八 もうすこし眠っていてくれますか
目が覚めた時、由香は鈴木研究室の椅子に座っていた。少し離れたソファーには麻紀が横になっていた。由香のナイフが刺さった場所にはきちんと包帯が巻いてあった。
由香はテーブルに置いてあった自分の刀を手元に寄せた。誰かが下の階から拾ってきてくれたのだろう。
「おはよう」
後ろから聞こえた声に反応して、由香は威嚇の為に刀を振り回した。しかし刀は自分が止めようと思ったより手前で止まった。振り返ると、そこにはユキが立っていた。
「ユキ!」
「久しぶりね。元気そうで良かったわ。それよりあなた。こんな所で何をしていたの」
「わたしは、その子と……」
麻紀が寝返りを打ち、ソファーからころげ落ちた。
「痛っい!」
由香が思わず吹き出したので、ユキもつられてクスリと笑った。
「わたしはね、あなたの為に戦っていたの」
「わたしの為?」
「そうよ、その子があなたの目覚めを邪魔するなんて言うものだから」
麻紀がテーブルに手をかけながら立ち上がり、ユキを見て驚いた。それからその隣りにいる由香に気付いた。
「まさか」
「紹介するわね。彼女がユキよ」
「恵美は間に合わなかったの?」
「残念ね、吉野麻紀ちゃん」
ユキは麻紀の名前を知っていた。
「どうするつもりなんですか?」
「どうしたらいいと思う?」
「まだ、眠っていてもらえると、とても嬉しいんですが」
「あら、どうして」
「今はまだ、あなたの時代じゃないと思うからです」
「なぜ?」
「ただ何となく。確かな根拠は無いけれど、そう思うんです。まだ起こしてはいけないと感じるんです」
「そう。さすがは吉野千里の娘さんね」
「どうして母の名前を?」
「まあね。それより、あなたのその感覚は大事にしなさい。いつかきっと役に立つはずだから。それからね、あなたの考えは良く分かるけど世の中には、そう思わない人もいるわけなのよ。今のわたしを必要としてくれる人たちが沢山ね」
「でも彼らは、多分あなたの力を利用しようとしているだけです、だから――」
「どちらが正しいか、いま貴方に判断できるのかしら」
「それは」
「少なくとも玲子は、わたしを利用しようとはしていないはずよ。ねえ、由香」
「わたしには、良くわからない」
「貴方はどうしたいの?」
「わたしは……。わたしはただ貴方に会いたかった。それだけよ」
「そう。実はわたしもよ、由香」
「封印は解けたの?」
「いいえ、まだほんの一部、意識が戻っただけなのよ。だからこれから戦うの。わたしを解放するか、封印するか、命をかけてね」
「じゃあ、わたしも行かないと」
ユキは、部屋を出ようとする由香の体を引き戻して抱きしめた。
「貴方はもういいのよ、由香。もういいの。これからはわたしと一緒に生きましょう」
「ユキ?」
「貴方は私の一部となるの。そうして永遠に生き続ける。素敵でしょう」
「うん。素敵ね」
ユキの手が由香の頬にふれ、ユキの唇が由香の唇に重なった。白く光りだした由香の体は、細かい結晶に分解され、最後は光の粒になって消えていった。
麻紀には何が起こったのか理解できなかった。
「彼女は、どうなったんですか」
「わたしと同化したんですよ。そうすることでわたしは力を付けて来たのです」
ユキは残された由香の刀を拾い上げ、麻紀に向かってそれを構えた。
「彼女の力は、いま、わたしの中にある」
麻紀の前に立ったユキの姿は、由香の構えそのものだった。麻紀も自分の刀を力いっぱい握り締めた。ユキにはまったく勝てる気がしなかった。戦えば命を落とすと解ってしまった。
「由香とあなたは互角のようですが、わたしには絶対に勝てませんよ」
