三 その鍵を探してよ
国立人工知能研究所の事務室には沢山の研究員が集まっていた。管理課と書かれたプレートが下がっている所に、五台の机が一つの島を作っていた。管理課長と書かれた名札の前に白衣姿の北山恵子が座っていた。彼女はコンピューターで作業をしていた。
「北山課長」
部下である保坂由香が声を掛けても、恵子は作業は続けたまま、振り向きさえもしなかった。
「ん、終わったの?」
「はい」
「じゃあ今日はもう帰って良いわよ、保坂さん」
由香は電算室から持ってきた書類を自分の机に置いて、そこに座った。
「あの、課長」
「なに?」
「本気なんですか。あのシステムを封印するなんて」
「そうよ」
「どうしてですか」
「勿体無いと思う?」
「いえ、ただ……」
恵子は仕事の手を止めて顔を上げると、由香をみた。
「仕方ないでしょう。今のわたし達では、彼女の力を制御できないんだから」
「でも……」
「あなたはまだ理解できていないのよ。彼女の本当の力がどれほどのものなのか」
恵子は再び作業に戻った。
「十年前の事、あなただって忘れたわけではないんでしょう」
「はい。でもあれは、あの人が原因じゃありません」
恵子は作業の終了した書類を、袖机の書類の山に重ねてから立ち上がった。
「巨大な力はいつか利用されるのよ。大抵は私利私欲に溺れた政治家にね。歴史はそれを証明しているし、いままさにそういう状態なのよ、残念ながら」
「誰かが彼女を利用しようとしているのですか?」
「そういう噂よ」
「噂?」
「火の無い所に、噂なんか立たないのよ」
給湯室に向かう恵子を見送ってから、由香は執務室を出て喫煙スペースへ移動した。どこでも分煙化や禁煙化が進んでいたが、この施設も例外ではなかった。風除室近くに設けられた喫煙コーナーは、五人も入れば満室になってしまうほど狭かったが、あまり利用されていなかった。喫煙者も減っていたし、喫煙スペースが事務室や研究室から遠い為に、面倒くさがって近くの入口から外に出て吸う人が多かったのだ。
由香はポケットから煙草を取り出して火をつけた。何時から吸い始めたのか、もう覚えていなかったけど、何故か止められずに続いていた。
「彼女が誰かに利用されるのだとしても、私は……」
一本目が吸い終わる頃、紺色のスーツを来た若い男が喫煙室に入ってきて、由香の目の前に座った。その男は、来客と書かれたネームプレートを付けていた。たぶん営業に来た業者だろう。
彼は煙草をくわえてから、ポケットを探っていたが、手を止めると、由香に向かって微笑んだ。
「すいません。ライターを貸していただけませんか」
「あ、はい」
由香は、持っていたライターを男に放りなげた。男はそれで煙草に火をつけ、ライターを由香に返した。
「保坂由香さんですよね」
「そうですけど」
由香が着ている白衣には、大きな字で名前の書かれたIDカードが下げてあった。それを見れば、名前は一目瞭然だった。
「実はあなたに会いに来たんですよ。こんな所で会えるなんて、運がいい」
男は由香に名詞を渡した。そこには情報省保安課小島良司と書いてあった。
「情報省保安課?」
「ええ、此処の研究所を所管している部署ですよ。今朝、トヨハラを出てきたんです」
トヨハラは南サガレン自治州の首都首都であり、ルタカからはそう遠くは無かった。
「どういった御用件ですか」
「封印、するそうですね」
小島は二本目の煙草を取り出し、今度は自分のライターで火をつけた。
「ええ、でもそれは情報省からの通達なんでしょう?」
「ええ、まあそうなんですけどね。内部でもいろいろ意見が分かれていまして」
「つまり、どう言うことですか」
「力をお借りしたいと思いましてね。あなたも封印には反対だと聞いていますよ」
「どうして、そんな事」
「スパイというのは、何処にでもいるんですよ。残念ながら」
小島は背広の内ポケットから小切手を取り出すと、由香の前に差し出した。金額の欄には、何も記載されていなかった。
「手を貸していただけますよね」
由香は小さく頷いた。
「でも、お金のためでは在りませんよ」
「ええ、それは問題ありません。私たちは彼女が封印されなければそれでいいのです。それでは、封印作業のスケジュールを教えてください。後は我々が何とかしますから」
