは胸を痛める。
だが、今はそんな心配をしているときではない。その話と今のこの状況が一体、どんな関係があるのか。それこそ、今、自分が考えるべきことだ。
「おまけに、そいつは……」と正義は続ける。「今まで大麻を買った人間の名前を全部データに残している。証拠の写真とともに」
正義の顔がこわばるのにカヤは気づいた。カヤは、眉をひそめ、正義の顔色をうかがう。やはり、急に汗がふきだし、目が泳いでいる。
「あなたも……買ったのね」
カヤは気づくとそういっていた。正義は、ハッとしてカヤに振り返る。しばらくカヤを睨みつけ、正義はまた顔を前に向けた。
「俺じゃない」
押し殺したような声だった。え、とカヤは眉をあげた。
「とにかく……あいつは、それで客をゆするんだ。無理難題をつきつけてくることもある」
正義は、くやしそうな表情をうかべている。無理難題。それが一体何を意味するのか、カヤにはよく分からなかった。このときまでは……
「今回は」と正義はカヤに視線をやる。無理難題の、最も分かりやすい例を正義は知っていた。「素人の若い女を用意しろ。そう言ってきた」
「え」
正義は、じっとカヤを見つめている。どこか、同情するような目で。
それは、ちょうどタクシーが止まったときだった。カヤは、ハッとする。自分の息があがっているのに気づいた。正義の言っている意味が、じわじわと分かっていく。正義が用意した女は……自分だ。あわててタクシーから飛び降りようと、シートベルトをはずす。だが、ドアの取っ手に手を伸ばしたところで、正義の手がカヤの腕をつかんだ。
「大丈夫だ!」
正義の声がタクシーの中で響いた。
タクシーの運転手は、これだけ騒いでいても、特に気にする様子もない。トーキョーでタクシー運転手をしていれば、こんなことは日常茶飯事だ。無関心がここで生き残る方法。運転手はたばこをすいながら、正義が金を払うのをただ待っていた。
「『大丈夫』? 麻薬を売るような男に私を渡すんでしょう? どうして大丈夫なの? なにされるか、想像つくでしょう!?」
カヤは、おびえた表情で正義に振り返った。
いつも、和幸が自分に投げかけてくれる「大丈夫」という言葉。同じ声なのに、こんなにも違って聞こえるのか。カヤは、自分が正義の見かけで騙されたことに強く嫌悪した。まるで、別人じゃないか。なぜ、こんな人を和幸と勘違いしてしまったのだろう、と。
「言っただろう。俺のクローンが助けに来ると」
カヤは眉をひそめる。正義本人がカヤを陥れておいて、和幸が助けに来るから大丈夫だ、とはどういうことなのか。正義の狙いがさっぱり分からない。
「殺し屋、なんだろ。俺のクローンは」
唐突に、正義はそうつぶやいた。カヤは、答える気配さえ見せず、ただ正義を凝視していた。そういえば、さっきもこんなことを言っていたな、と思い出す。『殺し屋』の女だろ、と聞いてきた。どうやって、和幸の正体を調べ上げたのかは分からないが……どうも、『殺し屋』という事実に固執しているように感じる。
「それを知ったとき、愕然としたよ」と、カヤの腕をつかんだまま、正義は言う。「俺のクローンは犯罪者なのか、と」
犯罪者……カヤは、その言葉を聞き流すわけにはいかなかった。
「違うわ。和幸くんは、そんなんじゃない」
だが、その言葉に正義は耳を貸すこともなく、言葉をきり返す。
「それならば、と思った。俺が……責任をもって、そのクローンを正しく使ってやらなきゃいけない、と」
「え」
使う? この男は、今、そう表現しただろうか。
カヤは、目の前の男はとんでもなく危険な人物なのではないか、と思い始めていた。正しく使う……人に対して、そんな言葉が出てくること自体、異常だ。
「正義の『殺し屋』なら……俺は許してもいい、と思ったんだ」
「正義の、『殺し屋』? 許す?」
あまりにも言っている意味が理解できず、カヤには鸚鵡返しすることしかできない。
「正義をなすためには、犠牲も必要だ。悪を消し去るために、ときに『手段』に目をつぶる必要もあるだろう」
「何言っているの?」
「俺はこの国を変える男だ」
「!?」
正義は唐突にはっきりと言った。迷いも疑いも感じられない。それは、将来の夢、などという美しいものではない。この男からは、野心と絶対なる自信が感じられる。それは、高慢としか思えないものだった。カヤは息をのむ。やはり、普通ではない。
「だからこそ」と、正義は言葉を続ける。「神は俺に『殺し屋』のクローンを授けた。そう思えて仕方がない。これは、サインなんだ。俺は……自分の分身をうまく使って、世の中を浄化させなくてはならない」
正義は、どうやらカヤが聞いていようがいまいがどうでもいいようだった。自分の言葉に陶酔している。愛しい人と同じ顔をした男の、恐ろしく異常な言葉。カヤは、自分の精神がおかしくなりそうだ、と不安になった。
震えているカヤを気にする様子もなく、正義はじっとカヤを見つめた。緊張と覚悟。それが表情に見え隠れしている。
「まずは、大野からだ」正義は低い声で言った。
「!」
それは、独裁者の横暴な宣戦布告のようだった。
カヤの目から、涙がぽろりとこぼれた。無表情で、正義をじっと見つめる。ああ、そうか。カヤは、むなしい絶望感に襲われた。
「和幸くんにその人を殺させる気なのね」
まるでささやきのような、か細く弱弱しい声だった。
「……」
正義は何も言わない。そして、動揺もしていなかった。彼は、自分の行いを完全に正当化していた。これから起こることは、正義のためには仕方のないことなのだ。いつだって、犠牲は必要だ。これは第一歩にすぎない。正義は自分にまるで暗示のようにそう言い聞かせ、未来の自分の栄光に思いをはせていた。
カヤは、自分の勘があたってしまったことを確信し、そして落胆した。涙が次から次へとこぼれてくる。
「そのために、私を……その人に渡す」
『殺し屋』の女なんだろ、という言葉が、カヤの頭に響いた。カヤはぐっと悔しそうに唇をかむ。
「あなた……和幸くんのオリジナルなんかじゃない。まったくの……別人よ」
正義は、ぴくりとも表情を変えなかった。
作中で語られる帝国大学は、実際にあった帝国大学とは一切関係ありません。旧帝国大学ともまったくの無関係です。
ご了承ください。