ユキが間合いを詰めていき、刀の先が触れる位置まで近づいた。麻紀が切り倒されると感じた時、ユキは突然刀を降ろした。そして鞘に収め、ひとしきり眺めてから、麻紀に向かって放り投げた。
「この刀はあなたに差し上げます。わたしには必要ないものだし、こう言うのはそれなりに腕の立つ
人間が持っていてこそ、その力を発揮出来ると思うんですよ」
麻紀は受け取った刀をしばらく見ていた。
「ところであなた。早くお友達を助けに行ったほうが良いんじゃない?」
「お友達?」
「頑張ってはいるけど、あの子もたぶん時間の問題よ」
麻紀はあわてて研究室を飛び出した。
「お友達か」
走りながら麻紀はほくそ笑んだ。
後に残ったユキは、麻紀の後姿に手を振っていたが、やがて存在が薄くなり、消えていった。
麻紀は特別電算室まで走った。お腹の傷が痛んだため、時々休憩を取らなければならなかったが、目的地にはたどり着けた。恵美が幾ら強くても、デスターレが相手では勝ち目は無い。できるだけ早く助けに行きたいと思ったが、体が付いて行かなかった。
特別電算室の扉の前で、麻紀は一度立ち止まった。
「まさか、もう終わったの?」
耳を済ましても、中から何も聞こえなかった。
麻紀が特別電算室に向かっている時、部屋には雪が降り始め、デスターレと恵美が向い合ったまま、凍りついたかのように動かなくなった。雪は次第に激しくなり、床にも椅子にも積もっていった。デスターレと恵美の頭にも薄っすらと白い帽子が出来ていた。
ユキシステムの大きなコンピューターの制御パネルと、その端末コンピューターとピオジアの目が微かに光っているのが見えるほどの大降りだった。
端末モニターのスクリーンセーバーが解除され、メッセージと入力待ちを示すプロンプトが現れた。
『YUKI SYSTEM ver.12 STARTED』
あたり一面が真っ白になった時、巨大なコンピューターの前にユキが姿を現した。
「雪。とても綺麗ね」
ユキは部屋の中央で固まっている二人の頭から雪を払いながら歩き始めた。
「綺麗なものも、汚いものも、すべてを覆い隠してしまう。そうでしょう」
「ああ」
端末の脇に男がいた。ユキと同じくらいの年齢の青年だった。ユキは彼の方を向いて立ち止まった。
「久しぶりね。元気そうで嬉しいわ」
「君もだよ。あの時から少しも変わっていないようだね」
「そう? お世辞でも嬉しいわ。いままで何をしていたの?」
「君を待っていたのさ。あの日からずっと」
「ずっと?」
「そう、ずっと」
「バカね」
「そうだな」
男はユキに向かって歩き出した。ユキはそれに気付いて、デスターレの後ろに体を隠した。
「わたしは、もう目覚めてもいいのかな。あなたはどう思う?」
「いつかは君を必要とする時代が来る。だけど、それが今なのかと聞かれても、僕は自信を持って答える事が出来ないんだ」
「そうよね」
「だが、ぼく個人としては、北山さんの意見を尊重したいと思うんだよ」
「もう少し寝ていなさいと」
「ああ」
「妬けるわね。あなた、北山恵子の事が好きだったんでしょ」
「それは関係ない」
「そうかな」
「そうとも」
ユキは、デスターレの前に出て、彼女の頬をそっと撫でた。
「でも、玲子が――」
「君を実験に使うような女だぞ」
「そうね。だけどあの人には感謝しているのよ。だって、永遠の命がこの手に入ったんだもの」
今度は振り返って、恵美の頬に手を伸ばした。
「でも、結局、恵子にもお世話になったのよね。あの人のおかげで、わたしはしばらく静かなときを過ごす事が出来たんだから」
「それで、どうするつもりだ」
「いつも通りよ」
「いつも通り?」