喫茶店の一番奥にあるテーブルで、吉野千里は、北山恵子とケーキをつまみながらお茶を飲んでいた。店はファンタジー風の飾り付けで、平日の昼間だから、客は年配の女性ばかりだった。
「それじゃあ、監視されているんですか」
「そうみたい。最初は気のせいだと思ったんだけど、ほら」
少し離れたところで、二人の男が一緒にお茶を飲んでいた。黒っぽいスーツ姿で、明らかに場違いな風貌の二人は、店の中で完全に浮いていた。プロらしからぬ行動だった。
「例の連中ですか」
「情報が向こうに流れているみたい。多分研究員の誰かが買収されたのよ。研究所のメンバーはみんな腕のいい科学者だから、彼女の力を見てみたいと思う気持ちが強いのは分かるんだけど――」
「その力を知ってしまえば、使わずに居られない。ヒロシマの経験は、何時まで経っても生かされないんですよね」
千里は残りの紅茶を一気に流し込んだ。
「だから封印は私一人でやる事にしたの」
「一人で?」
「そうよ。そうしないと、何処からか邪魔が入るんだもの。それで、今日は吉野さんにお願いがあって来たの」
「どうしたんですか、改まって」
「これ。預かってもらえない?」
恵子はガチャガチャのカプセルを千里に渡した。ピンポン球ほどのカプセルは、半分が黄色で、中の見えないタイプだった。千里はそのカプセルを受け取って軽く振った。中からカラカラと音がした。
「なんですか、これ」
「ガチャガチャよ。中身はびんちょうタンのフィギアが入っているの。レア物だから絶対に無くさないでね」
「まさか、これ……」
「本当に信じられるのはあなただけなの。時が来たらこれを恵美に渡して欲しいの。そうね十八の誕生日が良いかもね」
「北山さん、あなた……」
「私に何かあったら、よろしくね。娘に残す保険金は沢山掛けてあるでしょう」
「ええ、確かに。でも……」
「封印作業を止めさせる一番手っ取り早い方法がなんだか分かる?」
千里には分かっていたが、それを口にする勇気は無かった。
「私をこの世から消す事よ」
「北山さん」
「あなたが保険の外交員で助かったわ。後の事、頼んだわよ」
千里は無言で頷いた。
朝の国立人工知能研究所の事務室には、早番の工藤美知しかいなかったから、怖いくらいに静まり返っていた。事務員はまだ出てきていなかったし、技術員はみんな電算室で封印のための作業手順を確認していた。
臨時で採用された美和は、そのまじめな仕事振りが評価され今や正職員の座を確保していたが、髪型や服装はかなり奇抜だった。
「保坂主任おはようございます。コーヒーを飲みますか?」
「ありがとう」
事務室にきた由香は、美和の甲高い声で目が覚めた。このところ寝つきが悪い。その原因は分かっていた。分かっていたけど、解決できる物ではなかった。
美和が給湯室に行ってしまったので、事務室は更に静かになった。しかし、その静寂を電話の呼び出し音が破り捨てた。美知が給湯室に行っているを知っていたが、由香は電話に出ようとしなかった。
「はい、はい、はーい」
給湯室から飛び出してきた美和が、手近に在った電話の受話器を取り上げた。
「お待たせしましたぁ、国立人工知能研究所総務課の工藤でーっす」
彼女は信じられないほど明るいよそ行き声で電話に出た。そのこどもっぽい喋り方は、年配の上司には不評だったが、仕事ができるので、文句を言う人は少なかった。
明るいのが取り得の美和だと言うのに、次第に声が沈んでいった。
「はい。そうですか。分かりました」
受話器を置いた美知は、自席で書類を作成していた由香の所までやってきた。
「保坂主任」
「なんだよ。そんな暗い声で、らしくない」
「すいません。実は北山課長が、交通事故に逢って病院に運ばれたそうなんです」
「交通事故?」
「はい、たった今、病院から連絡がありまして、意識不明の重態だそうです」
「重態?」
「どうしましょう」
美和はほとんど泣いていた。彼女はどうやらパニックに弱いようだ。美知に指示を出そうとした時、今度は由香の携帯電話が鳴り出した。発信者は小島だった。
「とりあえず総務課長と所長に連絡をとってくれるかな。あとは課長の指示に従って行動してね。私は電算室に行って、何人かを呼んでくるから」
携帯電話を保留にし、美知に指示を出してから、廊下に飛び出すと、由香は近くの空き部屋に飛び込んだ。
「はい、保坂です」
「小島でした。北山課長の事はお聞きになりましたか」
「はい。いま電話が来たところです」
「本日の作業は中止ですよね」
「多分そうなると思います」
「是非そうなる事を願っています。しかし、偶然とは恐ろしいものですね」
「あなたたち、まさか」
「この国の未来のためです。研究者一人の犠牲など、あなたが気に掛けるほどの事では在りません」
「ちょっと」
「では、後はよろしく頼みますよ」
電話が切れた。
由香は口の中に溜まったつばを飲み込んでから、廊下に戻っり、電算室に向かって歩き始めた。通路の向こうから、委託研究員の男が走ってきた。
「あ、保坂主任」
「どうしたの?」
「作業手順の確認をしていて気付いたのですが、大変な事が分かったのです」
男は時々息継ぎをしながら話を続けた。
「何よ大変な事って」
「既に完了しているんです」
「完了しているって、どう言うこと」
「ユキはもう封印されているんです」
男の言葉を聞き終わらないうちに、由香は地下室に向かって走り出していた。
電気の消えた事務室に、由香は一人で残っていた。モニターの明かりが顔に移り、青っぽく光っていた。顔の前で手を組んだまま、由香はスクリーンセーバーの動きを眺めていたが、その映像はまったく脳に届いていなかった。
封印作業は予定通り継続され、最後に電算室の扉に鍵がかけられた。その鍵は伊集院教授の腹心と言われた別の教授に預けられ、一研究員である由香に開ける事は許されなかった。
「お別れも言えなかった」
前の日に居残りしていた北山課長の仕業だと誰もが思った。封印を妨害する組織は何も情報局だけではなく、多くのスパイが潜り込んでいただろうから、自分しか信じなかった課長の判断は正しいのだと、由香も十分に理解していた。
だけど、幾ら頭では理解できていても、人の感情は、簡単に納得できる様には出来ていなかった。
「何でよ。どうしてよ」
由香は頭を抱えて机に突っ伏した。
「せめて私くらい、信じてくれても良かったのに」
自分も情報を流していたと言う事実を棚に上げて、由香は勝手にユキを封印してしまった恵子を恨んだ。
由香の後ろに中学生の少女が現れた。由香はその少女に気付いていなかった。
「何をしているの」
コンピューターのスピーカーから突然少女の声が聞こえてきた。由香はおどろいて顔を上げ、画面を見た。
モニターはまだスクリーンセーバーが起動している状態のままだった。
「だれ?」
「彼女に会いたいのなら、もう一度起こせばいい。それはとても簡単な事でしょう」
「それは無理よ。彼女を封印した本人はもうこの世に居ないんだから。解除の方法は、永遠に分からないわ」
北山課長の凶報が届いたのは、封印がすべて完了する直前だった。その時何人かが舌打ちしたのを由香は聞き漏らさなかった。その瞬間、封印の解除は非常に難しい作業となった。課長の事だから封印に関する書類も研究所に残してはいないだろう。
「そんなことは無いでしょう。封印したということは、それ解く鍵が必ずあるのよ。あの人なら、必ずそんな仕掛けを作っているに違いないわ。破壊ではなく封印と言う方法を選んだ時点で、彼女は、ユキの力を必要とする時代が来る事を予測していたのだから」
「鍵?」
「封印解除用のアクセスコードね。あなたなら何か知っているんじゃないかと思って来たんだけど」
「知らないわ」
「そうなの? じゃあ探しましょうか」
次の言葉は由香の背後から聞こえてきた。
「わたしと、一緒に」
由香は机の下に隠し持っていた竹刀を取り出すと、声のした位置に振り降ろした。学生時代から剣道を習っていた由香は、テロリストの進入に備えて竹刀を隠し持っていた。気付かれずに背後に立ったその少女の力量が、自分より格段に上だったとしても、奇襲なら勝てるかもしれないと由香は思った。
しかしその竹刀は、当たることなく、ばらばらになって散らばっだ。そしてそこにはもう誰も居なかった。
「何者?」
「わたしの名前はデスターレ。彼女に会いたいなら、その鍵を探してよ」
彼女の声は、再びスピーカーから聞こえてきた。
「鍵を探せと言うの?」
「そうですよ」
由香は少し考えてから、IDカードを胸から外して机に置いた。白衣を脱いで、自分の椅子に投げつけた。
「そうよね。あなたが何者でも、わたしには関係ないし。鍵さえあれば、ユキにまた会えるんでしょう」
「その通りよ」
「じゃあ問題ないわね。私は彼女に会えればそれでいいのよ」
由香は、事務室を後にした。