「ええ、運命は必ずどちらかを選択する。そうでしょう、ピオジア」
ユキは男の顔を見た。
「いいえ、吉野匡司くん」
その言葉をかき消すように扉が勢いよく開かれた。開け放たれた扉かから現れたのは、刀を構えた麻紀だった。
「雪? どうして」
部屋一面が雪景色だったので、麻紀は部屋に入るをの躊躇した。しかし、部屋の中央に恵美と、デスターレの姿を見つけ、くるぶしまで積もった雪を、蹴り飛ばしながら駆け寄った。
「北山先輩、どうしたんですか!」
頭の雪を払ってから、麻紀は恵美の体をゆすった。氷のように冷たく硬い彼女の体は、まったく反応しなかった。
「待っていたわよ」
後ろから声がしたので振り返ると、そこにはユキが立っていた。
「ユキさん」
「先輩は、どうなっているんですか」
「心配は要らないわ。ちょっとだけ夢を見ているのよ。あなたも彼女の所に連れて行ってあげるから、目をつぶってくれるかな」
「解りました」
言われたとおりに目をつぶると、麻紀は軽いめまいに襲われた。
デスターレは、何時の間にかユキの隣りに立っていた。
「目は覚めたの? ユキ」
「いいえ、まだ時間がかかりそうよ」
恵美はユキの言葉を聞きながら、デスターレを牽制した。
「と言うことは、まだ、完全には封印が解けていないって事だよね」
胸のかもめを握りながら、恵美はコンピューターに向かって走り出した。しかし、途中でデスターレに掴まって投げ飛ばされた。
「だめだよ」
「なんでよ」
恵美は立ちあがると、今度は彼女の隙をうかがった。デスターレを倒さなければ再封印は無理だった。そして、デスターレを倒す事自体難しいのも承知していた。
「とりあえず、あんたを倒さなければいけないようね」
「そういうこと。でも、もうお遊びは終わりにしよう」
デスターレが拳銃を取り出して、ゆょくりと恵美に向けた。
「もう不意打ちは無理よ。ゆっくりユキの封印が解けるのを見守るか、今すぐここで死ぬか、好きな方を選ばせてあげる」
身の回りには投げつけれるような物は何もなく、隠れる隙間も見つからなかった。この場で死ぬわけにもいかなかったから、恵美は両手を上げて降参した。
「いい子だ」
デスターレが拳銃を下ろしかけた時、横から何かが飛び出してきた。
「吉野さん!」
麻紀の刀は、拳銃を握っているデスターレの右手を切り落とした。切り口から赤い液体が飛び散ったが、彼女の手からは、鉄のフレームと束になった電気のコードが飛び出しているだけだった。切られた方の腕は、拳銃ごと恵美の足元に落ちてきた。
「遅れてすいません」
麻紀はデスターレからかばうように、恵美の前に立ちはだかった。
「あの人に勝てたの?」
「ええ、まあ」
「すごいね」
「そんな事どうでも良いです。それより、今度はあいつを倒すんですよね」
「うん」
「では、行きます」
麻紀は、由香から引き継いだ刀を構え、デスターレを睨み付けた。
「それは保坂の刀だな。あいつはどうしたんだ? 死んだのか」
「ユキさんと一緒になりましたよ」
麻紀がデスターレに向かっていった。
「そうか。あいつは夢を叶えたんだ」
デスターレは麻紀の攻撃を軽くかわしながら静かに笑った。
恵美は足元に転がっていたデスターレの拳銃を拾うと、右手で握り弾を込めた。そこまでは簡単に操作できた。恵美は冷静に、目の前で戦っているデスターレの頭めがけて照準を定めた。
麻紀がデスターレの攻撃をまともに受けて飛んできた。麻紀の体が恵美の脇をかすめた瞬間、恵美は引き金を引いていた。
弾丸はまっすぐ飛んでいった。
恵美は二発目をデスターレの胸にめがけて撃ちこんだ。
デスターレには飛んでくる弾丸がはっきりと見えていたが、それを避ける事は出来なかった。
弾は二つとも、狙った場所に命中した。
「おまえ、才能があるな」
デスターレは背中から倒れたが、恵美は放心状態のまま立ち尽くした。
「北山先輩。早く封印を」
体だけ起して麻紀が叫んだ。その声を聞いて、恵美はやっと我に帰った。胸のかもめを引きちぎるとコンピューターに駆け寄った。
その場に置いてあったケーブルで接続し、キーを叩いた。
ユキは操作を妨害しないで、黙ったまま様子を見ていた。
すべての操作が終わってから、恵美は、かもめを取り外し、ユキのいる窓際に歩み寄った。
「ごめんなさい。もうすこし眠っていてくれますか」
「仕方が無いわね」
「いつかあなたを必要とするときが来ると思うんです。その時はよろしくお願いします」
「その時は、もうあなたはこの世にはいないかもね」
「でも、誰かがわたしの意思を継いでくれると信じています。それはわたしの娘かも知れないし、麻紀ちゃんの娘かもしれない。わたしが、母の思いを引き継いだように、きっとその子もそうしてくれると信じています」
「そうね。では、また会いましょう。何時の日にか、あなたとわたしの夢の世界で」
その瞬間大きなめまいが襲ってきた。恵美は耐えられずに目をつぶった。再びまぶたを開いた時、恵美は元の特別電算室に立っていた。
積もっていたはずの雪は跡形もなく消えていた。デスターレの腕も切れてなかった。けれど彼女は動いてなかった。麻紀は、デスターレの前で呆然としている恵美の姿を見つけて思わず叫んだ。
「北山先輩!」
麻紀は恵美の胸に飛び込んだ。
「どうしたのよ、この傷」
麻紀は全身傷だらけだと気付いた。
「名誉の負傷ですよ」
「そっか、ありがとう、麻紀ちゃん」
恵美は麻紀の頭をやさしく撫でた。
「先輩、ピオジアは?」
「いけない」
恵美はピオジアの元に駆け寄って、彼をコンピューターから取り外した。
『YUKI SYSTEM ALREADY SLEEPED...』
いつの間にか、ディスプレーの文字が変わっていた。
「お帰り。どうだった? 夢の世界は」
「う~ん。悪くは無いけど、また行きたいとは思わないかな」
「そうだろ」
「そうね。じぁあ、帰ろうか」
恵美はピオジアをポケットにしまってから振り返った。
「麻紀ちゃん、帰るよ」
「え? あ、はい」
恵美が下の名前で呼んだので、麻紀は驚いた。でも、少しだけ嬉しかった。
緊張がほぐれたせいもあり、麻紀は一人で歩く事が出来なかった。仕方なく、恵美が担いで部屋を出た。
「麻紀ちゃん。重いよ」
「えぇ? そんな事無いですよ」
「そうかな」
「智子様よりは軽いはずです」
「え?」
「あ!」
麻紀の顔が赤く染まった。
「すいません。今のは智子様に黙っていてもらえますか」
「そんじゃあ、帰りに何か食べていこうか」
「はい。解りました」
階段を上りかけたとき、鈴木教授と警備員がものすごい勢いで駆け下りてきた。
「君たち、どうしてここに」
「何故だか迷い込んでしまったんです」
鈴木は麻紀の怪我に気付いた。
「きみ、怪我をしているじゃないか、ちょっと見せなさい」
「いいえ、大丈夫ですよ。今から病院に行きますから」
「ところで、下がどうなっているか、知っているかい」
「別に。何も変わった様子は在りませんでしたよ」
恵美が麻紀に目で合図をした。
「みんな眠っています。ぐっすりと」
鈴木が特別電算室に入ったとき、デスターレは立ったまま活動を停止していたし、山田は急騰スペースの脇で気絶していた。由香の姿は見つからず、ユキは今までどおり静かに動いていた。
端末には、新たな文字が映っていた。
『SEE YOU AGAIN! CHAO!』